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福島雪雫さんを忍んで
2024年10月23日 田 友作
10月句会報で福島雪雫さんが10月7日亡くなられた事を知ってあまりの急な出来事で驚きました。
10月20日の句会のあとの反省会で、「雪雫さんどうしているんだろう、誰か知っている?」とか「ある病で伏しているとの事だが、内容は自分から言いたいから言わないでくれと言われている」などと話されたが、その時は既に亡くなられていたのですから、なおさら胸が痛みます。
マウンテンバイクでツーリングしたり、パラグライダーで空を飛んだり、合気道などで身体と鍛えていた雪雫さんなのに、なぜ?と問いかけたい気持ちです。
9月句会に、以下の4句を出されていたので、その突然さには驚くしかありません。
崖っぷち神のみぞ知る秋の空
黒無垢の共に歩まぬ秋の道程
地獄では笛や太鼓の千秋楽
天国も突然地獄枯葉落つ
遺稿とも言うべきこの9月の作品を読み返すと、本人はある程度予感がしていたのかもしれませんね。
雪雫さんの句で思ったのはその一貫性です。浜風句会の何人かの作品を読むと、試行錯誤して作られているのが良くわかるほど、作風に一貫性がないのですが、雪雫さんの句は違っているのです。
それはかつて、5年間の作品を集めて個人別に句集を作った時のことで、最初に作った雪雫さんの句は一貫性があるから「句集」を作る価値を感じたのですが、他の人のは5年と言う歳月もあるし、試行錯誤しているので、作風に一貫性が無くて「句集」を作る意味がそれほどないと感じたものです。
雪雫さんの句は、浜風でいつも低得点で、ある時「いつも零点や一点で、やる気がなくなる」と言っていたのですが、この句集作りの話をしたら喜んでいたのを思い出します。
雪雫さんとはラインでの交流もあったのですが、行動力豊かな雪雫さんが、各地に行った時の写真とコメントを送ってくるのですが、その頻度が度々で、しかもなんと返信したら良いか困ることもしばしばで、返信しないと督促が来たりしました。
彼と知り合う前どのような人生だったのかは知りませんが、とても精力的な生き方をされてこられたのではないかと思っています。
そのうち、あの世からラインが来るかも、そしたら「私も、もうじき行くよ」と返信しようかな。
前稿の、有村飛雲さんの「俳句エッセイ」の中に「どっこい俳句はいきつづける・・?」と題する文章がある。
その中で、飛雲さんは、 i-Padの電子書籍の発達で紙の本は読まない時代だが、自分としては
「紙の本でページをめくり栞を挟まないと読書した気にならない」
と書いたうえで、ゲーム機とパソコンで育った世代は問題なく電子書籍で満足するだろうし、俳句も作らない世代が多くなって俳句人口が減るのではなないかと書いている。
俳句人口が増えているか減っているかはともかく、私は最近テレビの俳句番組の影響で若い人も俳句に関心を持っている人が少なくないのではないかと思っている。飛雲さんは、続いて以下のように面白い提案をしている。以下、本からそっくり引用する。
「季語は時間と空間を一緒に連想させるものならば、折角の貴重な若い世代の俳句への興味を拡大するために若い世代の四季感を間い、それに基づくかれらの季語を募集したらどうだろう。
人には年を取ると、昔を愛惜し懐かしむ気持ちが本能としてある。彼らのその時に詠む対象が見たことも触ったこともないものだらけでは俳句人口は増えるだろうか。ここも政権交代の必要が見えている。」
この「若い世代の四季感に基づく季語を作る」との発想が実に面白い。私も、今の季語が時代の変化や気候変動で季節感と合わないと感じているので、この提案は大賛成だし、「季語」なるものを見直す必要があると感じている。
2024.05.11 田 友作
浜風句会で活躍されて2020年10月にお亡くなりになられた有村飛雲さんの遺稿集とも言うべき「さらば!戦友たちよ」という小冊子をお借りして読んでいます。
その中の「俳句エッセイ」の冒頭、「俳句はヨイショの場」というテーマで書かれている文書に共感したので、引用しながら紹介しましょう。
冒頭「俳句はヨイショの世界である」と書き出し、次いで”どんな駄句でも「花烏風月の基本がわかっていない」とか「人生の見方が全く不真面目である」なんてご批判は 戴かない。私も挙句の全部がゼロ得点のときがある。”と書かれています。さらに、
「しかし句会を終えて不愉快なことは一度もない。なにがしかのいいところを指摘の上のゼロ点、こうしたらグっと締まるなどとの添削付きのゼロ点であり、昔の答案にまん丸で勢い良く、バカ、なにやってんだの突き放されたゼロ点ではない。句友の周りを温かく見ようという姿勢がはのぼのである。」
とあります。
私が浜風句会に出席して強く感じたのは、ここでいう「ヨイショの場」、悪く言えば句会参加者がお互いを慰めあっている自慰行為の場、あるいは「俳句村」の村社会とも言うべきものを感じていました。
「褒めて育てる」という言葉がありますが、私はやはり改善点を指摘しなければ進歩はないと思う考え方なので、句会での私の発言は次第に他人の句を批判するようになっていきました。
数行とんで
「句会はヨイショを基盤にした緩い繁がりの人間関係の場である。趣味の会ってモンはそんなものだといわれるかもしれない。しかし、自分の世界に没頭するのではなく、お互いの句を媒介に、真撃な時には熱い言葉のやり取りがあり、双方的、多角的コミュニケ ーションが必ず一定時間発生する。これにはカタルシス (浄化 )の効用があり健康的精神作業である。」
とあります。
この「時には熱い言葉のやり取りがあり」と言う部分、その緊張感はヨイショだけでは生まれないもので、敢えて言えばそれがあるから「ヨイショ」が生きてくるのではないかと思っています。
しかし、批判ばかりで零点続きではしょげて俳句をやめようかと思う人もいるので、飛雲さんが冒頭述べているように、建設的で温かみのある批判を心がけなければいけないのだと、反省するこのごろです。
2024.04.25 田 友作
主題と技術
田 友作
かつて、俳人の神野紗希が書いた「主題と技術」と題する新聞のコラムを読んだことがある。その趣旨は、「主題=内容」「うまさ=技術」は二項対立ではないものの、最近の俳句は「”うまさ”を重視しすぎる向きがある」というものだ。
その観点から、浜風句会の句を観てみるとどうなのだろうか。
過去2年間の特撰句の感想を見ると、句の「うまさ」を評価しての選は極めて少ない。多くが「おもわず手がのびた」というように、「あるある句」(選者の体験と重なっての共感を呼ぶ句)で特選にしたというのが多く、作句の技術を評価しての選は極めて稀である。
俳句初心者である私は、作句技術を学びたいと句会に参加しているのだが、上記のような浜風の実情で、技術的に切磋琢磨する状況でないので少々もの足りなさを感じている。
一方、特選句の主題が優れて魅力的かというと、そうでもなく上記のように、「選者の体験や気持ちにピッタリ」ということで特選としている例が多い。
尾崎放哉が大正14年の手紙に「俳句は人格の反射です」と書いているとのことだが、浜風句会の特撰句で「人格の反射」を読み取れる句は少ない。いや、それこそが「人格の反射」なのかもしれないが。
雄策さんがかつて「俳句は言葉の遊びだ」と冗談めいて仰ったことがあったが、それは川崎展宏の「俳句は遊びだと思っている。余技という意味ではない」(昭和48年第一句集「葛の葉」より)や「1.俳句は滑稽なり、2.俳句は挨拶なり、3.俳句は即興なり」という山本健吉(昭和21年批評文「挨拶と滑稽」より)に通じるものがある。
そうならそうで、気楽に楽しく作ればよいし、句会も小難しいことは言わずにその観点から楽しくやるのが一番ということになる。
ただ、橋本夢道の「(俳句は)悲しみの玩具ではなく、目的をもった要求の文学でなければならない」(昭和29年第一句集「無礼な妻」あとがきより)という立場も追求したいと思っている。
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俳句初心者の私が生意気な事を書きましたが、自分自身の中にある迷いがいまだ吹っ切れないもので、整理して率直に書かせて頂きました。
藤田湘子の「新版 20週俳句入門」という著作物がある。その中に面白い記述を見つけたので、少々長いですが、そっくり引用します。
******* ******* *******(以下引用 20週俳句入門 175頁~176頁より)「
蝉鳴くやこの世に命ある限り
風化せぬ悲しみあらた終戦日
蓑虫に似たるさだめか母老いぬ
毛糸編夕日をひそと編みこめぬ
薔薇咲いて恥じらい我に教へけり
小さき庭小さき秋の風生まる
これを読んで、「いい俳句だ」とか、「うまいこと表現した」などともはや感心したりはしないだろう。 これ、みんな最悪の見本なんです。
どうしていけないのか。「蝉」「終戦日」「蓑虫」はどれも決まり文句。新聞・テレビの報道でときどき歯のうくような決まり文句を言うけれど、あれと同じ。使い古され使い古されして手垢がピッカピカにくっついている。内容も虫酸が走るような陳腐さと薄っぺらな感傷。
「毛糸編」「薔薇」「秋」のほうは、巧く表現しようとして小細工した句で、感動のかけらもなく、作者の「してやったり」とほくそ笑む顔が見えるよう。とくに「薔薇」の句は教訓めいたものを言おうとしていて、手に負えない。だいたい、俳句の中に次のような内容を盛りこもうとすると、間違いなく失敗する。いや、俳句の体をなさなくなる。
とくとご承知おきを。
・道徳観・倫理観・教訓
・理屈・分別臭
・風流ぶり・気取り・低劣な擬人法
・俗悪な浪花節的人情
右の六句、いずれもこのうちの一つや二つは抱えている。
(中略)
新聞・雑誌の俳句欄の投句者には、こういう俳句を作る人がゴマンといるんですからね。
それもこれも原因は
1)俳句の基本的な作り方を知らない
2)俳句は韻文という意識がない
ということに尽きるわけです。
******* ******* ******* (引用終わり)
私は彼の俳句は余り理解できないのですが、「愛されず沖遠く泳ぐなり」は共鳴する句です。
作品はともかく、彼は、小田原で生まれ育ち、横浜市青葉区の自宅で79歳でお亡くなりになったとのことですが、国労の組合員として砂川闘争に参加してそれなりの役割を果たしたという経歴で興味をもっていました。
この新版は2010年が初版ですが、旧版は1988年が初版で随分古いのですが、作句の参考になる内容かと思います。なお、新版は2020年8月に第13版が発行されています(角川書店 1500円)
田 友作
俳句の評価
「俳句四季大賞」「俳句四季新人賞」選考会、「新俳句人連盟賞」選考経過から
田 友作
「俳句四季」2019年7月号は、「俳句四季大賞」「俳句四季新人賞」選考会の過程を選者の発言で再現しており、「俳句人」2019年9月号は「俳句四季新人賞」選考会の過程を掲載している。多くの俳句誌が俳句の良いところを褒めるだけで、欠点や悪評価はあまり書いていないが、これらの報告は何故だめなのかも多くかかれており、作句の参考にして頂ければとおもってまとめました。
1.優れているとの評価
・ユーモアのある句だ
・大胆な発想だ
・大胆で面白い発想だ
・感性が良い
・情感が新鮮だ(新しい)
・日本語の美しさを十分に湛えている
・類型を破った新しい比喩が生きている
・表現の飛躍がおもしろい
・感覚的な鋭さが良い
・感性の見せる抒情性が良くでている
2.良くない評価
・どういう意図で読んだ句だか分からない
・感動がない
・面白がってしまっている
・よくある発想だ
・わざとらしい
・表現が曖昧だ
・よく分からない句だ
・わざわざ(そこまで)言わなくても良いのに
・頭で作っている
・もっと季語を大切に
・俗っぽい表現だ(句だ)
・テーマが見えない
・新しい驚きがない
・それをただ言っただけに過ぎない句
・既視感がある
・何べんも見たような句だ
・遊び過ぎている
・これまでの世界を抜け出ていない
・独自性に欠ける
・技巧に走り作品の重量感が損なわれている
・表現がぎくしゃくしている
・対象の把握力が弱い
・抽象性が過多
・事象の言葉に季語を継ぎ合わせている
・趣旨が分らない
・類似性がある
・伝えたい内容がわからない
・単なる報告や説明で終わっている
・物を言いすぎてしまりがない
・手垢のついた言葉や表現である
聖木翔人『70歳からの俳句と鑑賞』を読んで 國分三徳
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聖木翔人『70歳からの俳句と鑑賞』を読んで
國分三徳
(※これは著者への手紙である。三徳さんの了解を得て掲載します)
聖木翔人さま
この度は『七〇歳からの俳句と鑑賞』ご上梓おめでとうございます。書き慣れているとはいえ高齢になってからのこのお仕事はさぞお疲れのことだったと存じます。
七〇歳になられてからのお付き合いですが、なかなか個性的な俳句をおつくりになるなぁと思っておりました。今回、句会では拝見していなかったのではないかというもの、しかし「翔人風味」たっぷりだなぁという句がたくさんあり、楽しく拝見いたしました。六〇歳の翔人さんと出会っておればもっともっと多くの佳句を見せてもらえたのだろうと思います。
「鑑賞」のなかでは「白」の誌面でも拝見しておりましたが、白の仲間、私の句も取り上げておられ、お心遣いのやさしさに感謝いたします。本書で読むとまた新鮮な印象をもったものでした。
雄策さんとの「オブローモフ的交際」のくだりも翔人さんのオープンな人柄が垣間見えておもしろく拝読しました。
白句会にご参加されるずっと以前から色々の句が翔人さんの頭のなかに蓄積されていたものと存じます。これからもお互いに老骨に鞭打って頑張って参りましょう。
五四五句の中から、いくつかを抜き書きさせて頂きます。
國分三徳 二〇句選
冬を呑む鯉の大口がらんどう
遠慮がち打つ鐘のあり梅蕾
糸絡む鳩の片足冬木立
朝市で狙いどおりにトマト買う
参道にかまくびもたげまむし立つ
思慮ふかき蜥蜴あらわれ首かしぐ
なめくじもふと考える岐れ道
山吹やさびしい武士をなぐさめよ
ご先祖の笑わぬ写真夏座敷
なにがあれあけっぴろげに花八手
墓域芽吹き骨片ひそかに動く
冬霧ふかし埼京線は混むだろう
鴨つがい餌ゆづりあうを見てたちされず
小菊一輪いちるの希望活けるごと
朴の花天に用あり地は無用
孤独とは冷麦にのるさくらんぼ
ほたる狩りほーいほーいと野壺落ち
田芹つむ無数の白き根は無頼
ひしと抱く淡雪のとけ闇ひとり
ヒマラヤ杉寒蒼天の男つぷり
(※本書はアマゾンで「聖木翔人」とだけ入力すると本の紹介が出ます)
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俳句談義
2022.02.02 原田洋子
いつ頃からか友達二人と折々に Line で雑談をしています。 政治への不満はいつでも尽きることなく、若者言葉はいつも槍玉に上がります。
そんな中で、ひょんな事から、最近は俳句談義が加わりました。 二人は、俳句は素人ですが言葉の使い方には一家言を持っています。 私が句会の様子を話したり、こんな面白い句があったのよ、と話してしている内に俳句にも興味を持ち始め、一人は季語集も手に入れました。
夏の終わりの頃、Hさんが「今日は貯まったポイントを使う最終日だったので、自転車で遠くのお店まで行って今帰って来たの。 こんな時間になってしまって馬鹿みたいよね!」 「でも、こう言う気持って俳句になるのかしら?」と独り言のように呟きました。
私は、その言葉は私に向けられたと思ったので、暫く考えてから、俳句と言うより彼女のいつになく興奮気味な様子をそのままリズムに乗せて、「何たってポポポポイント大夕焼」なんて言うのはどう?と返信しました。
二人はその即興句に驚いたらしく、想像以上に誉めてくれました。
十二月の浜風句会の四句を考えていた時、ふとその実験句を季語を変えて正式に句会に出して、浜風の皆様の審判を仰いで見たいと思いました。
「何たってポポポポイント年用意」の誕生秘話です。