当研究会について

女性史総合研究会例会近況報告
―研究会の歩み回顧、および1990年下半期~91年上半期を中心に―  
筧久美子(『女性史学』第1号、1991より抜粋)


 現在のわが「女性史総合研究会」は、いわば第二期の活動を継続展開中である。第一期の「女性史総合研究会」は、1977年から80年の3年にわたる科学研究費補助金の給付(代表者・橘女子大学教授 脇田晴子)を受けて発足し、延べ200人にのぼる参加者の協力のもとに熱気に満ちた研究会活動を展開した。それらの成果を東京大学出版会から『日本女性史』全5巻(1982年)、『日本女性史研究文献目録Ⅰ』(1983年)、さらに大月書店から『現代生活と婦人』(1983年)として世に問い、学問としての女性史研究に先鞭をつけたものとして評価された。その研究会活動は、京都を中心とする関西圏、東京を中心とする関東圏、岡山を中心とする中国圏、名古屋・長野などの中部圏を包含する広域におよび、多種多様な研究者陣(他分野、男女の、青・壮年研究者を含む)を動員した点でも、わが国の女性史研究にとって歴史的意味をもったと思われる。
 この「女性史総合研究会」誕生を直接・間接にうながしたのは、「京都婦人研究者連絡会」(1964年~現在。例会、合宿交流、実態調査、就職情報センター活動、『会報』発行など)や「京都婦人問題研究会」(1970年~1987年。毎月例会、及び『会報』発行、1~81号まで)の存在である。「女性史総合研究会」初期世代の会員には、そこでのさまざまな議論がいわば「前史の時代」に相当したといえるだろう。それらの歴史を引き継いで、「女性史を人文・社会科学研究の一分野として、軌道にのせ、市民権を得ることを一つの目的として」(脇田晴子)構想され、実行されたのが第一期の活動である。
 その後、西日本在住の研究者を中心にした研究会活動を継続し、《第一回青山なを賞》受賞となった『母性を問う』上下(脇田晴子編 人文書院 1985年)を上梓したが、研究会活動の方は一区切りした形になった。しかし、「研究討論すべき問題がようやく研究者自身の意識に顕在化しはじめた段階になったのに、このまま研究会活動を終らせるのは惜しいし、残念だ」という声が相次いで起こり、1986年6月、やはり西日本在住の研究者を中心にした(科学研究費補助金申請を繰り返したが採択されず、交通費などすべて自弁を必要とするため)「女性史総合研究会」の活動をあらためて再開するに至った(現在の登録会員は約70名、例会出席者は平均20名前後)。関東圏にも同じく「総合女性史研究会」がすでに発足し、研究会誌も定期発行されている。結果としてみれば、女性史研究は所期の「市民権の確保」に向かって確かな地歩を築き研究者の輪を広げつつあるといえよう。
 1986年6月に再開した研究会の初代代表は、当然のことながら脇田晴子氏(歴史学日本史専攻)である。「前史時代」やその後の期間における氏の大きい牽引力によって、上記諸研究所の刊行を成功裏に実現させて第二期に入った「女性史総合研究会」は、かくて再び氏を中心とした運営委員会体制をととのえ、研究会活動定着させるに至った。この間にも、『日本女性史研究文献目録Ⅱ』(1988年)、『日本女性生活史』全5巻(1990年)が脇田氏の総責任のもとに東京大学出版会から刊行されている。
 再開4年後の1989年、研究会が軌道に乗り始めたころだが、「新しい人材にも次々活躍してもらうべき時期になってきた」として、脇田氏から「代表や委員の3年任期による交替制」がつよく提起され、わが研究会も運営陣の交替制を採ることになった。現在2代目の代表を筆者(中国文学専攻)がつとめ、任期をあと1年残すところとなっている。
 さて、再開したわたしたちの「女性史総合研究会」は、毎年7月の総会で「例会活動の総括」及び「活動方針」についての報告と討論・承認を経て、隔月(7,9,11,1,3,5)に例会を開くことを恒例としてきた。1988年7月からは簡単な《例会報告通信》をも発行するに至っている。研究会活動はすでに6年有余の歴史を持ち、1991年3月までに37回の例会を重ねた。今回発刊の運びとなった研究誌『女性史学』は、1昨年から審議を重ねてきた懸案の新事業で、今後も毎年の刊行を企図しており、会員初志のご協力を期待している。

(以下、1985~91年3月までの例会活動報告については、割愛)