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目 次
大戦の記録はこの先もずっと残さなければなりません。
それを考えると、「好む」は、締め切りに追われていたとは言え、ずいぶん安直な言葉
だったと反省しています。
そこで、この句を書き直して見ました。
「大戦の頁に潜むきらら虫」
ここでは紙魚は、本来は害虫だと言うことを忘れ、大戦の記録に興味を持ち、読み始めた
のです。
QRコードに巣くう女郎蜘蛛
いつ頃からか身の回りに溢れているこのマーク。
クイック・レスポンスと言うだけあって、スマホをかざせば即座に必要な情報が得られます。
何かに似ているとずっと考えていましたが、ありました。 蜘蛛の巣です。
そこで、女郎蜘蛛に住んでもらうことにしました。
この句は、浜風6月句会に提出した句だが、例によって0点句である。
梅雨の時期になるとどうしても「史上最悪・無謀な作戦」と言われるインパール作戦のことを思わざるを得ない。
1944年3月から7月にかけて、ビルマからインド東部のインパールにあるイギリス軍の補給拠点基地を攻略する目的で行われた作戦だ。
この時期のインド東部は豪雨が長引き、行軍の工程は泥沼化し、また河を渡ったり、山脈超えもあって、進軍は容易ではない上に武器弾薬・食料の補給もなくなり、ただ死を待つだけの状態で失敗に終わったのだ。この作戦でインド内だけで3万人の日本兵が死亡したと言われている。
この作戦を大本営が決定した時、ビルマ前線に居た指揮官らは「無謀だ」と反対したが、それを押し切って実行されたのだ。
現場を知らない官僚が机上の空論で政策を決める構図は、今の政治も同じだが「地図に描く・・・」としたのは、テーブルに地図を広げてインパールまでのルートを企画するという、今の政治に通じる安易さを表現したつもりだ。
また、この作戦は日本軍のビルマの拠点を守るためには、攻められる前に敵基地を叩くという発想によるものだが、これも「敵基地攻撃能力」を保有するという現政権の政策と通じるものがあり、この「最悪の作戦」から80年たった今年も忘れてはならないと思ってこの句を作ったのだが、どなたの共感も得られなかったのは残念だ。
なぜだろう、表現があまりにも直截的だからだろうか?
2018年6月にも「梅雨がくる生きて帰れとインパール」を投句したが1点であった。
まあ、俳句の評価は兎も角、この無謀なインパール作戦の顛末はしっかりと記憶しておかなければならなと思う。
3月句会で、この句に対して「アダモの”雪が降る”の歌詞そのもじゃないか」とのご批判があったようですが、ご批判を頂いた通りです。類似句と同じほどの罪ですね。
しかし、これは雪国での情景そのものなのです。雪国の雪が降る夜はとても暗く寂しい。川端康成の小説「雪国」でも駒子さんが島村を待つ情景も同じような情景なのです。
そこでつい、アダモの歌が全くその情景を歌っているので取り込みましたが、どこかを削るとその情景が欠けてしまうのです。アダモの「雪が降る」の作詩家は知りませんが、日本人の心をよく知った方が書いたのではないかと思いました。そこで、罪を感じながらそのまま載せました。
しかし、そのような反応(管理者注)があったのは驚きでした。これは間違いなく零点と思いつつ、四句の一つとさせて頂きました。
(※ 管理者注 この句は3点を獲得しています)
PS
アダモの「雪が降る」はアダモの作詞作曲ですが、日本語の作詞家は安井かずみと岩谷時子の二人がWEBで出てきました。あの情景が表れている詩は岩谷時子と私は思います。
浜風句会2月の兼題の「海苔」。なかなか作れなくてどうしたものかなぁと・・・そんなときにはネットに縋ります(*^_^*)
海苔枠に入れて四角に成形した海苔を海苔簀(のりす/すだれ)に干して1時間ほどすると、「ピッ」とか「ピシッ」という音がする。
それを漁師さんの間では「海苔が鳴く」と言うのだそうです。
海苔が陽光を受けて乾燥し海苔簀からはがれる音! これで一句、と思って作ったのが掲句です。
動画がありますので、聞いてみてください。
「海苔が鳴く」(下の動画です)
https://www.youtube.com/watch?v=SZXydXdLlgg
「ピチッ」「ピチピチ」というようにも聞こえます。陽光だけでなく、波音とも相性がよさそうですよね。海苔も生きているんだなーと感じました。
親ゆずりの血圧の高さとずっと向き合い色々と工夫をして来ましたが、最近になって答えを見つけましたので、この句はその記念句です。
幸い健康に恵まれ薬とは縁のない生活をして来ましたので、健診の度に勧められる降圧剤の服用だけが頭痛の種でした。
数年前、主治医は相変わらずの数値をみて「私の親だったらすぐに服用させます」ときっぱり。食事内容を改善して一年間頑張って見たかった。
私はその旨を伝え、何かアドバイスがありますかと尋ねました。すると、まず卵を食べない事。イクラやシシャモなどの魚卵もですよ、との事。卵なしの食事療法は、それほど大変ではありませんでした。ハンバーグなどを作る時には、つなぎに卵を使いましたし、外食の折には好きな物を食べましたので。ただ卵焼など、卵そのものを使う料理は一切作りませんでした。一年後、血圧は見事にいわゆる正常値に下がり「やったね」と胸がすっとしました。
現在は、その時ほど極端なことはしていませんから、血圧は少し高めですが安定しています。結局、どうするかは私自身。毎日の速歩を欠かさず一日30品目の食事を美味しく食べています。勿論、卵も。
横浜は大好きな街でした。
歴史有り、海あり。
おしゃれで美味しいお店有り。
一番は、ご近所のお友達との程よい間柄
~職場環境良好。
「嗚呼、離れ難い!」「ナム三 !!」
熟考の末、今の熊谷市に転居。
引っ越しノートのタイトルが、
上記の一句です!(^^)
言 ̄(=∵=) ̄葉
掲句は、2月の浜風句会に提出した句で、私としては自信作でしたが、残念ながら選は入らず零点でした。
私が生まれ育った家は、田舎の古い農家で、兼題が「天井」でしたので、さっと思いついた句で、天井板は古くなるといろいろな理由で地図のようなシミができ、それを古い炬燵にもぐって眺めて遠い過去を忍んでいる、そんな子供時代を思い出して作ったものです。
その家は、関東大震災で今まで住んでいた母屋が壊滅状態になったために、納屋としていた建物を改築して住むようになった家とのこと。その納屋は江戸時代の建築物で関東大震災でどこを直したかはわかりませんが、天井は江戸時代のままなのか、少なくとも関東大震災(大正12年 1923年)以来ずっとそのままで、木目よりシミの図形の方が意味ありで、歴史を感じさせるものでした。
一方、炬燵は櫓炬燵で、その櫓も杉の角材を塗装もせず組んだもので、煤で黒ずんでおり、中に土器とも呼べるような素朴な行火(あんか)があり、そこに祖母が火のついた炭をいれるのだが、祖母に言わせると祖母が嫁いで来た時(明治37年 1904年)すでに使っていたとのことだから、明治初期のものだったのかも知れません。
雄策さんから反省会で「歴史」を持ってきたのが重くてよくないというような指摘を受けましたが、以上のような数十年あるいは百年近い家の古い天井と古い炬燵を見ると、やはり「歴史」を感じざるをえないので、自分としては「歴史」がぴったりかなと思って入れたものです。
しかし、「歴史」に対する私の概念が一般的には通用しないものであったようで、自分だけ分かっても多くの人の理解が得られない句は、やっぱり良くないのかなと感じているところです。
自分の名の「啓」が入っているせいか、この季節になると「啓蟄」という季語が気になります。
「六時半」は「NHKラジオ体操」のことです。近所の公園で早朝ウォーキング、その後ラジオ体操をしています。
多い時は100名近く集まりますが寒い間は10~20名位に。日の出時刻が次第に早くなり、木の芽の数が増えるスピードで人々が出てきて景色が変わります。
いつもと同じ六時半です。
60年近く前、コメの消費拡大運動にかかわっていた。コメといえばノリ、ノリを焙れと言われ、慌てて焙っていたら、突然ドヤされた。
1枚をバサバサとコンロの上で動かしていたら、「そんな焙り方はだめだ!! 海苔には表裏があるんだ。2枚を表側を背中合わせにして、裏側を交互に焙れ!!」確かに香りがよくなった。銀座の高級寿司店で修業した方でした。懐かしい思い出です。
海苔に裏表があるように、コピーペーパーにも、テッシュペーパーにもあります。コインにも裏表ありますが、コイン投げで裏表50対50と思われていましたが同じではないという研究結果が新聞に報道され驚いた。そういえば、社会にも裏社会が、お金にも裏金が評判になっている。「ものごとは裏表あり」ですね。
遠浅で穏やかな大森の海は海苔の養殖が日本で初めて行われた地で、江戸時代に技術が全国に広がったそうだ。高度成長期に遠浅が災いし埋め立てられた。
この句は庶務行員として中途採用された、かつての同僚を思い作った。
彼は元漁師。浅黒く皺の刻まれた顔。海苔の養殖を生業としていた彼は埋め立て事業により追われた。
「補償金など酒代に消えたよ」と嘯き、国に奪われた海への思いを私に語った。
銀行内の雑務をこなす彼は漁師としての誇りを持ち続けていた。
そんなある日、彼は上司を殴った。行内の旅行での事だ。上司は赤く顔を腫らし、彼は「馬鹿にするな!」と息巻いた。
上層部は酒の席での事と不問にし、無かった事にした。
彼は変わらず働き続けた。時折り見せる寂しげな目を思い出す。私は先に職を辞したので、その後の彼のことは知らない。
50年ほども前のことで、今は大森の海に抱かれて眠っているのだろうか。