堀口遺跡からは、弥生後期以降の遺構が出ている。出土した奈良時代ころの土器には、「里」という文字が書かれた墨書士器がある。
赤倉時代は、吉田盛家(堀口八郎)が堀口郷の地頭として土着し支配していた。館跡は、堀口小の西側と考えられている。
堀口の地名は、ムナセ堀を堀口側から掘り進められたところから名付けられたと言われている。ムナセ堀の地名は市毛にあるが、堀跡も現在残っている。ムナセ堀は、早戸川の水を堀口まで引き、その水で那珂川北側の沖積地を開田しようと計画した灌漑堀だった。
「ムナセ」とは、「むなし」がなまったもので、「むなし」には「かひがない。無益である。むだである」の意味があり、ムナセ堀は、むだな堀ということになる。つまり、灌漑堀の大工事に失敗してしまったということである。(勝田市史)
佐竹氏が支配した時代は東義久の知行地で石高は130石71。水戸藩時代の寛永12年(1635)の石高は183石2半で、落士岡田惣十郎の知行地だった。また初期には、水戸城下に近いことから侍屋敷(下屋敷)が置かれていたこともあった。
なお、堀口の集落は、古くは長久保管林(元日立製作所勝田工場)の方にあったが、日照りがあり、現在の地に移住したそうだ。当時の戸数は5戸ぐらいだったといわれている。江戸時代の天保年中は33戸、明治43年頃は20戸、昭和に入り日立製作所の進出に伴い、急激に人口が増加した。
(市報かつた第352号)
昭和39年には、一部が共栄町・元町になり、昭和40年には、中原町・本町となった。(角川日本地名大群典)
現在、堀口地内には、昭和41年4月1日に開校した「ひたちなか市立堀口小学校」があるが、江戸時代の庶民は「寺子屋」に通っていた。
堀口の寺子屋は、庄屋の清水家の屋敷内に設けられていた。開設時期は、慶応4年(1868) から明治4年までで、清水家の長子を教育するためだったが、堀口村内の9歳から16歳ぐらいの男子も10名ほど通っていた。授業内容は、専ら読み書きで、清水家には今でも当時使われていた教科書、文庫箱、字指し棒などが残されている。(勝田市史)
清水家・屋敷内の市保存樹木(ヤマザクラ)*平成31年4月堀口公園として整備された