2020年度説教概要
2020年4月5日(日)
「悪霊追放」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書8章28節~34節
悪霊の目的は何でしょうか。それは私達が神に向かって歩もうとすると、これを阻止することです。私達を神なしの人生へと追いやり、遂にはむなしい人生へと陥れることです。一旦悪霊にとりつかれるとなかなかそこから抜け出せません。しかしイエス様は悪霊を追放して下さるのです。岡山県に香登(かがと)教会があります。この教会に一人の青年が来ました。やがて彼は小説を書くようになり、一躍新進気鋭の作家になりました。彼のペンネームは正宗白鳥です。彼は有名になるに従って教会へは行かなくなりました。キリスト教信仰は彼にとって自分の野心を実現する手段だったのです。しかし晩年イエス様が彼を呼んで下さいました。「忠夫よ(忠夫は彼の本名です)、わたしのもとに帰っていらっしゃい」。
彼は「はい」と云いました。イエス様が彼から悪霊を追い出して下さったのでした。
2020年4月12日(日)
「復活のイエス様」 寺田悳英牧師
マルコによる福音書16章1節~7節
イエス様が十字架で死んだことは弟子達には思いもよらぬことでした。何か余程良からぬことをたくらんでおられたから神に裁かれたのだと思いました。しかしそれから三日目にイエス様は死から甦えられました。私は岡山教会の伝道師となって二ヵ月目に「もうこの教会では務まらない」と思いました。失敗の連続でホトホト自信を失ってしまったのです。もう京都に帰ろうと思っていた時、イエス様の言葉が心に響いて来ました。「明日のことを思い悩むな。その日の苦労はその日だけで十分である」。私はその言葉にハッとしました。私は先々のことまで考えて気がめいっていたのです。この言葉は私が思い出したというより、今も活きて働くイエス様が私に臨んで下さった経験でした。それでイエス様の復活を信じるようになったのです。日々復活のイエス様と共に歩み、神の国をめざして行きたいと思います。
2020年4月19日(日)
「罪の赦し」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書9章1節~8節
イエス様の所に中風の病を患っている人が運ばれて来ました。するとイエス様は「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と云われました。病をいやして頂きたいのに「あなたの罪は赦される」とは一体どういうことでしょうか。これは、人間は病んでおろうが、健康であろうが、神の所に行く望みのない人生は敗北の人生だからです。そして神に迎えられるためにはどうしても私達の罪が赦されねばなりません。それでイエス様は「あなたの罪は赦される」とおっしゃったのです。それは人生の勝利への招きでした。救世軍の士官、山室軍平は死について云いました。「死はほんのしばらく薄暗い階段をのぼるようなものだ。その階段をのぼると神とイエス様と多くのクリスチャンが待つ大広間に出る。死はそのような大広間に出る階段である」。明るくて素晴らしい大広間に出る望みをもって歩んで参りましょう。
2020年度4月26日(日)
「主イエスの命名」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書9章8節~13節
イエス様は弟子たちによくあだ名をつけられました。例えばペトロ。彼の本名はシモンでよくはやとちりをする慌て者でした。他の弟子たちは「イエス様もお人が悪いな」と苦笑いしたことでしょう。しかしやがてシモンは岩の如く実に堂々たる使徒になりました。今日のマタイもこれはイエス様がレビにつけられたあだ名です。「主の賜物」という意味です。レビは晩年「マタイによる福音書」を編纂して多くの人々に生きる勇気と希望を与えました。まさに主の賜物となりました。このようにイエス様からあだ名をつけられた人はその名のように変えられていくのです。私達もイエス様からあだ名をつけられました。それは「クリスチャン」です。クリスチャンとはイエス様を救い主と信じ、救い主に導かれる人のことです。最後までイエス様の導きとお守りの中に歩み、神の栄光をあらわしたいと思います。
2020年5月3日(日)
「新しい革袋に」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書9章14節~17節
岡山県に十文字平和キリスト教会という教会があります。ここを牧しておられた牧師に藤田真砂子先生という方がおられました。藤田先生はとても笑顔の素敵な方でいつ見てもニコニコしておられました。ある時分かったことですが、先生の右手は義手でした。どうして右手を失われたのか聞きそびれてしまいましたが、いずれにしても失われた時はショックだったと思います。しかし先生は義手であることの悲しみや辛さはみじんもありませんでいた。強がりややせ我慢ではなく芯から明るくほがらかな方でした。それは先生が「新しい酒は新しい革袋に入れるものだ」というイエス様のお言葉が心にとどまっていたからです。イエス様は私たちの花婿としてこの世に来て下さいました。そして私たちの一人、一人に気を配って下さり守って下さるのです。イエス様こそ新しい酒です。そして私たちは新しい革袋です
2020年5月10日(日)
「率直に願う」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書9章18節~26節
会堂長がイエス様の所に来て「娘が死にかけています。どうか助けてください」と懇願しました。イエス様は早速娘の所に行こうとしました。するとそこへ1人の女がイエス様に近づきました。彼女は12年間も長血を患っていてイエス様の衣のすそにでも触れればいやして頂けるのではないかと思いました。さわったとたん長血は止まりました。その代わりイエス様は体から力が抜けるのを感じました。イエス様は誰が自分にさわったのかと探されました。気が気でないのは会堂長です。こんな所でモタモタしていたら娘は死んでしまうかも知れません。こうしたことが私たちの信仰生活にも起こります。イエス様に願っているのになかなか応えて下さいません。しかし信仰生活は待たねばならぬ時があるのです。イエス様はご自分に求めて来る者に一番良い時に一番良い方法できいて下さいます。
2020年5月17日(日)
「だれにも知らせるな」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書9章27節~31節
イエス様が二人の盲人の目を見えるようにされました。その時、イエス様は「このことだれにも知らせてはいけない」と云われました。なぜでしょうか。人々に知らせれば伝道に役立つと思うのですが。これはイエス様が警戒されたのです。目を見えるようにされたことだけが広まっていくと、人々はイエス様のことを現世的利益を与えるだけの教祖とはきちがえるからです。確かに奇跡はイエス様が神の国へ私達を導く救い主であることを信じさせる1つの手段です。しかし教えだけでしたら人々はイエス様を立派な道徳家とはみなしたでしょうが、神の国へ導く救い主であることには気づきません。奇跡は同時にイエス様を現世的利益だけを与える教祖にまちがわせてしまう危険もあったのです。イエス様は云われました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある」。奇跡と同時に御言葉にも心にとめましょう。
2020年5月24日(日)
「信仰の自立」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書9章32節~34節
ヨハネ福音書にニコデモという人が登場します。彼は律法の教師であり、ユダヤ最高法院の有力な議員でもありました。しかし彼には弱点もありました。それは世間体を気にすることです。彼は常にイエス様に関心がありました。そこでイエス様から直々にお話を聞きたいと思いましたが、昼イエス様を訪ねると皆に知られてしまいます。そこで夜コッソリ訪ねました。イエス様から直々に話を聞いた彼はこの人こそ人々を神に導く救い主だと分かりました。しかし世間体を気にする彼はそのことを自分の心の中だけにしまっておりました。やがてイエス様が十字架上で亡くなられます。彼はポンテオ・ピラトにイエス様の遺体を引き取りたいと申し出ます。彼はイエス様の弟子であることが世間に知られますが、イエス様に従って神の国に向かいたいと思いました。この時彼の信仰は自立したのです。
2020年5月31日(日)
「聖霊の導き」 寺田悳英牧師
使徒言行録2章1節~4節
「ペンテコステ」と云うのはギリシャ語で、直訳すると「50番目」という序数詞です。ユダヤ最大の祭りである「過越しの祭り」から数えて50日目に「五旬祭」という祭りがあります。その祭りのことをギリシャ語ではペンテコステの祭りと云いました。ところが、この日にキリスト教では聖霊が降りましたので「聖霊降臨日」として祝うようになったのです。ですからペンテコステというのは、ユダヤ教では「五旬祭」のこと。そしてキリスト教では「聖霊降臨日」として祝うのです。それ以前の私たちはいかにお金をもうけるか。いかに出世をして有名になるか。いかにして長生きできるか。いわゆるこの世のことに追われておりました。しかし聖霊が降りると、どんな試練や困難にあっても復活のイエス様が私たちを神の国へとどんどん引っぱっていって下さることが分かります。真の生きがいに満たされるのです。
2020年6月7日(日)
「憐みの神」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書9章35節~38節
ユダヤの人達は当時繁栄を誇ったローマ帝国の一属州でしたから、経済的には皆そこそこの暮らしをしていました。しかし「あなたは生きがいある生活をしていますか」と聞かれるとどうもおぼつかなかったのです。イエス様はそういう人々を「飼う者のいない羊」と云いました。そういう意味で今の日本とよく似た状況であったかと思います。イエス様はそういう人々に真の目標を教えてくださいました。それは神の国を目ざす人生です。神の国は人間の努力で入れる国ではありません。神の国は余りにも気高く清い国です。その国に迎え入れられるには神の憐みの愛を受けるしか道はありません。「神はその独り子を与えたほどにこの世を愛された。それは独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」(ヨハネ3・16)。ですから独り子を与えて下さった神の憐みにすがって歩んでいきたいと思います。
2020年6月14日(日)
「命をかけた愛」 寺田悳英牧師
マルコによる福音書15章25節~32節
イエス様が十字架にかけられた時、これを見ていた人々はイエス様に云いました。「おまえが人々を救う救い主だと云うなら、人々を救う前におまえ自身を救ってみよ。今、十字架から飛び降りたらどうだ。そうしたらおまえが救い主であることを信じてやろう」。多くの病人をいやしたり、2匹の魚と5つのパンで5000人の空腹を満腹にした奇跡を行える方ですから十字架から降りるくらいは何でもないことでした。しかしイエス様は飛び降りることはなさいませんでした。槍で突かれて死んでいかれました。実はそこにこそイエス様が与えようとして下った救いがあるのです。イエス様は私達の罪を全部代わって背負って下さり、私達の罪を赦し、神の国へと導いて下さる救い主です。私達はたとえ死んでも死がすべてではありません。永遠の神の国が待っています。イエス様を真の救い主として信じ神の国に向かいましょう。
2020年6月21日(日)
「主のいやし」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書10章1節~4節
新約聖書で「いやす」という言葉は主に二つ。一つは「イアオマイ」。辞典をひくと最初に「いやす」があり、次に「病を回復させる」とあります。もう一つは「セラピューオー」。これは「いやす」の次に「仕える」とあります。10章1節「イエスは12人の弟子を呼び寄せ汚れた霊に対する権能をお授けになった。あらゆる病気と患いをいやすためであった」という所に出て来る「いやす」はセラピューオーが使われています。と云うことはイエス様のいやしは「病が完全に治る」ことよりも、病める人に「仕える」ことが主であるということです。いろいろ病をもった人が教会に来られますが、教会はその方の病を完全に回復させることができなくともなんら臆することはありません。病ある人に少しでも寄りそってあげること。その病ある人と共に歩んでいくこと。そこにイエス様の教会の使命があるのです。
2020年6月28日(日)
「使徒の心得(1)」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書10章5節~10節
イエス様は弟子達を各地に伝道に遣わされました。その時云われました。「神の所へ行けるようになったという、この福音は私からただで与えられたものである。だからあなたがたもただで人々に与えなさい」。私が日曜学校に通っていた頃、老婦人が1人で20名くらいの生徒を教えていました。クリスマス会には1人1人にプレゼントをくださいました。生徒だったときは何とも思いませんでしたが、大人になって「あの老婦人はよくもまああんなことを続けておられたな」と感心しました。なぜそんなことができたのでしょう。それは今回の聖句「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」ということであったと思います。私達が神の国に行けるようになったのはひとえにイエス様のおかげです。ですから私達もこの福音をただで人々に分け与える人になりたいと思います。
2020年7月5日(日)
「使徒の心得(2)」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書10章11節~15節
イエス様が12弟子たちを各地に遣わされるに当たって云われました。「町や村に入ったら、そこでふさわしい人はだれかをよく調べて旅立つときまでその人のもとにとどまりなさい」。私が岡山教会で牧師見習いをしていた時、上司であった米倉義一牧師は大変厳しく指導をして下さいました。はやくも赴任2か月目にとてもこの教会では務まらないと思いました。それでも御言葉に励まされて勤め続けました。私より後から伝道師になった人達がドンドン主任牧師となっていきます。私はあせりました。しかし主任牧師は見ていて下さったのです。伝道師5年目の時、主任牧師に「この年度が終わったらどこかの教会へ赴任しなさい」と云って下さいました。あの時のことを思い出すと、少し厳しいからと云って自分勝手に進路を決めていたらその後の祝福はなかったことと思います。神がお示し下さるまで待つことの大切さを思います。
2020年7月12日(日)
「前に向かって」 寺田悳英牧師
ヨハネによる福音書9章1節~3節
イエス様が弟子達と一緒に道を歩いておられる時でした。そこに生まれつき盲人の男の人がいました。弟子達はイエス様に云います。「この人が盲人になったのはだれが罪を犯したからですか」。するとイエス様は云われました。「だれかが罪を犯したからではなく、この人に神のみ業が現れるためだ」。人は自分にとって不都合なことが起こるとその原因をさぐろうとします。しかしイエス様はそれも神のみ業が現れるためだと云われるのです。人から差別を受けた時つらい思いをします。なぜこんな差別を受けねばならぬのかと姿勢がうしろ向きになってしまいます。しかしイエス様はそれも神のみ業が現れるためだと前向きにとらえられました。イエス様は人がどんな状況におかれても常に前に向かって歩むようにと教えて下さいました。私達も「神のみ業を現す」ために生かされていることを心したいです。
2020年7月19日(日)
「遣わす」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書10章16節
琴似中央通教会に着任した日、荷物をあらかた整理した後ひと風呂あびました。その時ある1つのことに気づきました。それは岡山教会にいた時よりも
お風呂が狭苦しいのです。岡山教会で5年間経験を積んだのにふに落ちません。琴似中央通教会で10年間牧会を経験し、今度は名古屋の愛知教会に赴任しました。するとお風呂はさらに小さくなっていました。ひざを立ててやっと入れる小ささです。なぜなんだと思いました。いくら考えても分かりません。しかし今日与えられた聖書を読んだ時答えが与えられました。10章16節「わたしはあなたがたを遣わす」。即ちイエス様が私をそこへお遣わしになられたのです。それはイエス様がそこで何をかなさしめようとされている期待もあると云うことです。ですから不平不満を云うのではなく、イエス様のご期待に応えて励まねばなりません。
2020年7月26日(日)
「全うして下さる」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書10章17節~25節
キリスト教は当時まだ公に認められた宗教ではありませんでした。ですから伝道は大変な苦労と困難がともないました。しかしイエス様は云われます。あなたがたがローマ総督やユダヤの王の前に連れ出されて尋問される時、その時は主の恵みを証しする時になる。一番困難をきわめる時が一番証しする時だと云われるのです。桂教会に一人の老婦人がいました。彼女が天に召される時、私はその枕辺につきそっていました。苦しさから息をハァハァとされていました。しかしそんな中で彼女は主の恵みを証ししようとされたのです。「モラルとコモンセンスは十字架の敵である」と語られました。私はその姿を見て死の考え方が変わりました。それまで死は不吉なもの、人前で語ることは避けねばならぬものと思っていましたが、死の時は主の恵みを証しする最も良い晴れ舞台なのだと思うようになりました。
2020年8月2日(日)
「平和があるように」 寺田悳英牧師
ルカによる福音書10章5節~12節
イエス様は弟子達を各地へ伝道に遣わされるに当たって注意を与えられました。「どこかの家に入ったら、まず『平和があるように』と云いなさい」。伝道とは単に処世術を語ることではありません。ましてや人を脅して勧誘することではありません。伝道とは「あなたにも平和がありますよ」と語ることです。ここで云われている「平和」とは神との平和です。しかし神との平和を与えられた人はそれを自分1人の中だけにとどめず、周囲の中に伝えようとします。今から50年程前、教会に福音に生きることを説く <福音派>と呼ばれる人々ともっと社会的発言なり行動をするように説く<社会派>と呼ばれる人々が鋭く対立した時期がありました。しかしイエス様は云われます。まず神との平和を常に確認すること。そしてそれを周囲の中に少しでもあらわしていくこと。あれかこれかではなく往復運動が大切だと。
2020年8月9日(日)
「髪の毛一本」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書10章26節~31節
ラティマ司祭はある時、国王ヘンリーが臨席する礼拝で説教することになりました。彼は入念に説教の準備をしていました。当日、彼は流暢な口調で説教を始めましたが、その途中で言葉につまりました。彼が用意した原稿には国王ヘンリーの意にそぐわぬ所があったからです。このまま語れば彼は牢獄に入れられるか、下手をするとギロチンで殺されるかも知れません。原稿をボツにして国王ヘンリーの気に入る説教に変えようとした時です。神の声が聞こえました。「この礼拝には王の王であるイエス・キリストがご臨在しておられる」と云うのです。それを聞いたラティマ司祭は「アーメン」と云って、原稿通りに説教を続けることにしました。「あなたがたの髪の毛一本残らず数えられている」神にラティマ司祭は立ち帰ったのでした。ラティマ司祭に害が加わることはありませんでした。神が守って下さったのです。
2020年8月16日(日)
「言い表わす」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書10章32節~33節
この世でどんな辛いことがあろうと、天国の入り口でイエス様から「この人は私の仲間です」と云われた人はなんと幸いなことでしょう。しかし私達はしばしば自分がクリスチャンであることを隠している場合があります。イエス様は云われました。「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前でその人を知らないと云う」。岡山教会に中学の教師をしている人がいました。その学校では毎日放課後夜8時ぐらいまで仕事をするのです。しかし彼は水曜日だけは教会の聖書の学びの会に出たいと思いました。彼は思い切って「私はクリスチャンで、実は...」と話しましたら、同僚の先生方が「いいですよ」と云って下さったばかりか、暫くすると先生がたのほうから「今日は水曜日でしょう。もう仕事は切り上げて下さい」と云って下さるようになりました。私はクヨクヨ1人で悩まないで思い切って言い表わすことが大切だと思いました。
2020年8月23日(日)
「十字架を負って」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書10章34節~39節
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすために来たと思ってはならない。平和ではなく剣をもたらすために来たのだ」。しかしイエス様は別の所では「平和をつくり出す者は幸いなり。その人たちは神の子と呼ばれる」とおっしゃいました。相矛盾していないでしょうか。これはここに云われる平和が真の平和ではなく偽りの平和、なれ合いの平和を破壊しに来たという意味です。かつて預言者エレミヤの時代、民たちは平和ではないのに<平和だ><平和だ>と云って酔い知れていました。そのため神は遂にイスラエルの国を滅ぼされました。イエス様は真の平和をつくり出すために「自分の十字架を担ってわたしに従わない者はわたしにふさわしくない」と云われました。自分の十字架を担うなんてことが果たして私たちに出来ることでしょうか。心配はいりません。そう云われたイエス様がその道を導いて下さるからです。
2020年9月6日(日)
「神へのかけ橋」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書10章40節~42節
昔、岡山教会員であられた方が今は病気で倉敷のご自宅で寝ておられました。この方が昔懐かしい岡山教会の牧師に会って自分の話を聞いてほしいと願われました。そこで私が倉敷まで出かけて話を聞かせて頂きました。話は高校生時代お世話になった上代淑先生のことに終始しました。私は少々ガッカリしました。これではこの人は上代淑教の信者であってキリスト教徒と云えないのではないか。さてそれから一週間した時です。その方が天に召されたという連絡が入りました。葬儀に行くとその日読まれた聖書が今日の聖書マタイによる福音書10章40節でした。イエス様が弟子たちに云われたお言葉です。「あなたがたを受け入れる人はわたしを受け入れ、私を受け入れる人はわたしを遣わされた方を受け入れるのである」。弟子はイエス様へのかけ橋であり、イエス様は神へのかけ橋なのです。狭い自分の心を恥じました。
2020年9月13日(日)
「事実に立つ」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書11章1節~6節
バプテスマのヨハネは領主ヘロデの悪を指摘したために牢獄に入れられました。そこへヨハネの弟子達が訪ねて来てイエス様の活動を報告しました。その報告はヨハネが思っていたものとは違っていました。ヨハネは救い主は先ず世の不正をあばいた自分を助けに来てくれるはずだ。それなのにイエス様は盲人の目をあけたりとか小さなことに終始していたからです。こういうことは私達にもよくあることです。自分の願っていることがかなえられない時、イエス様は本当に救い主なのだろうかと疑うのです。これに対しイエス様はゴタゴタと理屈で自分が救い主であることを語らず、自分のしている事実を語られました。イエス様のなさった奇跡をよく見ると、それは単にこの世の窮地を助けただけでなく、神の国へ導く救い主であることが分かるからです。弟子のペトロは云いました。私たちは「キリストの威光を目撃した」と。
2020年9月20日(日)
「バプテスマのヨハネ」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書11章7節~14節
私の青年時代、教会でよく云われたことは、教会はもっと面白いことを考えないと人は集まってくれないと云うことでした。そのため長老会でもそのことがしばしば話し合われました。ある長老は「みなが語り合いたいと思っているテーマを見つけて話し合うのはどうか」と云いました。すると別の長老が「そんな堅苦しいことではダメだ。みんなで好きな讃美歌を歌ってはどうか」と云いました。すると別の長老が「それもまだまだ堅苦しい。いっそう教会で落語を聞く会をもってはどうか」と云いました。確かにどれもこれも一理はあります。しかしイエス様は云われました。「では何を見に行ったのか。預言者か。そうだ」。預言者とは究極的救いを語って下さる神のお考えを伝える人です。教会に来るのは人間の究極的救いの言葉を聞くためです。ですからいろいろな娯楽も結構ですが、第一は救いの言葉です。
2020年9月27日(日)
「知識の正しさ」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書11章15節~19節
イエス様はきわめて現実主義のお方です。例えばご自身が救い主であることは議論では分からない時があります。そんな時は一度救い主と信じて実際に生きてみたらおのずと判明するのです。昔、岡山教会に炭谷小梅という伝道師の方がおられました。彼女はもと色町の芸奴でした。しかし岡山教会の長老中川横太郎にみそめられ彼のお妾さんになり一子をもうけました。しかしキリスト教では一夫一婦制であることを知り、横太郎に別れを告げますと、横太郎は「子供をおいて出て行け」と云いました。小梅は泣く泣くわが子をおいて中川家を出ました。しかしイエス様を救い主と信じて岡山教会員であった石井十次の孤児院を助けるなどよい働きをしました。これを見ていた横太郎はある日小梅さんに「子供はおまえに返す」と云われました。理屈ではなく、イエス様を救い主として信じて生きることの大切さを思います。
2020年10月4日(日)
「悔い改め」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書11章20節~24節
11章20節「それからイエスは数多くの奇跡を行われた町々が悔い改めなかったので叱り始められた」。イエス様の奇跡で助けられた人は「ああ助かった」で終わってはなりません。その奇跡は神の国への招きの業だからです。ここで云われている悔い改めはギリシャ語ではメタノイアです。メタノイアは方向転換の意です。自分の判断で歩いていた人生から、神が導く人生へと土台を変えることが悔い改めです。法学部の学生であったM.ルターはある山に登った時落雷に遭いました。彼は神に祈りました。「神よ、助けてください。もし助けて下さったらこの自分の命を生涯あなたに献げます」。奇跡的に助かったルターは法学部を止めてアウグスチヌス修道院に入りました。そしてやがてあの宗教改革を断行するのです。彼は悔い改めたのでした。人生の土台を変えることなくあれがよくなかったというのは悔い改めではありません。
2020年10月11日(日)
「主イエスの軛」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書11章25節~30節
クリスチャンと云えども様々な困難があります。それに対して聖書は云います。「互いに重荷を負い合いなさい」。しかし私どもはどこまで他者の重荷を負うことができるでしょうか。不治の病の人がいたとします。彼の苦しみをどこまで負えるでしょうか。彼と同じ程度には重荷を負うことはできません。人には自分の重荷を他人には負ってもらうことのできないその人特有の重荷があるのです。これを理解しない人は不平不満の人生になります。しかし聖書は云います。あなたの重荷をトコトン一緒に担って下さる方がいると。それはだれでしょう。それはイエス様です。イエス様は誰も背負ったことのない重荷を負われました。そしてイエス様は云われます。「だれでも重荷を負うて苦労している者はわたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」。このイエス様が今日も私たちと共にいて下さるのです。
2020年10月18日(日)
「安息日の主」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書12章1節~8節
安息日礼拝の帰り道、麦畑を通っていた弟子達は空腹のため麦の穂をつんで食事のたしにしました。ユダヤではその行為はゆるされていました。しかしその日は安息日でした。安息日は神を礼拝する日として何の仕事もしてはならぬことになっています。そこでファリサイ派の人々はイエス様に云いました。「あなたの弟子達は安息日にしてはならぬことをした」。つまり弟子達が穂をつんで食べたことを脱穀作業に当たると云うのです。しかしイエス様は云われました。「あなたがたは何とチマチマしたことにこだわっているのか」。安息日を真に正しく守るとは神が私達に注いで下さっている愛に心をむけることです。今日安息日礼拝は主日礼拝へと引き継がれていますが、私達は主日礼拝に当たり前に来てはなりません。私達を礼拝させるようにして下さった救い主イエス様に心からの感謝を持って集うべきであります。
2020年10月25日(日)
「神のお守り」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書12章9節~14節
愛知教会で牧会していた時、教会員の中に産婦人科の医者がいました。お産の仕事に追われ日曜日の礼拝もままなりませんでした。ある日のこと、私はある方のお見舞いのためとある病院へ行った時です。病院に着くと産婦人科の医者も来ておられたので「どなたかのお見舞いですか」と云うと「いや私が入院しているのです」と云われました。過労がたたって入院となったのです。それを聞いて思いました。いくら仕事に追われても週1度の礼拝に来れない程忙しくしてはならないと。フィリピの信徒への手紙に「恐れおののいて自分の救いを達成するように努めなさい」とありますが、他者を大切にするためには先ず自分自身が肉体的にも精神的にも健康でなくてはなりません。人生は短いようで案外長丁場です。この長丁場を戦っていくには主日礼拝を大切に守っていく必要があります。
2020年11月1日(日)
「心を騒がせるな」 寺田悳英牧師
ヨハネによる福音書14章1節~3節
札幌にいた時、若いご夫婦が礼拝に来られました。その後も礼拝に集われたのでキリスト教初級講座の受講を奨めました。受講されて2回目の時です。ご主人が「洗礼を授けてくれませんか」と云われました。彼の云うのには、自分は「この宗教を信じたら病は治る」と宣伝する宗教にはほとんどその門を叩きました。しかしいっこうによくなりません。最後にキリスト教の門を叩くとキリスト教では「これを信じたら病は治る」とは一言も云われない。イエスの贖いの業によって神の国に行けると云われる。私は「これだ」と思ったと云われました。彼は洗礼を受け、その半年後に亡くなりました。ベッドでうなされる中「神さま、神さま」と叫んでいたそうです。私は彼は確かに神の国に迎えられたと思いました。イエス様は云われます。「あなたがたは心を騒がせるな。神を信じ、またわたしを信じなさい」。
2020年11月8日(日)
「心を騒がせるな」 寺田悳英牧師
ヨハネによる福音書14章1節~3節
札幌にいた時、若いご夫婦が礼拝に来られました。その後も礼拝に集われたのでキリスト教初級講座の受講を奨めました。受講されて2回目の時です。ご主人が「洗礼を授けてくれませんか」と云われました。彼の云うのには、自分は「この宗教を信じたら病は治る」と宣伝する宗教にはほとんどその門を叩きました。しかしいっこうによくなりません。最後にキリスト教の門を叩くとキリスト教では「これを信じたら病は治る」とは一言も云われない。イエスの贖いの業によって神の国に行けると云われる。私は「これだ」と思ったと云われました。彼は洗礼を受け、その半年後に亡くなりました。ベッドでうなされる中「神さま、神さま」と叫んでいたそうです。私は彼は確かに神の国に迎えられたと思いました。イエス様は云われます。「あなたがたは心を騒がせるな。神を信じ、またわたしを信じなさい」。
2020年11月15日(日)
「聖霊の力」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書12章22節~32節
イエス様が悪霊を追放していると、ファリサイ派の人々はあれは悪霊の頭である悪魔の力によって追放しているのだと揶揄しました。イエス様は「それでは内輪もめになるではないか」と云ってこれを否定されました。イエス様は何によって悪霊を追い出しておられるのか。それは神の力である聖霊によってです。私は桂川の欄干にもたれて上流を眺めていました。友禅染のノリを洗う光景が目に入りました。毒々しい色の水が流れています。罪にもがいている私はその毒々しい水の中でもがいているようでした。しかし下流に目をやると、別の川が流れ込みその水がドンドン
桂川をきよめています。それは丁度教会に通うようになって聖霊が注がれた自分のようでした。自分の力ではどうすることもできない罪が聖霊が注がれることによってドンドンきよめられていくのです。それ故聖霊に逆らう罪は赦されないのです。
2020年11月22日(日)
「手ぶらはダメ」 寺田悳英牧師
ヨハネによる福音書3章16節
一郎君はお隣りの順君ととても仲良しでした。ある日2人が道を歩いていると金色に輝く石が落ちていました。一郎君がポケットに入れようとすると、順君が「僕にも半分くれよ」と云います。一郎君が断わると2人は喧嘩になり、それ以来口もきかなくなりました。一郎君は神に祈りました。すると神様が云われました。「祈る時手ぶらではいけないよ」。「ええっ、祈る時も献金がいるの」と思いました。しかし神様が云われたのは献金ではなく「イエス様によって祈らなければならない」と云われたのです。イエス様は私達を神様の所へ導いて下さる救い主だからです。「そうか。自分にはイエス様が与えられているのだ」とあらためて思いました。イエス様がいつも自分を見守っていて下さると思った一郎君は順君の家に行って「自分勝手なことを云ってゴメンよ」とおわびして、金色の石を順君にあげました。
2020年12月6日(日)
「神の力」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書12章33節~37節
イエス様は云われました。「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい」。つまり外見だけ変えても心の中が変わらねばダメなのです。ペトロはあわて者の性格でした。そのため何度もヘマをしました。しかし彼は何度ヘマをしてもその度にイエス様を見上げました。何度でも自分を赦し、なおもご用に用いて下さるイエス様を見上げ、そして立ち上がったのです。あわて者の性格は終生直りませんでしたが、その生き方は変わっていきました。自分の利益を追求するためにイエス様を利用する生き方から、イエス様にお従いする生き方へと変えられていったのです。私達はもって生まれた性格を変えようと懸命になることがありますが、大切なのは性格を変えることではなく、生き方が変わることです。神の力は私達をイエス様に従っていく生き方へと変えて下さるのです。その力が私達にも注がれています。
2020年12月13日(日)
「ヨナのしるし」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書12章38節~42節
イエス様は云われます。「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」。<ヨナのしるし>、即ち<ヨナの奇跡>とは、ヨナの宣教の業を通してニネベの町の人達が悔い改めて真の神に立ち帰ったことです。しかしそうおっしゃったイエス様が多くの奇跡をなさいました。これは一体どういうことでしょう。それはどれ程沢山の奇跡が行われたとしても、それらの奇跡はみな「悔い改めて真の神に立ち帰ること」を教えていると云うのです。イエス様はそのことを「ヨナのしるしの外にはしるしは与えられない」とおっしゃったのです。奇跡はそれだけですと「もっと奇跡を起こしてほしい」となってしまうだけで、それでは欲求不満に陥ってしまいます。ヨナのしるし(奇跡)はそんな人間の「もっと」というドン欲に終止符をうつものです。「大丈夫だ。わたしはいつもおまえと共にいる」との神の言葉を聞いて歩みましょう。
2020年12月20日(日)
「神の介入」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書1章18節~25節
婚約中のヨセフとマリアに驚くべきことが起こりました。マリアが身ごもったと云うのです。ヨセフはマリアがだれかに強姦されたと思いました。そこでヨセフはひそかにマリアと別れる決心をしました。ところがその夜、ヨセフは夢を見ました。天使が現れてヨセフに云うのです。「恐れるな。マリアを妻に迎え入れなさい。彼女は聖霊によって子を宿したのである」。眠りから覚めたヨセフはマリアと別れることは取り止めました。私達は毎年クリスマスを迎えますが、クリスマスを迎えることはごちそうを食べたり、プレゼントを交換することだけではありません。なによりも大切なことは自己完結的行為を止めて神に聞く人になることです。自己完結的行為とは自分の考えだけで事を処理してしまう行為です。どんなに困ったことが起こっても神はこの事を通して自分に何をしようとしておられるか聞くことです。
2020年12月27日(日)
「空き家にせず」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書12章42節~45節
自分の中に住みついている悪霊を追い出すことは素晴らしいことです。しかし悪霊を追い出した後、心を空き家にしておくと、出て行った悪霊が戻ってきて、今度は自分よりもっとたちの良くない悪霊を引きつれて一緒に住み出します。そうなると悪霊を追い出した人は悪霊を追い出す以前よりもっと悪い人間になってしまいます。それでは悪霊は追い出さず適当におりあいをつけて生きるべきでしょうか。しかしそんなことでは真の成長は望めません。では私達はどうしたらいいのでしょうか。それは悪霊よりも強いイエス様を心にお迎えすることです。そうすれば悪霊が再び入って来ることはありません。それだけでなく、イエス様が私達をドンドン神の国へと引っぱっていって下さいます。ですから私は洗礼を受ける人に云います。洗礼を受けたからと云って安心してはいけない。心を空き家にせず日々イエス様をお迎えしましょう。
2021年1月3日(日)
「神の家族」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書12章46節~50節
イエス様が大勢の人々に説教なさっておられた時、一人の人がイエス様に「あなたの母上と御兄弟たちが外でお待ちです」と耳打ちした。するとイエス様は「わたしの母とはだれか。私の兄弟とはだれか」と云われました。私達は常日頃なんだ、かんだと云っても一番頼りになるのは身内の者だと思っていることがあります。また自分を一番理解してくれるのは結局肉親の母であり、兄弟だと思っていることがあります。しかしイエス様はそうではありません。ひとたび天地の創造者なる神を「天のお父様」とあがめるようになった人は肉親の父・母、また兄弟は必ずしも父、母、兄弟ではなくなるのです。これは肉親の父、母、兄弟をそげんにせよといっているのではありません。肉親の家族も<真の家族>即ち<神の家族>となるようにとの招きなのです。教会は肉親また血縁的交わりではありません。
2021年1月10日(日)
「種まきのたとえ」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書13章1節~9節
日本の農業では畝を作り、そこにていねいに種を蒔いていきますが、ユダヤではただ広い土地をあらかじめ耕しておき、そこにパラパラと種を蒔き散らすやり方をします。そのため種はいろんな所にとび散るのです。ある種は道ばたに、またある種は石地の上に、またある種は茨の中に落ちます。いずれも実を収穫するには至りません。イエス様がお話になった今日のたとえで教えられることは蒔いた種は同じでも全部が全部実るのではないと云うことです。このたとえで種というのは神の御言葉ことですが、御言葉を蒔いても実らない場合が多いのです。しかし蒔かない所に収穫がないのも事実です。御言葉を蒔くということは神の国への招きをすることです。私達自身が神の国へ招かれていることを益々深くしていくと共に、一人でも多くの方を神の国へお招きしたいと思います。「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる」(詩126・5)神は必ず収穫の時を与えて下さるからです。
2021年1月17日(日)
「たとえで語る理由」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書13章10節~17節
イエス様は「神聖なものを犬に与えてはならない」と云われました。そのためご自身の語る<神の国>の話を信じない人々にはたとえで語られました。たとえは真理をオブラートにつつんで隠すという働きがあるからです。しかしそもそもイエス様がこの世に来られたのは世の人々を救う真理を教えるためです。それなのにどうしてたとえで語られるのでしょうか。それはオブラートにつつむことによって、聞く人に「ここには一体どう云う意味があるのか」と探らせるためです。「イエス様は救い主です」とただオウム返しに云っているだけではいけません。それでは信仰はマンネリ化して単なる習慣的になってしまいます。そして信仰は結局死んだものになってしまいます。このようなことにならぬためにイエス様はたとえをもって語られたのです。人々にさぐらせることによってより深い告白へと導くためです。
2021年1月24日(日)
「良い土地へ」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書13章18節~23節
<種まき>のたとえに出てくる種は御言葉のことです。同じ御言葉が語られても聞く人の心によってよく実る種もあれば実らない種もあります。道に落ちた種とはのっけから御言葉を拒否する人です。石地に落ちた種というのは聞いた時は感激して受け入れるのですが困難に遭うと御言葉から離れてしまう人です。茨の中に落ちた種は御言葉によって人生を成功させるのですが、地位ができ有名になると御言葉から離れてしまう人です。良い土地に落ちた種とは最後まで御言葉につながって神の国にまで到達する人のことです。イエス様はこのたとえを通して人間をランクづけしようとなさったのだと受け取る人がいます。しかしそのようにランクづけをするためにこのたとえを語られたのではなく、イエス様を見上げるならば、どんな所に落ちた種の人もみな「良い地」に落ちた人にしてあげようと云われたのです。
2021年1月31日(日)
嶌岡正明 兄 証し
ローマの信徒への手紙 12章9節~21節
私は大学入学後の秋まで全くキリスト教というものに接したことがありませんでした。しかし、大学生活を始めた秋にふとしたことがきっかけでYMCAを知り、このYMCAでキリスト教信仰への導きがあった二人の人との出会いがありました。一人はYMCAスタッフ、もう一人は就職後の勤務先近くの教会の牧師先生です。YMCAスタッフには、キリスト教との関わり、就職、就職後、結婚と多くのことを導いていただきました。そしてYMCAのプログラムの中で、私はキリスト教信仰をもつことはどのようなことかを考えさせられました。YMCA就職後は神戸雲内教会の仲本牧師によってキリスト教信仰への道筋をつけていただきました。その後徳島県阿南市への勤務となりここでの自然の厳しさ不思議さに接し、人間が思うようにできることは何もないということと全ての事柄が神様の存在により営まれている事に気づかされ神様にすべてを委ねたら良いと思うようになり洗礼を受ける決心ができました。
2021年2月7日(日)
「毒麦のたとえ」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書13章24節~30節
今日のたとえ話に出て来る毒麦は本物の麦と姿・形が似ていて区別ができません。しかし収穫時期になりますと毒麦の穂先は本物より長く伸び、その種子には麻薬性の毒があります。教会の中にもこの毒麦に似た人がいる場合があります。そこで弟子達はイエス様に「今の内に抜いてしまいましょうか」と云いました。しかしイエス様は「抜かずにおきなさい」と云われました。誤って本物の麦を抜いてしまうかも知れないからです。ノンクリスチャンの夫をもつクリスチャンの妻がもうすっかり夫に伝道をすることをあきらめていました。しかし夫が病にふせた時妻に云いました。「洗礼を受けさせてもらえないだろうか。死んでからもおまえと一緒の所へ行きたいのだ」。私達は「あんな人は伝道しても無駄な人だ」とあきらめてしまうことがありますが、それでもイエス様だけには望みをもって歩みたいと思います。
2021年2月14日(日)
「神の支配」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書13章31節~30節
「天の国はからし種に似ている」。からし種というのは小さいものを云う時のたとえに用います。しかしこの小さな種が一旦地に蒔かれると、それは成長し、やがて鳥がそこに巣を作るほどになります。私達が通常目にするからし種は洋がらしと云ってこれは伸びてもせいぜい2m足らずです。しかしイエス様がここで云われるからし種とは黒がらしと云って、これはゆうに5mをこえるのです。イエス様は天国、即ち神の国の成長のすさまじさをこの黒がらしの成長をたとえとして語られました。土師教会は今年創立92年目に向かって歩んでいます。これは小林松尾姉がこの土師の地に日曜学校を開かれたことに端を発しています。最初蒔かれた時は小さなものでしたが、いろいろな喜びと試練を経て土師教会は今日ここまで導かれて来ました。神がこれから益々大きく豊かに前進させて下さることを信じて励みましょう。
2021年2月21日(日)
「人生の目標」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書13章36節~43節
「刈り入れる時、毒麦は集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ」。この歴史は善と悪が入り乱れていつまでも続くのではありません。神がお定めになった時が来れば、天国に迎えられる者と地獄に落とされる者とに分けられるのです。イエス様は私たちの至らない所を全てご自身の身で贖って下さった救い主です。歴史の終わりに行われる最後の審判の時もイエス様に依り頼む人はイエス様の贖いの業の故に天国に入れていただけるのです。「あなたがたは心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある」。私たちクリスチャンも歴史の終わりの時に行われる最後の審判を受けなければなりません。しかしイエス様に依り頼むなら天国に迎えていただくことができます。この希望こそ救いであり、現在を支える原動力でもあるのです。
2021年2月28日(日)
「その畑を」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書13章44節~46節
イエス様は云われました。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人はそのまま隠しておき喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払ってその畑を買う」。天国はこういう場所だとは云われず、宝が隠されている土地を買うようなことであると云うのです。即ち天国は生き方の中にあるのです。私が5才の時、私の住んでいる地域に4人の方がキリスト教の開拓伝道に来られました。その中の一人坪田敏子姉は岡山県の大富豪のお嬢さんでした。その方が京都に来られて、貧しい木造の住宅に住んでおられるのを見て私は不思議に思いました。どうしてこんな生活をなさっておられるのかかいもく見当もつきませんでした。しかし後になって信仰に導かれてから分かりました。坪田姉は天国の喜びを知られたのです。その喜びを他の人々にもお伝えしたくなってこの住まいに甘んじられたのです。
2021年3月7日(日)
「待ちたもう」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書13章47節~50節
イエス様は天国を「魚とり」にたとえられました。漁師が網を浜に引き上げると、食用になる魚とそうでない魚とをより分けます。食用にならない魚はその場で砂の中に埋められます。イエス様はこれを御覧になられて云われました。「世の終わりにもそのようになる」。つまりこの歴史はいつまでもこのままずっと続いていくのではなく、神が待ちたもう天国に行く者と地獄に落とされる者とが相別れると云うのです。歴史の終わりというと、私達は千年先を考えたり万年先を考え、そんな遠い先のことなんか相手にしておられないと思ってしまいます。そして今をより楽しく、より面白く生きるほうが大切だと思います。しかし今を面白く生きるだけでは人生の勝利はありません。この歴史には終わりの時があること、最後の審判がなされることをしっかり心にもち、イエス様は審判の時の助け主であることをもち続けたいと思います。
2021年3月14日(日)
「両方とも」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書13章51節~52節
デッチ奉公の時は店の倉に何が入っているのかも
よく分かりません。しかしやがて店の主人になると倉の中にある「新しいもの」「古いもの」なんでも自由自在に出してお客さんに披露することができます。イエス様は天国のことを学んだクリスチャンもその店の主人に似ていると云われました。ここで云われている「新しいもの」とは新約聖書のことです。どんなに絶望している人にも新約聖書はイエス様の光、即ち天国へ導く光を教えてくれます。「古いもの」とは旧約聖書です。新約聖書があれば旧約聖書は要らないかと云うとそうではありません。どんな困難の中にある人にもやがて救い主が来て下さるという希望を旧約聖書は教えてくれます。クリスチャンはいつも必要に応じて「新約聖書」「旧約聖書」をひもとき自らを励まし、かつ人々にも希望を与えることができます。益々聖書に親しんで御国をめざしましょう。
2012年3月21日(日)
「応答」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書13章53節~58節
イエス様が久しぶりに故郷ナザレ村へ帰って説教された所、村の人々は「この人はこのような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」と云ってイエス様を疑いました。ですからそんなナザレでは奇跡の業も行われませんでした。しかしある人は云うでしょう。そんなナザレだからこそ素晴らしい奇跡を行って御自身が神の国へ招く救い主であることを証明すべきではないのか。しかしキリスト教信仰はダッコにオンブの宗教ではありません。神は神の所へ帰る道を開いて下さいました。その開かれた道を歩むのは私たちが歩まねばなりません。つまり神の愛に対する応答が大切なのです。1から10全部神に求める在り方は人をダラクさせます。仮に失敗することがあっても神の愛に応答することは何もしないよりはいいのです。応答していく所に信仰の正しい成長があるのです。神は応答する者を必ず助けて下さいます。
2021年3月28日(日)
「神が共に」 寺田悳英牧師
マタイによる福音書13章53節~58節
バプテスマのヨハネは荒野に身を移し自分の使命は何かと真剣に考えました。やがて自分はナザレから出たイエス様を「世の罪を取り除く神の子羊」と世に告げ知らせることが使命だと知りました。この使命に生きようとした時、ガリラヤの領主の不倫行為をたしなめたために彼は捕らえられ牢の中で首をはねられました。人は自分の使命を見つけることと自分がいつ死ぬかしれないことの間にあって闘わねばなりません。宗教改革者ルターはある時ある人から「明日あなたの命がとられるとしたら、あなたは今日どのように過ごしますか」と尋ねられました。ルターは農作業が日課となっていましたから「いつものようにリンゴの苗木を植えます」と答えました。何も特別なことはしないと云うのです。ルターにとって「神と共にある」ことが人生の勝利であり人生の全てでした。私たちも神と共にある日々を過ごしたいと思います。