謙虚さについて
浅野幸治
謙虚は、キリスト教の徳です。つまりキリスト教徒が身につけるべき人柄の特徴です。言い換えれば、「謙虚な人になりなさい」というのがキリスト教の教えです。では、謙虚な人とは、どういう人でしょうか。「テサロニケの信徒への手紙1」第5章18節では次のように述べられています。
どんなことにも感謝しなさい。
例えば、コップに水が半分入っているとしましょう。これは客観的事実です。この事実を前にして、どういう態度をとりますか。「半分も入っている」と反応しますか。それとも、「半分しか入ってない」と反応しますか。「半分も」と応じる心は、同時に「良かったな、ありがたいな」と感じます。その感謝の気持ちは、半分の水という恵みを与えてくださった神さまに感謝し、神さまを大切にすること、半分の水を用意してくれた人に感謝し、その人を大切にすることにつながります。「半分しか」と応じる心は、同時に「どうして半分しかないのか」と不満を感じます。この不満の気持ちは、水の恵みを半分しかくれなかった神、半分の水しか用意しなかった他人に対する不平や文句につながります。
謙虚は、へりくだることだとも解説されます。
主の前にへりくだりなさい。(「ヤコブの手紙」第2章10節)
神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。(「ペトロの手紙1」第5章6節)
謙虚の反対は、高慢や傲慢です。高慢とは、自分を中心に据えて物事を考えて、自分を高くすることです。平たく言うと、偉そうにすることであり、これが傲慢です。
少し昔の話をさせてください。私は高校生だったとき、名古屋に来たことがあります。天理教の人の家に泊めてもらいました。そこの人は、30代くらいの夫婦で、小学生くらいの知的障害のある子どもと3人で暮らしていました。天理教の布教所をやっていました。泊めてもらった翌朝、白米と沢庵だけの朝食をいただきました。その日の午後、近所の棟上げで餅投げがあり、餅をもらいに行きました。私を泊めてくれた人たちは、天理教の布教をして毎日歩き回っていたのです。収入はゼロに等しいわけです。その生き方に私は強い印象を受けました。その天理教の人たちに負けないくらいに、私たちは自分の生活の全体を神さまに捧げているでしょうか。
また別の話です。道元が宋に渡って、まだ港で船中にいたときのことです。遠くから食事係の老僧が食材の買い付けにやってきました。道元は仏法の話をしたいと思い、老僧を招いて、泊まっていくよう懇請しました。しかし老僧は食事の準備があるからと固辞して、直ぐに帰っていきました。また道元が天童山の景徳寺で修行していたときのことです。夏の暑い日に道元が昼食を終えて廊下を歩いていると、食事係の老僧が、庭で海藻を干していました。老僧は杖をつき、笠も着けず、汗を流していました。背骨が大きく曲がり、眉毛も真っ白で、大変そうだったので、道元は、「他の人にやってもらったらいいのではないですか」と言いました。老僧は、「他の人は私ではない」と返しました。「ではせめて、もう少し涼しくなってからやればいいのではないですか」と道元が言いました。老僧は、「今やらないでいつするのか」と応えました。どういうことでしょうか。掃除や洗濯、料理や食器洗いなど、日々の生活の一挙手一投足が修行であり、修行の当事者は私であって、他の人がやっても私の修行にならない。また修業をするのは、その時その時の「今」でしかなく、先延ばしにすることはできない、ということです。これをキリスト教的に言えば、日々の生活の1つ1つの行いが信仰の実践であり、他の人に代わってもらうことはできない、また信仰を実践するのは、その時々の「今」をおいて他にない、ということです。
日本では、米の1粒1粒にお百姓さんの88の苦労が宿っていると言います。それだけ米を作ってくれる農家に感謝しなさいという意味です。それに加えて、キリスト教では、米の1粒1粒が神さまからの恵みでもあります。神さまに感謝して、あたかもそこに神さまがいらっしゃるかのように大切に扱う必要があります。同じことが、米だけではなくて、他の食材にも調理道具にも、その他すべてのものについて言えます。ですから私たちは、日々の生活において掃除をするときにも、料理をするときにも、その他なにをするときにも、他の人に感謝するだけではなくて、神さまの恵みに感謝し、あたかもそこに神さまがいらっしゃるかのように1つ1つの行為を、丁寧に心を込めて行う必要があります。
修道院では修道士や修道女の人が、そのように24時間いつも、神さまの恵みを感じ、神さまに感謝し、1つ1つの行為を、丁寧に心を込めて行っているのでしょう。それが信仰の実践です。けれども、修道士や修道女の人が信仰を実践してくれるだけでは十分でありません。私たちの一人ひとりが信仰を実践する必要があります。しかも、その信仰を実践するときは、「後で」ではありません。いつでも「今」です。最後に、もう1度、聖書からの引用です。
いつも喜んでいなさい。‥‥どんなことにも感謝しなさい。(「テサロニケの信徒への手紙1」第5章16節18節)