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3月句会で、惠さんから「白」147号(1994年1-2月)をお借りした。
その中に、「白」に寄せられた句を主宰の有富光英先生が評訳している頁があり、大西惠さんの「木枯の顔して騒ぐ梢かな」という句について以下のような文がある。
この句の要点は「顔して騒ぐ」の措辞にあるだろう。普通の発想ではこの言葉は出てこない。
この作者は自分の言葉を持っている。今月の次の句も同じである。
ためらいは冬陽の似合う丘に捨てる
独自の発想が出ている。それに暗喩の手法を取り入れているところにこの作者の未来がある
と思う。(白 147号18頁より アンダーライン筆者)
句会や反省会で「俳句が出来ない」「毎月4句を作るのに苦労している」という声を良く聞くが、私は毎月7~8句は簡単にできて、どれを浜風句会に出そうか迷う位だが、上記光英先生の評価を読んで、私の句は措辞も貧弱、暗喩もないから作句が簡単で、その結果つまらない句になってしまうのだという事が良く分かった。
みなさんは、措辞に頭を巡らせ、比喩暗喩をどうしようか考えているから苦労されているのだと思う。
しかし、もともと「作者の未来がある」と評されるような素質がない私は、いくら頭をひねってもこのような句は出来ないし、俳句は楽しむためにやっているのに、つくるのに苦労したくないと割り切って、これからも駄作の山を築いていく事になると思う。
「大寒の星のゆらぎや始発バス」
啓子さんが逝かれた1月20日は、大寒の日だった。明けやらぬ空には星。始発バスに乗って旅立つさまを詠む。
掲句は「始発バス乗り込んで来た夏休み」(啓子さんの作品で、第42回多摩地区現代俳句大会4位入賞)へのオマージュを込める。
啓子さんは「作った句はどれも可愛い子」と言ったそうだ。
私が兄に俳句を見て貰っていると話すと、自分の句の感想も聞いてほしいと言われた。私の兄は何者でもなく、ただの俳句好きなのだ。
「満月を見上げそのまま棒になる」
啓子さんの9月の句だ。兄の感想は特選。
10月の句会でそう伝えると「自分では四句の中で一番自信があった。とても嬉しい」と。そして兄の句会への参加を懇願された。
それからの句の感想は、伝えられないままになった。兄との句を介しての交流は、2年近くになる。可愛い我が子なら、誰とは言わず見て貰いたかっただろうと今は思う。
啓子さんとは祝賀会で隣り合わせ、私を浜風句会に誘ってくれた。
「私はあんまり人と話さないのよ。」と言われ、初対面の私は戸惑いながらも優しさにふれた。
句会での日々は付かず離れずで、見守ってくれた。人の句へは常に温かな眼差しを向けた。
啓子さんは可愛い句と共に、旅立たれたのだろうか。
2025.01.31 佐藤花子
2年前の2023年9月の句会へ「新涼やミシンへ向かいただ嬉し」を出しました。
あの年も暑い暑い夏でした。涼しく感じられる日もあり、ミシン仕事が出来るようになった喜びをそのままに句に載せました。
「快音を入れたら?」「ミシンが喜ぶにした方がずっとよい」・・・・・との評をいただいていた時に、特選で選んでくださった啓子さんから「喜びが率直に表現されていてこのままがよい」と、きっぱり一言。
啓子さんも縫物がお好きなのかしら・・・・。
それ以来、啓子さんの句会への出立ちを注意するようになりました。
いつもゆったりとしたお手製らしい洋服でした。特に印象的だったのは、張りのあるコットン地の桃色ワンピースはシルバーグレーの髪にホントによくお似合いでした。
啓子さん、あちらでもお洒落を楽しんでください。
そして、持ち味の元気のでる俳句を作ってください。
啓子さんとのお付き合いは、私が初めて浜風句会の鎌倉吟行へ参加した時から始まりました。啓子さんは、その日一日付かず離れずいて下さり、私を安心させて下さいました。
その後親しくなってからは、トミ子さんと三人で何回かカラオケを楽しみました。啓子さんはかなり長く英会話もボイストレーニングもしていらして、英語の歌を綺麗な声で歌われ、私達はびっくりしました。
また、花子さんが言われたように、とてもお洒落で、いつも持物にも靴にも何気なく気を配っておられました。
一方で、啓子さんは敬虔なクリスチャンで、毎週日曜日には山手教会での早朝のミサに出ておられました。常にご自分を律し、曲がった事は嫌いと言う生き方をされていましたので、物事をはっきりといわれるのは、習い性かと思います。
とても仲の良いご姉妹でしたので、いま妹様の落胆はいかばかりかと思います。病名については聞かないで欲しいと仰るのも分かる気がします。
私は、30日の山手教会でのご葬儀の時刻に合わせて黙祷を捧げたいと思います。
「ご免なすって手前俳句の寒鴉」
1月の句会での私の選句です。
皆さんはその時、この句の作者が誰なのか分かると、口々に言われたのですが、私はうさぎさんだと思っていました。
それと言うのも、昨年の12月にうさぎさんから送信された写真があったからです。
乗換え駅で撮ったとのメッセージ。残照の空を背景に一羽の鳥。送電線に止まる鴉でした。
結果は皆さんの思われた通り、三徳さんの句です。でもこの写真にぴったりと思いませんか。映像と重なり私の選句となりました。
この句はペーソスがあり、軽やかに戯けて、
下五の寒鴉に作者の生き様を見せます。
孤高の鴉です。
選句では作者名を伏せますが、それは想像力が限定されしまうからでしょうか。
それとも俳句とは、普遍性に価値を求めるものだからでしょうか。
三徳さんと思えば三徳さんの世界が広がり、うさぎさんと思えばうさぎさんの世界が広がります。
時には意外性に驚くこともあります。でもそれも作者の弛まぬ挑戦の証ですね。
私は、今は作者を想像しながらの選句を楽しんでいます。
◆ 雪雫さんを偲んで 2024.11.25 佐藤花子
雪雫さんを偲んで
2024年11月25日 佐藤花子
円卓を囲んで又隣が雪雫さん。「白」の合同句集出版記念祝賀会の席でした。
渡された名刺には英語表記で、Happy_Island Snow_Man (Sekka)。
ご自身の句集「待宵」を私に下さり、浜風句会で会いましょう!と言われました。
それが雪雫さんとの初めての出会いです。
それから1年半余り、10月7日。その日は私の誕生日で雪雫さんとのお別れの日になりました。
安らかに逝かれたのだろうかと思い巡らす日々です。
浜風句会に参加した最初の日、雪雫さんの笑顔がありました。
反省会では「句会よりもこの席が楽しみで来ているんだよ」と美味しそうにお酒を飲みながら、「僕の句は点が入らないんだ。やめようと思ったけれど、句を続けられたのは友作さんのお陰」などと私を話の輪に入れてくれました。
体調を崩されてからはLINEでのやり取りになりました。病状は一切語らず、パリオリンピックの感動や自然科学などの話題でした。
そして、8月20日のLINEが最後になりました。
「8月17日の句会は如何でしたか。当初は出席予定でしたが、体調不良で諦めました。私の句は入院に関する物ばかりになってしまいました。会は盛り上がりましたか」
「私の拙い句にも票が入ったとのこと。一点でも嬉しいです」
「欠席すると誰が選んで頂いたか分からないので、すみませんが私の四句だけ教えて頂けませんか」
「ありがとうございます。みんなレベルの高い人が選んで頂いたので嬉しく思っています」
8月の句会では四点句が二つ、一点句が一つありました。私の伝えた話は雪雫さんの心を灯したでしょうか。
8月12日のLINEに庭の鉄砲百合の写真と共に「全て水平方向になり、まさに臨戦態勢です」とあります。
今更ながら雪雫さんの心の内を思います。
あゝ最期まで希望を失わず病に挑まれていたのだと。
雪雫さんらしい生き方を全うされたと思います。
そして、残された奥様を思います。
"うんうんと妻はどの秋さまよえり"
ご冥福を心よりお祈りします。
東京多摩地区現代俳句育協会の第42回俳句大会で、図らずも2位に入賞しました。
生牡蠣を秘仏のごとく開きたり
浜風句会の例会で得点が良かった俳句を、数少ないですが、投句しています。
入賞した句は、平成5年11月例会に、次のように出した句が元の句です。
牡蠣の蓋秘仏のごとく開いたり 10点
大会に投句するにあたり、この句に納得できませんでした。何かイライラします。
特に「牡蠣の蓋」の部分が気にる。もっとすっきりできないかと考え込みました。
そして「牡蠣の蓋」は生牡蠣のことではないかと思い至り、さっぱりと「生牡蠣」に言い換えることにしました。
そこまで言い換えていいのだろうか不安でした。大会には4句投句しましたが、この句は評価は低いだろうと期待しませんでした。ところが2位、驚きました。
なぜなのかなぜなのか、私なりに考えますと、「牡蠣の蓋」は説明的なんだ、くどいんだ、もっと大らかにすっきりとした内容にしたことが、良かったんだと考えました。
私は作句するとき、あれもこれもと言葉をいれたくなり、説明的なものになる癖があると、この大会の入賞で、改めて思い知らされました。勉強になりました。浜風句会でさらに精進したいと思います。