2021年4月4日(日)
「復活の喜び」 寺田悳英牧師
使徒言行録2章23節~24節
聖書はイエス様の復活があったかどうかについて議論はしていません。人間にとってどれだけありそうにないことでも神がなさると云うのなら神には出来ないことはないとの信仰に立って、もっぱら復活の意味を教えるのです。復活は死んだ人に与えられる最高のプレゼントです。それはイエス様が全人類の罪を贖うために真の犠牲になられた時に神から与えられるのです。真の犠牲となるには二つの条件を満たす必要があります。一つはイエス様ご自身に罪がないこと。もう一つはイエス様が全存在をかけられること。この二つが全うされる時、人間の罪は赦され、神の国に迎えられるのです。イエス様は聖なる神の子の命を下の下の死にまで下してくださいました。イースターがおめでたいのは一人イエス様が死から復活されたからではありません。それは私たちを神の国に迎えるための贖いが成就されたからです。
2021年4月11日(日)
「さし出す」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書 14章13節~21節
イエス様がある山の上で説教された時、聞いている人は男だけで5千人ほどでした。女、子供も含めると1万人はいたかと思います。夕暮れとなって皆がお腹を空かせました。しかしここには少年が持っていた5つのパンと2匹の魚しかありません。しかしイエス様はそれをここにもってきなさいと云われました。もって行くと、5つのパンと2匹の魚は全員が満腹するまでにふえたのです。どうしてふえたのかは聖書には記されていないので分かりません。しかし14章20節には「すべての人が食べて満腹した」とあります。私たちはお金が無くて嘆くことがあります。また能力が乏しくて嘆くことがあります。しかしイエス様は云われます。ないものねだりをするのでなく、今、自分に与えられているものを「私にさし出しなさい」と。イエス様にさし出せば、イエス様は不思議にもこれを用いてご自身の栄光にお用い下さるのです。
2021年4月18日(日)
「すぐに」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書 14章22節~33節
弟子たちだけでガリラヤ湖を渡っていた時です。途中で嵐になって来ました。舟は右に左に大きく揺れ出し、弟子たちの命が危うくなって来ました。そして「もうこれまでか」と思った時です。イエス様が湖の上を歩いて助けに来て下さいました。14章27節「イエスはすぐに彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』」。イエス様は「すぐに」助けのみ手をのべて下さるのです。私たちの中に困っている人を助けようとする時、「こんなことになったのはおまえが云うことを聞かなかったからだ」等々、グチを並べる人がいます。その人を本当に助けたいのかイヤ味を云いたいのか分からない場合があります。しかしイエス様はそんなグチは後回しです。まず私たちに助けの御手をのべて下さるのです。イエス様は今は天から私たちを見守っていて下さいます。安心してこの世の荒波を越えて行きましょう。
2021年4月25日(日)
「納得」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書 14章34節~36節
イエス様がゲネサレト地方に来られた時です。14章35節「土地の人々はイエスだと知って、付近にくまなく触れ回った」。私たちも何か困ったことがあったら1人で悩んでいないでイエス様に申し上げることが大切です。そうすればイエス様は必ず道を開いて下さいます。パウロは持病があり神に祈りました。「神様、この病をなおして下さい。そうすればもっと伝道の成果を上げることができます」。しかし神はなおしては下さいませんでした。しかしパウロに一つの納得を与えて下さったのです。それは持病があることによって一層病人の気持ちがよく理解でき伝道ははかどっていたのです。パウロはそれを知ってこの病と共に歩んでいこうと決心しました。この納得を与えて下さることこそ真のいやしです。復活のイエス様は今は天におられて、そこから聖霊をつかわし1人1人にこの納得を与えていて下さるのです。
2021年5月2日(日)
「大局」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書 15章1節~9節
ファリサイ派の人々はチマチマとした規則にこだわる割には根本的な教えを見失っておりました。以前京都の舞鶴市で大相撲の巡業が行われた時です。来客者に挨拶するため土俵にあがった舞鶴市長が脳梗塞でその場に倒れました。男たちは見守るだけでどうすることも出来ません。すると観客の中にいた女性看護師たちが土俵にあがって早速応急処置をとりました。おかげで市長は一命をとりもどすことができました。しかし女性看護師たちが応急処置をしていた時、場内アナウンスが流れました。「女性の方は土俵から下りて下さい」。アナウンスされた方は「土俵は男だけのもの」という規則にこだわって命を守ることの大切さを見失っていたのです。このような主客転倒は私たちも時々起こしてしまいます。イエス様はこうした主客転倒を正すために世に来てくださいました。イエス様の光に照らされて歩んでいきましょう。
2021年5月9日(日)
「何度でも」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書 15章10節~20節
ユダヤには汚れるので食べてはいけないと禁止された食物が沢山ありました。しかしイエス様はその規定に反対でした。15章10節「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚す」。人の口から出るものとは人の心から出るものを云うのです。「あの人は清い」と云うのは人が思うことであり、神の前には人は皆罪で汚れています。その汚れから救い出すためにイエス様は来られました。キリスト教は「罪の赦し」ということを云いますが、しかし赦しの前になされていることがあります。それはイエス様の贖いです。汚れに対する神の怒りをイエス様が人間に代わって受けて下さいました。そこに赦しがあるのです。私たちは何度も罪を犯す者です。しかしイエス様はそれ以上に贖いの愛をもって「わたしのもとに来よ」と呼びかけて下さいました。罪を犯す以上にイエス様の愛を見上げて神の国に向かいたいと思います。
2021年5月16日(日)
「異邦人の女」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書 15章21節~28節
イエス様がティルスという町に行かれた時です。異邦人の女が来て「娘をいやして下さい」と頼みました。しかしイエス様は相手にされず素通りされようとしました。イエス様にとっては珍しいことです。しかしそれはイエス様は真の神を教えられたにもかかわらず真の神から離れているイスラエルの民にもう一度神を教えるために世に来られたからです。女は云います。「主よ、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」。イエス様は女に「立派な信仰だ」とおほめになりました。つまり主人はイスラエルの民のことです。小犬は異邦人です。主人の食卓から落ちるパン屑、つまり神の恵みは同じ恵みであると女は云ったのです。イエス様の恵みは無尽蔵です。悩みの時、苦しみの時、イエス様の恵みの大きさを思って、イエス様により頼みましょう。「あなたがたはこの世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」
2021年5月23日(日)
「証人」 寺田悳英牧師 使徒言行録 1章6節~11節
過越しの祭りの日から50日目、即ちペンテコステの日に、弟子たちに聖霊が降りました。ですからペンテコステを「聖霊降臨日」と云うようになりました。しかし聖霊、即ち神の霊はペンテコステ以前にも降っていました。創世記1章1節には「神の霊が水の面を動いていた」とあります。どうしてペンテコステを聖霊降臨日と云うのでしょう。それは同じ神の霊でも旧約時代の神の霊はこの世の歩みを守る霊であるのに対し、ペンテコステに降った神の霊はイエス様の証し人となる霊です。この神の霊は聖霊と呼ぶのです。聖霊はイエス様がお受け下さった十字架の意味を教えて下さいます。そして私達一人一人を神の国に迎えて下さることを教えて下さるのです。日々祈ってイエス様の十字架によって私たちの罪が赦されていること、そして一人一人が神の国に迎えられることの証人として歩みましょう。
2021年5月30日(日)
先週の証しの概要 寺田きくみ姉 ヨハネによる福音書 14章1節
「主に導かれて」
私は1967年クリスマスに受洗しました。「草の根を食べても生きて行ける」との理由で1970年、寺田と結婚しました。5年後、夫が伝道師として岡山教会に赴任し、以降45年「心をさわがせるな、ただ主を信じなさい」(ヨハネ14:1)に力を与えられ、いつも洗礼の原点にもどり主イエス様につながっていること、「自分の力を捨て」(詩46:11)主にお任せして生きることを教えられました。感謝です。4年前のことですが、長男が脳梗塞で倒れ、左半身マヒ、医者からは車イス生活と告げられ、あわれで悲しく苦しく情けなさの圧力に負けそうになりました。「あなたを耐えられない試練にあわせず、のがれる道も備えて下さる。」(第Ⅰコリント10:13)の御言葉に励まされました。神さまの憐みと皆様の祈りとリハビリにより回復し、歩くことも話すことも出来、今は仕事もできるようになり感謝の日々です。
2021年6月6日(日)
「四千人」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書15章32節~39節
イエス様は7つのパンと魚少々で四千人の人の空腹を満たされました。以前にも5つのパンと2匹の魚で五千人の人の空腹を満たされました。これらの奇跡はいずれもイエス様が無尽蔵の恵みのお方であることを教えています。札幌におりました時、奉仕もよくなさる老婦人が他教会から転会して来られました。しかしこの老婦人は暫くすると「前の教会ではこうしていた」という意見が強くなって来ましたので私は注意しました。すると教会に来なくなりました。家庭訪問をしてもお手紙を書いてもラチがあきません。半年ほどした時、神は「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」と教えて下さいました。彼女が教会に来られなくなったのは残念でしたが、いつの日か神の国に迎えられたらそこでは様々な誤解も解けてまたお互いうちとけて語り合うことが出来ることを教えられました。
2021年6月13日(日)
「神様が味方」 寺田悳英牧師 士師記7章1節~3節
イスラエルの国に、毎年秋になるとミディアン人が攻めて来ました。イスラエルの人々は神に助けを求めました。すると神はギデオンという若者を与えて下さいました。神はギデオンに云います。「わたしはイスラエルの国を救うためにあなたを指導者とする」。ギデオンは驚きます。か弱い青年に過ぎなかったからです。すると神は云われました。「戦うのはあなたではない。わたしが戦うのだ。あなたは私の云うことについて来さえすればよい」。ギデオンは立ち上がりました。たった300人の兵をもって15万人のミディアン人と戦いました。ギデオンは神がお命じになった通り、夜襲をしかけました。突然襲われたミディアン人はくらがりの中で同士討ちが始まりました。そして全滅したのです。私たちもつらいこと、どうしてよいか分からなくなることがありますが、ギデオンを助けて下さった神が味方であることを覚えたいと思います。
2021年6月20日(日)
「それでええ。私が共にいる」 榎本栄次牧師 ヨハネによる福音書3章16節~21節
福音は「神は独り子をお与えになるほどにこの世を愛された」に要約されます。神が愛された「世」は「混沌と、闇が覆っている」(創世記1:2)ところです。光に対する闇のような世界のことを示します。そこは、立派な完成された世ではなく、闇に包まれて混沌の支配する、まことに憐れまれるべきこの世です。神はそのような「世」を作りそれを良しとされ、独り子をお与えになるほど愛されたのです。神は世を信じたのではありません。神を信じつつも、「傷ついた葦」のように弱さと矛盾をかかえるこの世を愛されるのです。
イエス・キリストは十字架にかかって、復活され、私たちの贖いとなられた。ここに神の愛があります。どんなに弱い者であってもそれでいいよ、もう一度頑張ってみようと待ってくださるのです。その時こそ大切な福音を聞く機会です。
2021年6月27日(日)
「時のしるし」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書 16章1節~4節
ファリサイ派の人々はイエス様をこの世のご利益を与えてくれる方とみなしました。そしてもっと奇跡を起こしてほしいとせがみました。その彼らにイエス様は云われます。「あなたたちは時のしるしを見ることができないのか」。イエス様は単に奇跡を行われたのではなく、実はそのことを通して御自身が時のしるしであることを示そうとされたのです。即ち旧約時代を新約時代に切り変えた時のしるしです。イエス様はヨナのしるしのほかにはしるしは与えられないと云われました。三日間魚の腹にのみ込まれたヨナが三日目に陸地にはき出されました。それは十字架の死から三日目に復活されたイエス様を示しています。ヨナのしるしのほかしるしは与えられないことはイエスがなされた沢山の奇跡はみなイエス様の奇跡をさし示しているということなのです。復活のイエス様こそ私たちを神の国に導いて下さるのです。
2021年7月4日(日)
「豊かな主」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書 16章5節~12節
イエス様の伝道旅行は1週間から2週間にわたって行われました。その時弟子達は1~2週間分のパンを持参することにしていました。ところがこの日はパンを持って来るのを忘れたのです。弟子たちは「だれが忘れたのか」なじり合いとなりました。これをご覧になったイエス様は云われました。「信仰の薄い者たちよ。覚えていないのか。パン5つを5千人の人に分けたとき残りを幾篭に集めたか」。つまり恵深い私がいるのだから責任追及はそこそこにしなさいと云うのです。失敗を繰り返さぬために原因をつきとめておくことは必要ですが、それが分かったならネチネチとこだわる必要はないのです。イエス様の恵みは単にこの世の中のことだけではありません。「あなたがたは心を騒がせるな。私を信じなさい。私の父の家には住まいが沢山ある」。このイエス様の恵みにつながって神の国をめざしましょう。
2021年7月11日(日)
「カインとアベル」 寺田悳英牧師 創世記 4章9節~16節
カインとアベルという2人の兄弟がいました。ある日2人は神に献げ物をします。百姓であった兄カインは農産物を、羊飼いであった弟アベルは羊の初子を神に献げました。しかし神は弟の献げ物を喜んで受け入れ、兄の献げ物をかえりみませんでした。兄は神から差別を受けたと思って、神によしとされた弟をうらみ遂には殺してしまいます。ヘブライ人への手紙11章4節にはこう述べられています。「信仰によってアベルはカインより優れたいけにえを神に献げた」。献げたものが上等であるとかということではなく、アベルは神への感謝する信仰をもって献げたのです。兄にはその信仰がありませんでした。神はえこひいきをすると考えた所から殺人という差別が起こったのでした。私達は神はえこひいきはされない正しいお方であるということを知って、差別して止まない自分の心と闘って行きたいと思います。
2021年7月18日(日)
「神の子」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書16章13節~20節
イエス様が弟子達とフィリポ・カイザリアという町に来た時です。イエス様は弟子達に尋ねられました。「世の人々はわたしのことを何と云っているか」。世の人々はイエス様のことを救い主が現れる直前にその道備えをする預言者だと云っていましたから弟子達はそのように答えました。するとイエス様は云いました。「ではあなたがたはわたしをだれと云うか」。つまりイエス様のことを告白する人はあの人がこう云っています。世間の人々はこう云っていますというだけでは十分ではありません。自分はこう思うというのでなくては告白したことになりません。ペトロが云いました。「あなたは神の子です」。しかし彼が告白した神の子とイエス様ご自身が示される神の子との間には、言葉としては同じ神の子でも内容的には大きなひらきがありました。しかし彼が自分はこう思うと述べたのは大きな前進でありました。
2021年7月25日(日)
「復活の主」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書16章21節~28節
イエス様の負われた十字架には二つの面があります。1つはユダヤ教の指導者たちによって「十字架につけられた」という面です。もう1つはイエス様がご自分から十字架を引き受けたという面です。そのことをヨハネによる福音書10章18節でこう述べられています。「だれもわたしの命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」。この二つの面を知らなかったペトロはイエス様が十字架を負うと云われた時、「そんなことがあってはなりません」とイエス様をたしなめました。イエス様はそのペトロに「サタンよ。引き下がれ」と云われました。罪人を神の国に導くにはどうしても神の御子の命が献げられねばならなかったからです。そして「自分の十字架を負ってわたしに従え」と云われました。それは復活のイエス様が十字架の道を導いて下さるからです。復活の主を見上げていきましょう。
2021年8月1日(日)
「平和」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書17章1節~8節
ペトロがイエス様に「あなたは神の子です」と告白した時、イエス様は「わたしはまもなく十字架につく」と云われました。ペトロは驚き、心が暗くなりました。そんな時今日の山上での出来事が起こりました。イエス様は3人の弟子を連れて、ある山に登りました。頂上に着くとそこでイエス様のお姿が真っ白に輝きました。これはイエス様が神と共におられる神の子であることを神がお示しになったのです。ペトロは後年ペトロの第2の手紙の中で次のように云いました。「イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに巧みな作り話は用いませんでした。わたしたちはキリストの威光の目撃者なのです」。ペトロは何度もヘマをしますが、そのたびに立ち上がらせたのはあの山での目撃でした。今日は平和聖日です。真の平和は神との平和が樹立されてはじめて生まれます。イエス様は神との平和に招く方です。このイエス様を仰ぎ、真の平和を求めて歩みましょう。
2021年8月9日(日)
「あがない」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書17章9節~13節
私は教会の門をたたいた頃、イエス様の十字架を敗北だと思っていました。ですから教会は何故屋根の上に高々と十字架をかかげているのか不思議に思いました。ある時、あの十字架は負け犬があれを見て自分を慰めるのだと思いました。しかしイエス様の十字架が単なる敗北だとすると、イエス様は敗北しないように逃げることもできたのです。イエス様は十字架の刑が待つエルサレムの町にあえてとどまられました。それはご自身の十字架を通して罪人の私たちをあがなうためでした。「あがない」を辞書でひくと「お金や物を出して罪や失敗の穴うめをすること」とあります。イエス様は全存在をかけて私たちを罪の支配からあがなって下さいました。イエス様から愛を受けた人はその愛に応えて歩もうとします。私たちもイエス様のあがないの愛を受けた者です。ですからこの身を少しでもイエス様の愛に応えて歩みたいと思います。
2021年8月15日(日)
「生きた信仰」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書17章14節~20節
イエス様は「からし種一粒ほどの信仰があればこの山に向かって『ここからあそこへ移れ』と命じてもその通りになる」と云われました。その言葉を信じて自分の家の前の山に「ここからあそこへ移れ」と祈り続けた人がいました。しかしいくら祈っても山は移りませんでした。私達は「からし種一粒の信仰」と云うと「小さな信仰」と理解しがちですが、ここでは「生きた信仰」ということです。からし種は石ころのように無機質ではなく、たとえ小さくても生きています。生きた信仰とは神のみ心は成るという信仰です。逆に云えば神のみ心でないことは成らないのです。ですから自分の希望や願いを追求するとしても、それが成るかどうかは神のみ心であるかどうかにかかっています。なにがなんでも自分の思いを通そうとするのは信仰ではなく信念の類です。ですから自分の願いも神のみ心であるよう祈らねばなりません。
2021年8月22日(日)
「受難予告(2)」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書17章22節~23節
2021年8月29日(日)
「主の鍛錬による導き」 安村聡子長老 ヘブライ人への手紙12章1節~13節
『人はやがて皆死ぬのに、私は何のために生きているのか』生きていることに空しさを覚えつつも、生き生きと希望に満ちて生きていきたいと、相反する思いを持ちつつ、闇の中にいました。主は私に新しい命を与えて下さり、生かされていることへの感謝と喜び、言いようのない平安を与えて下さいました。しかし受洗より25年が経ち、主への感謝を忘れ徐々に古い自分に引き戻されていた時、試練が与えられました。主は試練の中、力強い御手をもって私を導き、大きな祝福を用意していて下さいました。クリスチャンとして成長していくために、毎日自分で聖書を読んで御言葉を頂き、主に聞き、祈る事が大切であること。また、主の十字架の贖いは完全である事を教えられました。私は罪人です。でも、主はそのままの私を愛していて下さり、過去に犯した罪も今犯している罪もこれから犯す罪も、全て完全に贖って下さった。そして日々神の国へと導き、やがて完全な神の国へ入れて下さる約束が与えられている。主は試練を通して、そのことを教えて下さいました。振り返ってみれば、全ては主の御手の中。主に希望をおいて歩みたいです。
2021年9月5日(日)
「つまずかぬように」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書17章24節~27節
ユダヤでは年に一度神殿税を納めることになっていました。しかしイエス様は納めていませんでしたので役人がペトロに「あなたの先生は神殿税を納めないのか」と問いただしました。ペトロは「納めます」と返事をしました。このやり取りを家の中で聞いておられたイエス様はペトロに云います。「王は税金を一般民衆から集めるのか、それとも自分の子どもから集めるのか」。ペトロは「一般民衆からです」と答えると、イエス様は云われました。「それなら私の父なる神が祭られている神殿には私は税金を納めなくていいわけだ」。しかしそう云われたイエス様が「役人たちをつまずかせぬために今は納めておこう」と云われました。人をつまずかせぬようにすることは何でも相手の云いなりになることではありません。しかし相手が自分の云うことを理解するようになるまで「待つ」ということも大切なことです。
2021年9月12日(日)
「子どものように」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書18章1節~5節
だれが一番偉いか。これは弟子たちの一番の関心事でした。そんな弟子たちにイエス様は云われました。「子どものようにならなければ天の国に入ることができない」。つまり謙遜な人になりなさいと云われたのです。しかしイエス様は「謙遜な者になれ」ですまされず「子供のようになれ」とつけ加えたのは何故でしょうか。私たちは謙遜に見せかけて、しばしば謙遜傲慢になる場合があります。子供は自分が謙遜であるかどうかも知りません。くったくがないのです。「小僧の神様」という小説があります。一人の紳士が小僧にお寿司をおごってやる話です。その紳士はその晩中々寝付けません。自分が小僧にいいことをしてやったということが気になって眠れないのです。どうしたら子供のようにくったくなく生きられるのでしょうか。地獄に落ちるより外なかった者のために命を捨てて下さった方をあおぐしかありません。
2021年9月19日(日)
「主を見上げ」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書18章6節~9節
「人間、そのままでいい」と云う考えがはやっています。なにも無理することはない。ありのままでいいと云うのです。確かに現代人は「ああしなければならない」「こうしなければならない」と云うことが多すぎてストレスがたまっています。そんな時「人間そのままでいいんだ」と云われるとなにかホッとします。しかしこの考えはひと時人間をホッとはさせてくれますが、決して人間を真に救うものではありません。人間そのままでは決して神の国には入れません。人間を神の国へ導くのは人間の罪をすべて体をはってつぐなって下さったイエス様を見上げる時です。使徒言行録3章12節「わたしたちが救われるべき名は天下にこの名のほかはありません」。自分がどんなに愚かしい者であっても、また自分がどんなに罪深い者であっても、私たちの罪を代わって一切負うて下さった救い主イエス様を見上げていきたいです。
2021年9月26日(日)
「迷える羊」 寺田悳英牧師 マタイによるマタイによる福音書18章10節~14節
イエス様は一つのたとえ話をされました。羊飼いが百匹の羊を飼っていて、その内の一匹が群から迷い出たのです。ここに出て来る羊飼いはイエス様のことです。そして群から迷い出た羊はいわば人生の落伍者です。ところで私たちは自分をかえりみて、迷える羊でしょうか。それとも迷わない99匹の羊でしょうか。確かに迷わないで生きることは理想です。しかし理想通りに歩けている人は1人もいません。ある人は病気でつまずき、またある人は受験でつまずき、ある人は恋人にふられ、またある人は仕事でつまずきます。人はなにかかにかでつまずいているのです。そんな私たちのためにイエス様はこの世に来て下さいました。イエス様は十把ひとからげで愛される方ではありません。1人1人の身になって、その人に一番いい道を備えて下さるのです。今日も「さあ、わたしと一緒に歩んで行こう」と呼びかけてくださいます。
2021年10月3日(日)
「忠告」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書18章15節~17節
私が愛知教会に赴任した時、前任牧師が長らく牧会されたせいか公私の区別がつかない有様でした。いくら長く牧会されても教会はその牧師のものではない。教会はイエス様のものです。私は教会員にそのことをコンコンと言いました。するとある日、一人の女性会員が牧師館を訪ねて来て云いました。「先生、先生のおっしゃることは誠にその通りです。しかしもう少しやさしく云って下さいませんか。先生のおっしゃり方はトゲトゲしくて、聞いている者はいたたまれなくなります。ですから云うべきことは云われても愛をもって信徒をつつむように云って下されば私たちも改めていきます」。彼女は牧師館までわざわざお訪ね下さって直接云いにくいことを私に云ってくれました。私はそこに彼女の愛を感じました。彼女はイエス様の赦しの愛を信じていたからこそそう出来たのでしょう。忠告は当人に云うのが一番です。
2021年10月10日(日)
「試練」 石津教会 平池芳樹牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章13節
13節だけを聖書箇所として選びましたが、前の12節の意味を考えると分かりやすくなると思います。信仰に堅く立っていると思っている者こそ、気をつけなさいという警告です。しかし、13節の「人間に耐えられないほどの試練は与えない。逃れる道をも備えて下さっている」という神の救いの言葉に私たちは大きな励ましを頂きます。伝道者パウロはこのコリントの町の特質もよく知っていました。人口60万の裕福な世界的港町であり、「コリント風に生きる」というのは金の力で自由奔放に生きるという意味です。宗教的にも多くの宗教があり、そこでは人間的な力を過信したような宗教観も生まれやすかったでしょう。コリントの町に限らず、人間のエゴがそうさせるのかと思いますが、自分の持っている力だけでどうにかしてやろうという思いは、信仰から逸脱しはじめているのかもしれません。
2021年10月17日(日)
「その中に」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書18章18節~20節
イエス様は伝道する所の数がふえて、弟子たちを2人ずつ組にして遣わされました。しかし弟子たちは伝道先で苦労します。ついつい「ここにイエス様がいて下さったら」と思うのでした。伝道地からショボくれて帰って来た弟子たちにイエス様は云われます。「2人また3人がわたしの名によって集まるところにはわたしもその中にいるのである」。イエスの名とはイエスという呼び名のことではありません。イエス様が心血を注いで行われたことをイエスの名と云うのです。イエス様が心血を注いで行われたこととは罪人のために贖いの業をなし、罪人を神の国へ導くことでした。そのことを信じて集まる所にはイエス様が共にあって下さるのです。「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」この約束の言葉はイエス様の名を信じて集まる人に約束されました。イエス様と共に歩む道は神の国への道です。
2021年10月24日(日)
「赦しなさい」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書18章21節~35節
「人を赦す」ということは容易なことではありません。ペトロはイエス様に尋ねました。「人を赦すのは7回までですか」。それに対してイエス様は云われます。「7回どころか、7の70倍までも赦しなさい」。7かける70は490です。ですから490回赦して、491回目から赦さなくともよいといわれているのではありません。クリスチャンはどこまでも赦すのです。勿論悪いことをしている人には注意をします。しかし注意をしても聞いてくれない人は赦さないというのではありません。注意をすることと赦すことは別のことです。クリスチャンが人を赦すのはやさしい心の持ち主だからということではありません。神がその大切な御子の命を犠牲にして私たちを神の国に迎えて下さいました。その神の大きな愛が注がれていることを知っているがためにクリスチャンはトコトン赦していくよういわれているのです。
2021年10月31日(日)
「ぶどうの木につながる」 磯野英子長老 ヨハネによる福音書15章4節~5節
結婚して主人の両親と一緒に住んでみると、驚きの連続でした。両親の毎日は、祈りによって始まり、祈りによって終わるのです。それまでの私は、真剣に祈る、まして他人の事を祈る事はありませんでした。両親はいつも主を見上げ、感謝の毎日を過ごしていました。そうした中私は神を信頼するという気持ちはなく、悶々としている時、澤田静夫牧師から、受洗は信仰の完成ではなく、スタートなんですよと励ましを頂き受洗させて頂きました。来年で結婚50年の節目を迎えますが、結婚式で澤田牧師から頂いた御言葉が、ヨハネによる福音書15章4~5節の「私はぶどうの木、私につながっていなさい~」という聖句でした。あの磯野の両親のように、主を見上げ、主のぶどうの木につながっている生き方ができますように願っています。
2021年11月7日(日)
「救いの完成」 寺田悳英牧師 テサロニケ人への第1の手紙4章13節~18節
「救いの完成」とは神の国に入ることです。私たちが神の国に迎えられるために救い主イエス様は十字架について下さいました。十字架は神の国に入るための第一歩です。しかし神の国に入るにはそれだけではダメで、やはりイエス様がもう一度神のもとからこの世に来て下さって私たちを引っぱり上げて下さらねばなりません。しかしイエス様はなかなか再臨して下さる気配がありません。天にあげられてからもう二千年が経つというのにいっこうにイエス様は来られる気配がありません。こうした疑問に対してペトロは云いました。「ある人たちが遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく1人も滅びないで皆が悔い改めるようにとあなたがたのために忍耐しておられるのです」(ペトロ第2、3・9)。私たちは自分の信仰を守ると同時に少しでも伝道に励まねばなりません。
2021年11月14日(日)
「2人は一体」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書19章1節~11節
イエス様は、結婚は神が2人を結びつけて下さったものであると云われました。日本国憲法には「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し」とありますから2人が努力すれば成立するのかと思ってしまいますが、これは2人の合意を無視した結婚はいけないといっているのであって、結婚が2人の努力だけで成立すると云った言葉ではありません。神がとりなして下さらねば結婚は成立しません。仮に一方が平安時代に生まれ、他方が令和に生まれたら2人は結婚どころか出会うこともできませんでした。また出会えたとしても、それで2人が生活を共にするとは限りません。神が2人を一体へ導いて下さるのです。この一体は肉体的一致、精神的一致、更には霊的一致を含んでいます。その意味では神は結婚によって大変な宝をくださいました。一体は最初からあるのではなく、様々な山と谷を越えて実現していくものです。
2021年11月21日(日)
「実を結ぶ」 寺田悳英牧師 ヨハネによる福音書15章5節
北海道に支笏(しこつ)湖という大きな湖があります。ある年のこと支笏湖畔にあるホテルに泊まった私は支笏湖を一周してみようと思いました。運動靴にはき変え、夜9時頃ホテルを出ました。予定では11時にはホテルに帰って来るつもりでした。ところが夜の12時になってもホテルに帰るどころか、ドンドン湖の奥へと入って行くのです。アスファルト道路は終わり山道へとさしかかりました。もうあたりはまっ暗ヤミです。私は恐ろしくなってきました。イエス様に祈りました。すると「恐れるな。私である」というイエス様の言葉が心に響きました。がぜん勇気が与えられました。それから10時間歩き続けてホテルに帰って来ました。さすがに体はグッタリしましたが、イエス様と一緒に歩いた夜道を思い出すと心は感謝であふれるのです。どんな時もイエス様と一緒に歩くことが「実を結ぶ」ことなのです。
2021年11月28日(日)
「幼な子のように」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書19章13節~15節
イエス様の説教が一段落すると、イエス様に祝福をしてもらおうとわが子をだいた母親たちがイエス様のところに来ました。これを見た弟子たちは母親をしかりました。それでなくてもイエス様は忙しい身です。せめて休憩時間はユックリ休ませてあげたいと思ったのです。弟子たちがしかった理由がもう一つありました。それは幼な子はイエス様の祝福を受けるに値しないと思ったのです。しかしイエス様は幼な子こそ神の国の祝福にふさわしいと云われました。私が岡山教会で伝道師をしていた時、教会学校の生徒が「今度のクリスマスに洗礼を受けたい」と云って来ました。私は中学生には洗礼は早すぎるのでないかと思いました。しかし主任牧師は信仰告白を読まれて「これなら洗礼を受けられる」と云われました。子供は早すぎると思った私は間違っていました。
2021年12月5日(日)
「永遠の命」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書19章16節~22節
永遠の命は五百才でも千才でも生きる命ではありません。それはどんなに長くとも罪ある命で必ずいつか滅びます。永遠の命とは神につながる命です。一人の男の人がイエス様に「永遠の命は何をすればよいか」と尋ねました。この問そのものがユダヤ教的な発想です。人はどんなに善い行いをしても、それでは永遠の命を得ることはできません。より善い行い以上に悪いことを考えるのが人間だからです。永遠の命は神が恵みとして与えて下さるものです。私たちはそのことをなかなか認めることができません。なんとかそれ相当の行いをして獲得しようとします。それは道理としては正しいのですが、その考え方で進むと私たちは反対に行きづまってしまうのです。イエス様は云われました。「恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12・21)。信仰とは恵み深い神を最後まで信じることです。
2021年12月12日(日)
「真の求道者」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書19章23節~30節
「金持ちが天国に入るよりもらくだが針の穴を通る方がまだやさしい」。では天国に入れる人がいるのでしょうか。イエス様は云われます。「人間にはできることではないが、神には何でもできる」。神により頼めばお金を頼みとしない生活ができるのです。神に望みをおく時、神は必要なものを必ず備えて下さるからです。ヘンリー・バンダイクという牧師が「もう一人の博士」という小説を書きました。聖書に三人の博士のことが記されていますが、この小説では博士はもう一人いたのです。彼は待ち合わせの時間に遅れ、あとからベツレヘムの馬小屋に行きました。しかし幼な子イエス様はエジプトに行った後でした。彼はエジプトでイエス様を捜しますが、見つからず30年して再びエルサレムに来ます。その間イエス様に献げるために持っていた宝物は人を助けるために使い果たしました。信仰者こそ真の求道者なのです。
2021年12月19日(日)
「身代金として」 寺田悳英牧師 マルコによる福音書10章45節
クリスマスには「イエス様のお誕生おめでとう」と挨拶をかわします。イエス様が私たちの救いのために十字架について下さったからです。しかし最初私はあの十字架の意味が分かりませんでした。あれは敗北の出来事だと思っていたからです。しかしある時、あの十字架は倫理的勝利の出来事と教えられました。人は常々立派なことを語っていてもそのために命が危うくなるとコロッとくつがえります。しかしイエス様は「神を愛し、人を愛する」生き方を十字架の死がせまっても変えられませんでした。私もこの十字架のあとに続いて行こうとしました。しかしどうしても最後まで続くことができません。私はダメな男と思いました。そんな私にイエス様は云われます。「わたしは身代金としてこの世に来た」。イエス様の十字架の一番奥深い意味はダメな人間の身代金として、私たちを神の国に迎えて下さることです。
2021年12月26日(日)
「恵みの世界」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書20章1節~16節
当時、ユダヤの労働時間は朝6時から夕6時まで12時間労働でした。ぶどう園の主人が1日1デナリオンの約束で労働者を雇いました。1デナリオンは家族の者が一日暮らしていける額です。ところで主人は夕方5時にも仕事にありつけない人を見て「ふさわしい賃金を支払うから」との約束をして雇いました。夕方6時になって賃金を支払う時が来ました。主人は夕方1時間だけ働いた人に1デナリオンを与えました。もらった人は嬉しいやらビックリするやら。これを見た朝6時から働いた人は1デナリオン以上もらえると思いました。しかしもらったのは1デナリオンでした。これは神の恵みの世界のたとえです。この世には2つの世界があります。1つは他者と比べて「良かった」「悪かった」という世界。もう1つは神がその日暮らしていけるだけの生活を守って下さる世界。幸せの原点は神の恵みの世界に気づくことです。
2022年1月2日(日)
「受難予告」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書20章17節~19節
イエス様の受難予告は三回ともほぼ同じ内容ですが、注意して読むとそれぞれの強調点があります。1回目の受難予告(16章)は「必ず殺される」とあります。人間の目にはどうなるか分からぬことも神の目には必ず殺されることになっていると云うのです。第2回(17章)は、イエス様は格好いい英雄気取りで死ぬのではありません。トコトン神のみ旨に従う死だということを云っています。第3回目は今日の聖書20章です。ここでは「異邦人に引き渡される死」を告げています。ユダヤ人にとって異邦人は最も忌み嫌った人種でした。イエス様はその異邦人の手にかかって殺されるのです。ユダヤ人にとってはユダヤ人の誇りがはぎとられる死を受けられるのです。イエス様はこのような死をお受け下さって、私たちの罪をぬぐって下さり、そして私たちを神の国に迎えて下さるのです。イエス様の十字架をより所として歩みましょう。
2022年1月9日(日)
「自我の変革」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書20章20節~28節
イエス様は弟子たち全員を集めて云われました。「異邦人の間では支配者たちが民を支配し、権力を振るっている。しかし、あなたがたの間ではそうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は皆に仕える者になりなさい」。このことはクリスチャンはたとえば会社で社長になってはいけない。いつも平社員でいなさいと云われたのではありません。クリスチャンでも社長になれる人はなったらいいのです。また一生平社員で歩む人も「よし」です。つまりクリスチャンたる者は地位がいかようであれ、人からもてはやされたいという自我を捨てなさいと云われているのです。人から偉い人だともてはやされるのを捨てることはなかなか出来ないことです。しかし聖霊がその人に降ると、聖霊はその人に神がして下さったことを教えて下さり、人からほめられることより神のために生きようとさせて下さるのです。
2022年1月16日(日)
「見えるように」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書20章29節~34節
イエス様がエリコの町に来た時でした。道のかたわで物乞いをしている2人の盲人がいました。彼らはイエス様が来たことを知ると大声で「イエス様、わたしたちを憐れんで下さい」と叫びました。イエス様が彼らを呼びよせ云いました。「何をしてほしいのか」。すると盲人は云います。「見えるようになることです」。当時盲人たちは差別のドン底で生きていましたから見えるようになることは切実な願いでありました。マタイ20章4節。「イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った」。イエス様の真に偉大な所は肉眼が見えるようにされるだけではありません。ご自身が神の国に私たちを連れて行って下さる救い主であることを見えるようにして下さるのです。ですから盲人たちは「ああ助かった」とだけで終わらず、そこからイエス様に従う生活が始まったのです。
2022年1月23日(日)
「権威ある教え」 迫田満寿枝牧師 マルコによる福音書1章21節~28節
主イエスは、ガリラヤで宣教活動を開始されました。カファルナウムの会堂で教えられた時、人々はその教えに驚いたのです。その中には漁師から弟子となった男達(4人)もいたでしょう。「驚く」と二度ありますが、最初の「驚く」はびっくりし転倒する程の驚きです。27節の「驚き」は、恐れを伴う今まで経験した事のない神的存在に触れた畏怖です。主の教えは「説教」は、律法学者のような律法を型通り解釈するのでなく、人々の心の奥深い所を揺さぶるものでした。その教えには権威と新しさがあったのです。会堂の中にいた悪霊につかれた男を、主は悪霊を追い出し「黙れ、この人から出ていけ」と叱責し癒されました。「黙れ」とはこの悪霊につかれた男に、「出ていけ」とは悪霊に仰ったのです。悪霊は私達と無関係ではないのです。私達も弱く悪霊に負け、主から悪霊を追い出して頂く必要があります。
2022年1月30日(日)
2022年2月6日(日)
2022年2月13日(日)
2022年2月20日(日)
2022年2月27日(日)
「信仰の実」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書21章18節~22節
ユダヤではいちじくの木は冬に葉が落ち、春先き新芽がふく少し前に実をつけます。従って春に葉が繁っているいちじくの木があれば、そこには当然実が沢山なっています。イエス様は春にいちじくの木を見つけ空腹であったために実をとろうとそのいちじくの木に近づきました。ところがそのいちじくの木には実が一つもありません。イエス様は云われます。「今から後いつまでもお前は実がならないように」。するとそのいちじくの木は枯れてしまいました。これはイエス様が弟子たちに教えられたのです。即ち、信仰生活もいくら外見を着飾っても、かんじんの実、即ち神への信頼がなければ早晩その信仰生活は枯れてしまう。神への信頼こそは信仰生活の命です。しかし神への信頼は目に見えませんから、見える所にばかり気を取られやすい私たちは、一層気をはって繰り返し新たに神への信頼を養わねばなりません。
2022年3月6日(日)
「イエスの権威」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書21章23節~27節
イエス様がエルサレム神殿で説教をしていると祭司長たちが「何の権威で説教するのか」と問い詰めました。イエス様は「わたしも尋ねよう。バプテスマのヨハネの権威は天からか。人からか」。「天から」と答えれば「では何故ヨハネを軽んじたか」と云われる。「人から」と答えれば天からの権威の持ち主だと信じる民衆が黙ってはいない。そのため彼らは「分からない」と逃げました。この逃げに対してイエス様は「では私も答えまい」と云われました。ヨハネと率直にむき合わない者は自分にもむき合わないことが明らかだからです。イエス様の権威は神からの権威です。その権威は罪人をきよめ、罪人を神の国に招く権威です。それはイエス様と率直にむき合うならば自ずと分かることです。ですから私たちはイエス様を避けないで、率直にイエス様とむき合っていきたいと思います。むき合うなら分かります。
2022年3月13日(日)
「二つのだまし」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書21章28節~32節
私たちは教会に来て二度だまされます。一度目は「教会に来なさい。教会は楽しいところですよ」と云われ来てみますと、しばらくすると少しも楽しい所ではないのです。楽しかったはずの奉仕も徐々に増えて来て「こんなはずではなかった」となります。献金にしても礼拝献金だけだと思っていたら、そのうち、イースター献金、クリスマス献金等々と多くなってついに嘆きも出て来ます。しかし教会にはもう一つのだましがあるのです。それは教会という所は人間の集まる所だと思っていたのに、ある日そこに「神との交わり」があることを教えられます。私もそうでした。教会で良いお話を聞き、礼拝後はあの人、この人とおしゃべりをする所と思っていました。ところがある日「神との交わり」があることに気づかされたのです。そこに気づかされると、どんな困難に合おうと神との交わりを深めていこうとするのです。これが二度目のだましです。
2022年3月20日(日)
「できることを」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書21章33節~42節
今日のたとえ話に出て来るぶどう園は私たちの人生のことです。神は一人一人に神の栄光をあらわすようにぶどう園を与えて下さるのです。そしてそのために神はいろいろな手を尽くしてぶどう園を守られるのです。ですから私たちは自分のできることをして神の栄光をあらわしていかねばなりません。かつてイタリアにバレンタインという修道僧がいました。修道院では絵画に励む人、讃美歌を歌う人、聖書を書き写す人等々いろんな業がなされていました。しかしバレンタインは何をやってもうまくやれません。すると神が示されました。「できないことを悩むのではなくできることをしてごらん」。そこで彼は悩んでいる人に聖書の言葉を書いて贈ることにしました。今日彼の誕生日2月14日は「聖バレンタインの日」としてチョコレートを贈る日となっていますが、もともとは聖書の言葉を贈る日だったのです。
2022年3月27日(日)
「あわれみの神」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書21章43節~46節
21章43節「神の国はあなたたちから取り上げられる」。ここで云われている「あなたたち」とはエルサレムの宗教指導者たちのことです。彼らは一般民衆を教える立場の者であって、イエス様から教えられる者ではないと自負し、律法を守ることによって神の国に行けると説きました。これに対しイエス様は神の国は神のあわれみによってのみ与えられるものだと教えられました。「恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12・32)。イエス様はそのことを分からせるために「放蕩息子のたとえ話」をされました。父(神)は放蕩に実を崩した息子(私たち)を迎えて下さるのです。「自分はこんなにもした」と自分の義を誇る所には実は勝利はありません。その生き方は早晩行きづまってしまいます。しかし神はそんな私たちを両手をひろげて迎えて下さったのです。神に感謝して歩みましょう。