**** 洞山に至り飯頭と作(な)るに及んで、一日、洞山、雪峰に問う、「什麼(なに)をか作す」。
峰云く、「米を淘(え)る」。
山云く、「沙(すな、砂)を淘(え)りて米を去るか、米を淘りて沙を去るか」。
峰云く、「沙米(さべい)一斉(いっさい)に去る」。
山云く、「大衆(だいしゅ)、箇の什麼をか喫せん」。峰、便ち盆を覆(くつがえ)す。
山云く、「子(なんじ)が縁は徳山に在り」といって、指して之れに見(まみ)えしむ。
峰、纔(わず)かに到って便ち問う、
「従上宗乗中(しゅうじょうちゅう、宗旨の極致)の事(じ)、
学人、還(かえ)って分有りや也た無(いな)や」と。
徳山、打つこと一棒して云く、「什麼(なん)と道(い)うぞ」。
此れに因(よ)って省(せい)有り。 ****
雪峰は、最初は洞山下で修行しました。その後、徳山の下に移り、後に法嗣となります。
洞山は曹洞宗の開祖、徳山からは、雪峰を経て雲門宗、法眼宗が出てきます。
洞山は非常に論理的な禅師です。それに対して雪峰はするどい勢いで答えます。洞山は雪峰に徳山のところで修行するのがよいと言っています。洞山の意図はどこにあるのでしょうか。
また、雪峰が「これまでの宗旨の極致は私のような者にも分かりますか」と問うと、徳山は一棒しています。徳山の意図はどこにあるのでしょうか。
【ポイント】
洞山は、米と砂のどちらを選っているのかと問います。洞山の寺では日ごろのやり取りが禅問答になっているのです。すなわち、「米」は無差別平等の正位(しょうい)としての本体・仏心を意味し、「沙」は分別の偏位(へんい)としての塵を意味しているのです。
この時点では意味することが分からなかった雪峰は、「(面倒なことを聞くな。えーぃ、) 沙も米も一緒に捨てる」と答えます。洞山は両方捨てると、修行僧たちは何を食えばよいか(仏心も捨てると衆生済度できないぞ)と云うので、雪峰は何とうるさいことかと米びつをひっくり返したのです。
雪峰は、あまりに激しい対応です。その激しさは洞山には自分の家風に合わないとして、「徳山の棒」で有名な徳山禅師の下で修行するのがよいと諭したのです。(当時の禅師たちは、私心なく適切な禅師を紹介したと言います。)
徳山のところに来た雪峰は、「宗旨の極致を私は学ぶことができますか」と徳山に問うと、徳山は「何を言うか」と棒で打ったのです。徳山は、「皆仏心を持っているではないか」と叱ったのです。雪峰は、「そうか、なるほど」と気づきを得たのです。
(ただし、雪峰はまだまだ大悟には至っていません。大悟はさらに後の話になります。)
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