伊勢市の無形伝統芸能 一色能
室町時代末期、国司北畠の家来と北畠お抱えの能楽師が一色の里に移り住み、始まった一色能は、文化的価値を認められ、様々な指定・選定・受賞を受けています。
● 伊勢市無形文化財指定
● 能面、能装束、小道具類、鏡板類が三重県文化財に指定
● 国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選定
● 保存会が文部大臣より、地域文化功労章を受章
● 法政大学より催花賞を受賞
一色能のあゆみ
古い記録によると、遠い昔から神宮の神領であった神三郡の地に、三つの猿楽の座がありました。毎年、年頭にはそれぞれの大夫が神宮に参拝し、祈祷、祝賀の神楽・翁を奉納していました。その一つ和屋座(後に和谷と改める)は、室町時代末期に保護を受けていた国司北畠が滅ぶに及んで、身の危険を感じ、神宮近くの一色の里に移り住むようになったのが始まりです。
これには、北畠家臣団36人衆の存在を忘れてはいけません。
和屋座が一色に移り住む前に、北畠家臣団36人衆はすでに一色の地に移り住んでいたのです。彼らは北畠家滅亡をうけ、守護不入の地で安全を求め縁故を頼って、この地に入っていたのでした(一行は、自分たちのことを「結衆」と呼んでいたそうです。)
当時、村は戦乱の後を受けて疲弊し、治安は乱れがちでした。その為、村人たちは村の治安の回復を条件に、これを受け入れたそうです。
さて、翌日から、結衆たちは連日連夜休む間もなく村を巡回しました。その結果、治安は回復し、村人たちはその良識に信頼をおき、やがて村の代表の年寄衆に頼まれ共同で村を運営することになります。結衆は組織して事に当たり、よく村を治めたといいます。
同じく身の危険を感じていた和屋座の人たちは、一色村で非常な信頼を得ている結衆たちのことを知り尋ねます。結衆から事情を聴いた村の年寄衆は、これを快く受け入れたとのことです。
その後、結衆たちは特に神社経営に力を注ぎ、従来、楠を神樹として小さな祠を建て、産土神としていたのを新しく社殿を造営し、北畠家ゆかりの四座を合祀しました。その祭礼に神事と和屋座の能を組み合わせて村民の関心を呼び起こし、娯楽の少なかい当時の生活にうるおいを添えたのでした。
村人の中には、見様見まねでその謡や舞をまね、なかには一座に入って教えを受けたいというものまで現れたそうです。一座は、その熱心さに打たれ、折を見ては家に集めて手ほどきをしたとのこと。
この流れが後に、一色村独特の「一色能」を生むことになったのです。
当時は神祭を正月十一日、奉納能を正月二十一日と定めました。その後、日付の変更はあったものの、毎年欠かすことなく約500年続き現在に至っています。
また、この時に奉納された「和谷式翁」の神楽(シンガク)は日本歌舞史上、貴重な存在であった呪師の演技の面影を留めており、文化財的にも貴重なものになっています。
ちなみに明治中期まで、十八歳から二十七歳までの男子は、若衆という集団に入ることになっており、新入りの十八歳は入会のしるしとして、日頃稽古をかさねた謡曲「高砂」の四海波を謡い、各自仕舞(二番)を披露する習慣となっていたといいます。
このように、一色能は長い風雪に耐え、伝承されてきた貴重な古典芸能であり、かつ民俗文化であるといえます。多くの能面や能装束、小道具類が町有財産として管理され、保存かつ使用されているのです。
現在、一色能は毎年3月11日の一色神社大祭の日に「翁」の謡いを奉納しています。能の奉納は、3月11日を過ぎた最初の日曜日となっています。
能舞台は慶応年間に一度焼失し、その後、津市の藤堂公所有のものを特別払下げしてもらいました。しかし、これも老朽化し、鏡板を残すのみとなって、現在は一色町公民館の特設舞台で披露しています。
●参考文献
・一色の翁舞調査報告書 伊勢市教育委員会 2008.3.31
・島から町への物語 わが郷土「一色」伝 龍田善樹 2005.12.20
【一色町能楽保存会】
練習日 :毎週土曜日 14:00~17:00
場 所 :一色町公民館(伊勢市一色町1682)
【問い合わせ】
TEL 0596-27-0001
(一色町能楽保存会 副会長
石原隆明)