ひだまりカフェのレシピ[10]
自然にできるようになったとき
ひだまりカフェのレシピ[10]
自然にできるようになったとき
ようやく朝夕は秋の気配が濃くなって夜になると外でしきりに虫が鳴いています。梅雨らしい静かな雨が降らぬ代わりに、記録的な大雨の多かった今年、穏やかな秋の到来にはほっと息をつく思いがします。
このところ、八十代半ばの母の調子が悪く、自分一人では少しも食が進まず、体力が落ちて寝込んでしまいました。毎日通っているので、何かと老いということを考えさせられます。今回は少しレシピの趣旨から外れるかもしれませんが、母の世話をしながら考えたことを書こうと思います。
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母は働き者で頑張り屋。自分のことは二の次にして家族のことに一生懸命というある意味でその世代の典型ともいえる生き方をしてきた人間です。認知症の父を長年介護し、その父を見送った昨年頃から今度は自分も認知症になりました。話は普通に出来ますが、何度も同じことばかり言い、大事なことはわからなかったり忘れてしまったりするので不安そうです。一人でいると間がもたぬらしく、一人暮らしをしきりに寂しがります。
娘たちが摂食障害になり、私自身否応なく自分の育ち方を振り返ってみるようになってから、それまであまり疑ってみたことのなかった“一生懸命に頑張る”母の生き方に少し距離を置くようになりました。“何でも頑張りさえすればいい”という考え方、“きれい”を何にも優先する考え方など、無意識に信じ込んできた母に由来する価値観を私の方はある程度方向転換することを余儀なくされたのです。
今、老いて考え方の特徴が煮詰まって濃くなった感じの母を見ていると、元々どこか自信がなく心配性なところもあった母はやや強迫的な頑張り精神と潔癖症とで自分を覆い隠していたのではないかと思ったりします。認知症は仕方のないことながら、あまりにも“自分”がなくて、自分のために美味しいものを食べる、楽しいことをするなどと考えてみたことさえなかったのでしょうね。自分の役割がなくなった今ただ茫然としている、そんな様子なのです。
認知症の進行の中でだんだん世界が薄れていくような、足元が崩れていくような不安はどんなにか居心地の悪いことだろうと想像しつつも、“もう大丈夫”、“私は大丈夫”と本当は大丈夫ではないのにひたすら自分の今の状態を認めまいとする母に、いらだったりします。でも、明日は我が身と身につまされたりもします。親の介護は切ないものです。
ではこれから私はどう生きようかとしきりに思うのですが、なるたけ柔軟に、なるたけ頑張らず、なるたけ自分を大事にし、いつも何を感じているかを自分に問うてやり、いつも(ある程度は)自分に満ち足りている。そして外の世界にも柔らかく開いている…。賢治みたいですけれど、そんなシニアに私はなりたいなどと母を見ながら思うのですよ。老いなどは思う通りにはいかぬものとわかっているのだけれどね。
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摂食障害に悩まなくなるというのは、でもまさにそういうことが自然にできるようになったとき。本人さんたちが回復に向かい、すがすがしい笑顔を見せてくれるとき、あぁ、私はとっくに追い越されているなとよく思います。
病気とのつきあいは苦しいものでしょうけれど、それに見合うご褒美はたくさん用意されているような気がします。本当に私ももう少し早く気付けていたらなと思うことが多いもの。
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MK/yy[201410ひだまりカフェbooklet No.16掲載]
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