霊性
浅野幸治
「霊性」というのは難しい言葉です。一体なんのことやら分からないような言葉です。でもなんとか頑張ってみれば、「霊が宿っていること」というふうに解きほぐすことができます。では「霊」とは何でしょうか。「父と子と聖霊の御名によって」と言いますよね、あの「聖霊」と同じです。
「父と子と聖霊」というのは、キリスト教の難しい教えで、三位一体と言います。三位一体の「位」はラテン語でペルソナ(persona)といい、「父と子と聖霊」という3つのペルソナが実は1つだという教えです。どういうことでしょうか。ラテン語のペルソナは仮面を意味し、古代ギリシア・ローマの演劇では人は舞台の上で仮面を被ることによって登場人物になりました。ですから、父である神と子イエスと聖霊とは、この世界という舞台で別々の仮面を被った別々の登場人物だということです。このように舞台の上では別々の登場人物だったのが、実は舞台裏では同じ1人の俳優さんだったというのです。ですから、ややこしいのですけれども、1人でもあり3人でもある、3人でもあり1人でもあるという不思議な教えです。
ただし日本語では派生した意味で「三位一体」という言葉を広く使います。陸・海・空の3軍が一体となって敵を攻撃したというようにです。この場合は3つ別々のものが密接に連携協力して、あたかも1つのものであるかのように働くという意味です。この日本語の広い用法は、キリスト教の三位一体とはまったく別物なので、注意してください。
ここで「父と子と聖霊」の中の聖霊に戻りましょう。大昔のギリシア人は、人間には理解できないような心の変化を説明するのに、神の介入を考えました。例えば、「誰それはどうしてあのとき勇気が奮い立ったのだろうか」という疑問に対して「勇気の神が勇気を吹き入れたからだ」、「誰それはどうしてあのとき良い考えが浮かんだのだろうか」という疑問に対して「知恵の神が知恵を注ぎ込んだからだ」、「誰それはどうしてあのとき突然、怒りに駆られたのだろうか」という疑問に対して「怒りの神が怒りを送り込んだからだ」と答えるわけです。こういう説明方式を、現代では誰も信じていません。ただし、こういう語り方が現代でも1つだけ生き延びている例があります。それは愛の神キューピッドです。キューピッドは、少なくとも日本では、弓矢を持った裸の幼児として表象され、その矢に射られた人は突如として目の前にいる人のことが大好きになると想像されています。おそらくそのような話は、誰もまじめには受け止めていませんが、そういう神話として知られています。ところが、こういう古い考え方が古い宗教であるキリスト教の中には1つだけしっかりと生き残っています。それが聖霊です。聖霊は神であり、人間並みでは考えられないようなことを人間に成し遂げさせてくれます。もちろん聖霊は愛の神でも怒りの神でもありません。唯一の神である神なので、聖霊の働きは、なにか良いことを人間に成し遂げさせてくれるのです。実際に私たちは、そのように聖霊に祈ります。
ところで、聖霊が私たち人間に働きかけるとき、私たち人間は完全に受動的なだけではありません。私たち人間には、聖霊の働きかけに気づくだけの感受性が要ります。だから私たちは目を開き、耳を傾けている必要があります。それだけではありません。さらに私たち人間には、聖霊の働きかけを受け入れる心の準備が要ります。聖霊の働きかけに気づいただけでは、私たちが逡巡するということがありうるからです。心の準備が整って、聖霊の働きかけを受け入れたとき、聖霊の働き・導きによって私たちがはたと変わるのです。例えばマザーテレサはあるとき、スラム街に行って働くべきだということに気づきました。そのとき以前にもスラムのことは知っていたでしょう。でもそのときにマザーは自分が行うべきことを受け入れる心の準備ができて、聖霊の働きかけを受け入れたのでしょう。そうして聖霊も働くことができたわけです。このように聖霊は、人間の側の協力があってはじめて私たちに働きかけることができるのです。
聖霊は神様ですから、実はいたる所にいらっしゃるのです。いたる所にいて、いたる所で私たちに働きかけています。とはいうものの、私たち現代人は、聖霊に気づくのが難しいようです。第1に、私たちは人工物に囲まれています。家も道路も自動車も電化製品も家財道具も、私たちが日常生活の中で目にするほとんどすべての物が人工物、つまり人間が作ったものです。ですから、そこに人間の知恵や工夫を認めたとしても、聖霊の働きは私たちの意識の中にまったく入ってこないようです。第2に現代人は生活が忙しく、そもそも聖霊に気づこうという注意力をもてないのかもしれません。これは簡単に言えば、忙しくて神様のことなんて考えている余裕がないということです。そんな中にあっても、私たちが聖霊の働きに気づくきっかけがないわけではありません。あります。例えば、太陽や月や星、動物や植物です。もっと身近なところでは、赤ちゃんの誕生や子どもの成長です。もう少し日常的でないところでは、霊山や巨岩や巨木、人間に畏怖を感じさせるような大自然の働き(大荒れの海など)です。ご来光を仰いだり富士山や立山や御嶽山を霊峰と感じたりする日本人には、神様の働きを感じる感受性があるようです。もちろん、それだけ──自然の神秘に驚くだけ──では十分でありません。
聖霊が私たちにどのように働きかけ、何を語りかけ、何を求めているのかを聴きとる必要があります。さらに、聴きとった内容を受け入れる心の用意が要ります。これが難しいのです。というのは一般的に言って、聖霊は私たちに、イエスのように生きることを求めているからです。つまり私たちは、凡人からイエスのように生きるように、変わることが求められているからです。