川北 浩
令和8年3月15日2輪222台撮影イベント 会場発表
川北 浩
代表 川北 浩
生年月:昭和和36年12月
座右の銘:有言実行 自分がされて嫌なことは人にしない
尊敬する人:本田宗一郎、高杉晋作、織田信長、父母
口癖:面倒くせえ、まいいか、知った事か
突き抜けて、往ける処迄
速度の無向側に真実はきっとある
覚醒すれば人はより高位な存在に進化する
転倒しても、多分次の周回はある
1960年代
広島県に生まれる。
戦争の余韻と、戦前の価値観が色濃く残る時代背景の中で育つ。
1970年代
舟入小学校に入学し、小学5年まで在籍。
その後、廿日市市の 宮内小学校を卒業。
1980年代
広島学院中学校・高等学校 に進学。
厳格な学習環境の中では異端的な存在でありながら、
校外では自由奔放に振る舞う二面性を持つ時代を過ごす。
高校卒業後、河合塾 にて受験勉強に取り組む。
1990年代
福岡大学 工学部 機械工学科 を卒業。
バイク、レース、ロックに没頭し、
速度・機械・音楽といった感覚的世界に深く浸かる。
大学卒業後、
蔵田金属株式会社(現・キーレックス株式会社) に入社。
自動車メーカー関連の設計部門(マツダ2B設計)に配属され、
設計・ものづくりの基礎、組織の論理、下請構造の現実を体験する。
過重労働により心身を崩し、退職。
その後、
パソコン技術の将来性に可能性を見出し、
建築システム会社 スーパーソフトウエア に転職。
エンジニア志望で入社するも営業所に配属され、
結果として営業成績により優秀社員表彰を受ける。
一方で、過度な営業手法に違和感を覚え、退職を選択する。
社会人としての経験を重ねる中で、
バブル崩壊後の日本社会における
前例主義や、挑戦が評価されにくい構造を、現場で実感する。
2000年代〜2010年代
事業領域の異なる 2度の創業を経験。
いずれも立ち上げから運営の最前線に立ち、
成功と挫折の双方を当事者として経験する。
資金調達、組織運営、意思決定の重さ、
事業が社会とどのように接続されるかを、
理論ではなく現場で学ぶ。
一時期、テクノ にて社長室室長の肩書で勤務。
よく言えば流通業、実態は「バッタ屋」。
社会の裏側を垣間見る経験となる。
2010年代後半〜2020年代前半
私生活および仕事の両面において大きな破綻を経験。
酒、対人関係、仕事上の失敗が重なり、
世間に背を向ける時期を過ごす。
表に出ることを控え、
長い時間を社会との距離を置いた状態で過ごす中で、
自分が何を失い、何を取り違えてきたのかと、
否応なく向き合うこととなる。
この期間は、
「個人の覚悟だけでは人は立ち続けられない」
「人が再び動き出すためには、支えとなる“場”と“構造”が不可欠である」
という現実を、理屈ではなく体験として深く刻む時間となった。
この経験が、
後の ひろしま熱狂創生構想 において、
“人が再起できる場をつくる” という思想の根幹を形づくっている。
2025年
「皆がバイクに夢中だった、あの熱狂をもう一度。」
という言葉を掲げ、
ひろしま熱狂創生構想 を立ち上げる。
同年7月、活動を本格始動。
SNSを中心に賛同者が集まり、
短期間で 500名規模の市民ネットワーク へと拡大。
同年10月12日、
酷暑の中で 二輪120台の集合イベント を実施。
市民主導による行動が、現実として成立することを示す。
あわせて、
ひろしまモビリティワールド事業に対し、
正式照会・情報公開請求・現地確認を実施。
行政手続の中で、構造的課題を可視化する活動を行う。
2026年(予定)
3月15日:二輪222台規模の集会イベントを開催予定。
4月1日:ひろしま熱狂創生構想を
一般社団法人として設立予定。
「対立ではなく、筋を通した対話」
「怒りではなく、覚悟を伴った行動」
を信条とし、市民の立場から地域の未来を問い続けている。
本構想の目的は、単なる施設建設ではない。
挑戦していい社会、再挑戦できる空気を、広島から取り戻すこと。
行政・企業・市民の境界を越え、
現場に立ち続けることを、自らの役割としている。
各自の専門分野の経験、知識を持ち寄って運営しています。
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