ファルネーゼのアトラス

《箸墓古墳の軸線》の方位


○ 昨年の夏のことですけれど、北條芳隆氏の『古墳の方位と太陽』から、「日知りの民 - 箸墓古墳:日輪の祭壇」のページに、次のように引用しました。


『古墳の方位と太陽』

「第 5 章 大和東南部古墳群」

箸墓古墳の軸線と弓月岳 409 m ピークは 0.1° (6′) の誤差をもち、西山古墳の軸線と高橋山 704 m ピークは 0.4° (24′) の誤差をもつ。これが資料の実態であるから、この誤差ゆえに私の主張する事実関係には厳密さが伴わないとの批判もありうることである。しかしこの程度の誤差は許容される範囲内だと私は判断するが、そのいっぽうで、纒向石塚古墳の場合には検討が必要である。その前方部は三輪山山頂を向くと判断できるか否かであるが、本古墳にたいする私の築造企画復元案では、3.2° の振れ幅をもって三輪山山頂方向に軸線を向けることになり、それを意味のある事実とみなすか単なる偶然とみなすべきかの判断は微妙である。

〔北條芳隆/著『古墳の方位と太陽』(p. 159) 〕


○ またそれ以前に、『理科年表』からのデータを引用しています。改めてそのデータをまとめておきましょう。


『理科年表』

「暦44 (44)」

各地の日出入方位 北緯 34°

夏至 + 29.3 (°)

立夏・立秋 + 20.5 (°)

春分・秋分 + 0.6 (°)

立春・立冬 - 19.2 (°)

冬至 - 28.0 (°)

〔『理科年表』第91冊(平成30年)より〕


○ いま一度『古墳の方位と太陽』から、最近の研究を参照して、次へのステップとしたいと思います。


『古墳の方位と太陽』

「第 3 章 弥生・古墳時代への導入」

1. 検討すべき課題

(p. 60)

とりわけ夏至や冬至の日の出と日の入りに向けて、人類は古今東西を問わず特別な感情を抱いたようで、その期日に合わせた祭祀が各地で同時多発的に開催されてきた。

なぜ夏至や冬至が知覚されやすいのかといえば、一日の日照時間が最長であるか最短であるかといった次元とは別に、それぞれ前後 5 日間程度は日の出も日の入りも、みかけ上は同じ場所から登り、同じ場所に沈むからである。日の出や日の入りの場所が日ごとに移動する現象はほぼ年間を通じて観測される。それが日常的な感覚である。ところがその移動が止まるわけだから、その到来は過去の人びとに強い印象を与えたはずである。いわば非日常的感覚を促す現象だとみてよい。


2. 日の出の方位角

(1) 作業の経緯

(p. 61)

では現在の年間の日の出方位と過去のそれとはどのような関係にあるのかを検討したい。地表上から観測されるみかけの太陽の軌道は、主に歳差現象によって約 26,000 年の周期で変動しており、現在の日の出や日の入り方位と過去のそれとは異なっている。さらに現在の黄道傾斜角は 23.4 度であるが、過去 9000 年間は着実な減少局面にある。それが日の出の方位にどの程度の影響を与えるのかが判明すれば、およその理解は可能になる。


(2) 過去と現在の日の出方位角の変遷

(p. 64)

上記の経緯のもと、吉井の手によって約半年間の検討作業がおこなわれた結果、完成されたものが表 3‑1〔引用注:表はこのあとで一部を引用〕である。経度については唐古・鍵遺跡の古相大型建物の中心付近(東経 135 度 50 分 00 秒)に固定した。緯度については北緯 23 度を南限とし、北緯 65 度を北限とした。南限は北回帰線付近での様相を知るために設定しており、北限はストーンヘンジ近辺(北緯 51.7 度)より高緯度地帯の様相を比較する目的で設定した。途中に割り振った北緯 32 度は九州南部に、34 度は近畿地方に、36 度は関東地方に、40 度は東北地方北部にそれぞれ対応させる意図をもたせている。

(p. 65)

計算結果から導かれる所見を説明すると、紀元前 3000 年の夏至の日の出方位角は北緯 23 度-北緯 57 度の間で 23.84° (50.56° - 26.73° ) の差をもつが、西暦 2016 年の夏至の日の出方位角は北緯 23 度-北緯 57 度の間で 22.86° (48.86° - 26.00° ) の差となり、過去 5016 年間に 0.97° の減少であることがわかる。

重要なのはここからだが、北緯 34 度地点でみた場合、夏至の日の出方位角は紀元前 3000 年から西暦 2016 年までの間に 0.83° (30.16° - 29.33° ) 減少したことがわかる。いっぽう北緯 57 度地点でみた場合、紀元前 3000 年から西暦 2016 年までの間には 1.70° (50.56° - 48.86° ) 減少となる。

ようするに高緯度地帯ほど、黄道傾斜角の減少による日の出方位角への影響は高くなり、低緯度地帯ほどその影響は低くなるわけであるが、北緯 34 度地点の場合には 5000 年間で 1° 未満の減少だと見込めることになる。また同様の計算を北緯 32 度地点でおこなえば 0.81° (29.38° - 28.57° ) の減少、北緯 36 度地点では 0.86° (31.02° - 30.16° ) の減少、北緯 40 度地点では 0.93° (33.05° - 32.12° ) の減少、北緯 46 度地点では 1.07° の減少 (37.08° - 36.01° ) となる。


(3) 学史にたいする若干の考察

(pp. 70-71)

カルナック神殿については、…… 夏至の日の出方位角は過去 5016 年間で 0.74° 前後の減少となる。

ちなみに太陽の視直径は夏至と冬至とでわずかに異なり冬至(近日点)の方が大きくなるが、平均は 0.53° といわれている。したがって日の出方位角が 0.53° 違う場合に、みかけ上の太陽はちょうど 1 個分のズレを生じることになる。カルナック神殿における過去 5000 年間の夏至の日の出方位の変化は、西側から見たとき太陽 2 個分の右方向へのズレに届かず 1.43 個分のズレということになろうか。数字に置き換えると判断は微妙であるが、実際の太陽は視直径の 3 倍程度の範囲に光彩を放つから、視覚上は顕著な差でないともいえる。さらに春分は 0.15° の差、秋分は 0.27° の差となり、視覚上はほとんど動いていない。したがって年間の日の出方位の様相と遺跡の軸線との関係について、相当な絞り込みは可能であった。

だからこれらの神殿遺跡やピラミッド遺跡において、二至二分の日の出や日の入り方位との深い結びつきが指摘され、それぞれの文化が育んだ暦や祭祀の季節性にかかわる問題が早くから指摘されてきた背景には、こうした地理的環境要因も絡んだからだと理解することが許されるのではあるまいか。

そして悩ましいのは日本考古学界の動向であることはいうまでもない。縄文時代については、たとえば秋田県大湯環状列石と太陽の運行とが結びつく事実について、比較的早くから指摘されてきた。近年では青森県三内丸山遺跡や石川県真脇遺跡などについても積極的な検討がおこなわれている。さきに紹介した『縄文ランドスケープ』などは、こうした学界動向を代表する著作だといえるだろう。


3. 天の北極と「北極星」

(1)「北辰」に星なし

(pp. 75-77)

真北の方位を見定めるとき、通常の感覚では夜空に輝く「北極星」の位置を見れば決まると考えるはずである。たしかに現在の北極星(小熊座の α 星)は天の北極に最も近い星であり、赤緯 89 度 15 分に位置している。しかし過去を問題にするとき、このような認識は実態とかけはなれてしまう。夜の星空もまた歳差現象のもと 26,000 年周期をもって変動中であり、地上から北の空をみつめても、不動の「北極星」など存在しなかったからである。

とはいえ天文学界では常識であっても、それが人文科学に定着するには時間がかかり、歴史学にも深刻な影響があることへの認識が広まるきっかけとなったのは、おそらく福島久雄(物理学・北海道大学)の著作ではないかと思われる。『孔子の見た星空』との表題どおり、福島は古代中国における星空の時代別変遷を再現し、孔子のいう北辰とは特定の星を指したものではなく、ましてや現在の「北極星」ではありえないことを具体的に論証した(福島 1997〔福島久雄 1997『孔子の見た星空 ― 古典詩文の星を読む ―』大修館書店〕)。

この著作は、ともすれば不動の北極星だと勘違いしている私たちの常識に大幅な修正を迫るものであった。〈ステラナビゲーター〉の存在を私が知ったのは、福島の著作において本ソフトをもちい再現された天体図が数多く掲載されていたことによる。

そのため本書でも福島の作業にならうこととし、〈ステラナビゲーター (10)〉を使用して歳差現象による極の変動を概観する。その状況を示したものが図 3?3〔引用注:図は省略〕である。図中の半円が歳差円である。半径約 23.4° の円を描いている。そのために、たとえば紀元前 200 年の北天には星がなく、別の星が最近似点に輝いていた。

(p. 77)

つまり弥生時代から古墳時代にかけて、天の北極には示準点となる「北極星」は不在だったのであり、空白の極を現在のこぐま座とおおぐま座がはさみつつ、その周囲をめぐる北天の情景だったことがわかる。歳差現象が夜空の情景に与えた作用の一端である。

なお古代中国では周代から天体の運行が観察された記録があり、諸王朝に仕えた天官のもとで、長い天文観測の蓄積があった。だから北辰信仰とよばれる思想の拠り所となった「北辰」とは、あくまでも天の北極を指すものであって、特定の星を意味する名称ではないことも周知されていた。それゆえのちの時代になっても「北辰に星なし」と指摘されたのである。

〔『古墳の方位と太陽』(pp. 60-77) 〕


○ 今回の引用文中〔『古墳の方位と太陽』(p. 65) 〕には、


重要なのはここからだが、北緯 34 度地点でみた場合、夏至の日の出方位角は紀元前 3000 年から西暦 2016 年までの間に 0.83° (30.16° - 29.33° ) 減少したことがわかる。


と書かれていて、その一覧表 (pp. 66-67) の「西暦 250 年」(p. 66) の箇所には、次の数値が記載されています。


表 3‑1 過去と現在の日の出方位(吉井理作成)

西暦 250 年 北緯 34 度

夏至 + 29.61694791

秋分 + 0.555183842

冬至 - 28.30393068

春分 + 0.257253002

〔『古墳の方位と太陽』(p. 66) 〕


◎ これらの数字を四捨五入して小数点以下第一位までを、現在の値と比較計算すれば、


夏至 29.6 - 29.3 = 0.3

冬至 28.3 - 28.0 = 0.3


となって〝夏至〟と〝冬至〟で、いずれも、0.3° の差が見られます。

―― これに、70 ページの記述、


ちなみに太陽の視直径は夏至と冬至とでわずかに異なり冬至(近日点)の方が大きくなるが、平均は 0.53° といわれている。


を合わせて考えると、箸墓古墳築造時と現在とで、おおよそ、太陽の見た目半分程度のズレが生じている、ということになります。

先に再引用した記述では、専門家の見地から 1° 未満の誤差を許容範囲とするかどうかが論じられていましたけれど、しかしながら現代のカレンダーと比較するという範囲であれば、農作業のカレンダーは、太陽半分程度のズレであれば大きく異ならない、ともいえましょう。


◈ 昨年「箸墓古墳:日輪の祭壇」のページにはまた《箸墓古墳の 中軸線 22.3 度》の意味合いについて、自身の見解としてこう書いていました。


ようするに、現代のカレンダーには五月中旬頃にその日が書き込めるはずだ、というわけだ。

では、五月の中旬に、そのあたりで何があるかというとこれもインターネット上の情報で、奈良県のホームページなどでも、「田植えの始まる時期」だということが、確認できるのである。

そういう次第で、おおまかな話としてだけれども、〝箸墓は五穀豊穣の祭祀に用いられていたのではないか〟という課題が、机上の推論の結果、提案できることとなる。


◉ この内容に対する、大きな変更点は、いまのところなさそうに思われます。


「箸墓古墳:日輪の祭壇」のページ:バックアップページ

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hijiri/hashihaka.html

アリストテレスとヒッパルコス


◎ ここで、もうひとつ注目すべきこととして、上の引用文中には、次のように述べられていました。


『古墳の方位と太陽』

「第 3 章 弥生・古墳時代への導入」

3.1 「北辰」に星なし

真北の方位を見定めるとき、通常の感覚では夜空に輝く「北極星」の位置を見れば決まると考えるはずである。たしかに現在の北極星(小熊座の α 星)は天の北極に最も近い星であり、赤緯 89 度 15 分に位置している。しかし過去を問題にするとき、このような認識は実態とかけはなれてしまう。夜の星空もまた歳差現象のもと 26,000 年周期をもって変動中であり、地上から北の空をみつめても、不動の「北極星」など存在しなかったからである。

とはいえ天文学界では常識であっても、それが人文科学に定着するには時間がかかり、歴史学にも深刻な影響があることへの認識が広まるきっかけとなったのは、おそらく福島久雄(物理学・北海道大学)の著作ではないかと思われる。『孔子の見た星空』との表題どおり、福島は古代中国における星空の時代別変遷を再現し、孔子のいう北辰とは特定の星を指したものではなく、ましてや現在の「北極星」ではありえないことを具体的に論証した(福島 1997〔福島久雄 1997『孔子の見た星空 ― 古典詩文の星を読む ―』大修館書店〕)。

〔北條芳隆/著『古墳の方位と太陽』(pp. 75-76) 〕


◈ 時代は紀元前 2 世紀のことです。紀元前 125 年頃まで生きていたとされる、ギリシャの天文学者ヒッパルコスは歳差現象の発見者として名を残しました。

いっぽう、中国では東晋の虞喜(ぐき)が、紀元後の 4 世紀にあたる西暦 330 年代に歳差現象を独自に発見したといわれており、こちらは中国古典の記録によるはずなのですけれど、どういう事情が介在したのか、これらの情報が日本の文学者に伝達されたのは、20 世紀も終ろうとする 1997 年に発行された福島久雄著『孔子の見た星空 ― 古典詩文の星を読む ―』によってだった、ということらしいのです。


◯ 虞喜に関しての情報は、中村士著『古代の星空を読み解く ― キトラ古墳天文図とアジアの星図 ―』の 47 ページにある脚注に簡潔にまとめられています。また、『古代の星空を読み解く』の第Ⅱ部 「第 5 章 『アルマゲスト』の解析とトレミー疑惑」には、エラトステネスとヒッパルコスの業績が紹介されています。――〝トレミー (Claudius Ptolemaeus, または Ptolemy, 西暦 90 頃‐168 頃?)〟というのは、「プトレマイオス朝(紀元前 304‐紀元前 30 年)」との混同を避けるために著者の中村士氏が採用した表記で、人物としての〝プトレマイオス〟のことと 118 ページの脚注で説明されています。


『古代の星空を読み解く』

中国では東晋の虞喜[ぐき]が、西暦 330 年代に「歳差」を初めて発見したとされる。虞喜の場合、おなじ時節、たとえば夏至の日の日暮れに南中する星が古代の記録に比べてずれていることに気づき、黄道上の冬至点や春分点が西にゆっくり移動する、つまり歳差現象を発見した。虞喜は歳差による黄経の変化率を 50 年に 1 度(中国度)としたが、この値は真の値よりは少し大きすぎた(杜石然ほか編著、川原秀城ほか訳、『中国科学技術史(上)』、第 5 章、1997)。


5.1 古代ギリシアの初期の天文学と宇宙観

アレキサンドリア

ギリシア人が球形と考えた地球の大きさを、科学的に初めて測定したのは地理学者で天文学者だったエラトステネス (Eratosthenes of Cyrene, 紀元前 276‐紀元前 195 頃) である。彼はムセイオンの館長だったため、その所蔵パピルス文書によって、アレキサンドリアの南方、アスワン地方のシエネでは、夏至の正午に深い井戸の底を太陽が照らすこと、つまり、太陽が真上にくることを知った。エラトステネスは、この事実とアレキサンドリアにおける太陽高度の観測とを組み合わせ、両地点が地球の中心で張る角度は地球全周 360 度の 50 分の 1 と求めた。そして、アレキサンドリアとシエネの距離と組み合わせ、地球の全周長を約 3 万 9,000 km と算定した。この数値は真の値 4 万 km からわずか 3% しか違っていなかった。


5.2 ヒッパルコスとトレミー

ヒッパルコスの天文学的業績

ヒッパルコス (Hipparchus, 紀元前 190‐紀元前 125 頃) は古代ギリシアの最大の天文学者と称えられる。彼は思弁的な天文学者とは異なり、アレキサンドリア市の所領だったロードス島で 40 年間も精密な天体観測を行ない、それを基礎にして数多くの目覚ましい天文学的業績をあげた。ただし、それらの成果は、後にトレミーがその著書『アルマゲスト』の中で言及しているだけで、ヒッパルコス自身が書いた著作はほとんど残されていない。唯一知られているものは、『アラトスとユードクソスの天文現象についての註釈』と題した著作だけである。

〔中村士/著『古代の星空を読み解く』(p. 47, pp. 113-114, p. 115) 〕


◯ ヒッパルコス以前にも、古代ギリシャのアリストテレス(前384~前322)は、天が球体であることは必然であり、地もまた球体であると著書のなかで論じています。


『アリストテレス全集 5』

「天界について」第 2 巻 第 14 章

だがまた感覚のもとに捉えられる現象によっても〔大地が球形であることは知られる〕。すなわち〔もし大地が球形でなかったとしたら〕月の蝕がもつ切断線はそのようなものではなかっただろう。じっさい、朔望月における形状変化ではあらゆる分断の形をとるのに対し(確かに直線にも凸曲線にも凹曲線にもなる)、蝕の場合には常に分断線は凸曲線であって、それゆえいやしくも月蝕は大地が前にあって遮ることから起こるのだとすれば、大地の周囲が球状であることが蝕の形の原因であろう。

さらに星々の見かけの現象からは大地の輪郭が円形であるのみならず、大きさの点で巨大なものではないことも明らかである。われわれが南もしくは北に少し場所を移すと地平線は顕著に異なるものとなって頭上の星々は大きく変化する、すなわちわれわれが北もしくは南に移動すると同じ星々は見えなくなる。幾つかの星々はエジプトやキュプロス島周辺では見られるが、北方の国々では見られず、星々のうち北方の国々では終始すがたを現わしているものがかの地方では沈んでしまうのである。したがってそれらの事象からは大地の形が円形であるのみならず、その球が巨大なものではないことも明らかである。もし巨大であったとしたら、そんなにも短い距離を移動することでそんなにも速やかに顕著な変化をもたらしはしなかっただろう。

それゆえヘラクレスの柱周辺の場所はインド周辺の場所と繋がっており、そのようにして海は一つであると想定する人々はまったく信じがたいことを考えているとも思われない。彼らが象をも推定の手掛かりとして言うのは、最遠の地であるそれらの場所の周辺にはともに象の種族がいて、それはそれら最遠の場所が互いに繋がっていることによってそのような共通性をもつからだということである。

数学者たちのうち大地の周囲の大きさを算出しようと試みた人々もそれは四〇万スタディオンに及ぶと言っている。

以上のことから推定すれば、大地の塊体は球形であるのみならず、他の星々の大きさと比較して大きいものではないのが必然である。

〔山田道夫・金山弥平/訳『アリストテレス全集 5』 (pp. 138-139) 〕

The End of Takechan

ファルネーゼのアトラス像


ナポリ国立考古学博物館に所蔵されている「ファルネーゼのアトラス像」の肩には、大きな天球儀が乗っかっています。


◯ この天球儀については、『新訳 ダンネマン 大自然科学史 1〈復刻版〉』の本文と訳注で、次のように説明されています。


『新訳 ダンネマン 大自然科学史 1〈復刻版〉』

天と地は球形であるという観念は、すでに古代において球儀の製作に導いた。まずはじめに天球儀があらわれた。それらの一つは「ファルネーゼの球儀」として、今日まで伝わっている。それはナポリの国立博物館に保存されている大理石の球で、「ファルネーゼのアトラス像」の肩にのっている(※五)。

(※五・三五六ページ) アレッサンドロ・ファルネーゼは法王パオロ三世。ミケランゼロが彼のために建てたファルネーゼ宮のコレクションがのちにナポリに移管された。

〔Friedrich Dannemann/著、安田徳太郎/訳・編『新訳 ダンネマン 大自然科学史 1〈復刻版〉』(p. 356, 366) 〕


◯ この「ファルネーゼのアトラス像」の肩の天球儀がヒッパルコスのデータに基づくものであるらしいという『日経サイエンス』に掲載された記事が、『古代の星空を読み解く』の脚注 (p. 123) で紹介されていました。


『日経サイエンス』 02 2007 Vol.37 No.2

星座の起源

The Origin of the Greek Constellations

(SCIENTIFIC AMERICAN November 2006)

B. E. シェーファー (Bradley E. Schaefer)(ルイジアナ州立大学)

(翻訳協力:槇原凛)


「星の位置を変える歳差運動」

(p. 91)

MELISSA THOMAS

星座の位置

星座は長い時間をかけて天の経線(赤経線)と赤道に対する座標上の位置を変えているため、年代推定の指標として用いることができる。例えば「ファルネーゼのアトラス像」(次ページの囲み参照)は、肩に載せている天球儀のおひつじ座の位置を分析すると、紀元前 125 年ごろ最初の像が作られたとわかる。おひつじ座の角の先端が天の経線上にさしかかった年代だ。


「ファルネーゼのアトラス像」

(p. 92)

© MUSEO ARCHEOLOGICO NAZIONALE, NAPLES, ITALY / BRIDGEMAN ART LIBRARY (left);

GERRY PICUS, COURTESY OF GRIFFITH OBSERVATORY (right)

現存最古のギリシャの星座の天球図は、2 世紀に古代ローマで作られた「ファルネーゼのアトラス像」に見ることができる。美術史研究家によれば、古代ギリシャ時代の像をもとに複製したものだという。天球を肩に担ぐアトラス神の姿の彫像は大理石製で、現在はナポリにある。

天球儀の星座の位置を分析すれば、誤差 2° 以内で、つまり誤差 55 年以内で紀元前 125 年のものであることがわかる。このことは、元になったデータが星表のように系統的で正確なものだったことを示している。ヒッパルコスの星表は、当時のものとしては現存する唯一の存在だ。また、アトラス像の天球儀の星座と一致する文献はヒッパルコスの『注釈』だけだ。

もちろん、同時代のほかの天文学者によって星表が作成されていた可能性はあるが、現存しているという情報はない。ヒッパルコスの星表がアトラス像の天球儀のデータとなっていることはほぼ間違いない。

〔『日経サイエンス』2007 年 2 月号 (p. 91, p. 92) 〕


◉ 2000 年以上が経過して、ヒッパルコスのデータが視覚的に印象づけられる時代が新たに到来しているようです。


―― もう少し詳しい内容のページを、以下のサイトで公開しています。


日告げの宮 : 春分の星 ―― 歳差運動の発見 ――

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/Hipparchos.html