Sさんの話
浅野幸治
ある日、Sさんは12時30分にAさんと待ち合わせをしていました。Aさんが約束の時間になっても来ないので、Sさんが電話すると、Aさんは違う場所で待っていました。同じ日の夕方、SさんはPさんと待ち合わせをしていました。Pさんが1時間経っても来ないので、Sさんが心配していると、別の人の携帯から電話があって、Pさんは別の場所にいるとのことです。Sさんは直ぐに、Pさんのいる場所に向かいましたが、「猛烈に怒りが」こみ上げてきたそうです。
この話を読んで、皆さんは、どう思いますか。ここで、少し振り返ってみましょう。Sさんの話は、AさんやPさんが約束を間違えたりすっぽかしたりしたという話です。それに対して、どうしたらよいのでしょうか。皆さんだったら、どうしますか。考えてみましょう。
まずAさんやPさんを待つ時間を無駄に潰すか有効に活用するかは自分次第です。例えば、本を読んで勉強することもできます。疲れていれば、目を閉じて眠ることもできるでしょう。周りの光景を眺めたり(最近であれば)音楽を聞いたりして楽しむこともできるでしょう。お祈りをして過ごすこともできるでしょう。有効に活用することもできるのに時間を無駄にしたとすれば、それは自分自身の賢明でない選択です。この賢明でない選択の結果、怒り出したとしたら、それは自分の時間を無駄にしたというにとどまりません。周りの人に毒を撒き散らすことになります。要するに、自分自身をも周りの人をも不幸にします。そもそも、相手の人を待つ時間を有効に活用していれば、怒ることもないでしょう。
次に、相手の人が高市総理だったとしたら、どうでしょうか。高市総理だったら、遅れてきたり別の場所に行っていたりしても、「お忙しいところを申し訳ありません」とこちらから詫びを入れて、来てもらえたことに感謝するのではないでしょうか。そのことから考えると、ひょっとしたらSさんは、AさんやPさんよりも自分のほうが偉い、AさんやPさんは自分ほど偉くないと心の中で思っていたのかもしれません。これは恐ろしい可能性です。私たちは通常、自分が周りの人よりも偉いとか周りの人が自分ほど偉くないとか思っていません。それが私たちの自己理解です。あるいは、ひょっとしたら私たちは、特定の人に対してだけは自分のほうが偉いと密かに感じているのかもしれません。普段は隠れている意識がなにかのときにひょいと外に出てくるのかもしれません。
ひょっとしたらSさんが自分のほうが偉いと思ったことには、客観的な根拠があったかもしれません。例えば、Sさんは相手の人を自動車に乗せてどこかに連れていってあげる予定だったのかもしれません。もし仮にそうであれば、Sさんは相手の人になにかをしてあげる立場、相手の人はSさんになにかをしてもらう立場であったことになります。その場合、たしかにSさんのほうが上であり、相手の人が下になります。その意味では、Sさんのほうが偉いのです。しかし、だからといって、偉そうにしてよいということにはなりません。次の句はあまりにも有名です。
実るほど頭を垂れる稲穂かな
では、どうして偉そうにしてはいけないのでしょうか。偉そうにして怒ったとしましょう。それで不幸になるのは自分自身です。のみならず、周りの人をも不幸にします。
上で出した高市総理の例は、適切でなかったかもしれません。イエスさまに変えてみましょう。イエスさまが待ち合わせの時間に来なかったり、待ち合わせの場所を間違えていたり、約束を完全に忘れていたりしたとしましょう。それが一体なんだというのでしょうか。そのあとで無事にイエスさまと出会うことができたら、それこそ人生最大の喜びではないでしょうか。もちろん、イエスさまと出会ったからといって、なんら特別によいことがあるわけではないでしょう。おそらくイエスさまはなんの役にも立たない人間でしょう──いや、失礼、神さまでしょう。ひょっとしたら、厄介な迷惑ばかりかけてくる人かもしれません。それでも、イエスさまに出会えることは奇跡的な出会いだから価値があるのです。
さらに考えてみましょう。イエスさまではなくて、21世紀の日本のただの凡人だったとしたらどうでしょうか。やはり、人生の中で奇跡的な出会いではないでしょうか。今日この日を逃したら、生涯出会えない可能性だってあります。今日無事に出会うことができたら、それはまたとない幸運であり恵みではないでしょうか。