◯ 日置部について、まずは、日本書紀の記事を参照すると、刀剣に関わる内容となっています。
[原文] 一云、五十瓊敷皇子、居于茅渟菟砥河上。而喚鍛名河上、作大刀一千口。是時、楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部、幷十箇品部、賜五十瓊敷皇子。
(補注)
日置部
日置部も前後の例と併せ考えて神事に関係ある部かとも思われる。日置部の伴造である日置氏は、のち主殿寮の殿部となり、燈燭・炭燎の仕事にあたっていたことから推察すると、この部は剣など武器鍛造の際の炭燎に当っていたものか。その分布はほぼ全国にわたる。
[訓み下し文] 一に云はく、五十瓊敷皇子、茅渟の菟砥の河上に居します。鍛名は河上を喚して、大刀一千口を作らしむ。是の時に、楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部、幷せて十箇の品部もて、五十瓊敷皇子に賜ふ。
(ふりがな文) あるにいはく、いにしきのみこ、ちぬのうとのかはかみにまします。かぬちなはかはかみをめして、たちちぢをつくらしむ。このときに、たてぬひべ・しとりべ・かむゆげべ・かむやはぎべ・おほあなしべ・はつかしべ・たますりべ・かむおさかべ・ひおきべ・たちはきべ、あはせてとをのとものみやつこらもて、いにしきのみこにたまふ。
〔日本古典文学大系 67『日本書紀 上』(pp. 276-277, p. 593) 〕
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◯ 各地に分布する日置の民についての論説をまとめた文献・資料から、引用しておきましょう。
日置部
本居宣長『古事記伝』によれば、日置は「ヘキ」がもとの読み方で、のちに「ヒオキ」と読んだものという。
『日本書紀』垂仁紀三十九年冬十月の条に「是の時に楯部[たてぬいべ]、倭文部[しどりべ]、神弓削部[かむゆげべ]、神矢作部[かむやはぎべ]、大穴磯部[おおあなしべ]、泊橿部[はつかしべ]、玉作部[たまつくりべ]、神刑部[かむおさかべ]、日置部[ひおきべ]、大刀佩部[たちはきべ]、あわせて十箇の品部[とものみやつこ]らもて五十瓊敷皇子[いにしきのみこ]に賜う」とあるから、古い品部であることは確かである。
その起源については諸説あるが、坪井九馬三説では、「熊野川の下流には早くからクマ族が移住し、日置[ひき]川(一名安宅川)の落口には日置部が居り、安宅[あたき]が設けてあった。日置[ひおき]はチャム語で泣女[なきめ]のこと。遊部[あそびべ]と類似の職業で、葬式に必要なため、諸国にあったが、けがらわしいのでひどくきらわれた。安宅は官職で、ケガレを払い清める役をつとめたと思う」と『我が国民国語の曙』に説明されている(山中襄太氏『地名語源辞典』による)。
松岡静雄説では、それは「キ」族という民団の名らしいとし、「ヒキ」は引田、引津、引出山と同じく「低い」という意味の古語で『日本書紀』にも侏儒をヒキヒトと訓[よ]ます実例がある、と述べているという(鏡味完二氏『日本地名学』科学編による)。
鏡味氏はこれをうけて、「若しこのキ族ありとせば、彼らはアイヌの伝説の中にあらわれてくるコロポクルとされているネグリートの一部のものではなかったかと思う。それはその分布からみても海岸地方に多く、ただ近畿にはそうでないものがあるが、それはアヅミ族の場合と同じく、後の時代の内陸移住の結果とみられるであろう」と述べている。
日置部の伴造である日置氏は、のち主殿寮の殿部となり、燈燭、炭燎の仕事にあたっていた。
『日本書紀』垂仁紀に記載されていた他の品部の職掌から見て、日置はあるいは神事に使う剣など武器鍛造のさいの炭燎にあたっていたものかもしれない。
○『和名抄』の「日置」地名
薩摩国日置郡
〃 薩摩郡日置
肥後国玉名郡日置
長門国大津郡日置
周防国佐波郡日置
出雲国神門郡日置
因幡国気多郡日置
大和国葛上郡日置
但馬国気多郡日置
丹後国与謝郡日置
伊勢国壱志郡日置
尾張国海部郡日置
能登国珠洲郡日置
越後国蒲原郡日置
安房国長狭郡日置
○現存する「日置」地名
福井県大飯郡高浜町日置[ひき]
愛知県海部郡佐屋町日置[ひき]
和歌山県西牟婁郡日置[ひき]川町日置[ひき]
岐阜県岐阜市日置江[ひきえ]
大阪府堺市日置[ひき]荘
富山県中新川郡立山町日置[ひおき]
三重県一志郡一志町日置[ひおき]
京都府宮津市日置[ひおき]
〃 船井郡八木町日置[ひおき]
兵庫県城崎郡日高町日置[ひおき]
兵庫県多紀郡城東町日置[ひおき]
宮崎県児湯郡新富町日置[ひおき]
鹿児島県日置郡日吉町日置[ひおき]
〔本間信治/著『日本古代地名の謎』昭和50年07月15日 新人物往来社/発行 (pp. 60-63) 〕
『和名抄』薩摩国の郡名、肥後国玉名郡、長門国大津郡、周防国佐波郡、出雲国神門郡、因幡国気多郡、大和国葛上郡、伊勢国壱志郡、但馬国気多郡、丹後国与謝郡、尾張国海部郡などの郷名。今も各地に残る。
品部である日置部に由来する地名か。「日置」の古訓については、ヘキが古く、戸数を調べ置くの意で租の徴収と関係があるとする説、ヒオキで暦法・卜占と関係があるとする説、また浄火を常置し神事とつながりがあるとする説などがある。しかし、日置部に関する史料をみると、その職能は神事ないし宗教と密接な関係にあり、律令制下にあって中央の日置氏は浄火の管理にたずさわったことなどが知られる。そのため、日置部は審神や日読みなどの仕事からやがて日の神の霊をうける日継ぎの神事、その象徴としての火継ぎの行事にも関係し、本来の「日置」より「火置」へという混同が起こり、宮内省の日置のように浄火の管掌にたずさわるものも出てきたとする考えもある。ただし、ヘキ、ヒキの地名の中には自然地名に由来するものもあるか。
〔『古代地名語源辞典』昭和56年09月20日 東京堂出版/発行 (p. 261) 〕
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◯ しばしば引用される、論文を参照しておきましょう。
六世紀中・末期における中央祭官としての中臣氏の登場は、前述のような王権をとりまく国内外の状況を背景とするものであったが、それはひとり王権がひつぎのながれをうけつぐものであることを、改めて確認するために、宮廷祭祀の機構をととのえたり、ひつぎの系譜を完成していったのではない。そこには、磐井の乱に端的に描きだされるような、国造層の動向に対処するためでもあった。欽明・敏達朝の朝鮮出兵軍には、筑紫国造(「欽明天皇紀」十五年の条)・筑紫火君(「欽明天皇紀」十七年の条、『百済本記』)・倭国造(「欽明天皇紀」二十三年の条)・「国造」(「敏達天皇紀」十二年の条)などの軍が参加しているが、こうした畿内・西国を中心とする国造軍の編成を有効にするためにも、在地のイデオロギー的側面を、ひつぎとその主軸である神統へと集中化し、そして中央祭官体制をととのえることが不可欠となってくるのである。
そのことを傍証するのが、欽明・敏達朝にかかわる日祀部・日置部の設定と拡大である。日祀部の職能および分布などについては、最近示唆にとんだ考察があり(25)、その分析によって、つぎのような諸点が明らかにされている。⑴ 日祀(奉)部の分布は、京師周辺を除いては辺境の地帯に偏在していること、⑵ 他田の宮号を冠するものがあるが、「敏達天皇紀」六年の条にみえる日祀部の設置は事実を伝えたものと考えられること、⑶ 日祀部は宗教的性格を帯びた部であって、太陽信仰との関係が深く、日祀部の設定地に象徴される国土の隅々までも天皇の奉ずる太陽神の神威の下に臣服せしめるという、呪術的効果を期待されたものであるらしいこと、⑷ 祭祀担当官司の整備の下に、あらたに独立の財源=品部を設置することが必要となり、中央では中臣の下に日奉造・日奉舎人造らがあって、地方の日祀部からは、ヒノマツリに関する費用の貢納や日奉舎人の上番ないしその資養がおこなわれたことなどがそれである。
この指摘には、大日奉の「大」を多臣の一族と解したり、あるいは『延喜式』の「儺祭詞」を即自的に日祀部の分布と対比されるなど、その論証には若干の飛躍があるけれども、そのおよその結論には賛成すべき点が多い。このことは后妃の部民とされる私部の設定が、やはり「敏達天皇紀」六年の条にみえ、その記載がほぼ史実を伝えたものであることを考証された研究とならんで(26)、ますます敏達朝における部の編成強化の背景を具体的に推察することを可能にする。というのは、皇妃の経済的基礎としての私部の設定や、日の神のまつりとつながりをもち伊勢斎宮との関係を推定させる日祀部の設置は、前述の祭官体制整備にみる宮廷組織の確立過程と無関係のものではなかったと考えられるからである。
このことをより明確にするために、日置部についての論究をこころみることにする。日置の古訓がなんであったかについては、その語義ならびに日置部の職能とからんで、これまでにもいろいろと論議されているが、その中でも最も注目すべき代表的見解としては、つぎのようなものがある。⑴ ヘキというのが古く、それは戸数を調べ置くの意であり、租の徴収と関係があるとするもの(27)。⑵ ヒオキというのが古く、暦法あるいは卜占と関係があるとするもの(28)、したがってこの見解では日置部は、日置祀部の略ないし日祀部は日置部の一種と解釈される。⑶ ヘキよりもヒオキが古く、浄火を常置し、神事とつながりがあるとするものなどである(29)。
しかし第一・第二の説には、つぎのような点からいって疑問がある。まず戸置きと解する説は、それを証するに足る史実を認めがたいし、後述するように、日祀部と日置部の分布状況もかなりの点で異なっていて、日祀=日置ないしあるいは日置部が日祀部と同種のものであるとは単純にはいいえない。第三の説は注目すべきものであるが、仮名づかいのうえで、日置の日は甲類であり、その字義をすぐさま乙類の火に求めるのには難点がある。
しからば日置部の実態はいかなるものであったのか。これを可能な限りみきわめてみよう。まず日置部に関する史料としては、どのようなものが、最も注意すべきものであろうか。そのことから考えてみたい。日置部に関する史料にはつぎのようなものがある。
⑴ 石上神宮の創祀にまつわる「垂仁天皇紀」三十九年の註記にみえる一〇箇の品部、その中の日置部。
⑵ 神を審神する人を求めた時に、日置部の祖が卜にあって審神にたずさわったとする『尾張国風土記』逸文の記述。
⑶ 出雲国には日置部臣 ― 日置部首 ― 日置部の存在が『出雲国風土記』「出雲国計会帳」「出雲国大税賑給歴名帳」などによって知られるが、その職能は「政を為す所」と関係があり、日置伴部や日置志毘らは欽明朝に派遣されたものであるとする『出雲国風土記』の所伝。
⑷『三代実録』元慶六年十二月二十五日の条に主殿寮殿部の異姓入色に関して「先是、宮内省言、主殿寮申請、検職員令殿部卌人以日置、子部、車持、笠取、鴨五姓人為之」とある記載。
もとよりこれ以外にも、日置ないし日置部に関連のある記述または所伝は、「応神天皇記」の分註祖先系譜にみえる「幣岐君」、『万葉集』『続日本紀』「計帳」『新撰姓氏録』などに散見する日置造・日置首・日置、『和名抄』『延喜式』にみえる日置郷・日置神社など、さらに『延喜式』に記す「出雲の内外日置田」などがあげられる。けれどもその職能や性格を知るのに最も注目すべきものとしては、前記の事項が重要である。
これらの各事項から帰納される日置部の実態とはいかなるものであろうか。まず関心をひくのは、日置の古訓の多くは、ヒオキとされており、⑵ および ⑶ の所伝よりも指摘しうるように、その職能は神事ないし宗教と密接な関係にあり、⑴ および ⑷ の事項も、石上の神事や宮廷儀礼とかかわりの深いものであることである。日置部の性格には祭祀的機能が濃厚であるといってよい。次に ⑴ のいわゆる石上神宮創祀をめぐる一〇箇の品部の内容についてみると、それらは楯部・神弓削部・神矢作部・大刀佩部などのように神への貢納物としての武器製作や、玉作部・倭文部・泊橿部(泥部)・大穴磯部などというように、神事とつながりをもつ手工業関係のものが多い。これとならんで記述される日置部も、神事にかかわる職能をもっていたのではないかと推定される(30)。
⑷ の記載についてみると、殿部が本来日置ら五姓の負名氏によって形づくられていたことが知られるが、ここにいう五姓は、「職員令」(宮内省主殿寮条文)と対比すると明瞭なように、「供御輿輦」が車持の職能であり、「蓋笠・緻扇」が笠取、「帷帳・湯沐・殿庭の酒掃」が子部、「松柴・炭燎」が鴨であって、日置のたずさわったのは「燈燭」であったことが判明する(31)。そしてそれは、たんなる火の管掌でなく、律令官司制下にあっては、庭火などは鴨に、油火・蠟火が日置の管掌するところであった(『令義解』『令集解』)。
これらの史料にみえるところを整理すると、日置部は神事や祭祀と関係のある部であって、日祀部とは職能を異にするものであったこと、律令官司にあっては中央日置は浄火の管理にたずさわるものであったことなどが示されている。日祀=日置ではなく、日の神つまり太陽霊の輝きとかげりをみる日置であって、審神や日読みなどの仕事にたずさわる形態より、やがて日の神の霊をうける日継ぎの神事とのかかわりから、その象徴としての火継ぎの行事にも関係するようになり、やがて日置のなかには、本来の日置より火置へという混同がおこり、宮内省の日置のように浄火の管掌にたずさわるものがでてきたのではなかろうか。その点では、日嗣の象徴としての火継ぎ神事の伝習を長く保持した出雲国造の関係地域に日置集団が濃厚に分布し、かつ日置田などが特設されているのは興味深いものがある。そして『出雲国風土記』のいうところでは日置伴部や日置志毘の派遣が、中央祭官組織の整備の過程で、重要な画期となる欽明朝に求めていることも見逃せない。
註
(25) 岡田精司「日奉部と神祇官先行官司」(『歴史学研究』二七八)。
(26) 岸俊男「光明立后の史的意義」(『ヒストリア』二〇)。
(27) 栗田寛『栗里先生雑著』、太田亮『姓氏家系大辞典』。
(28) 折口信夫『全集』三・八、柳田国男「妹の力」(『全集」九所収)。松前健「日置部の一考察」(『神道宗教』三二)の論究によれば、日置部は帰化人系の団体であり、卜占暦法を主とするものであって、それが本来の姿であったと推定されている。折口・柳田説を継承した見解である。
(29) 中山太郎「日置部異考」(『日本民俗学』歴史篇)、前川明久「日置氏の研究」(『法政史学』一〇)。
(30) 前川明久「日置氏の研究」(『法政史学』一〇)。ただしこの伝承によってただちに、火の製作・管理の部としての性格が、本来的なものとすることはできないと考える。なお『釈日本紀』所引の『尾張国風土記』逸文にみえる日置部らの祖という建岡君の審神伝承も注目すべきものである。
(31) 井上光貞「カモ県主の研究」(『日本古代史論集』上)。
〔上田正昭/著『日本古代国家論究』昭和43年11月30日 塙書房/発行 (pp. 236-240) 〕
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◯ ここで前回に引き続き、水谷慶一氏の『知られざる古代』から、《日置》について参照したく思います。
さて、いよいよ、その「日置」の正体を明かすべき時がきたようだ。
まず、北緯三四度三二分の線上附近に、これまで、「日置」、またはそれに関係ありと推量される地名や神社の名がどれだけ見つかったかを整理してみよう。淡路島から東へ順に進むことにする。
蟇浦[ひきうら](兵庫県津名郡北淡町)
引野[ひきの] (同 東浦町)
辟田[ひきた]村(『住吉大社神代記』にのるも正確な所在地は不明)
日置荘[ひきしょう](大阪府堺市)
引野[ひきの]町(同)
羽曳野[はびきの](大阪府羽曳野市)
疋相[ひきそ] (奈良県北葛城郡広陵町)
疋田[ひきた] (同 新庄町)
秉田[ひきた]神社(奈良県桜井市)
戸木[へき] (三重県一志郡美杉村)
三疋田[さんひきた](三重県多気郡多気町)
四疋田[しひきた](同)
日置 (三重県久居市)
戸木[へき] (同)
今のところ一四を数えるが、古今の地名や神社の名をシラミつぶしに当たったわけではないから、今後まだまだ発見の可能性はあろうかと思う。読者の方々の応援を乞うしだいである。
さて、これだけ同一の緯度上にかなりの密度でならぶ「日置」であるが、これをどのような氏族とみるかは学者によって実にまちまちである。この方も、これまでの説をいちおう整理しておこう。
① 太陽神をまつり、暦法・卜占と関係のある集団とみる説。これについては第四章でかなり詳しく述べた。柳田国男や折口信夫によって代表される。
② 浄火を常置し、これを管理する集団とみる説。いわゆる「消えずの火」や「火継ぎの神事」にかかわったものとし、のちに宮廷で油火と蠟燭の供給を受け持ったとする。これは民俗学者の中山太郎らによって代表される。
③ 日置は「ヘキ」と読むのが正しく、もともと戸置の字を当てるべきで、これは租税を徴集するために戸数を調べ置く意味だという説。江戸時代の国学者、伴信友や太田亮によって代表される。
実は、最後の伴信友の説が、ぼくにはよく呑みこめなかった。太陽祭祀と租税の徴集がうまく結びつかなかったのである。なぜ、「日を追う女」が税務署の役人のような仕事をしなければならないのか。それは、柳田や折口の説になじんだ者としては、あまりにもかけ離れた解釈のように思えたのだ。
しかし、今、ようやくにして、そのことを理解する。「太陽の道」の存在を認め、その直線を地上に引いた古代の測量師が、ほかならぬ日置であるという仮説を立てれば、それはむしろ当然すぎるほどのことなのだ。いや、③ の説ばかりか、① の説とも ② の説とも矛盾はない。それらは太陽を観測し、火でもって測量の実効をあげ、地上に直線を引くという日置部の作業を想定しさえすれば、そのすべてに妥当するのである。
ここで、もう一度、『出雲国風土記』に書かれた日置の記述をふりかえってみよう。
日置[ひおき]の郷[さと]
郡家[こおりのみやけ]の正東[まひがし]四里なり。志紀嶋[しきしま]の宮[みや]にあめのしたしろしめしし天皇の御世、日置の伴部[ともべ]ら、遣[つかわ]され来て、宿停[とど]まりて、政[まつりごと]なせし所なり。故[かれ]、日置といふ。
読みかえすたびに、これほど日置の本質をズバリといいあらわしているものはないという感を、ますます強くする。まことに、折口信夫がいうごとくである。しかし、その解釈はちがう。
第四章で、ぼくは彼ら日置部が行なった「まつりごと」の具体相について語りたい気持を抑えてきた。今、ようやくにして、それを果たすことができる。「彼ら」のやった「まつりごと」の本質は何だったのか?
それは伴信友のいうごとく、租税を徴集することである。
そして、その目的のために、土地を測量し人民の戸数を調べた。
その作業の基礎として、まず「彼ら」は、太陽を観測し、地上に一筋の直線を引くことからはじめた。
ここで読者の理解をたすけるために、ぼくのある個人的な体験を語りたい。
一昨年の夏、ぼくは、哲学者、梅原猛氏らの島根県益田市沖の海底調査に参加した。それは、万葉歌人、柿本人麿の死の謎をめぐって、彼が死んだ鴨山が地震のために海底に沈んだという梅原氏の仮説をもとにして行なわれたものであった。ぼくは、その調査の記録をもとにして、ドキュメンタリー『人麿発掘』という番組をつくった。その海底発掘は考古学者の指導のもとに多数のダイバーを動員して実施されたのだが、それをはじめるにあたってまずやられたことは、海底に一本のロープをまっすぐに張ることであった。海底にも、もちろん山もあれば谷もある。その起伏の要所要所に、ロープを固定して、ともかくも平面図で直線になるようにロープを張ることは地上で考えるほど簡単ではなかった。しかし、それをやらなければ、もし海底のどこかで遺物が見つかっても、その位置を記録することすらできない。あるいは、発見場所へあとでもう一度、行きたいと思っても、そこへ行きつくことは困難である。
しかし、一本のロープが張ってあって、もし、それにおおざっぱな目盛りでも付いていれば、以上のことは容易に可能となる。調査地域の任意の点は、ロープとの関係ですべて位置が決められるからである。ぼくも水中眼鏡を借りて潜ってみたが、青い海の底に、白いロープがぼんやりと見え、ダイバーたちがそのロープの線にそって往き来していた。それは海底に設けられたメイン・ルートでもあった。
都から出雲の国へ派遣された日置の伴部らは、あの時のダイバーであったのだ。「彼ら」も地上に一本の直線を引くことからはじめた。何の為にか。その土地と人民を支配するために、である。
つまり、後世の「太閤検地[たいこうけんち]」と同じことを「彼ら」はやったのだ。秀吉が天下統一をとげて最初にやったのが、「刀狩り」と全国の土地のあらたな測量である。それは秀吉の天下支配の根幹をなすものであった。一六世紀の農民や在地勢力にとって、この「太閤検地」がどんなに怖ろしいものであったかは十分に想像できる。同様に、古代の出雲の人々も、この都からやって来た連中のやったことを恐怖の眼で見まもったのにちがいない。
突如、見知らぬ人間が来て、祖先以来の記憶のしみついた故郷の土地に一本の直線を引きはじめる。それは、子どもの時からなれ親しんできた山野をつらぬいて、どこまでもつづく。
日置の伴部らが、いかに出雲の人々に強烈な印象をあたえか、これまた十分に想像のできることである。それは、地名となって人々の頭に焼きついた。前記の『出雲国風土記』の日置郷の記述を、ぼくはそのように理解したい。
日置の地名が大和から見て辺境の地に多いことも、以上の推論の正しさを裏づけるものである。いま、『和名抄』によって、九世紀はじめの日本のどこに「日置」の地名があったかを調べてみると、
鹿児島県川内市
熊本県玉名郡
山口県大津郡
同 佐波郡
鳥取県気高郡
兵庫県多紀郡
同 城崎郡
京都府与謝郡
石川県珠洲市
新潟県東蒲原郡
同 中蒲原郡
同 南蒲原郡
愛知県海部郡
千葉県安房郡
などと、圧倒的に地方が多いのである。これらが大和政権の支配圏の拡大にともなって生まれた地名であることは、もはやいうまでもない。
これまでにもしばしば引用した筑波大学の井上辰雄教授のレポートからは熊本県玉名地方の日置について、いろいろと教えられた。氏は、この日置について次のように書く。
―― 古代にあって、日置氏は、福岡県八女郡に根拠地をもつ筑紫君と、宇土半島基部から八代市北部あたりに強大な勢力をふるった火君とにはさまれながら、ながく勢力圏を形成していた豪族であった。筑紫君、火君は当時、九州最強を誇った大豪族であったから、日置氏はその蚕食を防ぐのに、最大の努力をはらわなければならなかった。そのため、早くから筑紫君や火君と友好関係の保持に腐心していたようである。そのためか、筑紫君、日置氏、火君と連なる有明海沿岸の地域には、文化的にもかなり共通のものが見られた。それの顕著な例が装飾古墳であり石人石馬の遺跡である。
だが、この二つの大豪族に挾まれる菊池川流域の勢力は、その重圧からのがれるために、少くとも六世紀の初頭頃までには、朝廷と密接な統属関係を結んで、その身の保全をはからなければならなかったのである。彼らが「日置部[ひおきべ]」を称するのはその為である。(『東アジアの古代文化』第五号、九八ページより)
『出雲国風土記』の日置部を前述のように理解してきたぼくとしては、この玉名地方の日置部についても、むしろ、筑紫君と火君の弱体化をはかるために、大和政権が両者の中間に打ち込んだ楔[くさび]とみたほうがよさそうに思うのだが如何なものであろうか。
同じ意味から、七世紀に東北地方に遠征して蝦夷[えぞ]や肅慎[みしわせ]の討伐をしたことで有名な阿倍比羅夫[あべのひらふ]が引田臣[ひきたのおみ]という姓[かばね]をもっていることは注目される。おそらく、彼もかつての日置部につながる一族の出身であったのではないか。
つまり、日置とは大和政権のあらたな支配地へ最初にまず送りこまれる尖兵だったのだ。
伊勢湾に浮かぶ神島から淡路島まで延々二〇〇キロに及ぶ東西軸の設定を、しかも国土地理院の専門家たちを驚嘆させるほどの正確さで行なうことは、ただごとではない。それは、きわめて高度の技術を必要とするし、また権力の背景なくしては不可能である。
山があろうと海があろうと、それをものともせず、一本の直線がしゃにむに突っ走る。思えば、この直線のもつ機械性、画一性、非情さは権力にこそ似つかわしいものであった。
ぼくは今まで「太陽の道」をあまりにも文学的に受けとりすぎていた。柳田や折口からの影響でものを見すぎていた。つまり、そのぶんだけ現実から遊離していたのだ。この「太陽の道」をつくったのは、けっして神まつりをするだけの素朴な輩ではない。
むしろ、計数にあかるく大陸からの高度のテクニックを身につけたエリート集団ではなかったかと考える。いうなれば、彼らこそ古代のテクノクラートであった。
こうしてみると、いっぽうで彼らがもつ太陽祭祀の儀礼もいろんな意味合いを帯びてくる。それが、彼らの任務である太陽観測や方位測定と密接に結びついていることはいうまでもない。その意味で、彼らは「影の測量師」である。
しかし、同時に、彼ら及び彼らのひきつれたシャーマンの行なう新奇な儀礼が、支配する土地の住民への心理的な誇示の効果をも十分にあわせもったのではないかと、ぼくは想像する。『出雲国風土記』の民衆が、彼らの一団をどのようなまなざしでもって見守っていたか。
「まつりごと」とは、なるほどいい得て妙である。ぼくは古代の日置の伴部のなかに、権力の仕組んだ「祭政一致」の実相を見た。彼ら日置はまた、現代のテクノクラートにも似て、権力の表面にはけっして立つことのない「蔭[かげ]の測量師」でもあったのではないか。
〔水谷慶一/著『知られざる古代』昭和55年02月15日 日本放送出版協会/発行 (pp. 253-262) 〕
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◯ さて、熊本県玉名市に〈波比伎神〉を祀る、すなわち「ハヒキノカミノヤシロ」である疋野神社があります。ハヒキの神は、式内社調査報告書の記事に「現在の通說では波比伎は灰吹きの意で、製鐵の重要なたたら(ふいご)にちなんだ名稱ではないかとされる」と、推論されていて、そこでは「卽ちこの波比伎神は日置氏の重要な經濟基盤であつた製鐵の神といふことである」とも述べられています。
(坂本經昌)
【社名】 武田家本にある「疋野[ヒキノ]」が現在もなほ訓まれてゐる。しかし、問題とされるのは續日本後紀の承和七年(八四〇)八月二十七日の「以肥後國玉名郡疋石神預官社」とある中にみられる「疋石」と現在も地名として殘つてゐる「疋石野」の關係である。…… しかも、地名については、平安時代の末まで玉名地方で榮へた郡領家の日置[ヘキ]氏の領した田及び野、卽ち日置野[ヘキノ]が轉加して疋石野になつたとする說がある。
…………
【由緒】 この神社は日置[ヘキ]氏の氏神を祀つたものと考へられ、その盛衰は日置氏とともにあつたやうだ。この日置氏は大化前から玉名地方に下つてきて勢力を廣げ、郡司の地位までになつたとされる。…… また菊池川の上流には日置の地名も現存する。『宇佐大鏡』の伊倉別符についても「件別符は當郡々司日置則利先祖相傳之私領也」とあることで、日置氏勢力の一端を知ることができる。
菊池川下流域には、銀象嵌銘入り直刀や大陸からの輸入品など數多くの優秀な副葬品を出土した江田船山古墳をはじめ、有力な古墳や古墳群が分布し、肥後においてこの地方が重要な據點であつたことが判明する。このやうな重要な地域で日置氏が强大な力を有してゐた理由には、肥沃な土地と鐵生産といふしつかりした經濟基盤があつたことがあげられる。河口には元玉名から梅林にかけて條里制遺構が認められ古くから生産の高い水田が拓かれてゐたことが知れる。鐵については、これも菊池川の河床の砂鐵が利用されたらうとするが、この玉名市周邊(小代山を含む)に約二十ケ所の製鐵遺跡が確認されてゐる。ここで製作された鐵製品が大宰府へ運ばれ、日置氏-大宰府-中央政府といふルートができてゐたと考へられる。
以上のことが阿蘇を除いたら肥後においてここだけにただ一つの式内社が出現した理由ではないかとされてゐる。
…………
【所在地】 現在地は熊本縣玉名市立願寺四五七番地である。……
【祭神】 傳說では祭神は疋野長者となつてゐる。……
また波比伎神が主神ともされてゐる。この波比伎神については古事記にもみえるが、延喜式では宮中神三十六座の中の一座でもある。…… この波比伎神について本居宣長も『古事記傳』で波比入君[ハイイリギミ]で門より舍屋[ヤノ]內に入るまでを司る神とし、波比伎を灰木とするは非なりと說く。しかし、現在の通說では波比伎は灰吹きの意で、製鐵の重要なたたら(ふいご)にちなんだ名稱ではないかとされる。傳說の疋野長者の前身は山麓の炭燒きといふこともそれを想起させる。
卽ちこの波比伎神は日置氏の重要な經濟基盤であつた製鐵の神といふことである。
〔式內社硏究會/編纂『式内社調査報告 24 』昭和53年03月20日 皇學館大學出版部/發行 (pp. 191-194) 〕
◯ 船山古墳出土の太刀の銘 ――「作刀者」の箇所 ―― について、特異な視点から考察を加えた論も、紹介しておきたいと思います。
製鉄の神「イダテ」 地名考証は本来の目的でないが、製鉄の神がみの活動舞台を知るには、これを行なっておく必要がある。……
前に一言したように、イダテの神は、因達の里に住み、征韓渡海のとき航海の安全を守護したといい、『住吉大社神代記』にもイダテを「船玉神」と記し、その下に、「斎き祀るは、紀国の紀氏の神、志摩の神、静火[しづび]の神、伊達の神の本社なり」とあるが、初めから航海安全の神だったわけでなく、結論的にいえば、この神は韓国から渡来した製鉄・鍛刀の技術神であった。たまたま皇后の渡韓にあたり、故国朝鮮への水先案内をひき受けただけである。
船山古墳出土の直刀 後述に関係があるので、イダテに近似する名のある発掘刀に言及しておきたい。それは明治六年、肥後国玉名郡江田村で発見された船山古墳から多くの遺宝とともに鉄製の直刀が出土し、棟部に銀象銘がありその銘文で学界周知となった。また、五世紀の倭の五王の一人とされる瑞歯別(反正)大王が、古墳の被葬者に贈ったとよめる銘文から、いっそうの注目を浴び、いまも、しばしば引用されるところである。銘文は、訓めないところもあるが、一部に「四尺□刀八十練」とあって、鍛造刀であることがわかる。重要なのは「[作]刀者名伊太□書者張安也」の銘文である。「伊太□」も「張安」もその名から韓(漢)人と推定されるが、張安は、『新撰姓氏録』、右京諸蕃に「若江造、後漢霊帝苗裔、奈率張安力之後也」と見える「張安力」と関係あるのではなかろうか。栗田寛氏の考証によれば、「若江は和名抄、河内国若江鏡神社などある地名を負えりと見ゆ」とあって若江に住んだ一族であり、刀銘の「張安」も反正朝に河内のどこかに住んだと推定しても不自然ではなかろう。後述のように、彼は紀伊の鉄工集団の首領だったとも思われ、文才のある知識人だったであろう。明らかにしたいのは作刀者の「伊太□」である。何となく「伊太代[いだて]」に似た趣きがある。製鉄関係者で、これに近似する名を記載した文献を求めると、年代ははるかに降り、いまの場合直接の関係はないが参考にあげると、さいわいにも、『続紀』の養老六(七二二)年三月十日の条に、当時の製鉄関係者で、身分を引きあげられた者の名が記されていた。
以上の一二名のうち、「金作」は製鉄工、「鎧作」は文字通りである。四名の「鍛冶」にはいずれも「韓」を冠しているのは、「倭鍛冶」と区別したのである。そのほか、何を専業にしたかわからないのが五名おり、うち四名は「漢人」とあり、残り一名の近江の「乎太須」の名は、飽波の漢人伊太須に近似することから、これも漢人であろう。
漢人の製鉄工人 ところで漢人で「忍海」に住んだものについては、『書紀』に手がかりがある。神功紀五年の条に、襲津彦が新羅を破って、つれ帰った俘人[とりこ]らを、桑原・佐靡・高宮・忍海に配置したのが、四邑の漢人の始祖だと記していることである。神功紀の五年は四世紀の初め頃と思われるが、前に記したように、四六年紀には百済から「鉄鋌四十枚」を贈られたことがあり、鉄の需要の高かったときである。つれ帰った俘人の数は明記していないが、四邑にわけて配置したほどだから、そうとう多人数の鉄工関係者であったことが推察される。「忍海」の地名は、さきにあげたように、伊勢・近江・播磨のほか大和には忍海郡があり、その住人には渡来の技術者が多く、鉄工関係もその一つである。『肥前国風土記』には、来目皇子新羅征討のとき、忍海の漢人を筑紫に派遣して兵器をつくらせたことを記しているように、伊勢の忍海の漢人安得・近江の忍海部の乎太須および、播磨の忍海の漢人麻呂らも製鉄関係であったこと疑いない。
ところで、以上一二名のほかにも同様の工人があり「合わせて七十一戸」が、この日から「公戸」の扱いを受けることになったのである。彼らは、この八世紀に渡来したのではなく、少なくとも神功紀のころ俘人としてつれてこられたのもあり、その他古くから渡来した祖先から、歴代その業をうけ継いだようである。上記のうち、船山刀の「伊太□」に近いのは、近江の飽波に住む漢人「伊太須」である。だから伊太□は「伊太須」だというのではない。五世紀の船山刀から約三〇〇年たった養老年間になっても、類似の名があるのは、あんがい類似の名が歴代踏襲されたからだと思われる。そこで、こうした技術家が、しばしば神に祀られたのを思い出し、「伊太□」に似た名の社号をもつ神社を「神名帳」から抜き出すと、つぎのようである。
山城・愛宕郡伊多太[いただ]神社
尾張・春日部郡伊多波刀[いたはと]神社
伊豆・賀茂郡伊太氐[いだて]和気神社
出雲・意宇郡揖夜神社坐韓国伊太氐[いだて]神社佐久多神社坐韓国伊太氐神社
出雲・出雲郡阿須伎神社神韓国伊太氐神社
出雲神社韓国伊太氐神社
曽枳能夜神社韓国伊太氐神社
紀伊・名草郡伊太祁曽[いたけそ]神社
イダテとよむ神社 以上のほかにも、文字を異にして「イタテ」とよむ神社が、紀伊・丹波にあり、播磨では餝磨郡に「射楯兵主神社」、揖保郡に「中臣伊達[いだて]神社」があるが、ここでは、銘文の「伊太□」の三字に近似するのをあげた。以上を整理すると、
伊多太 一
伊多波刀 一
伊太氐 六
伊太祁曽 一
となる。「伊太」・「伊多」は、すべて「イタ」・「イダ」のいずれにもよむことができる。「伊太氐[イダテ]」が六社もあるのは、六社とも同一神を祀るからであるが、この神名が広く分布したからであり、また、したがって、これを「因達」・「伊達」などであらわした神社も同一系統といえる。ここでは、この点を指摘しておくだけにしてつぎにすすむ。六社と紀伊の一社の最初の二字は「伊太」である。これは船山刀の最初の二字と同じであることが注目される。問題は第三字目である。
梅原末治博士の船山古墳の調査報告書(65)には、古谷清・後藤守一・梅原末治三氏の銘文判読を記しているが、第三字目は未解決のままであった。その後、昭和九年一月、福山敏男氏が「伊太加?」と判読された(66)のが、判読の最初であり、この判読が一般に踏襲されている。写真版(67)を拡大して示した第 42 図の第三字目を見ると、この字はヘンとツクリから成る一漢字であるが、ツクリはまったく消えており、ヘンだけが「不[一+小]」の形に見える。これは福山氏が判読された「加」の字のヘンの「力」には、どうしても見えない、尓[一+小]または不に近い文字をヘンとする人名を、さきにあげた養老の人名に求めたが、近似も類似もなかった。そこで、つぎにあげた神社名を見ると、紀伊の「伊太祁曽」(伊太祚曽」)があった。この第三字目の「不」はおそらく「祁」または「祚」の第一画とツクリとが消えているのであろう。すなわち刀銘は「伊太祁(祚)」であったと思われる。
(65) 『玉名郡江田村船山古墳調査報告』(『熊本県史跡名勝天然記念物調査報告』一 一九二二年)
(66) 福山敏男「江田発掘大刀及び隅田八幡神社鏡の製作年代について ―― 日本最古の金石文 ――」『考古学雑誌』二四-一 一九三四年)
(67) 「肥後国江田発掘刀身」(『帝室博物館図録』九-八二)
〔山本博/著『古代の製鉄』昭和50年09月25日 學生社/発行 (pp. 117-122) 〕
◎ 船山古墳出土の太刀の銘については、1993 年に、新しい研究成果が発表されています。
〔「第 42 図」の右側の写真の図(文字)は「図版 5 銀象嵌銘大刀 文字(修理後)」より〝伊太□〟の〝□〟の部分〕
〔図版資料: 平成 3 年 (1991) 度に東京国立博物館が実施した熊本県江田船山古墳出土の国宝銀象嵌銘大刀の修理報告書〕
国宝銀象嵌銘大刀の修理報告書
古谷毅(本村豪章・望月幹夫・東野治之との共同観察に基づく)
銘文
(p. 56) 〔 ※ 下の図は「第 14 図 銘文実測図」(p. 61) からのものを含みます。〕
70 刀身左右縁部が剝落し、棟部も剝落が著しい。字画の中心はほぼ軸線上にある。偏部は中心部が大きく剝離し、各画の接合は不明である。第 1 画は象嵌が脱落する。第 3 画は下半部が明確に屈曲する。中央部やや下方の右下がりの斜画は旁部の一部とすると、象嵌が脱落する右方の斜画とみられる鏨痕と組み合うものと思われる。鏨痕の底はいずれも V 字形を呈す。
東野治之
(p. 62)
台〔治〕天下[犭隻]□□□鹵大王世、奉事典曹人名无□〔利ヵ〕弖、八月中、用大鐵釜、并四尺廷刀、八十練、□〔九ヵ〕十振、三寸上好□〔刊ヵ〕刀、服此刀者、長壽、子孫洋々、得□恩也、不失其所統、作刀者名伊太□〔和ヵ〕、書者張安也
(p. 66)
70 □〔和ヵ〕 これまで「加」「於」などの説があった。しかし偏は禾偏とみるのが妥当であろう。旁はタガネ跡と象嵌から「△」のような形が復原できそうである。全体として「私」のような字が考えられるが、「私」と「和」は漢簡では全く通じて用いられており字形では区別できない。人名の音仮名としては「和」の可能性がある。
(p. 67)
獲□□□鹵大王世 この大王名が、埼玉県稲荷山古墳鉄剣銘に現れる獲加多支鹵大王であろうことは、上記の検討の結果、ほぼ確言できる。損傷が大きいものの、第 6 字目のあたりには、その目でみれば「多」の残画の「タ」の一部かとみられそうな凹部も存在する。ただこの大刀銘には年紀を示す語がなく、これが獲加多支鹵大王(雄略天皇)代のものと簡単に断ずることはできない。とくに問題なのは「大王世」という表現である。同様な語は船王後墓誌をはじめ、古代の墓誌類などに多くみえるが、いずれも過去の君主の治世をさして用いられている。「世」「代」の相違はあるが、『万葉集』の題詞においても、そうである。常識的にも、こうした表現は過ぎ去った時代をさして使われるとみるのが穏当であろう。この大刀銘の作られた時点では、大王はすでに没していたとみる方がよい。もし上述のように、「得□恩也」が「得王恩也」と読めるならば、「王恩」は王のめぐみで、この「王」が現に統治している王となろう。
〔東京国立博物館/編『江田船山古墳出土 国宝 銀象嵌銘大刀』平成05年08月01日 吉川弘文館/発行〕
[原文] 上所謂建豐波豆羅和氣王者、〔道守臣、忍海部造、御名部造、稻羽忍海部、丹波之竹野別、依網之阿毘古等之祖也。〕
(頭注)
道守臣 …
道守臣(チモリノオミ)は未詳。忍海(オシヌミ)は大和国忍海郡。御名部造(ミナベノミヤツコ)は未詳。稲羽(イナバ)は因幡国。依網(ヨサミ)は河内国丹比郡依羅(ヨサミ)か。阿毘古(アビコ)はカバネであろう。
[訓み下し文] 上に謂へる建豐波豆羅和氣の王は、〔道守臣、忍海部造、御名部造、稻羽の忍海部、丹波の竹野別、依網の阿毘古等の祖なり。〕
(ふりがな文) かみにいへるたけとよはづらわけのみこは、〔ちもりのおみ、おしぬみべのみやつこ、みなべのみやつこ、いなばのおしぬみべ、たにはのたけのわけ、よさみのあびこらのおやなり。〕
〔日本古典文学大系 1『古事記 祝詞』(pp. 176-177) 〕
○ ここで、日本書紀・風土記の「忍海」と「来目皇子」に関連する記事を参照します。
[原文] 襲津彥使人令看病者。卽知欺、而捉新羅使者三人、納檻中、以火焚而殺。乃詣新羅、次于蹈鞴津、拔草羅城還之。是時俘人等、今桑原・佐糜・高宮・忍海、凡四邑漢人等之始祖也。
(補注)
忍海邑の漢人
忍海邑にあたる地名には和名抄に大和国忍海郡がある。忍海という氏は少なくないが、帰化系のものには諸種の世襲的技術者が多い。朝廷の品部・雑戸には、革作りの品部として忍海戸狛人五戸があり(職員令集解、大蔵省条古記所引の別記)、続紀、養老三年十一月条の雑戸忍海手人広道があり、同六年三月条の金作、韓鍛冶ら七十一戸の雑戸のうちに忍海漢人安得(伊勢)・麻呂(播磨)・忍海部乎太須(近江)などがある。また肥前風土記、三根郡漢部郷には来目皇子の新羅征討のとき忍海漢人を筑紫にやって兵器を造らせたといい、天平十一年備中国大税負死亡人帳には忍海漢部真麻呂他二名がみえる。なお続紀、大宝元年八月条に大和国忍海郡人三田首五瀬を対馬に遣わして黄金を冶成させているのも見逃せない。
[訓み下し文] 襲津彥、人を使して病する者を看しむ。卽ち欺かれたることを知りて、新羅の使者三人を捉へて、檻中に納めて、火を以て焚き殺しつ。乃ち新羅に詣りて、蹈鞴津に次りて、草羅城を拔きて還る。是の時の俘人等は、今の桑原・佐糜・高宮・忍海、凡て四の邑の漢人等が始祖なり。
(ふりがな文) そつびこ、ひとをつかはしてやまひするものをみしむ。すなはちあざむかれたることをしりて、しらきのつかひみたりをとらへて、うなやにこめて、ひをもてやきころしつ。すなはちしらきにいたりて、たたらのつにやどりて、さわらのさしをぬきてかへる。このときのとりこらは、いまのくははら・さび・たかみや・おしぬみ、すべてよつのむらのあやひとらがはじめのおやなり。
〔日本古典文学大系 67『日本書紀 上』(pp. 350-351, p. 617) 〕
[原文] 其二曰來目皇子。
(頭注)
來目皇子
上宮記・帝説・用明記に久米王。推古十年撃新羅将軍となり、翌年筑紫に薨ず。姓氏録に登美真人の祖という。
[訓み下し文] 其の二を來目皇子と曰す。
(ふりがな文) そのふたりをくめのみことまうす。
[原文] 十年春二月己酉朔、來目皇子爲撃新羅將軍。授諸神部及國造伴造等、幷軍衆二萬五千人。◯ 夏四月戊申朔、將軍來目皇子、到于筑紫。乃進屯嶋郡、而聚船舶運軍粮。◯ 六月丁未朔己酉、大伴連囓・坂本臣糠手、共至自百濟。是時、來目皇子、臥病以不果征討。
(頭注)
來目皇子
用明天皇の皇子。聖徳太子の同母弟。
[訓み下し文] 十年の春二月の己酉の朔に、來目皇子をもて新羅を撃つ將軍とす。諸の神部及び國造・伴造等、幷て軍衆二萬五千人を授く。
夏四月の戊申の朔に、將軍來目皇子、筑紫に到ります。乃ち進みて嶋郡に屯みて、船舶を聚めて軍の粮を運ぶ。
六月の丁未の朔己酉に、大伴連囓・坂本臣糠手、共に百濟より至る。是の時に、來目皇子、病に臥して征討つことを果さず。
(ふりがな文) じうねんのはるきさらぎのつちのとのとりのついたちのひに、くめのみこをもてしらきをうついくさのきみとす。もろもろのかむとものをおよびくにのみやつこ・とものみやつこら、あはせていくさふたよろづあまりいつちたりのひとをさづく。
なつうづきのつちのえさるのついたちのひに、いくさのきみくめのみこ、つくしにいたります。すなはちすすみてしまのこほにいはみて、つむをあつめていくさのかてをはこぶ。
みなづきのひのとのひつじのついたちつちのとのとりのひに、おほとものむらじくひ・さかもとのおみあらて、ともにくだらよりまういたる。このときに、くめのみこ、やまひにふしてうつことをはたさず。
〔日本古典文学大系 68『日本書紀 下』(p. 155, pp. 178-179) 〕
[原文] 物部鄕 〔在郡南〕
此鄕之中 有神社 名曰物部經津主之神 曩者 小墾田宮御宇豐御食炊屋姬天皇 令來目皇子爲將軍 遣征伐新羅 于時 皇子奉勅 到於筑紫 乃遣物部若宮部 立社此村 鎭祭其神 因曰物部鄕
漢部鄕 〔在郡北〕
昔者 來目皇子 爲征伐新羅 勒忍海漢人 將來居此村 令造兵器 因曰漢部鄕
(頭注)
物部鄕
北茂安村板部附近の地であろう。
郡
三根郡家。遺蹟地は明らかでないが、北方の通道沿い(或は切山駅と同所)にあったか。
神社
板部の物部神社としている。
物部經津主之神
物部氏の奉祭したフツヌシ神の意。タケミカツチ神の別名、またはそれと並ぶ武神とせられた神(記紀)。
小墾田 … 天皇
推古天皇。
來目皇子
用明天皇の皇子。推古紀十年の条に皇子を将軍として新羅を討たしめられたとある。
物部若宮部
物部氏に属して神祭に従事した部民。
漢部鄕
中原村原古賀の綾部が遺称地。
忍海漢人
新羅国の捕虜として大和国の忍海(奈良県南葛城郡)に居住させられた帰化漢人の子孫(神功紀五年の記事に見える)。
勒
勅の通用字で、命ずる意。
將來
つれて来て。新羅討伐に従軍させて。
令造兵器
帰化人の子孫で兵器を作る技術をもっていたのである。
[訓み下し文] 物部の鄕 〔郡の南にあり。〕 此の鄕の中に神の社あり。名を物部の經津主の神といふ。曩者、小墾田の宮に御宇しめしし豐御食炊屋姬の天皇、來目の皇子を將軍と爲して、新羅を征伐たしめたまひき。時に、皇子、勅を奉りて、筑紫に到り、乃ち、物部の若宮部をして、社を此の村に立てて、其の神を鎭ひ祭らしめたまひき。因りて物部の鄕といふ。
漢部の鄕 〔郡の北にあり。〕 昔者、來目の皇子、新羅を征伐たむとして、忍海の漢人に勒せて、將て來て、此の村に居ゑて、兵器を造らしめたまひき。因りて漢部の鄕といふ。
(ふりがな文) もののべのさと 〔こほりのみなみにあり。〕 このさとのうちにかみのやしろあり。なをもののべのふつぬしのかみといふ。むかし、をはりだのみやにあめのしたしろしめししとよみけかしきやひめのすめらみこと、くめのみこをいくさのきみとなして、しらぎをうたしめたまひき。ときに、みこ、みことのりをうけたまはりて、つくしにいたり、すなはち、もののべのわかみやべをして、やしろをこのむらにたてて、そのかみをいはひまつらしめたまひき。よりてもののべのさとといふ。
あやべのさと 〔こほりのきたにあり。〕 むかし、くめのみこ、しらぎをうたむとして、おしぬみのあやひとにおほせて、ゐてきて、このむらにすゑて、つはものをつくらしめたまひき。よりてあやべのさとといふ。
〔日本古典文学大系 2『風土記』(pp. 386-387) 〕
The End of Takechan
◎ 上田正昭氏の論に紹介されていた、「『釈日本紀』所引の『尾張国風土記』逸文にみえる日置部らの祖という建岡君の審神伝承」と、少しばかり関連しそうな説話が出雲国風土記にあります。
◯ 尾張国風土記逸文には、〝タクの国の神〟である《アマノミカツヒメ(阿麻乃弥加都比女)》が登場しますが、いっぽう出雲国風土記の「楯縫郡 神名樋山」の条には、「阿遅須枳高日子命之后(アヂスキタカヒコノミコトのきさき)」である《アメノミカヂヒメノミコト(天御梶日女命)》が〝タクの村でタギツヒコノミコトを産んだ〟という古老の伝が、記されているのです。出雲国風土記「秋鹿郡 伊農郷」の条には、同じ神と思われる《アメノミカツヒメノミコト(天𤭖津日女命)》が登場しています。
◯ また、同じ尾張国風土記逸文では、記紀にも記録されている〝ホムツワケノミコがものを言わない状態〟が描かれていますけれども、出雲国風土記には、同様に〝アヂスキタカヒコノミコトがものを言わない状態〟が、「仁多郡 三沢郷」の条で詳しく記述されているのです。
出雲国風土記に登場する《アヂスキタカヒコノミコト》の別伝は、出雲国風土記「神門郡 日置郷」の条につづく「神門郡 塩谷郷」の条などにあって、さらに「意宇郡 賀茂神戸」には次の伝承もあります。
所造天下大神命之御子 阿遅須枳高日子命 坐葛城賀茂社 此神之神戸 故云鴨
天の下造らしし大神の命の御子、阿遅須枳高日子命、葛城の賀茂の社に坐す。此の神の神戸なり。故、鴨といふ。
(あめのしたつくらししおほかみのみことのみこ、あぢすきたかひこのみこと、かづらきのかものやしろにいます。このかみのかむべなり。かれ、かもといふ。)―― この記録は今回参照した〝「松柴・炭燎」が鴨〟であったり、あるいは〝日置氏が燈燭・炭燎の仕事にあたっていた〟ことなどと、関連するのでしょうか。
◎ そして《ヒノキミ》の関連事項として。―― 肥前国風土記の冒頭には、崇神天皇の時代に〝肥後の国の益城の郡の朝来名の峰〟に土蜘蛛がいたので、朝廷は〝肥君らの祖〟である《タケヲクミ(健緒組)》を派遣したことが記録されています。この名称が《タケヲカノキミ(建岡君)》に少し似ていてちょいとばかり気になるのです。
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