「明けましておめでとうございます」。人間同志で挨拶するのと同様、元旦早朝、地域の代表者が、神さまに新年の寿詞(よごと)を申し上げるお祭です。
遡ること二千数百年前のこの日、神武天皇は橿原宮(かしはらのみや)(奈良)に初代天皇として御即位されました。2月11日、日本が建国された日を祝う祭です。
「年」の一文字には、「一年、二年」「年齢」という意味のほかに、「禾(のぎ)のある穀物、特に稲。稲の稔」という意味があります。春の農耕始めにあたり、秋の豊穣を神々に祈る祭です。農耕が生活のすべてであった時代、稲が育ちその収穫を得るという一巡こそが、日本人にとっての一年でありました。収穫が無ければ、直ちに人々は飢え、治安は乱れ、国は治まりません。祈年祭は、既に古代において国家の祭祀として行われていました。現代では、農業生産は勿論、工業、商業、あらゆる産業における生産、さまざまなかたちの稔りを祈る大祭として斎行されています。
旧暦では6月の晦日は夏の終わりにあたります。夏を越す頃、即ち一年の前半を終える時期に行う大きなお祓いです。半年分の罪穢れを祓い、清らかな心身を回復し、残りの半年を瑞々しく過ごします。
一年に一度、氏子を挙げて神々の恵みに感謝するお祭りです。今はスポーツの日(旧体育の日)の前日を本祭り、前々日を宵祭りとしています。車屋、中組、渡場、中殿島、下殿島の氏子5地区が、年番制で当番区、副当番区となり主要な役割を担います。春近神楽を舞うのは、副当番区の女児から選出された舞姫たち。他にも、土蔵の獅子舞・囃子方による練り込み、車屋太鼓ほか各種団体による奉納演芸、中組子供神輿、車屋子供神輿など、賑やかな行事が行われています。
春近神楽は神社に伝わる独特の里神楽。古くは神職により舞われた時代もあったそうですが、大正の頃からは女児によるものとなりました。年毎に副当番区のなかから舞姫が選ばれ、ご神前に奉奏されます。神楽の手振りは、代々の宮司が自ら受け継ぎ、舞姫らに伝習してきました。かつて舞姫の選考は、小学校6年生のうちから8名までと決まっていました。子供の多かった時代には、選考から漏れた娘の哀話を多く生みました。
ご神前に奉奏される春近神楽
下殿島区土蔵囃子方子供連
車屋太鼓の奉納
日本舞踊
夜店の賑わい
中組子供神輿
車屋子供神輿
「大己貴命(おほなむちのみこと)」の名は、出雲大社のご祭神「大国主(おおくにぬしの)命(みこと)」の別称とされます。国造りの神さま、縁結びの神さまなど、そのご神徳が多方面にわたる神さまですが、橋の神さまでもあります。春近神社では、境内の石碑に祀られていますが、元々この石碑は天保6年(1835)、新しい殿島橋の竣工に際して、橋の西詰め(沢渡側)に祀られたものです。その後約130年間、橋と行き交う人々を守ってきましたが、昭和時代に神社境内へと遷されました。
肥沃で平坦な殿島の土地は、北から流れる天竜川を、東から流れる三峰川が強く西側に押し出すことにより形成されました。二つの川に囲まれたこの地の人々にとって、橋は欠くことが出来ません。通勤や買い物のため、橋を渡らない日が、年にいく日あるでしょうか。今、歩行者専用の殿島橋ですが、平成3年(1991)に春近大橋が新設されるまで、東西春近を唯一結んでいたのが殿島橋であり、当時は車も往来していました。
石碑の祀られた天保の頃には、殿島の人々は煮炊きのための薪や炭、田の肥料となる刈敷、馬の糧となる牧草、建築のための木材など、多くを西山の入会地から採取していました。これらを、主に馬の背に積んで運び入れ、日々の生活を営んでいましたから、今と同様、殿島橋は村の生命線でした。天保の橋は、高遠藩の補助を得て架け渡された、当時としては立派な橋でしたが、大雨のたびに破損、落橋しました。村人はその都度、修理、架け直しの役務にあたらなければなりませんでした。
大己貴命祭(おほなむちのみことさい)は、水と戦いながら村を築いてきた先人の労苦を、今に伝える地域の祭です。春近神社には、江戸時代の殿島橋の図面など、貴重な資料も遺されています。
元禄6年殿嶋村橋絵図(1693 春近神社所蔵)長さ23間、わく柱を立て、かさ木を組む。中わくの上流には三角形の水きりを設けた。
天保6年殿嶋村新橋図(1835 春近神社所蔵) 長さ35間。中わくが橋脚にかわり、手すりのある木橋となった。西詰に大己貴命を祀った。
野見宿禰(のみのすくね)とは角力(すもう)の始祖とされる神さまです。かつて、境内で盛んに行われた辻角力の歴史を今に伝える祭で、昭和7年に建立された野見宿禰の石碑前で斎行されます。
古来、角力は神事として行われてきました。その勝敗をもって豊作凶作を占い、また、神前に奉納して五穀豊穣・子孫繁栄を願ってきました。江戸時代になると社寺の造営修復資金を集めるために、境内で勧進角力が行われるようになります。弘化2年(1845)、春近神社で開催された勧進相撲には、その「花受納帳」の記載から、北福地村、赤木村、伊那部町、宮田村、表木村…、実に49か村の人々が集ったことが分かります。
江戸末期から明治にかけて、当地の力士、若狭山河野庄造は、伊那角力の大関として各地に巡業し名声を得ていました。高遠城に招かれ、藩主の前で技を披露したこともありました。
明治11年には、相撲大関稲川政右衛門が巡業の折、春近神社で技を披露したうえ、相撲奨励のために資金を寄せてゆきました。様々なスポーツ競技が、私たちにとって身近なものとなったのは、ここ数十年のこと。それまでは、道具を使わず場所を要せず、誰でも取り組める競技は角力でした。心と身体を鍛え日々の仕事に励むため、また仲間との交わりを楽しむため、当地の力自慢たちも事あるごと境内で辻角力をとっておりました。彼らにより、昭和7年、境内に建立されたのが、野見宿禰の石碑であり、稲川政右衛門の高志を後世に伝えるものです。
角力の始祖、野見宿禰の石碑
収穫された新穀を神々に供えるお祭りで、豊穣を願う春先の祈年祭と一対と捉え、大祭として斎行されます。11月下旬という時期は、新穀の時期としてはだいぶ遅いと感じます。しかし、これは農業技術の進化によるもの。つい数十年前まで、ハザ掛けした稲に初雪の積もることも稀ではなかったと。また、旧暦の11月といえば、太陽の力が一番衰える冬至の頃でした。冬至を境に、太陽の力は復活してゆきます。この時期に神さまから賜った新しいお米を口にすることで、我々の生命力も復活、再生するという願いが込められていました。この地域で得られた収穫は、地域の神々のはたらきがあってこそ。祈年祭同様、今は農業に限らず、全ての産業の稔りに感謝して、神々をもてなします。
宮中の新嘗祭は、天皇陛下御自ら神々に新穀をお供えになられます。その新穀もまた、陛下御自らお育てになられたもの。供えられた後には、御自らもその新穀を召し上がられるとのお話です。
祭典委員が奉仕し、この土地の産物がご神前へ供えられる
お米をはじめとするその年の稔に感謝し、神々をもてなす新嘗祭。
お正月は、神迎えの月です。家々の安寧、繁栄をもたらす「お正月さま」「年神さま」をお迎えするため、心身の罪穢れを祓い除ける行事です。