古代の《暦》

―― こよみ ――

太陽と月と暦


◯ 福島久雄氏の『孔子の見た星空』の後半部分には、太陽と暦の考察が典拠を示しつつ語られています。


『孔子の見た星空』

九 太陽

天行は健なり

地球を取り巻く全ての天体で、われわれの生活にもっとも強く影響を及ぼしているのは、いうまでもなく大空に君臨する太陽であろう。『論語』陽貨篇に、


天 何をか言わんや。四時[しいじ]行われ、百物生ず、天 何をか言わんや。


とある。太陽は休むことなく大空を運行し、その巨大なエネルギーは地上に降り注いで万物に生命を与え、黄道上の運行によって一年を規定し、二分二至(春分・秋分・冬至・夏至)の点を通過し、季節の推移を示す。また『周易』に、


天行は健なり、君子以て自ら強[つと]めて息[や]まず〔乾卦・象伝〕


とあるのも、太陽をもって代表される天体の運行はその根本において「健」であるというのであろう。(ここでは「天」を太陽と解釈したが、一般的には「天」は天命あるいは宇宙をいう)。

太陽の運行については、毎日の日の出没の時刻や位置が異なることは昔からわかっていたが、時計の精度が高くなってくると、南中時刻が季節により複雑に変化することが明らかになった。君子も、緩急があるのである。そうなると、太陽の運行で正確に時間を測ることはできない。そこで、精度の高い時計との組み合わせで平均太陽時という平均化した太陽の運行を想定して時間を決めていたが、そのうち、地球の自転が少しずつ遅れていることがわかってきた。一〇〇年ではわずか約一八秒であるが、二〇〇〇年では二時間と、時間の二乗に比例して遅くなっている。つまり、既往の一日は短く、未来の一日は長いということになる。このように、地球の自転に基礎をおいた時系は一様でないことが、精密な観測からわかってきた(1)。そこで、現代は、原子の振動を利用した原子時計が用いられるようになった。中国でも、太陽の運行の不等時性(日行盈縮[じっこうえいしゅく])は、北斉(五五〇~五七七)の張子信らによっても知られていた(2)。


日の伝説

天に二日無く 土に二王無し


これは、『礼記』曽子問に見える孔子の言葉である。だが「堯の世に十ヶの太陽が並び出で、草木が焦[や]け枯れた」と『淮南子』はいう。そこで弓の名手羿[げい]に命じて太陽を射させたところ、九羽の烏が皆な死んで堕ちた。また、「日 暘谷[ようこく]に出で咸地に浴し、扶桑[ふそう]に拂[よぎ]る。是[これ]を晨明と謂[い]う。扶桑に登りて、爰[ここ]に始めて将[まさ]に行かんとす …」と日の運行をいう。この東の「扶桑」に対して西には「若木」があることもいう。〔墜形訓〕

また、日には三本足の烏が住み〔『史記』亀策列伝〕、六匹の螭[みづち]が引く車を羲和[ぎか]が御して日が運行することもいう。〔『太平御覧』所引の『淮南子』天文訓〕。

これらのことは、多く詩に詠われている。

わが国では、太陽の神はいうまでもなく、「大日孁貴[おおひるめむち]」天照大神[あまてらすおおみかみ](日本書紀神代)であり、三足烏ではなく八咫烏[やたがらす]が神武帝の道案内をする。だが、これらのことは歌にはあまり現れない。


[注]

1 山崎昭・久保良雄『暦の科学』(講談社ブルーバックス p.149)

2 藪内清『隋唐暦法史の研究』(三省堂)


十 暦法と時法

太陽暦と太陰暦

われわれの住む地球では、高緯度地方は別として、毎日太陽の出没があり、月の盈虚[えいきょ]があり、四季の交替がある。これらの現象をもとにして、時刻の経過を知り、これを将来に延長して、来るべき変化に備えようとする要求が〈暦〉を生み出した。時間を刻む単位として年(太陽の運動)、月(月の盈虚)、日(地球の回転)が当然利用された。一日を最小の単位として、週・月・年など大きな単位に区切ることを〈暦法〉といい、一日を分割して時刻を決めることを〈時法〉という。

暦法では、「一年」を重視するのか「一ヶ月」を優先するのかによって、その暦の体系が異なる。まず、〈太陽暦〉〈太陰暦〉という二つの暦を見てみよう。

太陽暦は、太陽の運行を基準とする。月の満ち欠けは最初から無視しているが、それでも一ヶ月の長さが、三〇日前後であるから、月とは全く無関係ではなさそうだ。太陽暦はエジプトに始まったといわれる。夏の明け方に、太陽に先んじて初めて輝くシリウス(おおいぬ座 α )を毎年観測して、ナイルの氾濫を知ったというのは有名な話である。エジプトでは、紀元前二三八年には、四年一置閏法が出されたという。やがて、ローマが地中海を制覇することになり、ユリウス・カエサルにより、このエジプトの暦法が取り入れられ新しい暦が作られる(紀元前四六年)。以来これを〈ユリウス暦〉というが、この時は三一と三〇の大小の月が交互で、小の二月が一日少ないだけ(閏年は四年に一回三〇日)であった。カエサルの養子オクタヴィアヌスはローマ初代の皇帝となり、ユリウス暦の誤用を改めたが、その時、元老院から奉られた自分の称号アウグストゥス(尊厳なる人)を八月の呼び名とし、さらに二月から一日引いて八月を大の月とした。以来、この暦は一六〇〇年近く通用する。

ユリウス暦は、四年一置閏法であるから、一年の長さは三六五日と四分の一、つまり、三六五・二五日である。したがって正確には三六五・二四二二二 … 日の一年に約〇・〇〇七八日大きくなる。つまり、一二八年で一日分早くなることになる。この違いは累積するため、三月二十一日の春分の日が、十六世紀になると、三月十一日になってしまった。ローマ法王グレゴリオ十三世が、このずれた春分の日を一五八二年に調整して、春分の日を三月二十一日にもどし、また置閏法を変更し、四年一回の閏年を四〇〇年に三回やめることにした。これならば、三〇〇〇年に一日の余りが出る精度である。これが、いま通用しているグレゴリオ暦で、当初この暦は旧教世界でのみ通用していたが、新教国にも十八世紀には広まった。わが国では、明治六年(一八七三)から(正確には明治三三年)同暦が採用され、中国では辛亥革命(一九一二年)からである。

いっぽう太陰暦は、月の運行の方を重視し、太陽の動きとは無関係である。一朔望月(一六一ページ参照)は平均二九・五三日であるから、一ヶ月を三〇日と二九日の交互に並べると一ヶ月の平均は二九・五日となるが、それでも〇・〇三日足りない。そのため三三ヶ月に一日の調整日を小の月の十二月に加える(正確には三〇年に一一回の調整日)。この暦法は簡単であるが、非常に精度が高く、二千数百年に一日のずれで、複雑なグレゴリオ暦の精度に匹敵する。

しかし、太陽暦とくらべると、一年で十一日短いため、三年で一ヶ月の季節のずれが生ずる。したがって太陰暦のイスラム暦で行うラマザーン(第九月)の行は、真冬の時もあれば、真夏の時もあることになる。また、このイスラム暦で歳を数えると、三三年で一歳多く年をとることになる。

〔福島久雄/著『孔子の見た星空』(pp. 189-190, pp. 199-200, pp. 201-203) 〕

The End of Takechan


◯ 上の引用文中でも参照されていた、『暦の科学』(p. 149) には、地球の自転が 100 年に約 18 秒遅くなるという計算式が書かれているのですが、暦の歴史についてもまた述べられています。そちらも参照しておきましょう。


『暦の科学』

「第 2 章 一日、一月、一年の話」

2 太陽日と恒星日

太陽日、恒星日 地球上の任意の子午線(経度の線)が、太陽に対して同じ方向を向く周期が一日であるが、恒星に対するものと区別して、正確には「太陽日[たいようじつ]」という。恒星に対する一日は「恒星日[こうせいじつ]」という。恒星日の長さは、太陽日の長さより約四分短い。

本当の地球の自転周期を示すのは、恒星日のほうである。太陽日は、恒星の中を動いている太陽を地球の自転が追っかける周期であるから、真の自転周期とはいえない。この関係をたとえてみると、うさぎとかめが陸上競技のトラックで競争していて、うさぎが一周してきてスタートラインに戻るまでが一恒星日、その間に、少しは前に進んだかめに追いつくまでが、一太陽日といったところである。


5 月の満ち欠けを見る

新月(朔) 月が太陽と同じ方向にあるとき、正確には両者の黄経が等しいときは、「新月」または「朔[さく]」で、この前後、月は見えない。太陽に近くて見づらいせいもあるが、月は本当に光っていないのである。また、この前後は、当然のことながら、月出、月没、および正中の時刻は太陽のそれらとほぼ同じである。

それから、二、三日すると、月は太陽の東にだんだん離れて、夕方、太陽の沈んだあとの西の空に見えるようになる。いわゆる三日月[みかづき]というのは、朔から三日目ごろに見える細い月である。


上弦 このころの月は天空に高くかかっているとき、右側が光っている。夕方遅く西の空に沈むときには、弦[つる]を上にした弓のようであるというので、上弦[じょうげん]の月という。天文学的には「上弦」とは、右半分の光った半月の状態、正確には、月の黄経が太陽のそれより九〇度大きいときをいう。月出、正中、月没は次第に遅くなり、上弦では、すべて太陽より六時間ぐらい遅れる。したがって、上弦では正午ごろ昇り、太陽が沈むころに正中し、真夜中ごろ沈む。


満月(望) 月はさらに太ってきて、朔から一五日目ぐらいには全面が輝き、「満月」となる。「望[ぼう]」ともいう。満月は、正確には、太陽と月の黄経の差が一八〇度になった瞬間をいう。満月のころ、月は夕方昇り、真夜中ごろ正中し、明け方沈む。全面が光っているうえに、夜どおし空に出ているということになる。満月が古代人にとって、いっそう有難かったわけである。

下弦 満月から七日目ぐらいに再び半月になる。ただし、今度は左半分が光っている。「下弦[かげん]」の月である。これを下弦というのは、朝方、西の空に入り残っている半月が、弦を下にした弓のように、上半分が光っているからである。下弦の正確な定義は、月の黄経が太陽のそれより九〇度小さくなる瞬間である。

月は次第に太陽に近づいていき、夜明け前に昇って、明け方、少しの間だけ見えている状態になり、やがて再び、太陽といっしょになる。

朔から朔までの長さは約二九日半である。月出、正中、月没は毎日少しずつ遅くなるが、二九日半かかって二四時間の遅れとなり、元に戻る。したがって、計算するとわかるように、遅くなり方は、一日平均約四九分である。


6 朔望の周期と月の公転周期との関係

朔望月 月の黄経と太陽の黄経が等しくなってから、次にまた等しくなるまで、つまり、朔から朔までは「朔望月[さくぼうげつ]」という。

朔望月の周期は前節にものべたが、約二九・五日、正確には二九・五三〇五八九日である。この数字は、こよみにとって非常に重要なものである。この周期はあくまで平均的なもので、実際には、これより長くなったり、短くなったりし、二九・二日から二九・八日ぐらいの間で変化する。これは月の軌道上の運動が一様でないこと、および太陽の運動も一様でないためである。


12 星座は移る

星霜 年を意味する〝星霜[せいそう]〟という言葉がある。〝霜〟は暑さ、寒さの周期を表わしている。つまり、霜が降[お]り、また次に霜が降りるまでが一年という意味である。〝星〟はやはり、ある星がつぎにまた見えるようになるのが一年ということである。このように、一年とは、太陽によってもかぞえられるし、星によってもかぞえられると考えられているわけである。

ところで、これはほぼ正しいのであるが、厳密には正しいとはいえないのである。太陽による一年と、恒星による一年とは正確にいうと少し長さが違う。太陽による一年は、恒星による一年よりも〇・〇一四日、つまり二〇分ぐらい短い。

このわけを考えてみよう。太陽は黄道の上を動いている。そして、黄道と天の赤道との交点(二つあるうちの一方)を春分点ということは、すでにのべた。そして春分点は恒星に対して、ほぼ固定しているが、くわしくいうとそうではないことに、本章の第 7 節のところで少しふれた。

黄道も少しは動くが、その動きはあまり大きくない。これにくらべると、天の赤道は、ずっと速く動く。その結果、大ざっぱにいって春分点は、ほぼ固定している黄道上をかなりの速さで動く。それは黄道上を、恒星に対し西へ西へと動き、二万五八〇〇年で一周する。一年にすると、角度の約五〇秒という大きさである。つまり、四〇年足らずで、太陽の直径ぐらい動くのである。

暑さ、寒さは、太陽が地球上のどこを照らすかによって決まるものであったことを思い出そう。そうすると、暑さ、寒さの周期は、太陽が赤道を、たとえば、南から北に横切ってから、つぎに同じ方向にまた横切るまでの周期でなければならない。これは、とりもなおさず、太陽が春分点を通過してから、つぎに再び通過するまでの時間である。

一方、この間に、春分点は西へ、つまり、太陽の運動に向かって行く方向に動いているので、太陽がある恒星に追いつくまでには、これより少し長い時間がかかる。

人間の一生ぐらいの時間では、この差はまず目につかない。七〇年で、やっと角度の一度ずれる程度だからである。であるから、七〇年後にもやはり、オリオン座はいぜんとして冬の星座であり、さそり座は夏の星座であり続けるだろう。

しかし、これは永遠の真理ではない。二万五八〇〇年の半分の、一万二九〇〇年後には、夏の星座と冬の星座は完全に逆転してしまっている。つまり、オリオン座は夏の星座に、さそり座は冬の星座になっている。逆にいえば、星によって季節を定義したとすると、約一万三〇〇〇年後には、夏に雪が降り、冬に太陽がギラギラ照りつけることになる。

どちらが便利かというと、やはり夏は暑いもの、冬は寒いものと決まっていたほうがよいので、太陽の春分点通過の周期が、私たちの常識的に考える一年であるというべきであろう。〝星霜〟のうち、〝霜〟は正しく一年を表わすが、〝星〟は表わさないのである。

なお、地球が太陽のまわりを一回転するというのは恒星に対してである。すなわち、地球の一回転を表わすものは〝星〟である。


歳差運動 ところで天の赤道が、ということは地球の赤道が、そしてまた自転軸が動くのはどうしてであろうか。

これは、地球が球でなく、赤道部分がふくれた、極端にいうとハンバーガーのような形をしていること、また、赤道面が黄道面および白道面(月の軌道面)と一致していないという二つの事実が重なり合って生じるのである。その結果、地球には複雑な力が働いて、地球の自転軸は図 2・15 のような〝みそすり運動〟をするのである。その周期が二万五八〇〇年である。

この運動は「歳差[さいさ]運動」と呼ばれる。この結果、春分点が同じ周期で黄道上を動くことは明らかであろう。また、歳差運動の結果、現在の北極星はいつまでも北極星として留まっていられない。天の北極は図 2・17〔引用注:図は省略〕のように、恒星の間を同じく二万五八〇〇年かかって移動し、約一万二〇〇〇年後には、こと(琴)座のベガ、すなわち織女星の近くに来る。

章動 歳差運動のほかに、同じ原因によって、地球の自転軸は、いろいろな小さい振幅、短い周期の振動をする。これを「章動[しょうどう]」という。もっとも大きい振動は、周期が一八・六年で、振幅が角度の約九秒のものである。章動によって、春分点が周期的に細かく振動するほか、黄道と天の赤道の傾斜角が、周期的に小さな変動をする。


13 いろいろな一年

回帰年(太陽年) 一ヵ月に、いろいろな一ヵ月があったのに対応して、一年にも数種類の一年が考えられる。

月のところで出てきた分点月に対応するものは分点年であるが、分点年とはいわない。これを「回帰年」あるいは「太陽年」という。春分点から春分点まで太陽が動く長さで、寒暖の周期と同じ、いわゆる季節の変化を表わす一年である。

一太陽年の長さは、三六五・二四二二日である。厳密には、これは一九〇〇年の初頭における一日の長さで測ったものある。また、小数点以下の数字は、ここで切れるわけではなく無限に続く。以下、他の一年についても同じである。


恒星年、近点年、交点年(食年) 恒星に対する一年は「恒星年」とよばれる。前にも述べたように、一太陽年よりも約〇・〇一四日長く、平均三六五・二五六四日である。

地球が近日点を通過してから、つぎに通過するまでの時間は、平均三六五・二五九六日であり、これを「近点年」という。この長さは、恒星年よりさらに長い。これは、地球の近日点が地球の公転と同じ方向に移動しているためであることは、これまでの説明から容易に見当がつくであろう。これにともない、現在、太陽が、いて(射手)座にあるときに起っている近日点通過は、数万年後には、正反対方向の、ふたご(双子)座で起るようになる。

さらに、太陽が黄道と白道の交点を出てから帰ってくるまでの時間は、「交点年」である。交点は一八・六年という速い周期で回転しているから、一交点年の長さは、他の一年とかなり異り、三四六・六二〇一日である。

日食、月食は、太陽が白道との交点付近にあるときに起こる。すなわち、交点年の正月ごろ、および年の半ばごろに起こる。ただし、かならず起こるというのではない。起こるとすれば、このころでなければならない。このため、交点年を「食年[しょくねん]」ともいう。


「第 3 章 こよみとは何か」

2 太陽暦のあゆみ

現在、世界中で、ほとんど統一的に使われているこよみは「太陽暦」である。正確にいえば、古代エジプトで生まれ、ローマでほぼ現在の形となり、その後少し改良されながら、全ヨーロッパに、そして全世界に広まったグレゴリオ暦という名の太陽暦である。


エジプト暦 太陽暦が、農耕と密接にかかわりをもちつつ発生したことは、明らかである。現行の太陽暦の起源となったエジプト暦を作り出した古代エジプトは、ナイル川の三角州に高度な農耕文明を築き上げていた。

ナイル川は定期的に起こる洪水によって、肥沃な土壌をエジプトの平野にもたらした。したがって、ナイル川の洪水はエジプト人にとって、災害であるより恵みであった。しかし、そのためには洪水の時期を正確に予知して、それに合わせて農作業を行う必要があった。

ナイル川は毎年、きまった季節に洪水を起こしたが、それは、おおいぬ座のシリウスが日出の直前に東の空に姿を現わすころに、はじまったという。このため、真剣な天体観測が行われた。そして、西暦紀元前四〇〇〇年ごろには、一年の長さは三六五日では短すぎ、三六五日と四分の一日に近いことを知っていた。

気がつかれたかも知れないが、シリウスと太陽との関係で一年の長さを決める方法は、厳密にいうと間違っている。このやり方で求まるものは一恒星年であって、一太陽年ではない。前章でのべたように、約一万三〇〇〇年で、星と季節との関係は逆転してしまう。したがって、このシリウスの観察による洪水の予知法が、数千年にわたって行われたと考えることはできない。


うるう年 それはともかく、太陽暦は、もっぱら季節の変化に忠実であろうとだけ努める暦法であって、月の満ち欠けは、最初から無視している。したがって、太陽暦の暦法上の技術といえば、いかに一年の長さを、一太陽年に合致させるかということのみにあるといってよい。

ところで、一太陽年の長さは三六五・二四二二 …… 日であるから、どうがんばってみても、一年を毎年同じ日数にすることはできない。そこで、三六五日の年と、三六六日の年を適当に置くことになる。エジプトの初期の民間暦は、三六五日に固定されており、ひとり僧侶階級のみが、四年に一回、三六六日のうるう年を置いていた。しかし、西暦紀元前二三九年に、四年に一回のうるう年を置くことが制度化された。


ローマ暦 私たちが使っているこよみは、ローマで制定されたものをほぼ受け継いでいる。ローマは初期には、一年が一〇ヵ月、三〇四日から成る妙なこよみを使っていたが、後に二ヵ月を加え、一年を三五五日とする太陰暦を用いるようになった。そしてさらに、ときどき、うるう月を挿入して季節と合わせる太陰太陽暦を採用した時代もあった。

追加した二ヵ月は、当然、年の終りに置かれたが、つぎにのべるユリウス・カエサルの改暦のときに、これが最初にもってこられた。つまり、現在の二月は、かっては年の最後の月であった。現在、九月 ……、一二月を表わすラテン語系の名前、英語でいえば、セプテンバー、……、ディセンバーの語幹である、セプテム、オクト、ノベム、デセムがそれぞれ、七、八、九、一〇を表わすラテン語であるのは、そのためである。


ユリウス暦 やがて、ヨーロッパを制覇し、エジプトを征服したローマは、エジプトの暦法をそのまま取り入れ、西暦紀元前四六年、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)のときに、平年を三六五日、四年に一度のうるう年を三六六日とするこよみを制定した。これを「ユリウス暦」という。

はじめのころ、運用を間違えたりしたが、西暦紀元前八年、アウグスツス帝のときに、改正を行い、その後、一六〇〇年近く、このこよみはキリスト教文化圏で用いられた。

ユリウス・カエサルのときのこよみは、一ヵ月は奇数月が三一日、偶数月が三〇日であった。ただ、最後の月の二月のみは、平年は二九日であった。ユリウス・カエサルは、七月に自分の名前のユリウス(英語のジュライ)をつけたが、アウグスツス帝もそれにならい、八月をアウグスツス(英語のオーガスト)とした。ところが八月が三〇日であったのを嫌い、七月に続けて八月を三一日とした。そして、その後の大の月、小の月も適当に順序を変え、足りなくなった一日を、かつて年末であった二月から減らした。このため、それでなくても平年には二九日しかなかった二月が、二八日になってしまったといわれている。


7 太陰太陽暦と農業

月の満ち欠けにも、季節の変化にも、等しく配慮をはらったこよみが太陰太陽暦である。顕著な周期である月の朔望を尊重し、かつまた、農業などを行ううえから季節を無視することのできなかった地方に、必然的に発達したこよみである。

したがって、太陰太陽暦は、世界の各地で独立に発生している。すなわち、バビロニアで、インドで、中国で。そして、それぞれ似たような発達をとげている。太陽暦のもとを作ったエジプト暦にしても、一ヵ月を三〇日にしていたから、初期には何らかの形の太陰太陽暦であったと思われるし、また、ローマも古くは太陰太陽暦を用いた時代があったことは前にのべた。


置閏法 チグリス、ユーフラテスの両河のほとりに栄えたメソポタミア支明の中でも代表的なバビロニアは、西暦紀元前三〇〇〇年ごろに、現在も用いられている星座の原形を作った民族の建てた国であるが、古くから太陰太陽暦を発達させていた。そして、西暦紀元前八世紀には、一九年に七回のうるう月を置く「置閏法[ちじゅんほう]」を発見していた。


メトン周期と一九年七閏の法 ギリシアでは、はじめ、八年に三回のうるう月を置く方法が行われていたが、西暦紀元前五世紀の天文学者メトンのときに、一九年に七回のうるう月を置く方法が採用された。一九年は、太陽年のはじまりと、朔望月のはじまりが、かなり正確に一致する周期で、メトンの名をとって「メトン周期」とよばれる。

中国でもこのことは知られていて、一九年のことを「章」とよび、「一九年七閏」の法と称して、西洋と同じく一九年に七回のうるう月を置くことが、西暦紀元前五世紀ごろから行われた。

一朔望月は二九・五三〇五八九日であるから、二九日と三〇日の一ヵ月を適当に置き、一日が朔とあまりズレないようにしていくことは、太陰太陽暦でも第一の問題点である。しかし、太陰太陽暦の、同様に重要な問題点は、季節と調和させることである。

一年を一二ヵ月とすると、三五四日ないし三五五日となり、一太陽年に一一日ほど足りない。ほうっておくと、月[マンス]と季節がどんどんズレてイスラム暦のようになる。そこで、ときどき「うるう月」なるものを入れて、一三ヵ月の年を作り、季節と合わせる。これが、一般的な太陰太陽暦の暦法である。

問題はこれをどのように入れるかだが、八年に三回置く方法では、この間の月数が九九ヵ月、平均日数が二九二三・五日であり、一方、八太陽年は二九二一・九日であるから、一・六日多すぎる。つまり、八年につき、一・六日ずつ季節が早くなる。

中国で行われた一九年七閏の法では、一九年間の月数が二三五ヵ月で、平均日数は六九三九・六九日、一方、一九太陽年は六九三九・六〇日であるから、一九年間で、わずかに〇・〇九日多すぎるだけである。約二二〇年で一日季節が早くなるだけだから、非常に正確ではあるが、これで決して満足してはいなかった。

朔のズレない、季節のズレない、そして天文現象をよく予報できる、さらに精密な暦法が、中国数千年の歴史を通じて求め続けられた。そして、その努力は、太陰太陽暦を中国から輸入したわが国でも、同様に行われた。他の国では、それほど精密な太陰太陽暦を、もとうとはしなかったようである。おそらく、月と季節とがズレてくれば、その都度、適当にうるう月を入れて調節したのであろう。あるいは、そんな季節とのズレが目立つ前に、国が亡びてしまったという場合もあろう。


8 旧暦のしくみ

太陽にも太陰にも忠実であろうとする太陰太陽暦が、複雑な構造になるのは当然である。これを解決しようとして古来、太陰太陽暦には無数の暦法が考案された。


天保暦 その中で、もっとも完成された太陰太陽暦といわれる、日本の江戸時代末期の「天保暦[てんぽうれき]」を、ややくわしく見ることによって、太陰太陽暦の構造を理解することにしよう。

日本は推古天皇のころ(七世紀はじめ)、中国から輸入したこよみを、はじめて採用したといわれる。それ以来、中国輸入のこよみを用いてきたが、一六八五年に渋川春海によって、はじめて、わが国独自のこよみ、「貞享暦[じょうきょうれき]」が作られ、以後、宝暦暦、寛政暦と改暦を経て、一八四四年に、天保暦が作られた。


真の朔と平均の朔 中国、日本の太陰太陽暦では、月の第一日を決めるのに、平均的な朔ではなく、真の朔をもってしてきた。

平均の朔を用いる方法では、二九日の月(小の月)と三〇日の月(大の月)を交互に置き、これでは少し平均の一ヵ月が短くなりすぎるので、一六ヵ月か一七ヵ月ごとに大の月を余分に置く。しかし、この方法では、月の第一日と朔とが一致せず、日食が二日に起こったり、前月の晦日[みそか]に起こったりする。これを嫌ったのであろうか、月の第一日を平均の朔でなく、真の朔で決めるようにしたのである。

一口でこういうが、これは大変なことである。平均朔望月の長さをくわしく知っているだけでは十分でなくなる。月および太陽の運動の遅速を経験的に知って、それを考慮して、少なくとも一年先の真の朔の日付を予報しなくてはならない。これを中国および日本のこよみでは、実際に実行したのである。

〔山崎昭・久保良雄/著『暦の科学』 (p. 50) (pp. 60-63, pp. 82-86, pp. 94-97, pp. 112-116) 〕

The End of Takechan


古代ギリシャの数学


◯ ダンネマン著『大自然科学史』には、古代ギリシャの天文学について、詳しく語られているのですが、また、アリストテレス以前の、古代ギリシャの数学に関してもかなり詳しく論じられています。


新訳 ダンネマン『大自然科学史 1』〈復刻版〉

Ⅱ ギリシア人における科学の発展 アリストテレス以前

ギリシア数学の確立

(pp. 245-246)

ピュタゴラスは紀元前五五〇年頃にサモスに生まれた。彼の学派(※一)の創立については、報告がまちまちで一致していない。彼はその前にタレスと同じくエジプトとおそらくはバビロン2⃣にも滞在したと思われる。したがって、彼の功績はやはり、オリエントの科学をその後の発展にとってとくに好都合なギリシアの地へ、移植することにあったのであろう。


(pp. 246-248)

ピュタゴラス学派に帰せられるものには ―― ただし、どこまでが彼ら自らの発見で、どこまでが外国の要素を取り入れたのかは、もちろんはっきりしない ―― 三角形の角の和の定理、三角形の合同の定理、いわゆるピュタゴラスの定理、および黄金分割の知識があり、その他にも立体幾何学の最初の知識、とくに五種の正多面体(※二)および球の知識がある4⃣。

ピュタゴラスの幾何学的発見を述べた証拠は、古代の文献に十二箇所ばかり見いだされる。これらの証拠がどこまで信用できるかについては、いちばん古い記録でもピュタゴラス以後五〇〇年、主な資料(プロクロスによる)でも一〇〇〇年ものちに書かれたことを忘れてはならない5⃣。プロクロス(※ ビザンチンに生まれ、ネオ・プラトン派の学校の有名な教師になった。四一二-四八五年)はいちばん古いギリシア数学史家6⃣のエウデモスの失われた二つの著述によって述べているが、それはピュタゴラスを無理数の概念の発見者とは見ていないし、また正多面体の作図やピュタゴラスの定理の発見をも、彼によるとはしていない。すでにギリシア哲学史家のツェラーも、ピュタゴラス自身は数学者として、すぐれた業績を残したという旧来の考えに反対をとなえた。最近の研究をまとめると、数学の分野において、たしかにピュタゴラスの業績だと言いきれるものは、まずないということになる。

一般にギリシア人の長所とされる証明の厳密さは、ピュタゴラス学派にはまだあまりあらわれていない。彼らはしばしばまだ帰納的手段を用いたし、また一般のばあいと特別のばあいとを、まだ正しく区別することができなかった。しかし、数学を生活の必要から引き離し、それを純粋科学として取り上げたのは、何と言っても彼らの功績である7⃣。三角形論はピュタゴラスとその学派によって、とりわけ完全に展開されたもので、エウクレイデス(英 ユークリッド)がギリシア人の数学的知識を、その『階梯(※三)』に総括したとき、大して補う必要を見なかったほどであった。三角形の角の和が二直角になることを証明するのに、ピュタゴラス派は一つの角の頂点を通って、対辺に平行線を引く方法を用いた8⃣。ピュタゴラスの定理を発見するにいたった経路は、察するところ、各辺が 3 : 4 : 5 の比をもつ三角形は、直角三角形であるというエジプトやバビロニアから入った知識と、32 + 42 = 52 という算術式を結びつけることに気づいたところにあったのであろう。なぜなら、整数論を幾何学に応用することは、一般に後期のピュタゴラス学派の得意とするところであったからである。ピュタゴラス学派は三角形の角を二等分する三直線が、一点に会するという定理も知っていて、これが三角形の内接円の発見のもととなった9⃣。さらに彼らは正多角形および五種の正多面体(※二)を深く研究した。後者のなかでは正六面体、正四面体、および正八面体は、すでにオリエントの数学の研究対象であったが、正二〇面体と正十二面体のほうは、はじめてピュタゴラス学派によって作図されたのである。ピュタゴラス学派は、その神秘的世界説明の試みの土台に、これら五種の正多面体を応用した。つまり世界は正十二面体の形をなし、他の四種の多面体は四種の元素、すなわち火、土、空気、水の微分子の形をきめるとされた⑩。正多面体、つまり合同な正多角形の面でかこまれた立体は五種あって、五種にかぎるという認識に達したのは、エウクレイデスが最初である(※四)。


(pp. 250-251)

ギリシア数学の歴史において、前期のピュタゴラス学派と紀元前四世紀の数学者とのあいだをつなぐ地位に立つのは、紀元前四四〇年頃に活動したキオスのヒッポクラテスであった。ヒッポクラテスは幾何学の問題をもういっそう厳密に証明することに手をつけた。彼はまた数学教科書をあらわした最初の人であった。いちばん有名なのは、彼の月形の定理(「ヒッポクラテスの三日月形[メーニスコス]」)である。この定理を言うと、「半円に内接する直角二等辺三角形を与えられたものとし、その等辺の上に半円を描けば、a と aʹ(両三日月形)の面積は、砕片 b および bʹ に等しい」(図 12)となる。ヒッポクラテスはまた、円の面積がその直径の平方に比例することを証明した。取りつくし法も、彼にはじまるものと思われる。これについては、以下ギリシア数学の発展をたどりつつ、なお何度も論ずるつもりである。

三日月形に関する定理は、曲線図形の求積法(等積の正方形に直すこと)に成功した最初の試教という意味で、とくに興味がある。ヒッポクラテス⑬はじぶんの定理によって、円の求積法をもう一歩進めたとさえ信じた。しかし、彼がこの問題の解決をめざした試みは、近世数学が証明したように、円をほんとうに正方形に直すことはできないという事実からだけでも、不成功におわる運命にあった。三日月形に関するヒッポクラテスの定理(※七)は、ピュタゴラスの定理の重要な一般化であった。ピュタゴラスの定理は正方形に限定されていたが、これに新定理が加えられたとき、ここに直角をはさむ二辺の上の相似図形の面積の和は、斜辺の上の相似図形の面積に等しいという、きわめて一般的な定理の認識がすでに暗示されていた。


(※一・二四五ページ) ピュタゴラス学派は神秘的な宗教結社をなし、保守的な政治勢力をもっていて、しばしば民衆と衝突した。最初下イタリアのクロトンに教団の基礎がおかれたが、他の大ギリシア都市にも組織が広がった。紀元前五世紀後半に、反対派のために焼打されてほとんど全滅した。生き残ったわずかな信徒が伝統を伝えたが、宗教的よりもむしろ学問的な活動が主となり、最後にプラトンの学派に吸収された。ピュタゴラス学派はあらゆる発見をその師に帰し、彼らのあいだでは、「アウトス・エファー」(師自らかく言えり)ということが無上の権威とされていた。

2⃣ カントル『数学史講義』第一巻、一八八〇年、一二八および一五八ページ。

(※二・二四七・〔二四八〕ページ) トロッフケは『初等教学史』第二版の第七巻で、エーファ・ザックスの研究を引いて、ピュタゴラス学派に五種の正多面体の知識がそなわっていたことを疑っている。プラトンの友人のテアイテトスが紀元前三七〇年頃にこの知識を完成した。正多面体は五種にかぎるというのも彼の認識で、エウクレイデスの第十三巻は彼に基づいている。このようにして元素と正多面体とを対応させる思想もプラトン以前へはさかのぼらないと見てよいことになる。

4⃣ 五種の正多面体(「プラトンの立体」)についての詳細はリップマン『錬金術』、一二七ページを見よ。

5⃣ フォークト「ピュタゴラスの幾何学」、『数学文庫』第三部、第九巻、十五ページ以下を見よ。それによると、近年ピュタゴラスははたして五種の正多面体の作図を知っていたかという疑問があげられている。無理数の概念をギリシア人が知ったのも、よほどのちになってからのことらしい。

6⃣ ギリシア人はすでに数学の発展について記述している。アリストテレスの門弟エウデモスは天文学と幾何学の歴史をあらわしたが、わずかの断片(そのなかにはタレスに関するさきに述べた事項も述べられている)をのぞくほかは失われてしまった。彼の断片はシュペンゲルが収集して刊行した(『エウデモスの残存断片』一八六六年)。さらにエレソスのテオフラストスが数学の歴史を書いた。これは残念にも全部失われた(ズーター『数学史』、二一ページ)。メノンの名もあげておかなければならない。彼もやはりアリストテレスの門弟で、医学の歴史を書いた。残存断片はディールスが刊行した。

7⃣ トロッフケ『初等数学史』第二巻、五ページ。

(※三・二四八ページ) ストイケイア(ラテン語でエレメンタ)、ふつう英語流にユークリッドのエレメンツ、訳して『(幾何学)原本』という。この訳名は明末の支那訳『幾何原本』に由来するものと思われる(ギリシアではたいていの問題は幾何学的方法で処理され、幾何学といえば数学の同意語であった。プラトンがアカデメイアに「幾何学を知らないものは、入ってはいけない」という銘をかかげたのも、その意味である)。

8⃣ プロクロス(※『エウクレイデスの階梯についての注釈』)フリードライン版、三七九ページ。

9⃣ トロッフケ『初等数学史』第二巻、八八ページ。

⑩ プラトン(『ティマイオス』)およびヴィトルヴィウス(『建築について』)のしるすところによる。くわしくは、トロッフケ『初等数学史』第二巻、四〇〇ページを見よ。

(※四・二四八ページ) トドハンター編『ユークリッドのエレメンツ』、「エヴリマンズ・ライブラリ」、五〇-五一ページ。

⑫ パウリ『古典的古代学事典』第八巻。

⑬ ヒッポクラテスについては、ブレットシュナイダー『エウクレイデス以前の幾何学と幾何学者』一八七〇年を見よ。

(※七・二五一ページ) コーインおよびドラブキン編『ギリシア科学原典集』五四-五六ページ。

〔フリードリヒ・ダンネマン/著『大自然科学史 1』〈復刻版〉より〕

The End of Takechan

✥ ヒポクラテスの月(三日月)というのは、半円内部に描かれた〝直角三角形〟と〝半円(三日月)〟の面積に関する問題です。

✥ したがって〈ヒポクラテスの定理〉は、直角二等辺三角形に、限定されません。


―― 図を用いて〈ヒポクラテスの定理〉について、少し詳しく説明したページを、以下のサイトで公開しています。


古代の《暦》 ―― こよみ ――

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/koyomi.html