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大分県日田市で発見された、国の重要文化財に指定される鉄鏡。それは、古代工芸の常識を覆す、奇跡の逸品です。
偶然の発見と類なき特徴 この鏡が永い眠りから覚めたのは1933年(昭和8年)、鉄道の工事現場でのことでした。古代の鏡は青銅で作られるのが一般的ですが、この鏡は極めて珍しい鉄製。漆黒の鉄の素地が、施された豪華絢爛な装飾を一層際立たせています。
息を呑む超絶技巧 鏡の表面は、まさに贅を尽くした小宇宙です。
龍の躍動:金線で描かれた数多の龍が、鏡の表面を生き生きと舞っています。その瞳や体の節々には、青いトルコ石や赤い宝石が埋め込まれ、神秘的な輝きを放ちます。
吉祥の願い:鏡の中央部には、「長宜子孫(ちょうぎしそん)」の四文字が刻まれています。これは「子孫が長く栄えますように」という、時代を超えた繁栄への祈りを込めたメッセージです。
精緻な文様:蝙蝠(こうもり)や渦雲文(うずくももん)といった複雑な文様が、金や銀、ガラス玉を用いて緻密に描かれ、見る者を飽きさせません。
歴史的価値 これほど華麗で精巧な鏡は他に類を見ず、2~3世紀頃の中国大陸で最高級品として作られた「至宝」と考えられています。当時の工芸技術の頂点を示す、歴史的にも美術的にも極めて貴重な文化財です。
「三国志の英雄」として知られる曹操(155~220年)の墓「曹操高陵」を発掘した中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハン・イヒン)氏が、大分県日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」を、邪馬台国の女王・卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした。佐賀新聞社の取材に応じた。 卑弥呼がもらった鏡は、邪馬台国の謎を解明する重要な鍵とされており、今回の指摘は邪馬台国論争に一石を投じそうだ。
ダンワラ古墳の鉄鏡は直径21・1センチ。鉄の鏡体の背面に金や銀を埋め込む象眼「金銀錯」が施され、朱色のうるしで彩色した珠がはめ込まれている。手足の長い龍のような怪獣が多数描かれ、銘文は「長冝■孫」(欠落部分の■は「子」と推測される)の四文字が刻んである。九州国立博物館が管理している。 潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出土鉄鏡を確認した上で「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。この鏡は国宝級の貴重なものであり、公式なルートで日本に伝わったと考えられる」と述べた。「魏志倭人伝」は、景初3(239)年に卑弥呼の使いが魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記している。ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、鏡の総称として用いたのだろう。そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と解説した。「魏の側からすれば、最高の品質の鉄鏡を贈ることで、倭に工業技術の高さを示そうとしたのだろう」と推測する。 潘氏は、九州国立博物館で開催中の特別展「三国志」のために来日し、九州大学、東京国立博物館、九州国立博物館の研究者らとともに、ダンワラ古墳出土鉄鏡と、曹操墓出土鉄鏡の共通点などを議論した。
二つの鉄鏡も直径が21センチと同一で、曹操墓の鉄鏡もX線調査の結果、金錯が確認できた。研究者らは「いずれも2~3世紀の中国において『御物』など最高級に位置付けられる貴重な鏡である」という見方で一致した。
大手前大学教授の上垣外憲一氏によると、大分県日田市のダンノワラ古墳から出土したとされる「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」こそ、魏の皇帝から邪馬台国の女王卑弥呼に贈られた唯一無二の品である可能性が高いとのことです。
<著『古代日本謎の四世紀』(学生社、2011年刊)から>
私か写真を最初見た瞬間に、卑弥呼にふさわしい魏皇帝からの贈り物は、このようなものだったに違いないと思った遺物がただ一つある。魏の皇帝から「倭国の主だった皆さん(豪族の長たち)」に送られたのではなく、その上に一段も二段も高く君臨する女王にふさわしいとして、卑弥呼その人に、ただ一つ贈られた、「卑弥呼宛の鏡」にふさわしい鏡が現実に存在するのである。それが、口絵に掲載した大分県日田のダンノワラ古墳出土と伝えられる、「金銀錯嵌(さくがん)珠龍文鉄鏡」である。
この種類の鏡で中国の文献に載るのは魏の曹操が献帝に献上した(太平御覧巻七百十七)と伝えられ、金錯鉄鏡とよばれる大型鏡である。何より、その豪華な材料、そうして皇帝の御物でなければ、とうていこのような優美繊細にして精密な模様を、職人たちが精魂込めて作り上げることがないだろう。その細工の出来ばえが、たとえようもなく素晴らしい。曹操の金錯鉄鏡は「尺二寸」と伝えられ、当時(後漢から三国)の尺度で二十九センチを数える大型のものだった。このダンノワラ古墳出土の金銀錯鉄鏡は二十ニセンチ、すなわち九寸であり、四分の三の大きさである。そのまま魏の皇帝と、「親魏倭王」の格式の差に対応すると私は思う。
上垣外氏の主張が正しければ、この金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は、古代日本と中国の関係、そして邪馬台国の女王卑弥呼の実像に迫る貴重な手がかりとなるでしょう。
中国の文献には、魏の武帝である曹操が後漢の献帝に日田の鉄鏡と同じサイズ、金銀象嵌の鉄鏡を献上したという記録が残されています。この献上は、単なる贈答行為ではなく、献帝を傀儡として操り、自らの権力を確固たるものにするための曹操の巧妙な戦略の一環でした。鉄鏡は、献帝への表向きの敬意を示しつつ、裏では自らの権勢を誇示し、献帝を牽制する意味も込められていたと考えられます。
このように、鉄鏡は古代中国において権力の象徴として用いられていました。日田市の鉄鏡もまた、魏の皇帝から卑弥呼への贈り物として、同様の意味を持っていたのかもしれません。それは、単なる友好の証ではなく、古代東アジアにおける権力関係を象徴する重要なアイテムだったのです。
中国の古書『北堂書鈔』『初学記』『曹操集約注』『太平御覧』によると、当時の階級に応じて異なる鏡が与えられていました。皇帝は1尺2寸の金錯鉄鏡を、皇后は銀錯7寸の鉄鏡を4枚、貴人や公主は9寸の鉄鏡を持つことが許されていたそうです。
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は金印を超える存在として、古代日本と中国大陸の関係、そして邪馬台国の真実に迫る重要な手がかりとなります。金印中心の視点から脱却し、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡に焦点を当てることで、古代史研究は新たな局面を迎えます。
歴史の闇に葬られし「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」。もしこの鏡が近畿の地から発見されていたら、長らく続く邪馬台国論争は終止符を打っていたといわれたいます。それほどまでに、この鏡は圧倒的な存在感を放ち、古代史の定説を覆す力を秘めています。
しかし、あまりにもその存在が大きすぎるが故に、歴史学会、考古学会は、この鏡を徹底的に無視してきました。まるで触れてはならない禁断の果実のように、その存在を闇に葬り去ろうとしているかのようです。
一体なぜ、これほどまでに重要な鏡が、歴史の表舞台から姿を消してしまったのでしょうか?そこにこそ、古代史の謎を解き明かす鍵が隠されているのです。そして、この鏡の謎が明るみに出る時、私たちは歴史の新たな一面を目にすることになるでしょう。それは、これまで誰も知らなかった、真の歴史の物語の始まりかもしれません。
深い緑に包まれた山々、清らかな三隈川の流れ、そして時を刻む鳥の声と木々のざわめき。大分県日田市は、古代の息吹を今に残す静謐な地です。この地は、豊かな自然の恵みを受け、古くから人々の暮らしを育んできました。弥生時代には、稲作文化が花開き、人々は集落を形成し、独自の文化を築き上げていきました。その中には、大陸との交流を示す遺物も数多く見つかっています。
しかし、この穏やかな地には、歴史の闇に埋もれた秘密が眠っていました。それは、二千年の時を超えて、現代に蘇る運命にありました。
昭和8年、日田市の丘陵地帯「ダンワラ」。鉄道敷設工事の喧騒の中、土砂採掘現場から、古代の墓と見られる二つの竪穴式石室が姿を現しました。
西側の石室からは、鉄刀、鉄鉾、馬具など、身分の高い人物の埋葬を示す多くの副葬品とともに、錆びついた鉄塊が出土しました。
土地の所有者、渡辺音吉氏は、この鉄塊が鏡ではないかと直感しました。彼は古物への造詣が深く、鉄塊にわずかに残るつまみに気づいたのです。
音吉氏は、この錆びついた鏡を大切に保管し、地元の三芳小学校に寄贈しました。鏡はガラスケースに収められ、子供たちの好奇心を刺激しました。
しかし、第二次世界大戦の混乱の中、この鉄鏡は小学校から忽然と姿を消してしまいます。まるで、未来への道標となるはずだった鉄鏡が、無残にも歴史の深淵に沈んでいった瞬間でした。
時は流れ、1960年。京都大学の考古学者・梅原末治氏は、奈良の古美術商で錆にまみれた鉄塊と出会います。持ち前の慧眼でその価値を見抜き購入した鉄塊は、研磨によって金銀と玉を駆使した見事な龍の文様を現しました。
梅原氏は現地調査を行い、発見者である渡辺音吉氏からも詳細な証言を得ました。1963年、梅原氏は論文を発表し、鉄鏡が中国の後漢時代の鏡との類似性を持つことを指摘しましたが、学会の反応は冷ややかでした。彼らは鉄鏡の真贋を疑い、「得体の知れないもの」と切り捨てたのです。
特に、出土地が明確でないことや古物商から購入したという出自状況が、学会の不信感を煽りました。中には、「中国での盗掘品」や「捏造品」ではないかという疑惑を声高に主張する者もいました。
梅原氏は数々の証拠を提示して鉄鏡の正当性を訴え続けましたが、学会の不信感は深く、論争は泥沼化しました。そしてついに、学会は「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は日本の学界において学術議論の対象に値しない」という、梅原氏にとって屈辱的な烙印を押したのです。
学会からの厳しい批判や世間の疑念の目に晒され、展示のたびに論争を巻き起こす「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」は、東京国立博物館の地下倉庫に封印されました。それは、歴史の闇に葬り去られるかのような、残酷な運命でした。
学会からの「学術議論の対象に値しない」という烙印は、発見者の渡辺氏とその家族にも、深い心の傷を残しました。鉄鏡を発見したという誇りは、いつしか拭い難い苦しみへと変わり、家族や親戚の間でも鉄鏡について口にすることさえ憚られるようになってしまったのです。
しかし、日田の人々の心の中には、鉄鏡への想いが絶えることなく灯り続けていました。「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」の出土は、邪馬台国論争に新たな展開をもたらし、卑弥呼との関連性が囁かれるようになりました。この鉄鏡が、古代日本の謎を解き明かす鍵となるかもしれないという期待感が、人々の心を熱くしたのです。地元では鉄鏡の研究を目的とした同好会が結成され、同好会メンバーは「日田邪馬台国説」を掲げ、情熱的に研究を重ねました。彼らは、文献を紐解き、現地調査を行い、時には専門家にも意見を求めながら、鉄鏡の謎に迫ろうとしました。それは、歴史の真実を求める人々の、飽くなき探求心と情熱の表れでした。
1990年代に入ると、この熱意は「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」の返還運動へと発展します。東京国立博物館の地下倉庫に眠る鉄鏡を、地元日田の地に戻し、その歴史的価値を広く知らしめたいという願いが、人々の心を一つにしたのです。それは、歴史の遺産を取り戻し、未来へと繋げようとする、地元の人々の強い意志の表れでした。
渡辺氏も運動に加わり、文化庁に直談判しましたが、返還は叶いませんでした。出口の見えない状況の中、2008年、運動の核であった音吉氏も104歳で永眠。人々の熱意は冷め、鉄鏡の存在は再び歴史の闇に葬り去られるかに思われました。
しかし、しかし、奇しくも音吉氏が永眠した2008年、まったく思わぬところから、この鏡の物語が再び動き始めます。遠く離れた中国の地で、三国志の英雄・曹操の墓が発見されたのです。この衝撃的なニュースは、歴史の闇に葬られていた金銀錯嵌珠龍文鉄鏡に再び光を当てることになります。
2019年9月6日、朝日新聞の一面を飾った見出しは、歴史ファンのみならず、日本中を騒然とさせました。「卑弥呼の鏡『可能性高い』 中国・曹操陵の発掘責任者 潘氏が見解」。それは、大分県日田市で発見された「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」と、中国の三国志時代の英雄・曹操の墓から出土した鉄鏡が酷似しているという衝撃的な発表でした。新聞各紙はこぞってこのニュースを報道し、SNS上では、邪馬台国論争が再燃。まるで、古代の謎が現代によみがえったかのような、興奮と熱狂の渦が巻き起こったのです。
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は、その比類なき美しさから、多くの考古学者を魅了してきました。「華麗さでは随一」と称されるその装飾は、古代の匠の卓越した技術と洗練された美意識を物語っています。直径約21.3センチ、厚さ2.5ミリの鉄製の鏡は、その希少性と相まって、古代においてはまさに王権の象徴と呼ぶにふさわしい存在でした。
日田市の鉄鏡が、このような権威の象徴である可能性が浮上したことは、古代日本と中国大陸との関係を再考する上で、大きな意味を持つと言えるでしょう。もしこの鏡が本当に卑弥呼のものだとすれば、魏と邪馬台国の関係は、従来考えられていた「朝貢と冊封」という一方的な関係ではなく、より対等で友好的な関係であった可能性が浮上します。
2008年に曹操の墓と確認された「曹操高陵」から出土した鉄鏡は、X線調査によって金銀錯嵌の龍文様が確認されました。その文様や装飾は、日田市の鉄鏡と酷似しており、直径もほぼ同じ21センチであることが判明したのです。この事実は、二つの鏡が同時代に作られた「姉妹鏡」である可能性を示唆し、古代史研究に新たな光を投げかけました。
この発見は、日田市の鉄鏡が後漢~魏時代のものと考えられてきたことから、より正確な年代特定が可能になる可能性を示唆しています。「魏志倭人伝」に記された卑弥呼への贈り物といえば、誰もが「銅鏡百枚」を思い浮かべます。しかし、潘氏の指摘は、その常識を覆すものでした。もし、曹操高陵から出土した鉄鏡と卑弥呼に贈られた鏡が姉妹鏡だとすれば、それは「魏志倭人伝」の記述を再解釈する必要があることを意味すると指摘したのです。そして、それは同時に、邪馬台国の所在地や卑弥呼の正体、さらには古代日本の対外関係といった、長年の謎に新たな光を当てる可能性を秘めていました。
潘氏の報道を受け、九州国立博物館は、特別展「三国志」の会期途中に、ダンワラ古墳出土の鉄鏡を緊急公開しました。それは、歴史の闇から蘇った鉄鏡が、再び人々の前に姿を現す、感動的な瞬間でした。
しかし、この高揚感は長くは続きませんでした。九州の大学で邪馬台国を研究する学者たちから、鉄鏡と邪馬台国、特に日田との関連性に疑問の声が上がったのです。九州大学の辻田淳一郎准教授は「出土状況や遺跡の時期が不明確なため、位置づけが難しい」 「中国でも最高級の鏡が日田地域で出土したことの説明が困難で、もしダンワラで 出土したとするなら、近畿などの別の土地に当初持ち込まれたものが、日田地域に搬入され た可能性が考えられる」とみる。 佐賀女子短期大学の高島忠平名誉教授は「ダンワラ古 墳の出土品ではないのでは」と指摘する。梅原の下で鏡を研磨した白木原和美・熊本大学名 誉教授が今年、ある研究者の追悼文集に寄せた文章などが根拠だ。ダンワラの鏡について、 立ち会った人は石灰と一緒に須恵器に入れたと話したという。須恵器に入る程度の小さい 鏡であることなどから、21センチもある金銀錯嵌珠龍文鉄鏡とは別の鏡だった可能性を 示唆したという。 高島名誉教授は「出土地について古美術商が言うことは必ずしもあて にならない。あの鏡を邪馬台国九州説の証しと考えるのは厳しい」と、鉄鏡がダンワラ古墳から出土したという説に疑問を呈しました。
なぜか?九州の学者が、鉄壁の反論を繰り広げ、潘氏の主張は再考を余儀なくされました。権威ある学者たちの声は、人々の熱狂を冷ますには十分でした。潘氏自身も、当初の「卑弥呼の鏡である可能性が高い」という発言を、「似ていると言えば似ているが…」とトーンダウンせざるを得ない状況に追い込まれたのです。それは、まるでこの鉄鏡が歴史の真実を語ることを許されないかのように、再び深い闇の中に葬り去られてしまったかのようでした。
この鉄鏡への扱いは、奇妙としか言いようがありません。日田での出土を理由に、その信憑性までもが疑問視されているのです。仮にダンワラ古墳からの出土でなかったとしても、皇帝に次ぐ高位の人物に与えられたという事実は揺るぎません。
にもかかわらず、学界の一部は出土地と鏡の歴史的価値を意図的に混同し、その重要性を過小評価することで、この鏡を未来永劫封印しようとしています。結果、鉄鏡の真価が広く知られることはなく、深く掘り下げようとする研究者は現れません。
これは、新たな証拠や解釈が既存の歴史観に挑戦することを恐れ、確立された認識を守ろうとする姿勢から生じています。このような姿勢は、歴史の真実を明らかにするよりも、学問的な地位や既得権益を保護することを優先しており、研究の進展を阻む大きな障壁となっています。
「邪馬台国を解く鍵が消える」学界の沈黙、まるで歴史の扉が閉ざされていくかのようです。
「一体誰が、この貴重な歴史を正しく伝え、謎を解き明かすのか?」
かつてメディアを賑わせた金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の発見。その輝きも、時の流れと共に薄れ、人々の記憶から忘れ去られようとしています。まるで、歴史の波にさらわれていく小舟のようです。
邪馬台国、そして空白の150年。この日本史最大の謎を解き明かすための重要な”手がかり”が、今まさに歴史の闇に消えかかろうとしています。
邪馬台国を解く鍵が消えるバイ…
「事実、誰一人として…この鏡の研究者は現れないのです⁉」
この嘆きは、まるで歴史の扉が閉ざされていく音を象徴しているかのようです。新たな発見が既存の学説を覆すことを恐れ、沈黙を守る学界。その結果、日本史最大の謎、邪馬台国とその女王・卑弥呼に迫る貴重な手がかりである「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」は、人々の記憶から忘れ去られようとしています。
一体誰が、この歴史の闇に光を灯すのか?
ヒタヒミコプロジェクトは、その問いに答えを出すべく立ち上がりました。長い歳月をかけて鉄鏡の調査を行い、その成果を「シン・邪馬台国① 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の真実」としてまとめ、KINDLE出版する予定です。
この書籍には、学界の常識を覆すような、驚くべき真実が記されています。
例えば、発掘当時の梅原氏の極秘資料を入手。ダンワラ古墳での現地調査など当時ではわからなかった新事実が浮かび上がります。
そして、鉄鏡の文様を読み解くことで浮かび上がる、古代の人々の想い。そこには、現代に生きる私たちへのメッセージが込められているのかもしれません。
封印されかけた歴史の扉をこじ開け、古代の息吹を感じてください。
ヒタヒミコプロジェクト KINDLE出版
「シン・邪馬台国シリーズ」
「出土状況や遺跡の時期が不明確なため、位置づけが難しい」 「中国でも最高級の鏡が日田地域で出土したことの説明が困難で、もしダンワラで出土したとするなら、近畿などの別の土地に当初持ち込まれたものが、日田地域に搬入された可能性が考えられる」
という言葉。まるで、日田、ダンワラ古墳からの出土を徹底的に否定しているかのようです。
しかし、歴史の真実は、そう簡単に葬り去られるものではありません。
江戸時代の石碑が語る「隠された鏡」の伝承。日田市の鏡坂には、江戸時代の日田の国学者・森春樹が建立した石碑が今も残っています。彼は享和2年(1802年)、この地に歴史の謎が隠されていることを予見するかのように、私財を投じて石碑を建立しました。
石碑に刻まれた歌は、
「須米羅岐乃伊牟岐多々志々古乃佐加現 加久留加我美乃那古曽久智世祢」
(天皇が東に隠した鏡、決して口外してはならない)
という意味です。驚くべきことに、これは「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」がダンワラ古墳で発見されるよりもはるか昔の出来事です。まるで、現代の学者たちの「日田からそんな鏡が出てくるわけがない」という声に、森春樹が江戸時代から反論しているかのようです。
さらに興味深いのは、歌の一節「いむきたたしく」(東に向かって)が、実際に鉄鏡が出土したダンワラ古墳の方向を示していることです。もしかすると、森春樹は石碑を通して、未来の私たちに鉄鏡の存在を伝えようとしていたのかもしれません。それどころか、江戸時代にはこの鏡の謎について知っていた人たちがいた?というコトです。
この不思議な符合は、鏡坂と「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」の謎をさらに深め、私たちを古代ロマンの世界へと誘います。
学者たちの声は確かに重くのしかかります。しかし、歴史は常に新たな発見と解釈によって塗り替えられていくものです。森春樹の石碑が伝えるメッセージは、私たちに、固定観念にとらわれず、歴史の真実を探求する勇気を与えてくれます。
歴史を動かすのは、必ずしも特権階級の学者だけではありません。ハインリッヒ・シュリーマンは、トロイアの遺跡を発掘したとき、ただの商人から伝説の考古学者へとその名を刻みました。彼の物語は、情熱を持つ一般人にも過去を解き明かす力があることを、世界に示したのです。
そして現代、インターネットの普及により、情報の民主化はかつてないほどに進んでいます。私たちは、書籍、論文、画像、動画など、膨大な情報に簡単にアクセスできるようになりました。まるで、図書館全体が手の中に収まっているかのようです。
「邪馬台国1.0」では、歴史学が「魏志倭人伝」を手に邪馬台国に関する初の論争を展開。「2.0」では、考古学の新たな観点が古代の謎をよりリアルに彩り、そして今、「3.0」では、誰もがオンライン上の蓄積された様々な情報を共有、自由闊達に真実の解明に参加し、新たな扉が開かれようとしています。
これは、私たち一人ひとりが歴史の探求者となり、謎を解き明かすチャンスを手にしているということではないでしょうか。
私たちは皆、歴史の探求者となり、その謎を解き明かすチャンスを手にしています。シュリーマンのように、たとえ専門家ではなくても、情熱と探求心があれば、新たな歴史の扉を開く鍵を見つけ出すことができるかもしれません。
じつは…日田には多くの伝承や謎が点在しています。点と点をつなぎ線とし、面とすることで邪馬台国の謎が解けるかもしれません!
<ダンワラ古墳をデジタルで立体化分析を進める>
<日田の成り立ち、阿蘇第4火砕流や地質学からも分析>
<日田に残る伝承や地政学の観点で分析>
誰も解けなかった邪馬台国・卑弥呼の謎。その鍵を握るのは、日田市ダンワラ古墳から出土した「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」
この古代の至宝が、私たちを古代ロマンあふれる冒険へと誘います。
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