第1層 魂の計量

やっぱ(自然)科学でいきたいですか

 心理学の歴史を勉強すると、「心や精神に関する哲学的思索は古代ギリシャ哲学などをはじめとして古くから行われてきたものの、実験科学としてのスタートは精神物理学やヴントによる心理学実験室の開設などが云々」というネタが定番です。心理学史の本でなくとも、アリストテレスの「霊魂について」やルネ・デカルトの「方法序説」、ジョン・ロックやヒューム、カントなどいろいろな哲学者の名前は心理学概論の教科書でも紹介されることがあります。そうした哲学的思索・思弁、つまり論理の積み重ねで真理に迫るというスタイルから、実際にデータを取る作業を通じて実証的・客観的な方法で「心とはなにか」という問題を扱うようになった、というのが「独立した分野としての心理学の成立」として語られるわけです。

 実際のところ、心理学のすべてが自然科学を志向しているようには思えません。僕も個人的には、心理学という名前で行われている研究のすべてがいわゆる自然科学である必要はないと思っています。別に自然科学だからえらいというわけでもありません。その一方で、「自然科学でなくていいのなら、なぜわざわざ哲学から分離したのか」という意見もあり、心理学が哲学と別の名を冠した学問として存在するためには、自然科学的方法を採ることに積極的な意味はもちろんあるわけです。発達心理学の巨人ジャン・ピアジェは、「哲学の知恵と幻想」という書物で、哲学と出会い一生を捧げようと一時は考えるものの、結局哲学者にはならなかった経緯について示しています(1)。興味のある人は読んでみてください。

科学としてやっていくために必要そうなもの

 自然科学とは何か、何を満たせば自然科学と呼べるのかという問題は、実はそう簡単ではありません。ある条件を満たせばそれで自然科学として受容される、というような単一のルールはなさそうです。一方で、自然科学として受容されている多くの研究分野が持つ特徴を挙げることはできます。それは「自然の現象や事物を観察し、観察結果を客観的な方法で共有すること」です。「実験によって要因間の関係を明らかにすること」も自然科学として重要に思われるかもしれませんが、例えば気候変動の研究は自然科学的アプローチによって行われているものの、実験を行うことは容易ではありません。天体の運行についても、シミュレーションやモデルを用いた実験は可能でも、実際に月や火星を動かすことはできないわけで、実験という方法を採ることはできません。つまり「実験」は有効な方法ではありますが、自然科学であることの十分条件ではなさそうです。その一方で、「現象や事物の観察」を欠く自然科学はなかなか難しそうに思います。興味を引く現象や事物があって観察されたからこそ、それを研究しようということになるはずです。研究が進んで、ある時点から「現象の観察」よりも実験やシミュレーションが重視されるようになることはあっても、その出発から「現象の観察」を欠く科学というのは、ちょっと僕には想像しにくいです。心理学においてもこれは同様で、自然科学的な方向を志向するならば、「現象や事物の観察」をおろそかにはできないと思います。

 心理学において「現象や事物の観察」を行うときに、観察の対象となる現象や事物とはなんでしょうか。そりゃあ心理学なのだから「心」だろう、と言いたいところですが、心理学の教科書や歴史の本を読むと、そう簡単ではないことがわかります。そもそも「心」は目に見えませんし、触ることもできません。観察対象が細胞や微生物であれば顕微鏡を使えばいいですし、天体のような遠くの物体であれば望遠鏡を使えばいいのですが、「心」はそういうものではありません。だからこそ行動主義(2)というものが登場して「第三者から観察可能な行動を研究や観察の対象としよう」という方向に心理学の一部が移行したわけです。

 さすがに21世紀も20年を過ぎた現在において、ワトソン流の古典的行動主義を信奉する心理学者はそう多くはないと思います。観察可能な行動の原因として内的処理を想定する方法論的行動主義や、環境と生活体の相互作用として内的過程も外的行動も統一的に「行動」として扱う徹底的行動主義など、第三者による観察が困難な内的過程(平たく言えば「心」)をないものとして扱う心理学者は、僕の知る限りではいません。多ければ正しい、というわけではありませんが、現代の実証的な心理学の世界では、方法論的行動主義の立場をとる人が多いように思います。

方法論的行動主義と測定問題

 方法論的行動主義といっても、何を重視するかによっていろいろな立場があり得ますが、雑駁にまとめてしまうと、「客観的には観察できない心的過程の現れとして観察可能な行動を観察・研究対象とする」というのが方法論的行動主義です。方法論的行動主義では、中心的な関心は心的過程であり、観察可能な行動はいわばのぞき窓のような役割を果たしているともいえるでしょう。つまり方法論的行動主義において観察可能な行動とは、観察困難な心的過程との間に密接な関係を持つものであり、観察可能な行動を観察してその結果を客観的な方法で共有できれば、それは心的過程を科学的に研究することになるだろうという、(少し考えると危うそうな)仮定の上に成り立っていることがわかります。確かに、対象同士に密接な関係があることが厳密にわかっているならば、一方の対象を調べればもう一方の対象について多くの情報が得られ、場合によっては確定的な知見が得られます。自然科学の権化である物理学においても、例えば電流は2019年に改められるまで「真空中に1mの間隔で平行に配置された2本の電線1mにつき、2x10^-7ニュートンの力を及ぼしあう電流を1アンペアとする」というように定義されていて、電流そのものではなく電流が及ぼす力によって定義されていたそうです(3)。ただしこれはあくまでも、「電流とそれが引き起こす力」の間の密接な関係性が明らかになっていたからこそできることで、「心的過程と観察可能な行動」の間に同じ精度の関係性があるかと言われると、僕なら「いまのところ見つかってないね」と答えるしかありません。

 仮に、「心的過程と観察可能な行動」の間にある程度の精度で関係があると認めてみましょう。すると、例えば実験箱のなかでレバーを押してはエサを食べているラットについて、レバーを押す回数に対応した心的過程が存在することになります。レバー押しの回数は、まぎれもなく数字です。そしてそれに対応した心的過程があるとするならば、その心的過程の何らかの属性は数字で表すことができる、定量的に扱うことができるということになります。数字で表現できる、つまり測定できるということは、科学としてやっていくためには重要なことだと思われます。これが本当ならば、「科学としての心理学をやりたい」というリクエストに答えてくれる都合のいいロジックになるでしょう。でも本当に本当でしょうか?

魂の計量

 「目に見えないものを測る」というアイデアは、太古の昔から存在します。ギリシャ文学には「運命の計量」「魂の計量」というモチーフが登場するそうで(4)、例えばトロイ戦争を描いたホメロスの『イーリアス』ではアキレウスとヘクトルの死の運命がゼウスの秤にかけられ、結果としてヘクトルは死ぬことになります。またアイスキュロスは『魂の計量』という作品で、運命ではなく魂を秤に載せるシーンを描いたと言われています。運命や魂といったものを、「重さ」という物理量を測る方法で比較するわけです。

 運命や魂を測るという発想は古代ギリシャに限りません。左の図は古代エジプトの「死者の書」に登場する死後の審判の場面です。アヌビス神が、天秤に死者の心臓と正義の女神マアトの羽を載せており、死者が生前に犯した罪の重さによっては心臓が羽より重くなり、死後の楽園への道が閉ざされるとされていました。

 「罪の重さ」という言葉にあるように、「罪」という物理的に存在するわけではないものの「重さ」を「女神の羽と比較する」という方法で測ろうとしているわけです。

 こうした「死者の裁き」という題材は、仏教や道教にも見られます。閻魔大王が有名ですが、初七日から四十九日までに7回の「死後の審理」があり、それでも決着しない場合には追加で3周忌までに3回の審理を経て死後の処遇が決まることになっています。この「死後の審理」を行う裁判官を十王と呼び、閻魔王はその5回目を担当しているそうです。2回目を担当する初江王は、死者の衣服を木の枝にかけて枝のしなり具合で罪を測り、また4回目の審理を行う五官王は死者を天秤せることで嘘や悪口など言葉の罪の重さを測るとされています。

 洋の東西を問わず、運命や魂、罪といった「目には見えないもの」でも、「神や仏にとっては測定可能なもの」とみなされていたようです。そう考えると、心理学者が目には見えない心を測ろうとするのは「神にでもなったつもりか」と言われそうですが、まさしくそれが科学の営みの一側面のようにも思えます。

 古代ギリシャやエジプト神話、仏教・道教と「魂の計量」を見てきましたが、当時の技術(と想像力)の限界の影響か、「天秤で測る」というモチーフが多くみられました。天秤で測るという作業は、いわば「測りたいものを何かと比較する」ということです。それは二人の英雄の運命同士比較であったり、死者の罪と地獄行きの基準となる量との比較であったりするわけですが、この「比較」という行為は心理学における測定においても重要な役割を果たしています。第2層では、心理学的測定法の基盤としての「比較」について考えてみたいと思います。

 さて、第1層のタイトルである『魂の計量』という「どこかで使ってみたいカッコいい言葉」の元ネタの悲劇作家アイスキュロスですが、同じく古代ギリシャのこちらは喜劇作家であるアリストファネスが書いた『蛙』という作品のなかで、エウリピデス(アイスキュロスと並ぶ悲劇作家)と「どちらの詩が優れているか」の批評合戦をさせられています。なかなか決着がつかず、最後には天秤が持ち込まれ、アイスキュロスとエウリピデスの「言葉」が秤に乗せられた結果、「アイスキュロスのセリフのほうが重い」ということで見事勝利するというシーンがあるそうです(5)。「言葉の計量」に勝ったようでよかったですね。

引用文献

  1. Piaget, J. (1968). Sagesse et Illusions de la Phylosophie. (哲学の知恵と幻想、1971, 岸田秀・滝沢武久共訳, みすず書房)

  2. Watson, J. B. (1913). Psychology as the behaviorist views it. Psychological Review, 20, 158-177.

  3. 臼田孝 (2022). 宇宙を支配する「定数」 万有引力定数から光速、プランク定数まで 講談社

  4. 小川正廣 (1997).「運命の秤」についての一考察ーホメロスとオリエント宗教, 名古屋大学文学部研究論集, 127, 159-177

  5. 秋山学 (1995). アリストパネス『蛙』によるエウリピデス批評軸構築の試み--ギリシア教父を論拠に 東京大学教養学部外国語科研究紀要, 43, 23-49.