4月5日(日) 「イエスの車に」 ルカによる福音書11章45節~54節 寺田悳英牧師
イエス様は云われました。「あなたがた律法学者は不幸だ」。律法学者は律法を守ることによって、神の国に入ろうとしましたが、それは自分が入れないばかりか人を行き詰まりに追い込むのです。昔まだ路線バスが走っていない頃です。小樽に住んでいた1人のおばあさんが業商で札幌まで大きな荷物を背にかつぎながら歩いておりました。そこへトラックが通りかかり運転手がおばあさんに「乗って行きなよ」と云って荷台に乗せました。しばらく進んだ所で荷台のおばあさんを見ると、荷物を背負ったまま荷台に立っています。運転手はおばあさんに云いました。「札幌までまだだいぶあるので荷物を荷台に下ろしたらいいよ」。こんなトンチンカンを私たちもしています。私が伝道師だった時、明日からチャンと伝道師がつとまるかと心配しました。しかしいくら心配してもラチがあきません。イエス様は云われました。「明日を心配するな。私に任せなさい」。
4月12日(日)「明るみに」 ルカによる福音書12章1節~3節 寺田悳英牧師
12章2節「覆われているもので現われないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」。これは当時の諺(ことわざ)です。昔、四国松山でホステスが殺されるという事件がありました。犯人は同僚の女性でしたが、どこへ逃げたのか分かりませんでした。あと数日で時効を迎える時でした。ヒョンなことから犯人逮捕となったのです。諺の通りでした。しかし、この世には迷宮入りしている事件も少なくありません。聖書ではこの諺は最後の審判の時を云っているのです。人間死んだら一切が終るのではなく、死んだ人でも甦らされて最後の審判を受けねばなりません。それまで隠されていた罪もあらいざらい表に出されます。この審判にパスできる人はありません。人間はみな罪人だからです。しかしイエス様の十字架により頼む人はイエス様がその人を弁護して下さり、その人は天国に迎えられるのです。
4月19日(日) 「雀にまさる」 ルカによる福音書12章4節~7節 寺田悳英牧師
「体を殺しても、その後それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」。ローマ総督ポンテオ・ピラトはイエス様を裁判にかけた時、イエス様に云いました。「わたしはおまえを許すことも十字架につけることもできる」。するとイエス様は云われました。「だれでも神から与えられていなければ、私に対して何の権威もない」。イエス様はポンテオ・ピラトに対し毅然と立ち向かわれました。それは「体を殺しても、その後何もできない者」を恐れてはいなかったからです。人はイエス様を殺したとしても、その後どうすることもできません。しかし神はちがいます。神は人が死んだ後、人を復活させて神の国に迎えるか地獄に落とすかができるのです。イエス様はこの神を畏れて歩まれました。バプテスマのヨハネもこの神を畏れていました。ですから領主ヘロデ・アンティパスに首をはねられる時も毅然としていました。私たちもこの神を畏れて歩みたいと思います。
4月26日(日) 「聖霊の働き」 ルカによる福音書12章8節~12節 寺田悳英牧師
「しかし人々の前でわたしを知らないと云う者は私も神の天使たちの前で知らないと云うであろう」。「天使たちの前で」というのは最後の審判の時です。最後の審判の時にイエス様から弁護してもらえる人は最高に幸せな人です。反対にこの世でどんな恵まれた人であっても最後の審判の時イエス様から「あなたを知らない」と云われる人は最高に不幸な人です。パウロという人は自分の処刑が近づいた時こう云いました。「世を去る日が近づきました。わたしは戦いを立派に戦いぬき、決められた道を走りとおし、信仰を守りぬきました」。彼にこう云わしめたのは聖霊です。聖霊は私たちを神の国に結びつけて下さる霊です。「霊も弱いわたしたちを助け、わたしたちがどう祈ってよいか分からない時、霊みずから切なるうめきををもって、わたしたちをとりなして下さる」(ローマ8章26節)。私たちにも聖霊が注がれています。
5月3日(日)「主にある交わり」 ルカによる福音書12章13節~21節 寺田悳英牧師
イエス様は云われました。「どんな貪欲にも注意しなさい」。貪欲は「もっと欲しい」とキリがありません。しかしこの世の物をいくら溜めこんでも命を伸ばすことはできません。昔見た映画に先祖が埋めた金塊を数人の男が探しに出かけました。困難をのり越え金塊を見つけ出しました。ところが一人の男が仲間を裏切って金塊を馬車に乗せて逃げました。大きな湖の前まで来ました。男はいかだを作り、金塊を馬車からいかだに移し、湖のまん中まで来ました。「やれ、やれ、もう大丈夫だ。金塊は全部俺のものだ」と云った時、突然地震が起こり、いかだは金塊の重さで沈みかけました。金塊を湖に投げ捨てれば命が助かるのに、その男は金塊を手放すことができません。とうとういかだもろともその男は湖に沈んでしまいました。私たちもこの男のように財産やお金にしがみついて大切な命を見失わないようにしましょう。
5月10日(日)「からすよりも」 ルカによる福音書12章22節~26節 寺田悳英牧師
「からすのことを考えてみなさい。種もまかず、刈り入れもしない。しかし神はからすを養っていて下さる」。私たちはからすより価値のある者です。それなのに毎日クヨクヨと悩んでしまいます。ある信徒の方が証しをしてくれました。ある日会社に向かったのですが名古屋駅前で会社には行かず、ふと長野に向かう列車に乗りました。そして清里という所で下車して八ヶ岳のほうにむかって歩きました。だんだん人家も少なくなり景色も寂しくなって来ました。するとそこに一つの石碑が建っています。何が刻まれているのかと思って近づいてみたら詩編121編の言葉が刻まれていました。「汝を守るものはまどろみたもうことなし」。彼は思わずその塚にひざまづいて祈りました。どんな時も神は自分を見守っていてくれたのです。祈り終えて歩いた清里の景色の美しかったこと。神と共に歩む人生は美しいのであります。
5月17日(日)「野の花」 ルカによる福音書12章27節~28節 寺田悳英牧師
イエス様は云われました。「野の花を見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。それなのに栄華を極めたソロモンにもまさる装いをして下さる」。神は人が作る装いにまさる装いをして下さるのです。ある教会が牧師を招聘するのにあたり、2人の牧師を候補者に選び、2人に礼拝説教をしてもらうことにし、土曜日教会に来てもらいました。1人の牧師は明日説教する原稿を確認して寝ました。ところが次の日朝起きてみると原稿がないのです。礼拝時間となりました。もう一人の牧師から説教が始まりました。その説教は自分が準備した説教とよく似た説教でした。次に自分の番です。彼は「説教原稿をなくし、ごめんなさい」と云って一言祈って壇を下りました。さて午後から招聘委員会が行われ、どちらの牧師にするか話し合われました。招聘委員会は原稿を失った牧師を次期牧師に選びました。神にゆだねる美しさを感じたのです。
5月24日(日)「備える神」 ルカによる福音書12章29節~34節 寺田悳英牧師
喫茶店を経営しておられる若いご夫婦がいました。開店当初は順調な経営でしたが、5年ほどして客足がめっきり落ちて来ました。そこでご主人は牧師の所へ行って「日曜日も店を開けようと思うのでしばらく礼拝を休みます」と云いました。すると牧師は云いました。「日曜日は礼拝を守りなさい。お客が与えられるように祈りましょう。私も祈りますから。」牧師にそう云われて仕方なく日曜日はこれまで通り店を閉めて礼拝を守りました。すると半年もするとまたお客が来るようになりました。困った時こざかしい人間の知恵であれこれ対策を講じるのではなく、まず神の国を求めることです。そうすれば他の必要なものも与えられるのです。イスラエルの国がアッシリアから攻められた時イザヤは云いました。「主なる神はこう云われる。お前たちは主に立ち帰って静かにしているならば救われる。信頼こそ力である。」
6月7日(日)「信仰の火」 ルカによる福音書12章35節~40節 寺田悳英牧師
イエス様は云われました。「主人が婚宴から帰って戸をたたく時、すぐにあけようと待っている人のようにしていなさい」。主人が婚宴から帰って来る時というのはいつの時でしょうか。それは最後の審判の時です。その時イエス様は弁護者として来て下さいます。そのイエス様をお迎えできるよう待っている人は幸いです。しかし多くの人はいつ来るか分からない最後の審判の時など待っておれないとこの世の仕事や遊びにうつつをぬかしてしまいます。京都の平安教会に前窪望(のぞむ)という老信徒の方がおられました。前窪老人はいよいよ臨終が近づいた時、枕辺に小野一郎牧師に来て頂いて、それまでの自分の罪を告白なさり、そして天国に行けるよう祈って下さいと云われました。小野先生が祈られると前窪老人は「アーメン」と云われました。前窪老人は信仰の火をともしつづけられた1人です。
6月14日(日)「野の花」 マタイによる福音書6章28節 寺田悳英牧師
僕が同志社大学の神学部に学んでいた時です。ものすごく頭の良い先輩がいました。どの科目もトップの成績でした。彼はスポーツもよく出来る人で、神学部の野球部のピッチャーで4番バッターでした。彼が卒業して東京にある教会の伝道師として赴任しました。何があったのか主任牧師と意見があわず1年でその教会を止めました。次に赴任した教会でも半年ほどで止めました。そして関西のある教会の主任牧師になりました。今度はうまくやれるかと思いましたが、5年経たずに止めました。どこへ行っても5年ともたず、75才で牧師を隠退しました。学生時代あんなにもよく出来た彼なのに、教会ではどこへ行っても5年ともたずに終わりました。イエス様は云われます。「野の花を見なさい」。つらいことがあっても「ここで咲きなさい」と神が云われた場所でじっと耐えていかねばなりません。
6月21日(日) 特別伝道礼拝 尾島信之牧師
「大切なことは小さな声で語られる」 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章12節~26節
毎週水曜日に幼稚園児の前で聖書のお話しをするのですが、一年の最初と最後は必ず、コリントの信徒への手紙Ⅰ12章12節「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」を読むようにしています。昨年度、幼稚園での最後の礼拝で「私たち一人一人には手、足、目などいろいろな部分があるように、神様は一人一人を違うように創って下さっているのですよ」という結論になる話をしている途中に突然「僕と友達は違うけど、神様はそれで良いって言ってくれるよ」と教えてくれる子がいました。不意の合いの手によって、話のオチを言われてしまったのですが、おそらくその子は一年の最初にした話を覚えていて、それを心の中で大切に育んできたのだと思い、わたしはとても嬉しくなりました。「自分と友達が違う存在であることを神様は知っていて、一致出来なくても受け入れてくれている」という神様のことを信頼する姿がそこにはあります。大切なことは子供という小さな存在の声で語られることを思い知らされました。
6月28日(日)「真の希望」 ルカによる福音書12章41節~48節 寺田悳英牧師
初期クリスチャンたちは自分たちが生きている間に最後の審判が来ると思っていました。しかし最後の審判は来ませんでした。次の世代になると最後の審判の時なんて本当に来るのだろうかと疑問が湧いて来ました。しかし何万年先であろうとも最後の審判を見失った人生はツメを失った人生です。神がおられる以上、神がこの世の審判をなさり、天国に迎えられる者と地獄に落とされる者を決定されるのです。何万年先になるかも知れないことなど相手にしておれないというクリスチャンの方には、最後の審判はそんなに先のことと考えなくともいいのです。私は自転車に乗っていてトラックに衝突したことがあり、目が覚めるまで何時間たったのか、何日間たったのかかいもく分かりませんでした。最後の審判もそれと同じで、私たちが死んだら次に目覚めるのは最後の審判の時です。ですから死ぬ時まで目覚めていたらいいのです。