平井数馬は、熊本県下益城郡松橋村(現宇城市松橋町)で明治11(1878)年8月13日(旧暦7月16日)に父新平と母榮の四男として生まれた。
その後一家は熊本市に移り、数馬は壺川小学校、手取小学校、熊本高等小学校を経て、私立中学済々黌に入学した。(数馬は壺川小学校、手取小学校で飛び級試験に合格している。)
※「私立中学済々黌」は他の3校と合併し「九州学院」となり、その後「普通学部」が分離独立し「熊本県尋常中学濟々黌」となった。
明治28(1895)年当時、日清戦争の戦地では戦線拡大とともに通訳官が不足したため、軍並びに全国の語学学校に「速成通訳官」の育成が指示され、九州学院文学部に支那語学科が開設されることとなった。数馬は通訳官としての従軍を決心し、第一期生の募集に応募し、支那語(北京語、上海語等)の習得に励んだ。
3か月半の授業を経て、数馬は九州学院の支那語学科を卒業し、大本営の通訳官試験に応募したが年齢が若いということで不合格となる。しかしその後台湾総督府の通訳官募集があり、数馬は合格した。
明治28(1895)年8月に数馬は台湾に渡った。数馬は台湾総督府 民生局 学務部に配属となり、芝山巌学堂での台湾人子弟の教育を開始し、「舎監」を命ぜられ宿舍で生徒と寝食を共にし指導にもあたった。着任時の台湾はまだ生活環境が整っておらず、衛生面でも課題がある中で、土匪の襲撃にも警戒が必要であった。数馬は過労も重なったことから胃を患い一時期入院している。(土匪=土着の匪賊。生業を持たず通行人を襲い、家宅に押し入り金品強奪、誘拐して身代金を奪うなど常習的に行う犯罪集団)
台湾総督府では住民との意思疎通が急務であったため、学務部では、現地語を研究し、普通用語、軍隊用語、商工用語、教育用語の各単語編及び会話書の編纂、伝習所開校に向けての教科書の編纂に取りかかった。特に会話書の編纂にあたっては通訳官である数馬が中心となった。
六氏先生(出身:亡くなった年齡)
・楫取 道明(山口県:38歳)
・関口 長太郎(愛知県:37歳)
・桂 金太郎(東京府:27歳)
・中島 長吉(群馬県:25歳)
・井原 順之助(山口県:23歳)
・平井 数馬(熊本県:17歳)
近衛師団が日本へ帰還すると、台湾各所で土匪の活動が活発化し、日本人やその施設を襲撃するようになった。土匪が明治29年元日に台北襲撃を計画している情報が入ったため逃げることを周囲に勧められたが、六氏先生は「我らは国家のためには命を惜しまぬということは常々言っている。それに逃げたといっては教育者の本文が立たぬ。」と返答して逃げず、明治29年元日に総督府舞楽堂前における参賀式に参列すべく芝山巌を出発した。しかし、土匪蜂起の噂が広がり、渡し船が無く、総督府に行けなかったため六氏は一度芝山巌に戻ったが、土匪が既に芝山巌の麓の要衝を占めていたため、六氏は対応を協議した。
協議の結果、六氏は下山して土匪の集団を突破することとした。芝山厳麓と旧街の2か所で奮戦したものの、少人数では如何ともしがたく六氏先生の全員が惨殺された。
数馬は、中学時代に撃剣を学び、柔術も身につけていたため、弱冠17歳であったが六氏先生の中で最も多く土匪を斬り激しく抵抗し、他の教師より奮戦したと考えられる。そのためか、土匪に捉えられた数馬は、鼻に縄を通され市中引き回しの上惨殺されたと伝えられている。土匪は、首領の自宅に六氏先生らの首を竹竿にさして門に陳列したと伝えられている。数馬の遺体は今なお発見されていないが、他の5人は首がない遺体が発見されている。六氏先生の遭難は、共に戦い亡くなった20名近い巡査とともに「戦死」として取り扱われたため、その御霊は靖国神社に合祀されている。
当時台湾総督府が日本語講習員等の募集しており応募者は約800名に及んだが、この事件(芝山巌事件)の報せが伝わると約500名の辞退者が出た。民政局学務部の伊澤修二は、講演で「若し此の六名の人が斃れたが為めに、教育が滅ぶる前兆であるならば、実に悲まねばならぬ。若し此の六人が斃れたが為めに、教育が興るものならば、私は誠に喜んで貰ひたいと思ひます。」「若しや教育者と云ふものが、他の官吏の如きものであるならば、何の危ない地に踏み込むことがござりませう。城の中に居れば宜い話である。然るに教育と云ふものは、人の心の底に這入らねばならぬものでありますから、決して役所の中で人民を呼び付ける様にして、教育を仕やうと思って出来るものではない。故に身に寸鉄を帯びずして、土民の群中にも這入らねば、教育の仕事と云ふものは出来ませぬ。此の如くにして、始めて人の心の底に立ち入る事が出来やうと思ひます。ただ立派な家の中で、立派な言を言って居る丈けでは、真の教育と云ふものは、決して出来るものではない。」と述べている。
講習員は45名が合格した。六氏の斃れて已む精神は、講習員により「芝山厳精神」と呼ばれて台湾教育者たちに受け継がれていくことになる。
明治29(1896)年3月30日「芝山巌学堂」の建物が竣工した。翌31日芝山巌恵濟宮に「国語学校」が開校したため、「芝山巌学堂」は4月1日を以て「国語学校付属芝山巌学堂」と改称し、4月23日に授業を再開した。
「国語学校付属芝山巌学堂」はその後数々の変遷を経て、昭和49(1974)年に「台北市士林区士林国民小学」と改称して現在に至っている。正門には「創校1895年」とあり、校庭には「国民教育発祥地」の記念碑が建てられている。
一方の「国語学校」は師範部(18~30歳の日本人教師育成)と語学部(台湾人対象の国語科、日本人対象の土語科)が設置され、いずれも通訳育成が行われた。明治30年に南門街に校舎を移転し、明治35年には師範部に15歳以上の台湾人を対象にした科を設けた。その後「台北師範学校」「台北第一師範学校」と改称し、戦後は中華民国政府に接収され、「台北市立師範専科学校」「台北市立師範学院」「台北市立教育大学」と改称して現在に至っている。