◯ 熊は《山の神》でもありますが、地名研究の書には、熊本はもと隈本であったと、述べられています。
〔初出: 亜細亜研究叢書六 『地名の研究』昭和二十四年五月 創元社刊〕
(八) 忌詞と迷信
(pp. 399-400)
熊本と隈本
肥後國熊本は舊號隈本[くまもと]であつたが、隈の字は阝と畏に分解すべく、一國の府たる所、阜(阝)を畏るゝは不可なりとして、熊の字に改めた。
〔金沢庄三郎/著『日韓古地名の研究』平成06年09月01日 草風館/発行〕
◯ また、クマは「おくまった」場所を指すことが、古い記録に残されています。
(pp. 240-241)
熊谷[くまたに]の郷。郡の役所の東北二十六里にある。土地の古老が語り伝えて言ったことには、久志伊奈太美等与麻奴良比売[くしいなだみとあたうまぬらひめ]の命[みこと]が、妊娠して今、産もうとなさる時になって、産む場所を探し求めたもうた。その時、ここにやって来ておっしゃったことには、「たいへんクマクマシキ(山深くはいりこんだ)谷である」とおっしゃった。だから、熊谷[くまたに]という。
[原文] 熊谷郷。郡家東北廿六里。古老伝云、久志伊奈太美等与麻奴良比売命、任身及将産時、求処生之。尓時、到来此処詔、「甚久々麻々志枳谷在」。故云熊谷也。
[訓み下し文] 熊谷の郷。郡家の東北廿六里なり。古老伝へて云ひしく、久志伊奈太美等与麻奴良比売の命、任身みて産まむとしたまひし時に及りて、生まむ処を求ぎたまひき。その時、此処に到り来て詔りたまひしく、「甚久々麻々志枳谷なり」とのりたまひき。故れ、熊谷と云ふ。
(くまたにのさと。こほりのみやけのひむがしきた26さとなり。ふるおきなつたへていひしく、くしいなだみとあたふまぬらひめのみこと、はらみてうまむとしたまひしときにいたりて、うまむところをまぎたまひき。そのとき、ここにいたりきてのりたまひしく、「いとくまくましきたになり」とのりたまひき。かれ、くまたにといふ。)
〔植垣節也/校注・訳新編日本古典文学全集 5『風土記』1997年10月20日 小学館/発行〕
―― いっぽう、クマだけでなく「こもる」に通じるコモについて、以前「神魂の神 / 赤猪の神話」のページで参照した『キトラ古墳とその時代』に詳しく論じられています。そのページから、再掲します。
○ 日本語の〝神〟は朝鮮語の〝カム・カル〟と音韻が通じるのだし、また日本語の〝熊〟は朝鮮語の〝コモ〟であったのだろう。このことと、当時は〈カモス〉と訓まれていた「解慕漱」の語の、朝鮮半島での現在の発音が〈ヘモス〉に変化したのだとする説は、矛盾しない。これも有力な仮説のひとつと思われる。
一 神魂神社とカモス神
古代出雲における新羅と高句麗文化の累積・重層化をさぐるために、出雲東部の意宇郡・大庭にある神魂[かもす]神社とカモス神を従来の理解から離れて検証する必要がある。というは、高句麗からの神話・信仰を基底に敷くものと解釈するからである。
神魂神社のカモス神については、これまでさまざまな見解が加えられてきたが、そのカモス神とは一体何であるのだろうか。
神魂神を『古事記』では神産巣日[かみむすび]神、『書紀』では神皇産霊尊としてカミムスビと仮名をふって訓[よ]んでいるが、神魂神のカモスはカモスであって他にならないはずである。
門脇禎二氏は、このカモス神の「カモスの称が残りつづけたのは、朝鮮に発したコモスの始祖霊信仰によるとみられる(1)」と興味深い理解の仕方をしめしている。能登の珠洲市に式内社として登記された古麻志比古[こましひこ]神社がある。この神社については、神社名の古麻志比古から高麗(コマ)・魂(シ)・彦とみて、高句麗系渡来人の神社とみる解釈があった。
ところが門脇氏は、古麻志比古神社の本来の祭神は、日子座王[ひこますおう]命であるから、祭神じたいをより重視すれば問題が残ってくるとして、「古麻志のコマは、コモ(熊)が呪術と修業によって天神の子を生むという朝鮮の平壌地方にあった呪術的な民間信仰のひとつでコモ(熊)・ス(霊)であった」という説をとりいれ、このコモ・スが神魂(カモス)信仰として出雲神話にみえるカモス信仰へと発達し、こうした始祖霊信仰が、つぎの始祖的人格信仰の前提、例えば彦坐王信仰になると解釈した。つまり、能登の古麻志比古神社の原像や出雲の神魂神社の原像を、「朝鮮の土着的な呪術信仰」にもとづくカモス(シ)信仰に求めたのであった。
筆者はカモス神と神魂神社の原像を「朝鮮の土着的な呪術信仰」に求めるのではなく、すでに修飾化され、人間化された始祖的な人格信仰として、高句麗建国神話に登場してくる天帝の子・解慕漱(朝鮮語ではヘモス)から由来していると解釈している。解慕漱[ヘモス]とは言うまでもなく『旧三国史』や『三国史記』が伝えているように河伯の娘・柳花と結ばれた「天帝子」である。その天帝の子が高句麗始祖王の朱蒙である。
『三国史記(2)』と『三国遺事(3)』が記載している解慕漱の解(ヘ)の古い読みは「カ」であるから、古代朝鮮語のように読めば解慕漱=カモスである。このカモスが出雲の神魂神社のカモス神の原像であると考える。
柳烈氏は『三国時代の吏読についての研究』において『三国史記』と『三国遺事』に記載された解慕漱の解(ヘ)についてふれ、「『解[ヘ]』字の『ヘ』は、古い形態である『解[カ]』字の『カ』の音韻変化である(4)」と指摘している。
このようにカモス神を理解すれば、出雲のカモス神と同時に、能登の古麻志比古神社の原像もふくめて高句麗的性格が解明されるのではないだろうか。
カモス神は出雲国の本拠地である意宇の地にあって、この地の「土着信仰のカモス神」として根強かったが、本来の姿は高句麗渡来のカモス神であった。ところで意宇平野の元来の地主神・農業神は熊野大神であったが、出雲東部の政治経済的発展にともなって、より政治的なカモス神として生みだされていったものと思われる。門脇禎二氏が指摘しているように、畿内大和朝廷による出雲最初の支配者、すなわち最初の国司である忌部首小首[いんべのおびとこおびと]が、自らの祖先神とカモス神を結びつけて崇拝したものと思われる。こうして神魂神社は出雲国造の館におかれるようになった。
カモス神が高句麗神話から創出された出雲在地の信仰であるとすれば、当然のことながら、それをもたらした高句麗からの直接の渡来か、出雲と朝鮮、この場合は日本海を介しての対岸交流の結果によるものであろう。この高句麗からの渡来と交流をより直截的に証しうるのは、考古学上の遺物・遺跡であろう。
この点で注目されるのは、出雲意宇の東部の安来平野であるが、この地域の横穴古墳から「高麗剣」とよばれる双竜環頭大刀などが出土して高句麗系移民の来着をうかがわせる。
(1) 門脇禎二『日本海域の古代史』 東京大学出版会 一〇一~二頁。
(2) 『三国史記』巻一三 高句麗本紀 『始祖東明聖王 姓高氏 諱朱蒙』「自称天帝子解慕漱」。
(3) 『三国遺事』紀異第一 古朝鮮「以唐高即位五十年庚寅」紀異第二 高句麗「解慕漱私洞伯之女而後産朱蒙」。
(4) 柳烈『三国時代の吏読について』平壌 科学・百科事典出版社 二〇九~一〇頁。
〔全浩天/著『キトラ古墳とその時代』2001年04月15日 未來社/発行 (pp. 223-225) 〕
The End of Takechan
◎ さて前回にも紹介した、水谷慶一氏の『知られざる古代』(p. 66) には、次の一節があります。
ぼくは二万五千分の一の地形図をひろげて見つめていた。そこには、いつでも消せるように赤鉛筆で薄く一本の線がどこまでも引かれている。ぼくの計算によれば、それは、北緯三四度三二分あたりになるはずであった。
―― と、ここで「第三章」が終わって。
○ つづく「第四章」では、九州の地形にも〝巨大な正三角形〟を、投影できることが紹介されていたのです。上の地図に描かれた三角形は、その内容を簡易的に検証してみたものです。
(pp. 67-69)
ぼくは地図の上の赤い線をゆっくりと西へたどっていった。……
堺市にはいる。大阪の小学生の最初の遠足といえば、かならず住吉大社[すみよっさん]か仁徳天皇陵にきまっていた。二万五千分の一の縮尺となると、その仁徳陵がメダルくらいの大きさである。その脇をかすめる南海電車高野線にそって、眼を南東へ走らせると問題の赤い直線との交点に、「はぎはらてんじん」とある。ぼくはまだこの駅に降りたことがない。北緯三四度三二分の「太陽の道」にあたる天神社の地名は日置荘[ひきしょう]とある。―― とたんに背筋を電気が走った。どうして、このことに今まで気がつかなかったのだろう。日置だ、日置なんだ、とぼくは何度も繰り返した。
日置はヘキ、ヒオキ、ヒキといろいろに呼ぶが、要するに古代の氏族の名前で、それが地名にもなる。字も、幣岐、戸岐、戸木、部木、比企といろいろにあてる。北条政子の大河ドラマ『草燃える』に出てくる比企能員[ひきよしかず]も、そのはるかな後裔で、現在、埼玉県には比企郡という地名ものこっている。
ある予感にうながされて、ぼくは地図の上の赤い直線上を東へ西へ眼を走らせた。
やはり、あった。大和盆地の西のどんづまり、馬見[うまみ]丘陵の東麓、広陵町に疋相[ひきそ]という字[あざ]名がある。ヒキソとは、まさに日置荘[ひきしょう]ではないか。
大急ぎで図書室にかけつけ、『和名抄』をひっぱり出す。これは、わが国最初の百科辞典で古代の地名があまさず網羅してある。これに載っていれば、まず古い地名と思ってまちがいはない。
大和国葛上郡(今の広陵町を含む一帯)にやはり日置郷があった。ついでに、和泉国のところをみると、大鳥郡(今の堺市鳳[おおとり]町を含む一帯)に日部の郷名がある。さっきの堺市日置荘が、あるいは、これにあたるのだろうか。伊勢国をみると、壱志郡にこれまた日置の郷名がある。問題の緯度は現在の三重県一志郡を通過するのだ。
やはり、そうだ。日置だった。
なぜ、このようにぼくが興奮したのか読者にはさっぱりおわかりにならないと思う。そのためには、しばらく遠くへ行っていただかねばならない。舞台は、九州へ飛ぶ。
熊本県玉名郡菊水町に、奇妙な遺跡がある。通称トンカラリンと呼ばれる正体不明の墜道[トンネル]である。それは、谷間を縫うように延々四五〇メートルもつづき、一部は見事な切り石積みで、ちょうど地下水道を思わせるが、あるところでは自然の地隙[ちげき]を利用し、その上に天井石をかぶせたところもある。トンカラリンの名は、石が穴の中に落ちて墜道内に反響する音からつけられたといい、遺跡の全体は大きさや構造のちがう五つのトンネルが組み合わさってできている。
いったい、いつ、だれが、何の用途で造ったのか。ある人は城の抜け穴だといい、ある人は近世につくられた排水路といい、あるいは古代の祭祀遺跡ではないかとさまざまな説がならび行なわれている。
(pp. 72-76)
菊水町のトンカラリン遺跡の近くに小さな杜[もり]があって、そこに石造の祠[ほこら]が建っている。日置氏の先祖がまつられているという。かつて、ここで銅板の墓誌が発見されたことがあり、それには
玉名郡人
外少初位下 日置郡公
権擬少領
と読める文字が刻まれていたということであった。
ところで日置氏の奇怪な点は、どういうわけか、その遺跡が一直線上にならんでいたり、妙に方位に敏感なところがあって、そこがまた、ぼくのいちばん気になる箇所なのだ。
前記のトンカラリンの発見がきっかけとなって、熊本県の北部地方で同様の遺跡がつぎつぎと浮かび上ってきた。それまでは、町や村の故老がようやくもち伝えてきた記憶が、それならここにもあるぞというわけでいち時に噴き出した感じだった。かくて、磐座とおぼしき巨石や、天然あるいは人工の穴からなる古代祭祀遺跡の地図がたちまちに出来上がったのである。
いま、それを菊池川流域古代史研究会の古閑[こが]三博氏や筑波大学の井上辰雄教授からの教示をもとにして、ぼく流に書いてみると次のようになる。以下、地図を傍にしてとくとお確かめいただきたい。
熊本市の市街から東を望むと雄大な阿蘇の連峰が見えることは誰もが承知している。では反対に西を向くと何が見えるか。何も見えない、なぜならその先は海だから、とたいていの人は思っているのではないだろうか。実は、ぼくも熊本に行ってみてはじめて知ったのだ。大阪に生まれ育ったぼくは、熊本も同じく海に面した都会だと長いあいだ思いこんでいた。実際は、熊本市街は海岸線から約一〇キロほど奥へ引っこんだところにある。熊本のクマは、おそらく隈で、奥まってかくれた所というほどの意味であろう。その熊本市の西方にあって市街と海とを隔てているのが、金峰山である。この金峰山は岩戸観音があったりして、どこか古代信仰の匂いを感じさせる山だが、熊本市街の住民にとって、阿蘇が日の出の山なら、金峰山は日の沈む山である。ちょうど、大和の三輪山と二上山に似た関係が、この阿蘇山と金峰山にはある。つまり、ここでも東西軸が強く意識されているのだ。
もう一つ、熊本県の北部にあって、ひときわ高くそびえ立つ八方ケ岳という山がある。標高は一〇五二メートルだ。いっぽう、日置氏の勢力の中心があったのは現在の玉名市の立願寺温泉のあたりといわれている。ここには、『延喜式』神名帳に記されているほどに古い由緒をもつ疋野[ひきの]神社がある。疋野は、もちろん、「日置野」、あるいは「日置の」であろうと想像されるが、問題はこれからだ。
この疋野神社とさきの八方ケ岳を結ぶ直線上に、なんとさっきのトンカラリンがぴたりとのるではないか。そればかりではない、この直線上にまたしても同様な祭祀遺跡が点々と並ぶのである。熊本県鹿本郡菊鹿町の通称「権現穴」は三つの台状の尾根にかこまれた谷間にあり、その上部にはそれぞれクワド石、権現岩と称する磐座がある。それより西南よりの同郡鹿央町には、現在、「岩倉[いわくら]」という地名がのこっているが、この岩倉山の山頂には、七~八メートルに及ぶ巨岩がそそり立っている。そして、この山の尾根つづきに土地の人が「拝み石」と呼ぶ岩があり、しかも附近には全長三〇〇メートルのトンネルが断続してつづくというのだ。
これらの穴が天然のものか人工のものかはしばらく措くとして、いずれも人が中に入りこめるようになっており、ときには穴と穴とが地下道でつながれ、穴から穴をたどって下から上へ昇ってゆくと、かならず山頂の磐座に達するようになっていることである。つまり「こもりの穴」あるいは「くぐりの穴」と山頂の磐座がセットになっていること。このことをよくよく記憶に刻みこんでおいてもらいたい。あとできっとまた出てくるはずである。
さて、これから先は、地図を眺めながらのぼくの思いつきであるのだが、この直線上にやはり日置らしい地名がのるのである。まず、権現穴のある菊鹿町に疋田[ひきた]があり、山鹿市にはズバリ日置がある。それからもう一つ、さきの八方ケ岳の頂上と玉名市の立願寺を結ぶ線であるが、これが東西軸に対して北へ三〇度の角度をなしている。ということは、この線上のどの地点に立っても夏至の日の太陽が八方ケ岳の山頂から昇ることになる。太陽の光は夏至を境目として、秋から冬へだんだんと衰えてゆく。このことが古代人にとって、どれほど怖ろしいことであったかを思えば、夏至は一年のうちの重要な祭りを行なう節目[ふしめ]になっていたはずであり、くだんの直線はやはり偶然とは考えられないのである。
そればかりか、前記の古閑氏らの見るところでは、八方ケ岳と金峰山を結ぶ三五キロの直線を一辺とする大「正三角形」が地表に描かれるというのだが、ひとまず、ここいらで止[とど]めておこう。それより、問題の日置氏とはどういう性格のものなのかを先学の研究をもとにして考えてみたい。
今までの記述と日置という文字から、すでに読者もおおかたの想像をされているように、ひと口にいって彼らは太陽神の祭祀を行なう連中なのである。
『出雲国風土記』の神門[かむど]郡の条りに
日置[ひおき]の郷[さと] 郡家[こほりのみやけ]の正東[まひがし]四里なり。志紀嶋[しきしま]の宮[みや]に御宇[あめのしたしろ]しめしし天皇の御世、日置[ひおき]の伴部等[ともべら]、遣[つかは]され来て、宿停[とど]まりて、政為[まつりごとな]せし所なり。故[かれ]、日置[ひおき]といふ。
われわれが普通に手に入れることのできる文献では、この日置の用例などが古いものの一つである。岩波版『日本古典文学大系』の頭注によれば、この日置の郷は、島根県出雲市上塩冶町附近の地、神戸川の北岸地域、とある。「志紀嶋の宮に御宇しめしし天皇」とは同じく頭注で、欽明天皇とあるが、折口信夫はこれを崇神天皇と考えていたようだ。欽明天皇は第二十九代、六世紀中葉の天皇だが、かたや崇神天皇は第十代でその間にかなり開きがある。しかし、この場合、ぼくの注目をひくのは、いずれにせよ、「志紀嶋[しきしま]」に宮居を定めた天皇の御世だということだ。志紀嶋とは、いうまでもなく、われわれの出発地点、奈良県桜井市のあの三輪山の麓である。
(p. 77)
日置部とよく似たもので、しばしば同時に論ぜられるものに日祀部[ひのまつりべ]がある。日奉部ともかく。
『日本書紀』の敏達天皇六年二月の条りに、
―― 詔シテ日祀部[ひのまつりべ]・私部[きさいちべ]ヲ置ク。
とある。
敏達天皇とは、さきの「志紀嶋の宮に御宇しめしし天皇」にあてられた欽明天皇の次の天皇である。……
(pp. 78-81)
折口信夫は、この日祀部を「日置祀部[ひおきまつりべ]の略」だとして日置部の一種であると説いている。
もっとも、これには異論があって、京都大学の上田正昭教授のように両者はやはり区別すべきだとする説もある。が、その上田氏も「日祀部と日置部との間には、ともに宗教とのかかわりがある」ことは認めているようだし、そのちがいも主として両者がそれぞれに設けられた時期の前後関係からくるものと理解されているようである。つまり、敏達朝よりも早い時期にまず日置部の設置があり、ついで日祀部が置かれたというわけだ(『日本古代国家論究』塙書房・昭和四三年・二三六~二四六ページ)。
また、前記の筑波大学の井上辰雄教授は
「日置部という部民は、日奉部(日祀部)とならんで日神を祀る特殊な部民集団」であり、「その最大の職掌は日の御子を穀霊として降臨を仰ぐことにあり、日々にあたっては朝日を迎え、夕日を送る儀礼を司ることにあったのではないか」と書いている(「菊池川流域の古代祭祀遺跡」『東アジアの古代文化』五号・九八~九九ページ)。
ところで、このような日置部の祭祀を行なったのは男か女かということになると、それをにわかに判断できるような資料はなかなかに見出し難い。
ただ、上田教授が上記論文の中で日置部の分布を列挙されているのをざっと眺めても、
京師 ――〈平城〉右京=日置須太売[すたひめ](『続日本紀』慶雲三年の条)
山城 ―― 愛宕郡=日置意須売[おすひめ](「愛宕計郡帳」)
志摩 ―― 日置長枝娘子[いらつめ](『万葉集』)
周防 ―― 玖珂郷=日置今与女、日置吉刀自売[とじひめ](「周防国玖珂郷戸籍」)
讃岐 ―― 日置毗登乙虫[ひとのおとむし](『続日本紀』天平神護元年の条)
というように、あきらかに女性とわかる名前が目につくことは確かである。ちなみに、同表の中に男性と類推される個人名は、越前国足羽郡の「日置名取」を唯一つの例としてほかには見当らない。これだけから、日置部の祭りの主役が女性であったと判定することは甚だ危険であろうが、次に、日奉部について精細な研究をされた岡田精司氏の論文を見ることにしよう(『古代王権の祭祀と神話』塙書房・昭和四五年)。
それによると、奈良時代の天平宝字五年一〇月三日の奥書のある「光覚知識経」のある経巻には、
日奉連[ひまつりのむらじ]金刀自 日奉連火稲子
日奉連刀自子 日奉連弟子
日奉大得
と書いてあって(前掲書九九~一〇〇頁)、日奉連の女性が後宮に仕えていたことが推定できるようである。
また、同じく奈良時代の史料として、『続日本紀』の宝亀元年一〇月一日の条りに、年号を改める旨の詔勅が記録されてあり、それには「肥後国葦北郡人 日奉部広主売」らが白い亀を献上し、この瑞祥(吉兆)によって「宝亀」と改元したことが見えている。九州の肥後地方に当時、日奉部の巫女がいて、こういう吉兆の発見にかかわったということは、前述した同地方の日置氏の存在と考えあわせて興味ぶかい。そうすると、日置部、あるいはその系譜をつぐ日祀(奉)部のような祭祀集団にあっては、女性がかなり大きな役割を占めていたことだけは、どうやら推定できそうである。
もう一度、井上辰雄教授の前記の論文を見ることにしよう。
一般に、日置氏の〝日迎えの秘儀〟は、人目をさけて真夜中から準備され、巫女が「依代[よりしろ]」をもち、火を燎[とも]しつづけて夜明を待つことからはじまる。神霊を迎える浄火には、「ヘキ」つまり聖木を薄く削った木片を焼き、神の降臨の促しや目標[めじるし]としたようである。(前掲書九九ページ)
歴史家としては大胆かつ非常にイメージに富んだいいかたで、氏がどのような資料からこうした考えを得られたのかをぜひ知りたいと思うが、ぼくにとっては、はなはだ心強い記述である。読者も、ぼくが北緯三四度三二分の線上にいくつか日置の地名を見出して興奮した事情が、これでほぼ了解されたことと思う。
(p. 82)
ここで、ふたたびトンカラリンを問題にするならば、あの奇妙な長い穴は、天の岩戸神話で天照大神が身をかくす岩戸そのものであり、この神話の背景には、太陽がもっともその力を弱める冬至の日に、太陽を(あるいは、太陽霊を身につけた巫女を)暗い穴の中に隠[こも]らせ、そこで生命力をふやしふたたび活力を甦えらせようとする呪術儀礼がうかがわれるのである。
そして、その「こもりの穴」を出たところの丘の上の天神社は、まさにかつて巫女たちが神祭りを行なった斎場であり、そこから望まれる二等辺三角形の神体山、禿[かむろ]山の頂上の「船つなぎ石」は、天上から日の神を招[お]ぎ降す磐座(神の座)であることに、ほぼ、まちがいはあるまい。
〔水谷慶一/著『知られざる古代』昭和55年02月15日 日本放送出版協会/発行〕
○ 上に参照した文章の最後のほう井上辰雄教授の論文からの引用文に似た情景は、仲松弥秀『神と村』の記述にみることができます。
御嶽は古代の祖先たちの葬所が拝所となったものであるが、また、御嶽によってはニライ・カナイの神の祀られているものもある。いずれも神の世界であり、青の世界である。
また、島々においては旧九月九日に御嶽と井泉巡拝が行なわれるが、沖縄本島宜野座村の漢那の御嶽拝では、夜に入ると神女たちが列をつくり、ノロ殿内から御嶽の間を七回往復し、最後に嶽内に入る。その道中にうたわれるウムイ(神歌)の中に、「アフの山、降りて召しようて、拝まりり、御神がなし」という言葉が聞かれる。
〔仲松弥秀/著『神と村』1990年07月01日 梟社/発行 (pp. 141-142) 〕
The End of Takechan
(pp. 116-117)
[原文] 十七年春正月、百濟王子惠請罷。仍賜兵仗良馬甚多。亦頻賞祿。衆所欽歎。於是、遣阿倍臣・佐伯連・播磨直、卒筑紫國舟師、衞送達國。別遣筑紫火君、〔百濟本記云、筑紫君兒、火中君弟。〕 率勇士一千、衞送彌弖。〔彌弖津名。〕 因令守津路要害之地焉。
(頭注)
筑紫火君
肥(火)国の豪族。神武記に神八井耳命は火君らの祖とあり、姓氏録、右京皇別に火は多朝臣同祖、同大和皇別に肥直は多朝臣同祖で神八井耳命の後とある。釈紀十六所引の肥後国風土記逸文にみえる肥君らの祖健緒組、大宝二年筑前国川辺郡島里戸籍にみえる肥君猪手の戸などは同系であろう。
筑紫君
筑紫の国造家。継体二十二年十二月条には筑紫国造磐井の子を筑紫君葛子と書き、磐井を継体記・釈紀十三所引筑後国風土記に筑紫君と書いている。釈紀五所引筑後国風土記に「于時筑紫君・肥君等 …」とあるから、火君とは別氏。
[訓み下し文] 十七年の春正月に、百濟の王子惠、罷りなむと請す。仍りて兵仗・良馬を賜ふこと甚多なり。亦頻に賞祿ふ。衆の欽み歎むる所なり。是に、阿倍臣・佐伯連・播磨直を遣して、筑紫國の舟師を率て、衞り送りて國に達らしむ。別に筑紫火君 〔百濟本記に云はく、筑紫君の兒、火中君の弟なりといふ。〕 を遣して、勇士一千を率て、衞りて彌弖 〔彌弖は津の名なり。〕 に送らしむ。因りて津の路の要害の地を守らしむ。
(ふりがな文) じふしちねんのはるむつきに、くだらのせしむくゑい、まかりなむとまうす。よりてつはもの・よきうまをたまふことにへさなり。またしきりにものたまふ。もろひとのたふとみほむるところなり。ここに、あへのおみ・さへきのむらじ・はりまのあたひをつかはして、つくしのくにのふないくさをゐて、まもりおくりてくににいたらしむ。ことにつくしのひのきみ 〔くだらほんきにいはく、つくしのきみのこ、ひのなかのきみのいろどなりといふ。〕 をつかはして、たけきひとちたりをゐて、まもりてみて 〔みてはつのななり。〕 におくらしむ。よりてつのみちのぬみのところをまもらしむ。
(pp. 166-167)
[原文] 神八井耳命者、〔意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹羽臣、嶋田臣等之祖也。〕
[訓み下し文] 神八井耳の命は、〔意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧の石城國造、常道の仲國造、長狹國造、伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、嶋田臣等の祖なり。〕
(ふりがな文) かむやゐみみのみことは、〔おほのおみ、ちひさこべのむらじ、さかひべのむらじ、ひのきみ、おほきだのきみ、あそのきみ、つくしのみやけのむらじ、さざきべのおみ、さざきべのみやつこ、をはつせのみやつこ、つけのあたへ、いよのくにのみやつこ、しなののくにのみやつこ、みちのくのいはきのくにのみやつこ、ひたちのなかのくにのみやつこ、ながさのくにのみやつこ、いせのふなきのああたへ、をはりのにはのおみ、しまだのおみらのおやなり。〕
○ 金思燁 (Kim Sa-yeup) 氏は『完訳 三国史記』および『完訳 三国遺事』の和訳者ですが、1976 年 10 月に、松本清張氏の紹介だという「菊池川流域古代史研究会」の古閑三博氏の突然の来訪を受け、トンカラリンの調査に乗り出すことになったそうです。
目を奪う豪華な出土品
(p. 147)
船山古墳 この古墳は熊本県の北西部の菊池川の中流のほとりにある。もっと詳しくいえば、玉名郡菊水町江田というところの、清原[せばる]と呼ぶ小高い台地の上に位置している。全長四二メートル、後円部径二七メートル、高さ七メートルの前方後円墳である。築造時期は四五〇年ごろと編年されている。一八七三年(明治六年)発掘されたが、二〇〇点にのぼる出土品があった。
鋭利な鉄製の武器は語る
(pp. 153-155)
三国時代の大刀 高句麗の貴族たちは腰に刀を五振り、それに礪(砥石[といし])をいっしょに佩[は]く習慣があった。『太平御覧』(四夷部・高句麗条)に、「要(腰)に銀の帯[おび]あり。左に礪を佩き、右に五刀子を佩く」といったのがそれである。
…………
刀剣という武器は刀の両側に刃があるのを剣といい、片方だけのを大刀といっている。三国時代の刀剣にはその種類が多種多様であったが、大刀が多く用いられていた。大刀の外装はすこぶる派手に飾ることを好んでいた。早い時期の古墳から出土されたのをみると、柄の頭部に円環の装飾をほどこした素環頭大刀が多く、しかも三国共通した様式であったことがわかる。やや時期が下ると、環頭の飾りが多様になり、円環にいろいろな文様、例えば三葉、竜、鳳凰などをあしらったのが出土されている。ほかに三つの素環がつらなっている三繋環頭、三葉三繋環頭、単竜環頭、単鳳環頭、双竜環頭などの多彩なのもある。それらを国別にみるとつぎのとおりである。
高句麗 ―― 素環頭、三葉環頭
百 済 ―― 素環頭、三葉環頭、三葉三繋環頭、単竜環頭、単鳳環頭
新 羅 ―― 素環頭、三葉環頭、三繋環頭、三葉三繋環頭、単竜環頭、双竜環頭、単鳳環頭
伽 耶 ―― 素環頭、三葉環頭、三繋環頭、双竜環頭、単鳳環頭、銀装円頭
高句麗の環頭の種類が少ないのは、調査報告がよく入手できなかったからで、鉄製品の技術や国力が三国の中でもっとも強盛であっただけに、刀剣の種類や大刀の文様などもより秀れて多彩なのが多かったはずである。
…………
船山古墳出土の大刀についてみると、図版に見える刀身十二振りのまん中の素環頭大刀は、高句麗の五倫台二六号出土の大刀ときわめて類似していることがわかる。しかしこれだけでは船山古墳の素環頭大刀が高句麗製だと断言することはできない。
日本最古の金石文の解読
(pp. 155-158)
太刀の銘 ペガサス( Pegasus・天馬)と十二花弁の菊花文に、七十五文字の銘を銀で象嵌したこの大刀は、刀身一メートル五〇センチの優雅なものである。銘の七十五文字の中には磨滅して読めないのがかなりある。これまで日本の学者は、この大刀は日本で日本人の製作品とみており、したがって銘の文意もその線にそって解している。一方、金錫亨は、百済王が「臣属」する北九州の倭王に下賜したものだと主張している。不明文字のために全文の文意を完全に把握できなくとも、はっきり読める個所と、前後の文脈上、最小限度敷衍できる近似の文字を仮定して、もう一度綿密に読みなおしてみたならば、それがはたして日本製、日本的であるか、あるいは百済製、百済的であるか、それともほかの何かであるかがつかめると思う。
まず不明の文字と読める文字を示すとつぎのようになる。
A ①②③④⑤⑥⑦大王世奉⑧⑨曹人名无⑩⑪八月中用大⑫釜幷四尺⑬刀八十錬六十⑭三寸上好⑮刀服此刀者長寿子孫⑯⑰得⑱恩也不失其所統作刀者伊太⑲書者張安也
この十九文字の不明個所を敷衍して読んだ例に、つぎのような読み方がある。
福山敏男の判読。
B 治天下[犭复]□□□歯大王世 奉□典□人名无□弖 八月中 用大鐺釜幷四尺廷刀 八十錬六十捃三寸上好□刀 服此刀者 長寿子孫注注得其恩也 不失其所統 作刀者名伊太加 書者張安也
〝すなわちこの大刀の銘文は、タヂヒのミヅハワケ大王(反正天皇)の御世に、无□弖なる者が刀工伊太加をして一口の刀を造らしめたことを語っていると思われ(八月中とあるのは、前述の鏡に八月日十とあるのと同じく、八月が鏡や刀を造るによき月として考えられていたらしいから、正確にこの月に造られたとする必要はあるまい。八月とのみあって、何の年としないのも、このことを旁証しているようである)、その実年代は五世紀前半の終り頃にありとすべきであろう。〟(「江田発掘大刀及隅田八幡神社鏡の製造年代について」)
『世界考古学大系』の判読
[治天下獲]□□□[歯]大王世奉[為]典[曹]人名无利工八月中用大鋳釜幷四尺[迂]刀八十錬六十[振]三寸上好□刀服此刀者長寿子孫洋洋得三恩也不失其所統作刀者名伊太[於]書者張安也
この判読にもとづいて金錫亨はつぎのように解読している。
〝天下を治める …… 大王の世に大王の命をたてまつる官庁の人、名前、无利が(指揮)してつくったものである。八月に大きな熔解釜を使った。四尺になる□刀を八十回も鍛錬して六十振三才をつくった。このすばらしい刀を身につける者は久しく生き、子孫も多いだろうし、三種の恩恵をすべて受けるだろうし、彼が統率するところ(国)も失わないだろう。この刀を親しく造る者の名は伊太於で、文字を書いたのは張安である。〟
真実に迫る新しい解読
(pp. 158-163)
では、もう一度読みなおしてみよう。だいたい三段に分けられる。文中に「…大王」・「无□□」・「伊太□」・「張安」など四人の固有名詞は、文意をきめる重要なヒントにもなることを留意しながら読んでみる。
①②③④⑤⑥⑦大王世
文の形式として「何々大王」と冒頭にあることから、「ある大王」の修飾的表現であることはまちがいない。③が「下」、④が「獣」とも「獲」ともみられ、⑦が「歯」にも「留」にも見られるが確かでない。福山の判読のように反正天皇の諱[いみな]、「瑞歯別[ミヅハワケ]大王」と読むのは無理である。「瑞歯別大王」の「別」を抜くことも許されないし、『日本書紀』に天皇を「王」ないし「大王」などと表記した例はない。いくら「王」のうえに修飾文字をもってきても、漢文的表現としては「天皇」におよばないのである。また、百済の「蓋鹵王」(四五五年~四七四年)と読む人もいるし、金錫亨はそれに賛成しているが、かならずそうだと断定できるものではない。
ここで注目すべきは「大王」という表現である。ある王を修飾して「大王」といえないこともないが、それも慎重を要する問題であって、誰にも軽々しく書けないものである。三国時代の各国の王の称号にはたいてい「何王」と称しているが、高句麗と新羅は少し事情がちがっている。新羅のばあいは、二十一代の炤智王までは、「何王」といわないで、「王」の意味の新羅語で表記されている。すなわち「…居西干」、「尼叱(師)今」、「…麻立干」などの表現をしている。二十二代からは全部「何王」というふうに「王」を使っている。
一方、高句麗では、「何王」と使っているほかに、つぎのような呼称があって、王の在位中の治績によって使いわけている。
上王(国岡上王(故国原王の諱)・山上王)
明王(瑠璃明王・文咨明王)
好王(明治(文咨王の諱)好王・陽岡(陽原王の諱)好王・平岡上(平岡王の諱)好王)
大王(太祖大王・次大王・新大王)
このほかに始祖王は「東明聖王」と称し、好太王(広開土王。牟頭婁墓誌には「太聖王」)と表記した例もある。
この称号から見るかぎり、大刀銘の中の「……大王」と書いたのは高句麗の王であるといえる。百済王は一律にただ「何王」とだけの表現をしている。
奉⑧⑨曹人名无⑩⑪八月中用大⑫釜幷四尺⑬刀八十錬六十⑭三寸上好⑮刀
⑧は「為」の字よりか「尹」の字にちかい。⑨は「典」と見ると、「典」というのは『三国史記』の巻三八「職官」条に、宮中にある「役所」のことで、宮中で使ういろいろな必需品を生産するところである。例えば「壁典・氷庫典(氷を貯蔵するところ)・漆典(器物にぬるうるしを生産するところ)・皮典(皮製品をつかさどる役所)・靴典・麻履典」、その他、これに類する役所をみな「何典」と称している。
つぎに「无⑩⑪」の⑩は「理」の字、⑪は「彐」の字にちかい。いずれにせよ、「无□□」という人名であることはまちがいない。「无」の字は「無」の古字である。『三国史記』に出てくる人名に、高句麗の二代王、瑠璃王の三男の名前が「無恤」である。のちに即位して「大武神王」となる。このように「无」(無)の姓は高句麗にはあるが、百済、新羅にはない。
大⑫釜幷四尺⑬刀八十錬六十⑭三寸上好⑮刀
⑫は「鋳」にも「鐺」にもみえる。これは鉄の熔解に使う釜の種類をあらわしている。⑬は「廷」にちかい。「廷刀」は「宮廷用」の刀の意になる。⑭は「握」にちかい。
四尺廷刀 八十錬
六十握 三寸上好□刀
これでみると、「刀身四尺の宮廷刀が八十錬」、「三寸のごく上等短刀が六十握」となって、長刀・短刀の二種類をさし、長刀は八十振り(錬)、短刀は六十振り(握)というふうに、「錬・握」は刀の「振り数」をあらわしているようである。
服此刀者長寿 子孫⑯⑰ 得⑱恩也 不失其所統
⑯⑰は「注・洋」のどちらの字にもちかい。文意としては「洋」がとおる。⑱は「三・其」などと読んでいるようであるが、「巨」にもみえる。「巨」と読むと「大恩・鴻恩」となって文意はよくとおる。「三恩」という故事はなく、「其」とみれば、すぐ下に「其所統」とあって「其」が二重に出てきて、属文上、拙である。
作刀者名伊太⑲ 書者張安也
⑲は「加・於」に似ているがきめがたい。「伊太加・張安」が人名であるのは確かである。
この両人名について、古田武彦はこういっている。
〝明確な最初の二字「伊太」だけ見ても、日本人の人名の表記だ、という印象が強い。これに対して「造文者」「張安」の方は、中国風、あるいは朝鮮半島風の名称だ。だが、「倭種」とされている「韓智興・趙元宝」の例で見るように、九州王朝内にもこの種の人名は、重要な役割(遣唐使節団の長)で出現する。だから、「伊太□」、「張安」あわせて日本側(九州王朝側)の人名だ、という可能性を無視することは許されない。〟(『失われた九州王朝』・「二つの金石文」)。
「伊太□」を「日本人の人名の音表記だという印象が強い」といっているが、その印象が何によって印象づけられたかは知るよしもない。彼は「伊」のつく姓は日本人専用の名字だと思っているらしいが、これは新羅や高句麗(百済には見当らない)では、広く用いられている事実を考慮に入れるべきである。
新羅 ―― 伊買(伐休王の二男)・伊柒(味鄒王時代の貴族)・伊利(実聖王の母)
高句麗 ―― 伊夷謨(故国原王の諱)・伊連(故国譲王の諱)
伊太□が日本人であると断定できる根拠は何ひとつない。伊太□だけをみたばあい、新羅人か高句麗人である可能性がむしろ多い。つぎに銘全文の文意をまとめてみると、つぎのような意味にとれると思う。
〝□□□□□□□大王の時代に、大王の命をたてまつる刀剣をつかさどる役所の担当者、无□□が、八月中に大きな熔鉱釜を使って、長さ四尺の廷刀八十振り(錬)と、長さ三寸のごく上等の[短]刀六十振り(握)をつくりあげた。これらの大刀を佩くものは長寿し、その子孫もあとあとまで栄えていって、この刀の大恩をこうむるであろうし、自分の職責も全うするであろう。刀を直接つくった人は伊太□であり、この銘を書いたものは張安である。〟
以上でみてきたように、百済や日本で製造したと断定できる論拠は、文意からはさがしだせない。しかし固有名詞を中心にしてみたばあい、高句麗製であるという可能性は多分にあるといえるのである。
菊池川流域に高句麗の移民
(p. 163)
二、三世紀ごろ、北九州には倭の諸国があり、これらを統率する卑弥呼の女王国、邪馬台国の東南部には狗奴国があった。この国の都の所在地を筆者は熊本県の玉名市に比定するとともに、狗奴国を建てたのは、北九州の倭人とは成分のちがう高句麗族であったとみるのである。
新天地に付けた故郷の地名
(pp. 164-165)
高句麗移住民は、九州での活動にあたって、その活動を円滑に運営する必要上、地名をはじめ固有名詞を、自分らの本国での固有名詞の特色を加味したものをつけて使い、それらの一部分は文献にのこされたり、またある一部分は今日までも口碑で伝わってきている。
…………
地名のばあいは、今日の日本の行政区画単位をあらわす都・道・府・県・市・町・村のような普通名詞を、古代の各国も使用していた。それに地名の由来は、その地域の地形的特徴とか、あるいはそこの住民が崇敬するある神聖な対象をつけるばあいが多い。とくに前者の地形的特徴をそのまま地名にする例の中には、広い地域にわたって共通する系統的地名も多いのである。例えば朝鮮の地名には「トム」(둠・tum)系地名というのがある。「トム」の語は、「円・四囲」をあらわす語であって、ある地域が盆地をなし、しかも一方が川か海をひかえているところによくつけられる。「トム」のつく地名は朝鮮全域にわたってみられるものである。日本の地名の中にもこれがあって、「出雲[いづも]・和泉[いずみ]」などはやはり同じ系統の地名であり、また、地名に「玉[たま]」のつくのもこの系統のものが多い。
肥(火)の国は肥[コマ]の国である
(pp. 166-167)
⑴ 国名 ――「肥」の国の語義
熊本県の沿革を説明してある文献には、どの文献も一様に、「古くは火の国といい、九世紀ごろには火の国・阿国・葦北[あしきた]国・天草国に分れた」とか、肥後の由来については「古くは火の国と呼ばれていたのが、大化改新(六四六年)によって肥前と分けて一国となった」という説明が書かれてある。これによると、もっとも古い呼称が「火」の国で、のちに「肥」後とか「肥」前に書きかえられたという解釈である。
しかしつぎの記録は、右の説明とは逆な見方である。すなわち、金沢庄三郎の『日鮮同祖論』の中のつぎの一文にそれを述べている。
〝万葉集の旧訓に、肥人をコマヒトと訓み来っている。…… 契沖の『代匠記』に、「肥人をコマヒトと点ぜるは高麗人の意歟[か]。肥をコマと訓める意いまだ知らず、」とある。〟
これでみると、『万葉集』では「肥人」を「コマヒト」と訓んだことがわかる。それに「肥」を「コマ」と訓むわけは上の両学者は知っていないらしい。いったい「肥」という字の訓を「コユ」と読む例は『万葉集』の中に見えている。
戯奴[わけ]がため わが手もすまに 春の野に 抜ける茅花[つばな]そ 食[め]して肥[こ]えませ(万葉集八・一四六〇)
(お前さんのために一所懸命手を働かせて春の野で抜いたツバナです。召しあがっておふとりなさいませ)。
「肥」を「コマ」とよむわけを説明しよう。上の歌のように「肥」の日本語は「コユ」である。朝鮮語の「肥」の訓、動詞では「コル」(거르・kə-lï)であり、名詞は「コウム」(거음・kə-ïm)である。両国語とも「肥」の語の語根は /k/ 子音をもっている。しかも両国語は対応する。……
(p. 168)
両国語ともに「肥」の名詞形は「コム・コマ」となって一致するのである。「肥」が「コマ」と読めるわけが言語学的に証明されたわけであるが、もう一つ問題となるのは、「火」の訓を万葉仮名では「肥」の字を使い(記中)、Fï 音をあらわしていることである。これは何を物語るかといえば、古代において「熊本」を「肥の国」と書き、「コマノクニ」と訓んでいた。それがのちになって、「肥」を訓で「コマ」と訓むのを忘れてしまって、「肥=火」でもあるから、「肥」を「ヒ」と音で読みながら、「肥」を「火」の字に書きかえたのである。したがって、上の「熊本県」の沿革の説明文の中で、「古くは『火の国』であった」というのはまちがいであって、「古くは肥[コマ]の国であったのが、のちに火の国と呼ぶようになった」と訂正しなければならない。「熊本」は「火の国」ではなく、文字どおり「熊[コマ]国の本」なのである。
クマソの正体は何者か
(p. 176)
⑵ 族名 ―― 熊襲と解慕漱、狗古・火の君・日置
a 熊襲と解慕漱 古代史の多くの謎の中で、今なお不明のままになっている問題の一つに「クマソ」がある。その成分や性格などについては何ひとつ解明されていない。記紀の中に見えるクマソ関係記事は、多分に伝承的な説話であって、史的要素は皆無である。ではいったいクマソというのは何であろうか。実は、このクマソこそほかならぬ九州中西部へ移住してきて定着していた高句麗族なのである。したがって狗奴国を建て、長年にわたって女王卑弥呼と不和、対立、相戦った張本人である。つぎにクマソの語義や、それを族名にしたわけを説明しよう。
クマソとは最高神の名
(pp. 179-180)
クマソは、高句麗、夫余、沃沮などの北方諸族が、彼らの信仰上の最高の神の名号、「解慕漱[カモソ]」ᄀᆡᆷ소[갬소]・kʌjm-so←kʌ-mï-so)と同意語の異写である。九州の中西部一帯に勢力をもっていた高句麗族の集団は、自分らの居住地を「肥[コマ]の国」と呼び、自分たちの集団(種族)を「クマソ・カムソ」と自称していたのである。では、つぎにこの「解慕漱」の語義と、この「解慕漱」が熊襲と一致するわけを述べることにする。
朝鮮側の史書、『三国史記』(高句麗本紀・始祖東明聖王)と『三国遺事』(「北夫余・高句麗」)にはいずれも高句麗の建国神話がのっており、それによると、天帝の子(「北夫余」条には「天帝」となっている)である解慕漱(一名、天王郎)が河伯の女と結婚して朱蒙をうんだとある。一方、『三国遺事』や『帝王韻記』、『世宗実録』(地理志条)に引用されている『古記』の記録には、檀君神話がのっている。それによると、天帝の子である桓雄が太伯山のうえにあった神壇樹に降りてきて、熊女と結婚し、檀君をうんだというのである。この両神話は同じ構造と内容のものである。
(p. 182)
梁柱東博士は、「解慕漱」を「カム・ス」(ᄀᆞᆷ[감]・수、kʌm-su)の音借字であると解し、「カム」は「神」、「ス」は「雄」とみている。つまり「男神」のことで、「神雄」(桓雄)と書いたのは「カム・ス」の朝鮮語を漢文で訳した表記だという。
解慕=熊、漱=襲となる。
(あるいは、曾=tsö、漱=tso であって、甲・乙類の相違を問題視するかも知れないが、上古の表記はのちの奈良朝の万葉仮名表記のように厳格でもなく、例外も多い。これは上古時代の人々の発音の不安定にもよるし、また漢音ですべての外国人の発音を正確に全部を表記できなかった事情にもよるのである。)
豪族名も高句麗系を証明する
(pp. 184-186)
b 狗古・火の君・日置 菊池川流域から八代平野にかけて、勢力をもっていたいく人かの豪族の名が伝わっており、それらもみな高句麗系である。その中から後世まで影響力をおよぼした豪族名についてみることにする。
狗古氏 狗奴国における行政上の最高責任者であった狗古智卑狗の狗古は、高句麗の貴族の称号である「古離加」と同じであることはすでに前に説明したとおりであるが、この「狗古」があとになって「菊」また「古閑」という字におきかえられて、地名、人名に使われている。「菊」の字のつく例は、「菊池川・菊池郡・鞠智[くくち]城」などの水名や名称があり、古閑は地名として玉名郡の菊水町に多い。大字の中の用水・蜻浦・内田・久井原・竈門一帯に集中している。古閑を名のる姓もある。菊・古閑の地名はみな狗古氏の後孫の居住地である。
火の君 この豪族は、「城南町付近に発生し、四世紀に宇土地方に本拠をおき、五世紀末には八代平野に移っていた」(松本雅明編『熊本の装飾古墳』)ようである。火の君系の古墳として知られているのは大野窟古墳(八代郡竜北村大字大野芝原所在)であるが、封土墳の構造形式は典型的な高句麗の二室墓制を備えており、九州最大の規模のものである。「火[ひ]の君」は、前の 「肥の国条で述べたとおり、「肥[コマ]の君」と読むべきである。「肥[コマ]の国」があとで火(肥)の国」 と読み方が変ったように、「火の君」もすでに説明したとおり四世紀ごろからすでに存在していたのが事実であるならば、当然「肥[コマ]の君」と呼ばねばならない。この正しい呼び名が、何時の時代から誤読され、そのまま今日におよび、あげくのはては、根拠のない「火の君」という「火」にこだわる異説まで派生する始末になったのは心外である。地下の「肥[コマ]の名」はさぞ失笑しているにちがいない。「火(肥)の君」の葬地が「芝原[セバル]」であるのも、船山古墳の清原[セバル]と同名で、これは「肥の君」の身分が船山古墳被葬者の身分と同格であったことを示唆している。宇土を根拠地にしていたことは、この地点が高句麗へ向けて大船団が出航したり入航したりした地点と思われ、したがって「肥(火)の君」は輸送のことをつかさどる最高責任者であったろう。
日置氏 菊池川流域に大勢力を持っていた豪族の一人に日置[ヘキ]氏がいた。そして日置氏の職分は製鉄の専門技師であったらしいことを、*井上辰雄教授は述べている。井上によると、菊池川流域は古代から砂鉄の産地であり、緒方勉氏によって発掘された菊水町の諏訪原遺跡から、弥生時代に原始的な製鉄が行なわれていたことが証明されているし、玉名市に接する伊倉の地には鍛冶と関係の深い宇佐社が進出するのは、この地の砂鉄に着目したからだと述べている。
* 日置はヒオキ→ヒキ→ヘキとその名を変えて呼ばれるが、その中心勢力は玉名の立願寺あたりにあったらしい。ここには延喜式の神名帳に記されている疋野[ひきの]神社が祀られているが、疋野は「日置野」乃至「日置の」の意味であろう。「玉名郡人、外少初位下、日置卸(郡)公、権擬少領」と記した火葬骨蔵壺の墓誌銅板が発見されており、菊鹿町にも「疋田[ひきた]」という地名が残されている。さらに菊池川の中流域の山鹿市付近にも「日置[へき]」という地名もあり、菊池川全流域は日置氏の領域下にあったのである(「菊池川流域の古代祭祀遺跡」・『東アジアの古代文化』第五号)。
(p. 187)
「日」の朝鮮語の訓は「へ」(ᄒᆡ[해]、hʌj)である。「ヘキ」は「日官」の意をあらわし、天文、気象などのことをつかさどり、上で言及した製鉄の専門技術師でもあったようである。
〔金思燁/著『トンカラ・リンと狗奴国の謎』昭和52年07月20日 六興出版/発行〕
The End of Takechan
○ 日置氏の謎は、あらためて考えるとして、江田船山古墳出土の太刀の「大王」名のほうは、昭和 53 年 (1978) に、稲荷山古墳出土の鉄剣銘の解読で「雄略天皇」仮説が登場し、どうやら、ひとまずは落ち着いたようです。
佐伯有清 [さえき・ありきよ]
6 稲荷山鉄剣銘文の発見
このように江田船山古墳出土大刀銘の研究が混沌としている状況の中で、あらたに埼玉県行田市稲荷山古墳の鉄剣銘文が発見されたのであった。それは金象嵌された百十五文字からなる銘文であり、江田船山の大刀銘の解読に資するところ大なるものがあると判断された。いまここに私見をまじえて判読した銘文を掲げるとつぎのごとくである。
辛亥年七月中記乎[犭隻[獲]]居直上祖名意冨比垝其児多加利足尼其児名[丂―[弖]]已加利[犭隻]居其児名多加[爿皮[狓]]次[犭隻]居其児名多沙鬼[犭隻]居其児名半[丂―]比其児名加差[爿皮]余其児名乎[犭隻]居直世々為杖刀人首奉事来至今[犭隻]加多支[占九[卤]]大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根[原]也
この新銘文を読み下し文にしてみると、
辛亥の年七月中、記す。乎獲居直[をのわけのあたひ]の上祖[かみつおや]の名は、意冨比垝[おほひこ]、其の児は多加利足尼[たかりのすくね]、其の児の名は弖已加利獲居[てよかりのわけ]、其の児の名は多加狓次獲居[たかひしのわけ]、其の児の名は多沙鬼獲居[たさきのわけ]、其の児の名は半弖比[はてひ]、其の児の名は加差狓余[かさひよ]、其の児の名は乎獲居直[おのわけのあたひ]。世々、杖刀人の首[おびと]と為[な]り、事[つか]へ奉[まつ]り来りて、今に至る。獲加多支卤大王[わかたけるのおほきみ]の寺[つかさ]斯鬼宮[しきのみや]に在[あ]る時、吾[われ]天下を治むることを左[たす]け、此の百練の利刀を作ら令[し]めて、吾事[つか]へ奉[まつ]る根[原]を記す也。
江田船山古墳出土の大刀銘との関連で、新銘文の記載の、注目されるところを指摘すれば、すでに言及されているように、それは「獲加多支卤大王」の部分である。
「獲加多支卤大王」は「ワカタケルノオホキミ」であって、最初に新銘文を判読した岸俊男・田中稔・狩野久の諸氏によって、雄略天皇の諱、『古事記』の大長谷若建命の「若建」、『日本書紀』の大泊瀬幼武天皇の「幼武」に比定されたように雄略天皇とみなしてよいであろう。
この「獲加多支卤大王」の字づらをみて、誰しも、それが江田船山古墳出土の大刀銘の「獲□□□卥大王」と酷似していることを否定しない。新銘文の出現によって、「獲□□□卥大王」を誰に比定するかで昏迷をふかめていた問題は、いっきよに解決をみたといってよい。それを「獲[加多支]鹵大王」と解して、雄略天皇に比定して間違いあるまい。
これまで「蝮宮弥都歯大王」、すなわち反正天皇に比定するのが有力であり、その大刀の製作が五世紀の前半ごろとされていた。ところが、新銘文の出現によって、獲[加多支]鹵大王」ならば、その製作を五世紀の後半の時期にさげなくてはならなくなった。
江田船山古墳出土の大刀銘文と稲荷山古墳出土の鉄剣銘文とが、同じ時期の製作と考えてよいのは、「獲[加多支]鹵大王」と「獲加多支卤大王」が共通するばかりか、語句の表現に類似がみられることである。すなわち大刀銘の「治天下」と新銘文の「左治天下」、大刀銘の「奉事」と新銘文に二カ所にみえる「奉事」、前者の「八月中」と後者の「七月中」、大刀銘の「八十練六十捃三寸上好利刀」と、新銘文の「百練利刀」などの類似である。
新銘文の「杖刀人」の表現からすると、大刀銘の「典曹人」という役職名も理解がつきやすくなってくる。前者が「刀を持つ人」(武官)なら、後者は「曹(司)を典[つかさ]どる人」(文官)ということになろう。五世紀後半のヤマト国家の役職名をいいあらわすのに、「杖刀人」とか「典曹人」とか「人」の字がつかわれていることからして、『日本書紀』において「某人」という役職名が、とくに雄略天皇紀に集中的にあらわれているのに、あらためて注意をむけなおしてよい。すなわち、厨人[くりやひと](雄略紀二年十月六日条)、虞人[やまのつかさ](同紀二年十月六日、同四年八月二十日条)、宍人[ししひと]〈部〉(同二年十月六日条)、湯人[ゆえ](同三年四月条)、養鳥人[とりかひ](同十年九月条)、船人[ふなひと](同二十三年八月七日条)などである。「人」の表記は「部」のそれよりも古いものであったと考えられる。「人」制から「部」制へという発展も考えられそうである。
最後に江田船山古墳出土の大刀銘の私見による釈文と読み下し文を掲げて、今後の参考に資したい。
治天下獲[加多支]鹵大王世奉事典曹人名无[利]弖八月中用大錡釜幷四尺[辶手[逓]]刀八十練六十捃三寸上好利刀服此刀者長寿子孫注〻得三恩也不失其所統作刀者名伊太[於]書者張安也
天下を治[しろ]しめす獲[加多支]鹵大王の世に、事[つか]へ奉りし典曹人、名は无[利]弖[むりて]、八月中、大錡釜幷びに四尺の逓刀を用ひ、八十練六十捃三寸せし上好の利刀なり。此の刀を服せば、長寿にして子孫注々として三恩を得る也。其の統[す]ぶる所も失はず。刀を作りし者、名は伊太[於]、書く者は、張安也。
〔佐伯有清「江田船山古墳出土大刀の銘文」『東アジア世界における 日本古代史講座』 第 3 巻 昭和56年03月25日 學生社/発行 (pp. 268-270) 〕
大長谷若建命、坐長谷朝倉宮、治天下也。
大長谷若建の命、長谷の朝倉の宮に坐しまして、天の下治らしめしき。
(おほはつせわかたけのみこと、はつせのあさくらのみやにましまして、あめのしたしらしめしき。)天皇命有司、設壇於泊瀬朝倉、卽天皇位。遂定宮焉。
天皇、有司に命せて、壇を泊瀬の朝倉に設けて、卽天皇位す。遂に宮を定む。
(すめらみこと、つかさにみことおほせて、たかみくらをはつせのあさくらにまうけて、あまつひつぎしろしめす。つひにみやをさだむ。)○ かくして、記紀の記録に雄略天皇の宮は「長谷朝倉(泊瀬朝倉)」にあって、それは〝シキの宮〟とはなっていないのですけれど、それをたとえば〝ヤマトのシキのハツセのアサクラの宮〟のように理解することで、まったくもって矛盾はないというのが、主流派の論であるようです。
―― 蛇足ながら、稲荷山古墳の南方約 40 km に位置する、埼玉県志木市とも、関係がないようです。
高野政昭 [たかの・まさあき]
朝倉宮と斯鬼宮
朝倉宮 雄略天皇の和風諡号[わふうしごう]は大泊瀬幼武[おおはつせわかたける]天皇といいますが、最初の「おお」は立派とか素晴らしいといった美称です。「はつせ」は地名で、そのあたりに宮を定めたからといいます。「わかたけ」は若々しくて力強いといった意味あいでしょうか。
その宮の名が『日本書紀』では泊瀬朝倉宮、『古事記』では長谷朝倉宮と記されています。泊瀬は現在の奈良県桜井市初瀬町から、出雲・黒崎町あたりといわれています。近鉄の大阪線の電車で行きますと桜井のひとつ先に朝倉という駅がありますが、そこから次の長谷寺までの谷筋にあたります。
泊瀬という地名は、川の上流域を意味する地名といわれていまして、初瀬・長谷も同じです。長谷は、「飛鳥[とぶとり]の明日香」と同じ使い方で、「長谷の初瀬」という枕詞になっています。また、山に取り囲まれた谷間を意味する「隠国[こもりく]」も初瀬にかかる枕詞です。『万葉集』巻一三の雄略天皇の歌に「隠国の 泊瀬小国[はつせをくに]に よばひ為[せ]す …」とみえる泊瀬小国は現在の桜井から宇陀郡に至る渓谷の総称です。
斯鬼宮 一方、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣には、「辛亥年七月中記す …」で始まる銘文が、表裏合わせて一一五文字、金象嵌されて発見されました。そこには、雄略天皇を指す「獲加多支鹵の大王の寺、斯鬼の宮に在る時、…」と続いています。
ここに出てくる寺とは、朝廷とか役所の建物を意味します。そして、その寺の名はシキ宮と書いてあるわけです。では、朝倉宮とシキ宮との関係はどうなっているのでしょうか。
実はこの二つの宮の名は同じものを指しているとみられます。それは、鉄剣銘のシキ宮については、泊瀬朝倉宮の所在地が広義の磯城の地域に含まれていますので、当時は斯鬼宮と呼ばれていたと考えられるからです。
『古事記』の垂仁天皇の段に「名を曙立王[あけたつのおう]に賜いて、倭[やまと]は師木[しき]の登美[とみ]の豊朝倉[とよあさくら]の曙立王[あけたつのおう]と謂ひき」という記載があります。曙立王というのは開化天皇の曾孫にあたります。このことから、倭の中にシキがあり、さらにその中に登美があって、そこに朝倉と呼ばれるところがあることがわかります。つまり、朝倉を含めた地域がシキなので、泊瀬朝倉宮はより地域を限定した呼び方だといえるわけです。
〔高野政昭「斯鬼宮と朝倉宮」『倭王と古墳の謎』1994年11月05日 学生社/発行 (p. 87, pp. 89-90) 〕
◎ 肥の熊本から出土した太刀の銘を追っていて、またしてもクマだけでなく「こもる」に通じる「隠国[こもりく]」の語が、雄略天皇の記事に登場しました。
―― 内容をもう少し詳しくしたページを、以下のサイトで公開しています。
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/triangle.html