合掌
浅野幸治
合掌とは、手を合わせることです。握手とは違います。他の人と手を合わせるのではありません。自分の右手と左手を合わせるのです。右手と左手を合わせるといっても、お尻の後ろで合わせるのではありません。ヨガのように両腕を頭の上高くに伸ばして両手を合わせるのでもありません。合掌は祈りですから、通常は胸の前で両手を合わせます。両手を合わせるのには、いくつかのやり方があります。左手と右手をピッタリ合わせるのが1つのやり方です。左手を右手よりも少し上に出して手を合わせるやり方もあります。左親指、右親指、左人差し指、右人差し指という具合に左手の指と右手の指を交差させて両手を握りしめるようなやり方もあります。いずれにしても、合掌は祈りの仕草ですから、たいてい頭を垂れます。
私たちにとって一番身近な合掌は、おそらく食事のときでしょう。朝昼夕1日3回、食事の前後に合掌して、「いただきます」と言い「ごちそうさまでした」と言います。
主の祈りを思い出してください。主の祈りでは、神様に呼びかけたあと、「御名が聖とされますように」で祈りが始まります。これは、神様が畏れ敬われるようにということです。次は、「御国が来ますように」です。これは、神様の国が地上に実現するようにということです。これをより具体的に言い換えるのが、次の「御心が天に行われるとおり地にも行われますように」です。つまり、御心が地上で行われるならば、それが神の国の実現だということです。その次が、「私たちの日毎の糧を今日もお与えください」です。「日毎の糧」というのは食べ物のことです。食べ物が私たちにとって重要なのは、私たちが食べ物によって生かされるからです。食べ物がある、食べ物が与えられるというのは、当然の事態ではありません。むしろ奇跡のような出来事です。どうして稲が地球上にあるのか、どうしてその他の野菜や穀物が地球上にあるのかを私たちはほとんど理解していません。なぜだか分からないけれども、たまたま与えられているのです。たしかに人間は種を植えたりなどします。しかし私たちは、どうして種から実がなるのかを理解していません。自然の神秘に与っているにすぎません。ですから、日毎の糧は、もし与えられるならば、それは神様からの賜物であり、私たちは神様によって生かされるのです。ですから、食前と食後に「いただきます」と言い「ごちそうさまでした」と言って感謝するのです。
主の祈りに戻りましょう。次に来るのは、「私たちの罪をお許しください」です。これは、私たちがすでに罪を犯していることを前提しています。次は、「私たちも人を許します」です。とはいえ、この部分は、マタイによる福音書第7章1〜5節を参照すれば、私たちに人を許す資格があるということではなくて、むしろ私たちには人を罪に問う資格がないから人を罪に問わないという意味でしょう。だからといって、その直前でも神様に私たちを罪に問う資格がないということにはなりません。神様の場合には、私たちを罪に問う資格があるけれども、罪に問わないでください、というお願いです。さらにその次(最後の部分)は、「私たちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください」です。「誘惑」というのは、罪への誘惑でしょう。「悪」とは、罪を犯すことでしょう。
では、そもそも「罪」とは何でしょうか。私たちはミサの初めに回心の祈りを唱えます。
私は思い、言葉、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。
この中で一番根本にあるのは、思いです。心の中の思いが、口から言葉として出てきたり、手足の動作やしかるべき動作の不実行として現れたりするからです。では、罪である思いとは、どういう思いでしょうか。マタイによる福音書の山上の説教から拾ってみましょう。腹を立てること(第5章21〜22節)、みだらな思い(第5章27〜28節)、恨むこと(第5章38〜39節)、憎むこと(第5章43〜44節)、自尊心(第6章1〜2節他)、財産愛(第6章24節)、心配(第6章25〜34節)、人を裁くこと(第7章1〜5節)です。こうした思いが罪なのです。ですから私たちが主の祈りで願うのは、私たちの心がこうした思いから自由になることです。
では、どうしたら私たちはこうした思いを抱かないようになれるでしょうか。こうした思いの根本にあるのは、自己中心性と思われます。ここで参考になるのは、旧約聖書のヨブ記の中で、ヨブが述べる次のような言葉です(第2章21節)。
わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。
ここの要点は、「裸で」というところにあります。私たちは裸でこの世に生をうけたということです。「そこに帰ろう」と言っても、母の胎に帰るわけではありません。創世記にあるように、「土に返る」(第3章19節)という意味です。私たちは、「土の塵」(創世記第2章7節)でつくられた存在にすぎないので、「塵にかえる」(第3章19節)のです。ですから、私たちの身体も命も、養育も教育も、幸運もすべてが神様からいただいた恵です。朝、目が覚めたとき、自分の目が明いたことは有り難い恵です。太陽が昇っていれば、それも神様からの恵です。外に出たときに、青い空が広がっていれば、神様からの恵です。雨が降っていれば、それも神様からの恵です。目が見えること、耳が聞こえること、手でなにかを触れること、足で歩けること、すべて神様からの恵です。その恵に気づけば、神様に感謝します。もちろん、食べ物がいただけること、これも神様からの恵です。それだけではありません。私が口にする食べ物は、食糧を育ててくれた人、運んでくれた人、売ってくれた人、買ってきてくれた人、調理してくれた人からの恵でもあります。こうした周りのすべての人が、私を養ってくれています。そのことに気づけば、こうした周りのすべての人にも感謝します。
毎日、朝から晩まで感謝することだらけです。合掌の心は、感謝の心です──すべてにおいて神様に感謝し、周りの人にも感謝しましょう。