2022年4月3日(日)
「礼服を着る」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書22章1節~14節
22章「王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人を呼ばせたが、だれも来ようとはしなかった」。ここで「王」と云われているのは神のこと。そして「婚宴」は神の国のことです。神の国に招かれている祭司たちは神の国に来ようとはしませんでした。そこで神は「だから町の大通りに出て、見つけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」と云われました。ところでそのようにしてやって来た人々の中に礼服を着ないで来た人が一人いました。神は「この男を外の暗闇にほうり出せ」と云われました。少し無茶なようにも思いますが、実は宮殿には備えつけの礼服が用意されているのです。このたとえ話は神の国のヒナ型である教会にも云えることです。教会に備えられている礼服とは一体何でしょうか。それはイエス様です。イエス様の信仰をもって罪を赦され、罪きよめられて神のみ前に出たいと思います。
2022年4月10日(日)
「栄光は神に」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書22章15節~22節
ユダヤではユダヤを支配していたローマ帝国に税金を納めるべきかどうかの話は公の場ではタブーとなっていました。ある人は真の神を知らぬ異邦人に税など納める必要はないと云い、ある人は納税は国民の義務だと云って対立しました。イエス様は貨幣を見せなさいと云われました。そこには支配者の肖像が刻まれています。貨幣が流通する地域はその支配者が治安を守っています。であるならその地域の人は感謝のしるしとして税金を納めるべきです。さてその時イエス様は「神のものは神に」とつけたされました。人間は神の似姿として造られました。人間は神の肖像が刻まれた貨幣であります。神はわたしたちが行く所、行く所を守っていて下さいます。であるなら人間は自分の人生を自分の好き勝手に歩むのでなく、感謝のしるしとして神の栄光のために歩まねばなりません。好き勝手に生きることは神の似姿を忘れているのです。
2022年4月17日(日)
「復活」 寺田悳英牧師 ルカによる福音書24章1節~9節
イエス様の復活を記した4つの福音書をつき合わせてみると、所々にくいちがっている所があります。たとえばイエス様の遺体を納めた墓を訪ねた女性ですが、マタイ福音書ではマグダラのマリアともう一人のマリアの2人。マルコ福音書ではこの外にサロメと云う女性の3人。ルカによる福音書では更に数人の婦人たち。ヨハネ福音書ではマグダラのマリア1人です。このようにちがいがあるということはイエス様の復活はなかったのではないかと云う人もいます。しかし1つの事件を報道するのに各新聞社によって微妙にくいちがっていることがあります。だからと云ってその事件がないということにはなりません。くいちがいがあるということはむしろ口うら合わせをした作り話ではないことの証拠です。イエス様の復活は私たちが復活することの初穂であり(コリント第1・15・20)、私たちクリスチャンの希望の源泉です。
2022年4月24日(日)
「復活の世界」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書22章23節~33節
イエス様は云われました。「復活の時にはめとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」。つまり復活の世界はこの世の延長ではなく全く新しい世界なのです。しかしそういうことになると復活の世界は味気ない世界になるのではないでしょうか。しかし復活の世界はこの世の延長ではありませんが、この世と全く無関係の世界ではありません。やはりこの世に生きている自分が復活するのですからつながりはあるのです。しかしこの世的肉的な思いはなくなり、一同は神を父とする聖なる家族となるのです。クラスの好きな人に恋いこがれていたのが、50年ぶりの同窓会に出てみるとみな兄弟姉妹になっているようなものです。復活の世界はイエス様のあがないの業によって罪が全くきよめられた世界ですから神を中心とする聖なる世界です。イエス様は私たちをそのような世界に招いて下さいますから楽しみです。
2022年5月1日(日)
「二大律法」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書22章34節~40節
イエス様の時代、律法は613ありました。そこで律法学者はイエス様に「どれが最も重要な律法ですか」と尋ねました。イエス様は1番重要なのは「神を愛せ」という律法であると云われました。しかしその後でこれも重要であると云って「隣人を愛せ」をあげられました。この二大律法は1つの物事の表と裏のようなものでどちらが欠けても正しい信仰生活にはなりません。神を愛するけれど隣人を見捨てる信仰は1人合点の信仰です。反対に隣人を愛するけれど神を愛さない信仰は自分はこんなにもやっていると知らず内に、はなもちならない信仰になります。だったら二つに分けず「神を愛し、隣人を愛しなさい」と云われたほうが誤解も起こらないのではないでしょうか。どうして第1はこれ、第2はこれと分けて云われたのでしょうか。これはどちらも重要なのですが同等ではないからです。第1があって第2があるのです。
2022年5月8日(日)
「2種類のメシア」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書22章41節~46節
メシアとは「救い主」を意味するヘブライ語です。ファリサイ人はメシアを「ダビデの子」と云いました。メシアはダビデ王の子孫から誕生すると預言されていたからです。しかしイエス様はダビデ自身の言葉を出してこれを否定されました。メシアはダビデの主なのです。ダビデの子とダビデの主は単に言葉のちがいだけではなく内容的にも大きなひらきがあります。ダビデの子はユダヤをローマ帝国の支配から救い出す軍事的救い主です。この救い主は現世的ご利益を与える救い主でもあります。しかしダビデの主なるメシアは人間を罪の支配からあがない出し神の国へ迎えて下さる救い主です。私は同志社大学を受験した時「合格させて下さらなかったら教会には行きません」と祈りました。イエス様をダビデの子として見ていたのです。イエス様は「わたしによらなくてはだれも父のみもとには行けない」と云われました。
2022年5月15日(日)
「生きるも死ぬも」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書23章1節~12節
ファリサイ派の人々は週に二度断食をし、全収入の10分の1を献金していました。しかしイエス様は彼らの真似をするなと云われました。彼らは聖書が一番大切にした「あわれみの心」に欠けていたのです。静岡県に岡井久子さんというクリスチャンの方がおられました。ある時発作が起こって何もできなくなってしまいました。岡井さんは見舞いに来た牧師に云われました。「私はもう何もできなくなりました。私が死ねばお世話して下さる方の労もいらなくなりますしもう死んでしまいたい」。これを聞いた牧師は云いました。「私たちは生きるのも主のため、死ぬのも主のためです。ですから神が生かして下さっている間はそんなことを云ってはいけません」。岡井さんはそれから一念発起して詩集をつくられました。そして多くの人々を励ましました。真の実行力というのは人々に生きる勇気と希望を与えることです。
2022年5月22日(日)
「偽善と信仰」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書23章13節~24節
ユダヤ教の指導者は何事も自分の力で出来ると云っていました。しかし罪の支配から抜け出すことはできません。そこに偽善が生まれるのです。札幌にいた時中学3年生の生徒とそのお母さんが相談があると教会に来ました。その生徒は希望の高校に合格するだけの力がなく毎日イライラしていました。それで教会に相談に来られたのです。私はお二人に云いました。「教会は塾ではないので勉強は教えられませんが、お祈りを教えてあげましょう。よかったらこれから勉強する前に一言神に祈って始めて下さい」。二ヶ月程した時その生徒は私に云いました。「祈って勉強するようになって以前のようにイラつくことがなくなった」。そして彼は見事望みの高校に合格しました。信仰者は神まかせで自分は何もしないのではありません。神のお守りとお導きを信じるが故に、その信仰の中で自分の出来ることを努力していくのです。
2022年5月29日(日)
「讃美歌566番に支えられて」 証し 磯野良嗣長老 マタイによる福音書6章31節~34節
私は本年1月24日付けで、15年間に渡り奉職させて頂いた保護司を、高齢を機に退任させて頂きました。私のこの保護司活動に於きましては、聖書のみ言葉は助言活動の教科書のようであり、讃美歌566番は保護司のテーマソングのように思えました。「水の上に落ちて流れし種も、いずこの岸にか生いたつものを」「風におられしと見えし若木の、思わぬ木蔭に人をも宿さん」そのことズバリの祈りが込められています。この活動への力を教会(礼拝)に求めて参りましたが、折りに触れ支えられて来たのは、『祈られている』(祈って下さっている人がいる、祈って下さっている教会がある)と言う感覚です。『祈る立場と祈られる立場』この双方を意識しつつ保護司活動を全う出来たことに感謝したいと思います。これからも、み言葉に導かれつつ教会生活を続けさせて頂ければ、有難く思います。
2022年6月5日(日)
「見えない所を」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書23章25節~28節
古来、人を正しく成長させる道として二つの考え方がありました。1つはまず外面を整える。すると自ずから内側もきれいになると云うのです。しかしこの考え方で進むと、人はだんだん外見にこだわるようになり、しまいには見栄・体裁の世界に陥ってしまいます。これに対してイエス様は云われました。「まず内側をきよくせよ。そうすれば外側もきれいになる」。では人間の内側はどのようにしてきよくなるのでしょうか。これは自分の内側であるから自分の力できれいにすることができるかのように思ってしまいますが、実はできないのです。私たちの内側をきれいにして下さるのはイエス様だけです。このことを教えるためにイエス様は「マルタ、マリアの話」をされました。接待に追われるマルタに対し、マリアはイエス様の話をじっと聞いていました。忙しければ忙しいほど、まずイエス様の愛を知ることです。そこからイエス様のあとに続く歩みが生まれるのです。
2022年6月12日(日)
「イエス様は道」 寺田悳英牧師 ルカによる福音書15章4節~6節
ある旅人が砂漠の中を通って我が家に帰ろうとした。しかし道に迷いどこを歩いているか分からなくなった。広い砂漠で道が分からなくなることは命とりです。しかしその時です。旅人は一つの足跡を見つけた。「しめた。この足跡をたどって行けば村へ帰れる」。半日ほど歩くと足跡が二つになった。「もうすぐ村だ」と旅人は足をはやめた。そしてまた半日ほど歩くと今度は足跡が三つになった。旅人はその足跡がみなどれも同じなのでよく調べてみた。調べた結果旅人はゾォとした。三つの足跡はみな自分のものであることが分かったからである。旅人は夜を待つことにした。夜になると動くことのない北極星を頼りに方向を決め、そして村の方へ歩いた。やがて村にたどりついた。私たちの人生の広い砂漠を通るようなものである。いろいろな試練があり道に迷うこともある。しかし私たちの人生の北極星はイエス様です。
2022年6月19日(日)
「前に向かって」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書23章29節~36節
人はみな偽善の罪をもっています。そこに人が自分の力で神の国を獲得できない理由があります。使徒パウロは復活のイエス様から自分にも神の国が与えられていることを教えられました。そこから神の国にむかう前向きの人生が始まったのです。私たちにもイエス様は神の国を約束して下さいました。
2022年6月26日(日)
「恐れることはない」 前島宗甫牧師 ルカによる福音書5章1節~11節
主イエスがシモン・ペトロたちに「沖に漕ぎ出して漁をしなさい」と言われました。ペトロたちはプロの漁師です。「夜通し苦労をしましたが何もとれませんでした」と答えます。漁師としての長い経験から、駄目なものは駄目と判断したのです。「しかしお言葉ですから網を降ろしてみましょう」。ペトロたちは無理を承知で再び漁に出かけました。結果は大量であったと聖書は語っています。「しかしお言葉ですから」。これは自分の思いを後退させることです。自分自身の経験やこだわりから離れていく。そこから見えなかった豊かなものが見えてきます。恐縮するペトロたちに主イエスは「恐れることはない」と語られました。自信をなくした者への、恐れず生きることへの招きの言葉です。感謝して受け容れたいものです。
2022年7月3日(日)
「御名のイエス」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書23章37節~39節
昔、横浜に雑貨を商う男性がいました。ある商品が大当たりし、利益をあげた彼の生活は派手になっていきました。しかしお金におぼれた彼は身をもちくずしたのです。お金がすべてという歩みは人生の真の支えを失います。イエス様は云われます。「主の名によって来られる方に祝福があるようにと願うまで今から後決してわたしを見ることがない」。<主の名>とは神の救いのみ業のことです。<主の名によってイエス様を見る>とはイエス様の身長が何センチ、お顔が面長であるかどうかということを知ることではありません。神の救いのみ業を担っているイエス様を見ることが御名のイエスを見ることなのです。「わたしはあなたの心の戸をたたく」。イエス様は今も私たち1人、1人の心の戸をたたいて下さっています。イエス様は御名によるご自身を今も私たちに示していて下さっているのです。
2022年7月10日(日)
「神のお守り」 寺田悳英牧師 創世記39章10節~23節
差別は差別する側の問題と差別される側の問題があります。今日は差別される側に焦点をあててみます。人は差別を受けつづけるとしばしば心がいじけて来ます。しかし創世記に登場するヨセフは違いました。彼は兄たちからねたみを受けエジプトに売りとばされます。彼は差別されたのです。勿論差別されたら差別をする人に差別を止めるように云うことが必要です。しかし云ったからと云って差別がなくなる程差別は簡単な問題ではありません。しかしヨセフはいじけていませんでした。彼は前に向かって一生懸命に歩みました。そしてやがてエジプトの大臣にまでなりました。なぜ彼が前向きに歩めたのか。これはどんな時にもどんな所にも神のお守りがあると信じる信仰が彼にあったからです。差別に対して差別は止めるように云うことと共にどんな所におかれても神のお守りを信じる信仰をもっていることが大切です。
2022年7月17日(日)
「完成への希望」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書24章1節~14節
イエス様はこの世はいつか必ず終わると云われました。なぜなら造られたものが神のようになることを神はおゆるしにならないからです。ここで「終り」といいますのはギリシャ語でテロスですが、これには二つの意味があります。1つはなにもかもがなくなってしまう終り。もう1つはものごとが仕上げられて完成するという終り。イエス様は後者の意味で終りのことを語られました。私たちは自分の力と努力で終りを来たらすことはできません。世の中を完成するには人間は余りにも不完全だからです。以前学生運動が起こり、世の中を改革しようとしましたが、途中から仲間同志ののしり合いが起こりこの運動は挫折しました。世の完成はやはり神がその御手をふるってもたらして下さらねば不可能です。そこに私たちの望みがあります。どんなに困難な事態になっても絶望する必要はありません。神が完成して下さるからです。
2022年7月24日(日)
「山へ逃げよ」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書24章15節22節
イエス様は云われた。この世が終りに近づいたなら戦争や様々な争いが起こって来るが、クリスチャンはそれらに対して抵抗したり戦いを挑んだりしてはならない。山へ逃げなさい。このことはクリスチャンたる者はこの世の現実から目をそむけて1人隠とん生活を送りなさいと云うことではありません。クリスチャンは神からこの世に遣わされた者ですからこの世の現実にしっかり向き合わねばなりません。しかし自分がこの世に遣わされていることが分からなくなったり、曖昧になったりする時にはいつでも神に帰り、そこでもう一度神から「あなたを遣わす」というお言葉をいただいて世に出なくてはなりません。そのことをイエス様は「山へ逃げなさい」と云われたのです。ですから山へ逃げるとはなにも世の終わりが近づいた時だけに云われていることではなく、常日頃の生活に於いてもクリスチャンの基本姿勢なのです。
2022年7月31日(日)
「証し」 寺田悳英牧師 イザヤ書46章4節
私が5才の時、4人の方が私の住んでいた住宅の集会所を借りて開拓伝道を始められました。4人の方はそれぞれ個性の豊かな方であり、賜物も豊富な方でした。しかし賜物が豊富というだけでは、かえってその賜物が邪魔しあう場合があります。私がかつて牧会に当たった松山教会には、賜物の豊富な方が沢山おられました。しかしいっこうに教会が成長しないのです。なぜだろうか。それは「私はこんなにもやった」と賜物を誇り、一致に欠けていたのです。なにか一つのことをやり遂げようとするとき、一致することが大切です。そのためには神の恵みを受けることが必要です。イザヤ書46章4節「わたしはあなたの老いる日まで、白髪になるまで背負っていこう」。この神の愛のもとに一致して賜物を用いていかねばなりません。4人の方はどんな時も一致して教会のため、また併設されていた保育園のために心をあわされました。
2022年8月7日(日)
「平和」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書5章9節
「平和」を実現する人々は幸いである」。ロシアのウクライナ侵略を見てもウクライナの町の惨状を見るにつけ平和の大切さをつくづく思います。広島、長崎への原爆投下の惨状を見て「戦争は嫌だ。戦争は二度としてはならない」と云う人は多くいます。しかしそもそも長崎や広島に原爆が投下されたのも元をただせば日本が真珠湾を攻撃したからです。自分たちが加害者であることを認めずして、ただ被害の大きさだけで平和を願うのは真に平和を作り出すことはできません。やられたらやり返す気持ちのある所では平和はつくれません。どうしたらその心を平和な心にすることができるのでしょうか。それはイエス様を見上げることしか道はありません。イエス様は自分を十字架につけようとする者たちのために「父よ、彼らを赦してください」と祈られました。このイエス様が自分たちについていて下さることを知ることが平和への第1歩です。
2022年8月14日(日)
「選ばれた者」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書24章23節~31節
「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と云う者がいても信じてはならない」。世の終わりには偽メシアが現れるのです。しかし偽メシアはしょせん偽メシアでしかありません。真の神の所へ私たちを導くことはできません。真のメシアは神の子の命を罪のあがないとして献げて下さったのです。京都の平安教会にいた時、早天祈祷会を一緒に守っていた牧師のお坊ちゃんが高熱で亡くなりました。牧師が泣きながら川べりを歩いていると雲間から太陽の光がサアと牧師にさし込みました。牧師はその瞬間神の声を聞きました。「なぜ泣くのか。わたしはおまえにわたしの独り子イエスを与えたではないか」。神が示して下さった真のメシアイエス様によって、牧師は思いました。「息子は消滅したのではない。神の所へ帰ったのだ」。そう思った牧師に再び希望と勇気が湧き上がりました。
2022年8月21日(日)
「御言葉を信じて」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書24章32節~35節
世の終りを科学的デ-タ-から推測することがあります。たとえば西暦何年の頃には世界に食糧難が起こってこの世が終るとか、やがて第3次世界大戦が起こって、その時には核が使用されてこの世が滅亡するとか、また地球の温暖化が一層進み、地球の氷が全部とけて水浸しになる地域が多くなるとか等々です。しかしこうした科学的デ-タ-から予測されるのは暗い絶望的な事態ばかりです。救いの完成、即ち神の国がやって来るという明るい希望はありません。神の国がやって来て人々がそこに迎えられるという世の終りはどこから生まれるのでしょう。それは神のみ言葉からです。聖書は云います。世が終る時、イエス様が再臨されて最後の審判が下される。その時イエス様を救い主と信じた人々は神の国に迎えられ、信じなかった人々は地獄に落とされる。聖書の言葉は神の御言葉であり必ず実現するのです。
2022年8月28日(日)
証し 安村聡子長老 フィリピの信徒への手紙2章13節
私は今、キリスト教会を母体とする高齢者のデイケアセンター『グレイス・ガーデン』で介護の仕事をしています。主は私の祈りに応えて下さり、私の心に働いて下さり、思いを与えられて導いて下さいました。キリスト者としての働きの場、家庭の経済の事、それから義父の介護の事、私に必要な事を、主は私によりそいつつご計画をなしていって下さいました。ハレルヤ!主に感謝します!!『主であり師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない』(ヨハネ13:14)クリスチャンの先輩介護者が入浴介助をする姿をみてこの御言葉が与えられました。イエス様が私の足を洗って下さり愛を示して下さったから、私もそれに続く者になりたい。必要な事は主が全て備えて下さり、そのたびごとに力を下さるにちがいない。主を信じて歩みたいです。
2022年9月4日(日)
「目を覚まして」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書24章36節~44節
24章36節「その日、その時はだれも知らない」。<その日、その時>とは世の終わりの時です。その時すべての人が最後の審判を受けます。最後の審判にパスした人は天国へ、パスしできなかった人は地獄へ落とされます。しかし私たちは安心です。最後の審判の時、イエス様が来て下さって私たちを十字架の贖いの業によって弁護して下さるからです。ですから私たちはこの世にいるときに洗礼を受けてイエス様に弁護していただいく者にならないといけません。ある人が夫がノンクリスチャンのために洗礼を受けませんと云いました。たとえ地獄に落ちても夫と一緒ならその方がいいと云うのです。しかしこれは地獄の厳しさを知らぬから云えることです。地獄は全くの孤独の世界なのです。ですから自分が一日もはやく洗礼を受けて夫のためにも祈らなくてはなりません。祈るなら家族の者もみな救われるのが主のお約束だからです。
2022年9月11日(日)
「両輪」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書24章45節~51節
マタイによる福音書24章は「世の終り」について教えられている所です。私たちは常日頃世の終りについて余り気にも留めていませんが、実は毎週主日礼拝を守るのもこれは処世術を学ぶためと云うよりも世の終りに対する備えをしているのです。いくら名声をあげ、財産をためても神の国を知らない人生は敗北の人生です。反対にいくらこの世の命が短くても神に帰ることを知っている人生は完成を見た人生です。しかしこの人生の終りに神が待っていて下さることを知った者はただ終わりの日を待つだけでなく神からこの世に遣わされていることを覚えねばなりません。最後イエス様が私たちを神の国に入れて下さるならどう生きようが自由ではないかと思いますがそうではありません。神が待っているからこそ、この世ではその神に少しでも応えて与えられている賜物を活かすのです。この二つはいわば車の両輪です。
2022年9月18日(日)
「火を消さない」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書25章1節~13節
結婚披露宴を行うため花婿が花嫁を迎えに来ます。花婿を迎えるために10人の乙女たちが用意されました。真夜中花婿が迎えに来た時、「花婿が着くぞ」と声がかかります。10人の内5人の乙女はあかりをともして花婿を迎えに出ました。しかし残りの5人は油がなくなっていて迎えに出ることができませんでした。このたとえで披露宴は神の国のことです。10人の乙女は神の国に備える信仰のことです。油がなくなった5人は油をもっていた5人に油を貸してくれるよう頼みますが、貸す分はないと云って断わられます。このたとえで教えられることは神の国に向かう備えは他人に借りたり貸したりはできないということです。長い信仰生活の中にはいろいろな時があります。悩みの時、うめく時、悲しくなる時、しかし信仰は最後までもち続けねばなりません。この信仰は1人、1人が御言葉を頂いて備えていかねばなりません。
2022年9月25日(日)
「なぜ怖がるのか」 金 忠洛牧師 マタイによる福音書 8章23節~27節
速藤周作の 「沈黙」 という本を見ると神樣は一体どこにいらっしゃるのか、何をされていらっしゃるのか全く分かりません。今日の本文にもそのように見えます。イエス様と弟子たちは船に乗り、ガリラヤの湖を渡ろうとします。 しかし、激しい嵐が襲います。船が波に飲まれそうになりました。 12人の弟子の中にはガリラヤで漁師だった人もいまして、船を陸地に戻そうとしましたが全くできませんでした。弟子たちは、死の恐怖を感じて、イエス様に助けを求めます。イエス様は船の中に眠られておられたわけであります。しかし、イエス樣は船を操縦することはできません。なぜなら、イエス樣は漁師の仕事はされたことがないからです。弟子たちは、 自分なりに何とかしようとしましたが、何もできなく、死の目前まで行ってから、やっとイエス様に助けを求めます。しかし、イエス様は最初からその船の中にいました。眠られておられましたが、イエス様はずっと弟子たちと共にいました。イエス樣は一瞬も弟子たちから離れませんでした。弟子たちはそのようなイエス樣に頼ることより、まず自分の力に頼りましたが、 自分の力で何もできないから、やっとイエス樣に頼ります。 もしかして、弟子たちが最初からイエス様に頼れたならば、 どうだったでしょうか。私たちの信仰はどうですか。 私たちも人生の中で、苦しみや悩むことが多くあると思います。 その時に、神樣は確かに助けてくださいます。しかし、弟子たちのように最初から神樣を信じることができなく、最後になって、たくさん苦しめられた後、やっと、神様の頼るのではないでしょうか。私たちの人生に苦しみがあるとき、悩みがあるとき、まず、神様に頼りましょう。最初から頼れれば、船の中の弟子たちのように恐れることなく、いつも共にいてくださるイエス様の力ですべて乗り越えることができると思います。自分の苦難のとき、神樣は遠くにおられるように思いますが、そうではありません。 神様はいっも私たちの側にぃらっしゃぃます。私たちの側でいっも私たちを守ってくださると思います。
2022年10月2日(日)
「タラントン」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書25章14節~23節
今日はイエス様が語られた「タラントン」のたとえ話です。1タラントンというのは今日のお金に換算すると約500万円くらいです。主人が僕たちにタラントンを預けて長旅に出ました。5タラントン預かった僕はそれを用いてさらに5タラントンもうけ、主人が帰って来た時あわせて10タラントン差し出しました。主人から2タラントン預かった僕は更に2タラントンかせいで計4タラントン差し出しました。5タラントンかせいだ僕に比べると2タラントンかせいだ僕は半分にも達しません。しかし主人は同じようにおほめになりました。主人にとってもうけた額は問題ではないのです。要は預けてタラントンを活用したかどうかなのです。私たちはややもするともうけた額のほうにこだわって自分はあの人のように出来ないとか、あの人に比べれば私のほうがよくやれていると自慢したりします。神から預かったタラントンを活かし用いるべきです。
2022年10月9日(日)
「夜であった」 榎本栄次牧師 ヨハネによる福音書13章21節~30節
自分の中に消し去ってしまいたい部分があります。しかし、もしそれが救いに繋がっているとすればどうでしょうか。イエスが弟子たちの足を洗われた時、「もしわたしがあなたの足を洗わなかったなら、あなたはわたしと何の関わりもなくなる」と言われました。言い換えると、足を洗ってもらう必要がなければキリストと関係なくなるのです。主イエスの受難の出来事で決して見過ごしにできないことのひとつに、ユダに関することがあります。このユダをどのように捉えるといいのでしょうか。この部分は福音書にふさわしくないから取り去るべきなのでしょうか。最後の晩餐の後、「ユダはパン切れを受け取ると、すぐに出て行った。夜であった」(30)と記されています。この時まさに「夜であった」のです。主イエスにとって、十字架を前にして弟子たちの裏切りは、耐えられないことだったでしょう。
2022年10月16日(日)
「1タラントン」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書25章24節~30節
主人から1タラントンあずかった僕はあずかった1タラントンが失われることを恐れてこれを地中に隠しておきました。そして主人が旅から帰った時、あずかったタラントンをそのまま返しました。主人は云います。「怠け者の悪い僕だ」。つまり彼はあずかったタラントンを用いようとしなかったのです。私たちは自分に与えられた能力や才能が少ししか与えられていないと云って、これを用いようとしないことがあります。神はどれだけもうけたかその額は気にされません。僕にあずけたタラントンを活用したかどうかを見ておられるのです。5つのパンと2匹の魚をイエス様に差し出した少年がいました。イエス様はそれを用いて5000人の人が満腹するほどにふやされました。少年はチッポケなものをイエス様に差し出したのです。私たちも神からなにかしらのタラントンをあずけられています。神のために用いましょう。
2022年10月23日(日)
「小さな1人に」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書25章31節~40節
イエス様は云われます。「この最も小さい者の1人にしたことはわたしにしてくれたことなのである」。イエス様は大きなことをせよとは云われませんでした。食べ物がなくて困っている人に一切れのパンを与えること、のどが渇いている人がいれば一杯の水を与えること、つまり小さなことでもしてあげるなら、それはイエス様にしてくれたこととして受けとると云われたのです。札幌にいました時、ご主人の酒ぐせが悪く、飲み出すと暴力をふるわれる奥様が教会に来られました。彼女の話をきいた私は彼女に云いました。「教会は何もしてあげることはできませんが、夜教会の戸の鍵をあけておきますのでいつでも教会に入って部屋で休んでいきなさい」。彼女は半年近く夜教会に来ては自由に泊っていかれました。だからと云ってどなたにも宿を提供することはできませんが、困っている人には宿を提供するのです。
2022年10月30日(日)
証し 安村誠人兄 イザヤ書30章15節
私にとって大きな試練であった大学入試を乗り越える中で、神様と繋がる豊かな時間がありました。受験の2週間前、私が高校時代の恩師から、受験の御守りとして石(パワーストーン)のついたネックレスをもらった時のことです。とても嬉しいプレゼントのはずが、なぜか不安と恐れを感じました。それはイエスキリストの神様を信じているのに、パワーストーンを御守りとして持っていてよいのだろうかという思いです。クリスチャンとしての正しい信仰とはなんなのかと悩みました。また、せっかく頂いたプレゼントを素直に喜べずにいた思いに、悲しみを覚えました。しかし、どれだけ理論立てて整理し、考えても答えが分からず、気持ちは落ち着きませんでした。私は神様に祈りました。すると神様はおっしゃいました。「何に頭を悩ませて苦しんでいるのか!せっかくのプレゼントなんだから喜び感謝すれば良いじゃないか!大切なのは私に繋がっている事ではないか!」私が本当の意味で神様に繋がり、静かに落ち着いて祈った時、心の中は平安と喜びに包まれました。私は苦しい事、分らない事があると、必死で自分の頭で考えます。また、形式上は祈っているつもりでも、自分の考えたいように、自分の頭を整理しているだけの時があります。しかし神様は「気持ちを静めて、私に繋がっていなさい」とおっしゃって下さいました。私は自分の声ではなく、神様の声を聞くこと、本当の意味で祈ることを学びました。
2022年11月6日(日)
「死んでも生きる」 寺田悳英牧師 ヨハネによる福音書11章17節~27節
イエス様が愛されたラザロが亡くなりました。埋葬されて4日が経ち、イエス様が遠方からかけつけて来られました。姉のマルタがイエス様に云います。「もしあなたがここにいて下さったら弟は死なずにすんだことでしょう」。イエス様の力によって弟は助かったはずだ。しかしもう死んでいました。それもかなわぬこととなってしまったと云うのです。しかしイエス様は云われました。「あなたの弟は復活する」。マルタが世の終わりには最後の審判があり、すべての人がこれを受けるために復活することは知っていると云いました。これに対しイエス様は云われます。「わたしを信じる者は死んでも生きる」。何千年も先ではなく、今既にイエス様を信じる人は神と共にある命に生かされているのです。召天者記念礼拝はそのことを覚える礼拝です。イエス様は今日私たちに「あなたはこれを信じるか」と云われました。
2022年11月13日(日)
「できることを」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書25章41節~46節
この世は最後の審判をもって、天国に迎えられる者と地獄に落とされる者とに分けられて終結するのです。ところで天国に行くか、地獄に落とされるか、その分かれ目はなんでしょう。それはイエス様を救い主として認めるかどうかです。それは言葉で認めるだけでなく行いをもって受け入れるかどうかです。イエス様は地獄に落とされる者に「あなたはわたしが困っていた時助けてくれなかった」と云われました。彼は「いつ助けませんでしたか。まっ先に助けたはずです」と云いますと、この日常生活で困っている人にしてくれなかったのは、即ちわたしにしてくれなかったのであると云われました。しかし困っている人がいても助けられない場合もあります。そういう時はさも出来ているかのように見せかける必要はありません。出来ないことは出来ないでいいのです。自分に出来ることをしてイエス様に献げたいです。
2022年11月20日(日)
「神が第一」 寺田悳英牧師 コリントの信徒への手紙Ⅰ3章6節
コリント教会を創設したのはパウロです。しかしこの教会を大きくしたのはアポロという人でした。彼は信仰熱心で、しかも弁が立つ人でした。ですから大勢の人が彼の証しを聞きに集まりました。このためコリント教会はパウロ派とアポロ派が出来て競い合うようになりました。パウロは云います。「私は種を植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させて下さるのは神である」。昔イギリスのクリスチャンがアメリカ大陸にわたった時、畑に蒔く種がなくて困りました。その時土地のインディアンの人達が種を分けてくれました。秋に収穫感謝祭をひらいた時クリスチャンたちは土地のインディアンの人達を招いて感謝をあらわしました。しかしそのインディアンの人達を送って下さったのは神です。ですからクリスチャンたちは神への感謝を忘れませんでした。私たちは多くの人に感謝しますが一番感謝すべきは神です。
2022年11月27日(日)
「神の計画」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書26章1節~5節
イエス様は過越しの祭りを目ざしてエルサレム神殿に来られました。祭司達はイエス様を十字架につけようとしていました。なにかにつけて自分達に逆らうからです。しかし祭りの期間中は捕らえるのを止めておこうとしました。祭りの間はちょっとしたことでも暴動につながることが多かったからです。しかし実際は祭りの期間中にイエス様は十字架につけられました。なぜでしょうか。それは神の計画であったからです。エジプトでの奴隷生活から解放されたことを祝う過越しの祭りの時こそ罪の奴隷から人間を救い出すイエス様の十字架を執行する絶好の時はありません。神の計画は人にとって何故と思う時にも更に一番よい道を備えていて下さるのです。私達も「どうして」と思うことがあっても神は自分に一番良い道を備えていて下さったことを信じて歩んでいきましょう。
2022年12月4日(日)
「ナルドの香油」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書26章6節~16節
ユダヤの女性の多くはお金に困った時のために香油の入った壺を首にかけて所持していました。今日聖書に出て来る女性が所持していた香油はナルドの香油といって約300万円の価値がありました。それを惜しげもなくイエス様の頭に注いだのです。これを見た弟子たちは「なぜそんな勿体ないことをするのか。それを売って貧しい人に施せばいいのに」と云いました。しかしイエス様は云われました。「彼女はわたしの葬りの準備をしてくれたのだ」。彼女はイエス様がご自分の命を献げて自分たちの罪のあがないとなって下さることを既に知っていました。それで彼女ができる精一杯を感謝としてあらわしたのです。イエス様は云われます。「貧しい人々はいつもあなたがたと共にいる。しかしわたしはいつも一緒にはいない」。これは貧しい人々はいつでも施せるが、イエス様には感謝する時があると言われたのです。
2022年12月11日(日)
「ユダへの愛」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書26章17節~25節
イエス様が12弟子と共に過越しの食事をしていた時、「あなたがたのうちの1人がわたしを裏切る」と云われました。一同は驚き困惑します。「まさかわたしではないでしょうね」と云いました。私も信仰生活60年余りを経て「わたしはイエス様を裏切りません」と断言できる自信はありません。以前にもまして自分のいい加減さを感じています。以前ですとそんな自分を認めるわけには行きませんでした。認めればそのままズルズル埋没していくからです。しかし今は違います。今は弱い自分を認めることができます。なぜなら今は弱い自分のために救い主がいて下さることを知っているからです。イエス様はユダにむかって「わたしを裏切るのはあなただ」とは云われませんでした。それは最後の最後までユダが自分に身をゆだねることを期待して待たれたからなのです。私たちもイエス様のこの期待の中におかれています。
2022年12月18日(日)
「聖礼典」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書26章26節~30節
「聖礼典」と訳されたラテン語はサクラメントです。サクラは「聖なる」の意。メントは「交わり」の意です。ですから聖礼典とは「聖なる交わり」、即ち「神とつながる道」のことであります。プロテスタント教会では聖礼典は二つです。洗礼と聖餐です。洗礼によって私達は神と一つにされます。そして聖餐によって神と一つでありつづけるのです。洗礼を受けた人が罪を犯し「自分はもうダメだ」と思う場合にも聖餐にあずかることによって神と一つにしていただけるのです。私の主任教師のお姉さんは肺結核で20才で天に召されました。クリスマスの夜、ご自宅に牧師が来られて聖餐式をもって下さいました。病んでいるお姉さんはパンもブドウ酒もなかなかのどを通りません。しかし目に涙を浮かべ必死でいただかれました。私はその話を聞いて今さらながらに聖餐のありがたさを思いました。聖餐にあずかって神の国に行きましょう。
2022年12月25日(日)
「恵みと真理の神」 寺田悳英牧師 ヨハネによる福音書1章14節~18節
10人の人がいれば10の神がいると云われます。しかしヨハネによる福音書1章18節では「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」とあります。では出エジプト記3章で神がモーセに「わたしはあなたの父なる神である」と云われてご自身を現わされたのはモーセの錯覚なのでしょうか。それは決してそうではありません。神は確かにモーセに現れました。すると先のヨハネによる福音書の言葉はどういうことでしょうか。これはモーセに現れた神は神の一側面であって、神の神たる中心部分ではなかったのです。「律法を守りなさい。そうすればわたしもあなたがたを愛する」という神は神の一側面です。それに対してイエス様は神の中心部分を示して下さいました。「わたしはイエスによってあなたがたの罪をあがなう。だからイエスに頼れ」。恵みと真理の神が示されたのです。
2023年1月1日(日)
「ガリラヤで待つ」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書26章31節~35節
イエス様が裁判にかけられた時、弟子たちは皆どこかへ逃げてしまいました。かろうじて一人ペトロだけが裁判所の中庭まで入り込みましたが、その彼も三度もイエス様を否認してしまいます。こうしてイエス様は全く孤独の中に死んでいくのです。しかしイエス様は云われました。「わたしは神によって復活の命を与えられる」と。そして更に云われました。「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く」。ガリラヤはかつてイエス様が弟子たちと生活された場所です。私達は復活のイエス様と云うと、なにか光々しい特別な所に現れるのかと思ってしまうことがありますが、イエス様は平凡なありふれた日常生活の中に現われ、そして共に歩んで下さるのです。ですから毎日のなんでもない日常生活の一日、一日を復活のイエス様と共に神の国をめざして歩んでいきたいと思います。
2023年1月8日(日)
「祈っていただく」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書26章36節~44節
イエス様は十字架につけられる前夜、ゲッセマネの園という所に来られて「十字架の道を取り除いて下さい」と祈られました。それだけでなく弟子たちにも「祈ってくれるように」と頼まれました。困った時、他の人にも祈って頂くことは本当に励まされることです。私の青年時代、母教会桂教会で修養会がありました。講師には榎本保郎牧師をお迎えしました。その時もう一人信徒の方がついて来られました。私はどうしてこの方がついて来られたのか分かりませんでした。今治から京都までの道中話し相手をしてくれるためについて来られたのかなと思いました。しかし榎本牧師の話が始まった時、この方は会堂の隅でジッと祈っておられたのです。それを見た私はこの方がついて来られた理由が分かったような気がしました。ヤコブの手紙5章14節「病気の人は長老を招いて祈ってもらいなさい」とあります。
2023年1月15日(日)
「剣に頼らず」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書26章47節~56節
イエス様と弟子たちがゲッセマネの園で祈っているとユダが大祭司の手下どもを連れてイエス様をとらえようとやって来ました。弟子の1人が大祭司の手下の耳に切りつけました。イエス様は「剣をおさめなさい」と云われ、手下の耳をおいやしになりました。イエス様は云われます。「剣によって立つ者は剣によって滅ぶ」。剣では真の平和は来ないのです。インドがイギリスの植民地であった時、ガンジーという人は武力ではなくイギリスの製品を買わない不買運動で抵抗し独立の足がかりをつくりました。もし彼が武力をもって抵抗していたら反対に圧倒されて独立は更に先のばしになっていたでしょう。やられたらついつい武力で仕返しがしたくなります。しかしそんな時はイエス様を思い出しましょう。イエス様は十字架にかかって槍で突く者たちのために神に「彼らをお赦し下さい」と祈られました。
2023年1月22日(日)
「屈辱にも」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書26章57節~68節
イエス様は大祭司の裁判にかけられました。大祭司は「おまえはメシアか」と尋ねます。メシアには神の国に導く救い主という意味と地上の王という意味があり、大祭司は後者に理解していました。ですからイエス様は「それはあなたが云っていることです」と取り合いませんでした。さて裁判が終わってイエス様が外に連行された時です。そこにむらがっていた人々はイエス様につばをはき、またこぶしでなぐりイエス様を侮辱しました。イエス様はその侮辱をすべてお受けになられました。神の使命だったからです。イエス様がすべての罪を負われたということは、即ちどんな罪を犯した人であってもこのイエス様を見上げるなら罪は赦されるということであります。十字架につけられた犯罪人の一人がイエス様に「主よ、御国に行かれる時はこの私をも思い出して下さい」と願いました。イエス様はその願いをきかれました。
2023年1月29日(日)
「主に導かれた人生」 佐藤孝義牧師証し マルコによる福音書10章13節~16節
私は1930年に神戸の須磨で生まれ、きみどり幼稚園に通い、キリスト教に出会いました。小学校3年になって東京に移住、亀戸教会で鈴木正久牧師と出会いました。1945年3月10日、東京大空襲で亀戸教会は無くなり、伝道師や神学生も全て亡くなりました。私は子供心に亡くなった方々の代わりを務めなければならないと思い、神学校に入りました。教会は鈴木牧師が転任していた西片町教会に行きました。卒業後、私は頼りないというので、長野県町教会に伝道師として入れてもらいました。そしてその夏、東海6県の幼稚園研修会が長野で開催され、県庁の係長と準備をしたことが、大変良い学習経験となりました。その後徳島の学生の多い教会の主任となり、長野での学習経験を生かして働きましたが、児童養護施設の仕事にも関わり、その経験が最後の任地、呉で生かされました。
2023年2月5日(日)
「神の光」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書26章69節~75節
イエス様はゲッセマネの園で捕らえられ裁判所に連行されました。弟子たちは皆どこかへ雲がくれしました。しかしペトロだけはなんとかイエス様のあとを追いかけました。そして裁判所の中庭まで入り込みました。しばらくすると一人の女中がペトロに近づき「あなたもあのイエスとかいう男の仲間である」と指摘しました。ペトロは自分も裁判にかけられるのでないかと恐れ、「わたしはあんな男は知らない」とイエス様を否認しました。弟子たちはイエス様と共にいることの素晴らしさが分かっていなかったのです。イエス様と共にいることは神と共にいることです。イエス様は云われました。「あなたがたには世では苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」。イエス様はまことの光です。ですからいかに困難があり、事態が厳しくなろうともまことの光、即ち神の光であるイエス様から目を離してはなりません。
2023年2月12日(日)
「ユダとペトロ」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書27章1節10節
12弟子の1人ユダは銀貨30枚でイエス様を祭司長たちに売り渡しました。他方ペトロも肝心要の時にイエス様を否認しました。ユダは能動的にイエス様を売り渡し、ペトロは弱さの故にイエス様について行けなかったのです。しかしどちらもイエス様から離れてしまったのです。ただペトロは自分の過ちに気づいた時、イエス様に赦しを求めました。イエス様はその求めを受け入れペトロを弟子として再び立ち上がらせて下さいました。ユダは自分の罪をイエス様に頼らず自分で責任をとろうとしました。人間的に見るならペトロよりユダの方がよっぽど優れています。しかしユダは自殺してしまいます。一方が大使徒となり、他方が自殺しましたが、二人の間にはそんなに差はありませんでした。神の前にはどちらも罪人です。その罪を自分の力で解決しようとした所にユダの誤りがあります。罪を自分の力で解決はできません。
2023年2月19日(日)
「この人を見よ」 池田清樹牧師 ヨハネによる福音書19章1節~16節
私はかつて信仰のことで思い悩んだ一つの疑問があった。「人は他の生き物を殺して食して命を繋いでいる。人が生きるとはなんと哀しいことか。」その疑問に自分なりに理解の光明を得たのは、犠牲という概念です。犠牲は、第一に人は他の生き物の犠牲の上でしか生きられないということです。そしてその事態は、即ち人の命は究極的には、キリストの犠牲に担われてしか生きられない、ということを意味します。即ち、人な悲しみの実相は神との断絶です。キリストが贖いの犠牲を通して、神と人との間に和解を結ばれた。かくして、キリストの贖いの犠牲に担われて今私達は生きている。キリストの犠牲は哀しみ生きる私達への声高な問いかけです。「あなたは今どこにいるのか?」犠牲は、第二に私達がキリストの犠牲に倣って隣人への愛の犠牲に生きるということです。いくばくかでも愛の犠牲に生きることそこに私達の命の意味があるのです。
2023年2月26日(日)
「真剣に」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書27章11節~14節
イエス様はポンテオ・ピラトの裁判の時、ピラトからトンチンカンな質問を受けますが、ピラトが真面目に質問をしたのでお答えになりました。しかし27章12節。「祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった」。祭司長たちは真面目にイエス様に聞こうとはせず、最初からイエス様を小馬鹿にした態度をとりました。それに対してはイエス様は沈黙されたのです。ある時ニコデモという人がイエス様を訪ねて来ました。イエス様は彼に「人は新しく生まれなければ神の国に入れない」と云われました。するとニコデモは「人はどうしてもう一度母の胎に入って生まれ直すことができるでしょう」とトンチンカンなことを云いました。しかしニコデモが真面目に、真剣にそう云ったのでイエス様はていねいに説明されました。このようにイエス様に対してはたとえトンチンカンなことであっても真面目に、真剣に聞く姿勢が大切です。
2023年3月5日(日)
「神の語りかけ」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書27章15節~26節
ユダヤには祭りの時、犯罪人を一人赦すという慣例がありました。イエス様が十字架にかけられるとき丁度過越しの祭りが始まる時でした。そこでポンテオ・ピラトは釈放する候補者を二人選び民衆に「どちらを赦してほしいか」と尋ねました。一人は極悪非道のバラバ。もう一人はイエス様でした。民衆は「バラバを赦してほしい」と云いました。何の奇跡も行わなくなったイエス様に失望したからです。これが人間の正直な姿です。このような私たちにイエス様は云われます。「父が約束されたものを待ちなさい。」(使徒言行録1章4節)。父が約束されたものとは聖霊です。聖霊は聖書の言葉を神がこの自分に語りかけてくれる言葉として下さいます。ペトロは十字架がせまり来る中でイエス様の言葉を自分に語りかけている言葉として聞きました。「あなたはわたしに従って来なさい」。聖霊が働いて下さったのです。
2023年3月12日(日)
「苦しみ」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書27章27節~31節
イエス様が十字架にかけられた時、人殺しの強盗も十字架にかけられました。自分の身うちの者が殺された人は強盗にうらみを云ったことでしょう。しかしイエス様は人殺しはしていませんからうらみを云われることはありませんでした。イエス様は「おまえが救い主であると云うなら十字架から降りてみよ。そうすれば救い主と信じてやろう」と云われました。あれだけ奇跡を行われた方ですから降りようと思えば降りられないことはなかったと思います。しかしイエス様は降りられませんでした。人々の罪を身代わって人々を神の国に導くことが神から与えられた使命だったからです。時としてイエス様から離れていこうとする誘惑があります。しかしイエス様から離れることは神から離れてしまうことです。イエス様の苦しみは自分の救いのために受けて下さった苦しみであることを思って、イエス様に感謝してしっかりイエス様につながっていかねばなりません。
2023年3月19日(日)
「十字架の愛」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書27章32節~44節
イエス様が十字架を負って進まれた沿道には、これを見ようと多くの人であふれました。ところがイエス様は昨晩、あっちの裁判、こっちの裁判でひきずり回され一睡もしていません。もう肉体も精神もクタクタです。ですからイエス様は自分の十字架を負えず、しばしば地面に崩れ落ちました。護送していたローマ兵が突然そばで見ていた一人の男を指して「オイ、おまえがこの男の十字架を負え」と命令しました。男はビックリします。どうして自分がこんな大勢の人の前で十字架を負わねばならぬのか。しかし後になって彼は自分が負わされた十字架は救い主が全人類の罪をぬぐうために代わって負った十字架であることを知ります。彼は大変な光栄にあずかったのです。それで彼はクリスチャンになりました。私たちもどうしてこんな恥ずかしめを受けねばならぬのかと思った時、この男の人のことを思い出したいと思います。この人生は強いられた恵みがあります。
2023年3月26日(日)
「なぜお見捨てに」 寺田悳英牧師 マタイによる福音書27章45節~56節
27章46節「3時ごろイエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、ラマ、サバクタニ』。これは『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」私は最初この箇所を読んだ時大変ショックを受けました。イエス様でも死が近づくとうらみ・つらみが出て来ると思ったからです。しかしそれから大分した時でした。詩編22編を読んでいた時、その冒頭に全く同じ言葉が出て来たのです。この詩編を最後まで読むと力強い神の愛と力でしめくくられています。どんなに厳しい試練の時も神をあおぐ者は見捨てられないという詩なのです。イエス様は十字架上でグチをこぼされたのではなく、この詩編を口ずさまれたのです。しかしイエス様は力尽きて詩編22編の冒頭の言葉をのべて息を引き取ってしまわれました。ですから今日の聖書はグチを云われたのではありません。どんなに厳しい試練があろうと神に頼る者を神は見捨てられないことを教えているのです。