至福の里祈念地
(中山地区墓標群)
(中山地区墓標群)
紫福 キリシタン
ユートピア村概要
萩市の東北、車で三十分のところに紫福という小さな村がある。ここは昔から不思議な形をした祠型の墓石が数多く残されていることで知られていた。
1549年、フランシスコ・サビエルが来日。キリスト教に好意的であ った大内義隆の庇護のもと、キリスト教は山口を中心に一気に拡大していった。
1555年、毛利元就(毛利輝元の祖父)が陶晴賢を破り山口を制圧する。仏教の保護者であった元就は、サビエル以来栄えていたキリスト教を一掃するため、防長 二州から全ての宣教師を追放する。
その時山口から多くのキリシタンが紫福に逃れて行った。紫福の地名は「至福」から来たとも言われている。
紫福を知行地として治めていたのは熱心なキリシタンであった三輪三兄弟・三輪八郎兵衛(洗礼名不明)、アンデレ九右衛門、ジョアン少次郎達で、長兄の八郎兵衛の妻はメルキオル熊谷元直の姪。八郎兵衛は元直の片腕となってキリシタン社会を支えた。
紫福はある一時期、村のトップから民百姓に至るまで、ほとんどすべてがキリシタンのキリスト教ユートピア村を形成していたと思われる。
二人(熊谷元直と三輪八郎兵衛)は毛利輝元によって誅殺され、強力な指導者を失った紫福は、幕府のキリシタン弾圧政策と相まって姿を消し、一切の記録を残していない。しかし、彼らは不思議な祠型の墓石を残すことで、後世にその信仰を伝えた。
墓石は全て鍋山の安山岩で作られ、祠の中に手を合わせた像がある。高さは笠石を含めいずれも四~五十センチ。ほとんどが隠れるように人里離れた藪や山中にある。これら墓石は村人の禁忌となり、触ると祟るという伝承があって長い間畏れられていた。
1999年、サビエル来日四百五十年の記念すべき年に当たり、山口と萩教会の有志により、山中に散乱し、忘れ去られているキリシタン墓を手厚く顕彰し、世に広く彼らの信仰を知らせる祈念地の造成が完成した。
正式名は「キリシタン至福の里・中山地区祈念地」。この土地の所有者西村様の同意を得、旧福栄村役場、地元の方々そして両教会の会員の協力のもと、同年四月、地元の関係者を招いて祝別式、記念ミサが行われた。その後も、毎年五月には至福の里追悼ミサが行われるようになり、毎年多くの巡礼者が集まっている。
(紫福は小さな村であるが、他にもいたるところに伴天連墓や三位一体像をはじめ、多くのキリシタン遺物が残されている。)
案内図
↑タップで別画面表示↑
Googleマップで「キリシタン祈念地」と入力すると目的地が出ますが、少しずれています。
青い矢印線は車🚙、赤い矢印線は徒歩🚶になります。案内看板から先は私道になりUターンも出来ないので自動車の進入は不可。
衛星画像のように、民家の私道を通り林道を歩くことになりますので、車は二股に分かれた道路の2ヵ所に停める場所があります。(手前の二股歩道上に4~5台、奥の二股道路上に4~5台停めれると思います)
案内看板の先にある民家の私道に入った後は、数ヵ所に看板が立てられ林道と最後に山道の坂(階段)と、迷わずに辿り着けると思います。
山道の坂があるので滑らない靴を用意し、周りが竹藪なので害虫対策も用意すると良いでしょう。
<※案内看板から先は私道なので、自動車で進入しないようにして下さい。この聖地は、地域の方々の思いやりとご協力により守られています。訪問される皆さんの思いやりとご協力もよろしくお願いいたします。>
10号道路沿いの案内看板
案内看板
私道は狭くカーブが多い
看板があるので迷うことはない
キリシタン祈念地
祠型の墓石
5月のミサ
キリシタン祈念地説明看板
祈念地側にある鍋山
(至福の丘)