ひだまりカフェのレシピ[02]
自信がない≒自身がない
ひだまりカフェのレシピ[02]
自信がない≒自身がない
「いくら頑張っても、いくら頑張っても、いくら頑張っても、自信がない。」
最近、ある本人会の参加者から聴いたこの言葉が、耳に残って消えません。たぶん、無意識のうちに「いくら」と三度繰り返されたのでしょうが、そうやってずっとずっとずっと頑張って生きてこられたのだと思うと切なくなります。この自信のなさは多くの本人に共通し、それが食の症状なしには過ごせない所在のなさを作り出しているようです。
自信のなさは、自己評価の低さの現われだといいますが、では、何がそんなに低い自己評価を生むのでしょう。“中身”のせいなのか、“感じ方”のせいなのか。本人や家族のお話からは、むしろ、能力もあり、人柄もよくといった本人像が浮かんできますから、“中身”のせいではなさそうです。“こんな自分では駄目だ”とすぐに感じてしまう心、もちろんその同じ心が、一方では向上心を生み、本人をぐんぐんと成長させてきたには違いないのだけれど、そんな心の感じ方の過剰が本人を苦しめているのではないでしょうか。
では何故、そう感じてしまうのか、感じ過ぎてしまうのか。生来の性格もあるしれませんが、やはり、家庭や教育や社会的な環境などに影響された長年の習慣によるところが大きいでしょう。かくいう私(母親)もかなりな自信不足に長年悩んできましたし、お母様方も口々に私も私もと自己評価の低さを訴えられます。もしかしたら、本人の育った家庭の中でいつも「こんなことでは(ちゃんとしつけなきゃ、よそではもうやってる、受験に間に合わない等)」と落ち着かぬ気持ちが蔓延していたかもしれない。また、学校で成績、部活のことなどで煽られたり叱咤激励されたり、友達関係に乗り遅れないよう必死になったりしたかもしれない。世の中ではテレビを始め、あらゆる情報が、先へ先へ、もっとよいものがこんなにありますよとばかりに人の気持ちを引こうと競い合っています。大きく捕らえると今の時代は、人が“昨日と同じ自分であること”を許されない時代なのかもしれません。でもそれは一体、人間として健全な環境なのかしら。
パソコン初心者の私は、さっきから“自信がない”と打つたび、“自身がない”と変換されて、やれやれと思っていたのですが、実はこの誤変換、案外な真実を含んでいるのかもしれません。毎日違う自分は果たして自分といえるのか、自分がなくて果たして自信が持てるのか。自信のなさの原因には、もっと個人的な複雑な家庭の事情もあるかもしれません。でも、それはそれとして、もしかしたらこんな環境さえをも律儀に受けとめて、その要求を満たせないのはみんな自分のせい(人間関係が苦手、思うように頑張れない、子育てがうまくいかない、試験や就職が思い通りにすすまない等)と思い過ぎてはいませんか。自分の中にどんどん先へ行く世の中をまるごと引き受けようとしてはいませんか。
悩みに立ち止まるのは、とてもよい機会です。本人も家族も、自分にとって本当に大切なものは何なのか、かけがえのないものは何なのか、今これだけは手放せないと思うものは何なのか、じっくり考えてみませんか。他のことは軽く手放す気持ちになってもよいのです。不安のあまり、あれもこれもと欲張る必要はないのです。“今日”、“大切なことが一つ”出来たならそれで自分をよしとする習慣を新たに手に入れることが出来ればきっと、自分の輪郭もよりはっきりとし、自信も増してくるのではないでしょうか。
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MK/yy[201201ひだまりカフェbooklet No.4掲載]
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