2025年の厄年一覧
男性 ※数え年での年齢です。
前厄 24歳 2002年生・平成14年生
41歳 1985年生・昭和60年生
60歳 1966年生・昭和41年生
本厄 25歳 2001年生・平成13年生
42歳 1984年生・昭和59年生
61歳 1965年生・昭和40年生
後厄 26歳 2000年生・平成12年生
43歳 1983年生・昭和58年生
62歳 1964年生・昭和39年生
女性 ※数え年での年齢です。
前厄 18歳 2008年生・平成20年生
32歳 1994年生・平成6年生
36歳 1990年生・平成2年生
60歳 1966年生・昭和41年生
本厄 19歳 2007年生・平成19年生
33歳 1993年生・平成5年生
37歳 1989年生・平成元年生
61歳 1965年生・昭和40年生
後厄 20歳 2006年生・平成18年生
34歳 1992年生・平成4年生
38歳 1988年生・昭和63年生
62歳 1964年生・昭和39年生
健磐龍命(タケイワタツノミコト)
健磐龍命は、初代神武天皇の孫で、父は神武天皇の兄の神八井耳命(カムヤイミミノミコト)。健磐龍命は、神武天皇76年春2月丁卯、鎭西鎮護の勅命を受けて山城国宇治(現:京都府宇治市)から九州へ下向したという。そして、先に祖郷護持の大任を以て下向しておられた伯父君、日子八井命(神武天皇の皇子)の御一家と協力、よくその重責を果たし、人々はその大恩を感謝したという。日向から阿蘇に入り阿蘇造の祖となった。七代孝霊天皇の9年6月26日、勅命により神として清めいみ慎んで奉ったという。記録による名前の初見は、『日本紀略』の弘仁14年(833)で、朝廷はこの神に従四位下の位を贈り、神の料として「封戸」を捧げたとある。それはこの神が旱天に祈れば降雨をもたらす護国救民の神であるからと説明されている。神位は度々上進し、承和7年(840)勲五等従二位に叙せられた。本社は、阿蘇市一の宮の「阿蘇神社」。
深田阿蘇神社は、平安時代、地元豪族平河氏の創建と思われる。そして、鎌倉時代初頭、平河氏没落の後、相良氏とその代官、地元住民によって尊崇維持され明治時代を迎えた。
【参考文献】
1990 『日本「神社」総覧』別冊歴史読本・事典シリーズ<第9号> 新人物往来社発行
2007 阿蘇惟之編 『阿蘇神社』
●加茂神社
鎮座地 あさぎり町深田北858番地
ご祭神 別雷神(賀茂別雷神 かもいかづちのかみ)
ご祭日 旧九月九日
●日吉神社
鎮座地 あさぎり町深田東1398番地 高山体育館南裏より徒歩、小道左側の林の中
ご祭神 大山咋神(おおやまくいのかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)
ご祭日 旧十一月十九日
その他 江戸時代の記録では熊野権現とも
●伊勢皇大神宮
鎮座地 あさぎり町深田北43番地
ご祭神 天照大皇神(あまてらすおおみかみ)
ご祭日 旧九月十六日
●白山神社(荒茂 上宮)
鎮座地 あさぎり町深田北荒茂五郎間1560
ご祭神 菊理姫神、建御賀豆智神
ご祭日 旧十一月十八日
その他 相殿の神は、地主権現、立山権現、高塚権現(熊野権現)の神を祀り、即ち
大己貴神、伊弉諾尊、手力雄神、熊野家都御子神、熊野速玉神、熊野夫須美神
●水神社(庄屋)
鎮座地 あさぎり町深田東2733番地
ご祭神 弥都波能賣神
ご祭日 旧八月十八日
●鹿児島神宮(内山八幡神宮)
鎮座地 あさぎり町深田東87番地
ご祭神 彦火火出見命(ひこほほでみのみこと 山幸彦)
ご祭日 新十二月一日
●水神社(荒茂)
鎮座地 あさぎり町深田北1537
ご祭神 弥都波能賣神
ご祭日 旧八月十六日
その他 令和5年3月、境内に荒茂白山神社を分祀し下宮として祀る
●中球磨神社
鎮座地 あさぎり町深田西913-1
ご祭神 天照大御神、大宜都比賣神
ご祭日 新十月二十三日
その他 創立不詳。天明元年再興。昭和む18年再興、昭和む31年11月改築。昭和35年阿蘇神社に吸収合併。
深田阿蘇神社の六地蔵石幢追刻銘について
~八災難除けの信仰~
北川賢次郎(深田阿蘇神社宮司)
一、はじめに
球磨郡あさぎり町深田東に所在する「阿蘇神社」は、通称「深田阿蘇神社」と云い、明治初頭の名称変更前は「若宮社」と云った。ご祭神は、阿蘇大明神の武磐龍命(タケイワタツノミコト)と、平安時代末期の地元豪族平河盛高公の二柱を祀る。創建の時代は不明である。平河盛高公は、深田の領主で、鎌倉時代の平河家没落後は高田氏に代わり、その高田氏が領主平河盛高夫婦子三柱を小社(東大王社)に祀り、大正時代に若宮社に合祀されたという。
この阿蘇神社の境内の西南部に、六地蔵石幢の幢柱部がぽつんと立っている(図1・図2)。その前面にある標柱には「八災難除けの石幢さん」と筆者宮司が名付けた。総高一四六cm、方形石幢幅三六cm、基礎石も方形で蓮弁を意匠し、全体形は重制の形体であったろう。擬灰岩製で室町時代の製作とみられる。中台から上部が亡失し、もちろん龕部もない。石幢表面が穴状あるいは筋状にひどく削られている。しかも石幢柱は二つに折れてモルタルで補修されている。石幢正面上部には、小円相を刻むが中の文字は不明。また、その場所に追刻銘が五行にある。右側面上部には、円相を刻み文字は無い。背面上部に「天」と刻む。左側面にも文字のような縦線が認められる。正面追刻銘は、次のような文面である。
二、六地蔵石幢追刻銘と読み下し
「深田阿蘇神社六地蔵石幢追刻銘」
粤当志□衆等三月謹奉□□概高村
聖霊安帝□昌佛日曽□□□□□
僧志男女等□離八災難常得無量楽□□
息之三有□遍法界衆同證則道理
石幢面の追刻銘は、読みづらく、筆者がなんとか読み取ったものである。間違いがあるかもしれないのでご指摘をいただきたい。所々に読めないところもあり、大方のところで読み下してみたい。
「ここに、まさに志{をもつ}衆たち、三月に謹んで奉る・・(意味不明) 聖霊は安んじ、帝は・・・。仏日を昌(さかん)にす。曽て・・・僧は志し、男女ら・・。
八災難を離し、常に無量の楽を得たり。(やむこと)、これ三つの・・に有り。法界の衆に遍(あまね)し、同じく證すること、即ち道理なり。」
この銘文は、地元の志をもつ民衆が、お彼岸の三月にお祭りの記念として刻んだもので、「聖霊は安んじ」とあるので、霊の鎮魂があり、「八災難を離し、常に無量の楽を得たり」というのは、この聖霊を奉斎し供養することで八大災難除けのご利益を願う信仰で、有難い銘文が刻まれているのである。
この銘文の聖霊とは何なのか。石幢に関わる伝説があるので紹介する。
三、「須恵地頭女伝説」と須恵の「おいちの墓」伝説
(一)須恵地頭女(むすめ)伝説
当神社には『大正十年整理 祭神及由緒記』(註1)が所蔵されているが、これには、須恵地頭の女(むすめ)が怨魂となった事件が記載されている。原文を少し分りやすく解釈したのが次の文である。
「 深田阿蘇神社の境内祖霊社の一社「西大王神社」は、由緒は不詳。神社の伝えにいうには、深田の地頭高田氏夫婦の霊社である。古い言い伝えにいうには、平川太郎盛高の後の地頭を高田某(なにがし)と名乗っていた。室(奥方)は、須恵の地頭の女(むすめ)である。高田某は、嫉妬や遺恨によって(室を)離別し、室は須恵に帰る途中、当所の石坂というところに於いて入水(自殺)した。その所は、今は念仏石といい、この室の亡霊は、いつまでも怨みが消えず(冤結)、夫の高田某を呪い殺した。また、その家族の家もよこしまな祟りに侵されたゆえんであり、その夫婦の霊を祀って怨霊と化した魂を鎮めた。」以上の内容である。
(二)「おいちの墓伝説」
深田の東隣の村は須恵村であった。須恵村の「念仏石」というのは、現在、あさぎり町指定文化財の「おいちの墓」(図3)のことである。この墓は六地蔵石幢の龕部を主体とし、笠は五輪塔火輪を乗せ、龕部を基礎の上に置いている。六地蔵石幢の材は龕部のみである。龕部総高五七cm、龕部幅四九cm。六角柱の五面に地蔵菩薩立像を半肉彫りしているが、かなり見えづらい。
おいちの墓の入り口には説明看板があるので紹介する。
「おいちの墓」看板文(あさぎり町須恵 元須恵村役場前)
「 その昔、本村の地頭某氏に「おいち」という呼ばれる娘があり、望まれて隣村庄屋村の地頭の子息と結婚するも、おいちは、結婚前に妊娠していたことが判明し、生家に帰されることになり、そのことが両家の争いごととなりました。おいちは、そのような世をはかなみ、懐剣で自決したといいます。後世になっておいちの死を悼み、おいちが妊娠していたこともあって妊婦と子どもの加護のため六地蔵を建立して祀ったと伝えられています。 」
深田阿蘇神社の須恵地頭女伝説とおいちの墓伝説は、婚姻、離縁、自害、供養を記し、同じ事件であろう。これを突き合わせてみると互いに補完できるところもある。自害の場面が異なっているが、おそらく、身重で入水し、引き上げたが、母体は助からず、せめて子どもだけでも助けようと開腹を試みたことが後の懐剣の自決に替わったと考える。
また、怨霊となったおいちの亡霊を供養するために、元からあった深田阿蘇神社の六地蔵石幢の龕部を現在の場所に移設したものと考える。
四、石幢柱の転用
話は元に戻って、なぜ石幢正面に追銘が施されたのかを考察してみたい。
高田某の室「おいち」の怨魂(怨霊)は、離縁した夫やその家族にまで祟りをなした恐るべき怨霊であったらしい。その怨霊を鎮めて福神に替えるというのが「御霊信仰」である。例として、菅原道真公の御霊信仰はご存知のことであろう。高田某やおいちに関わる志ある民衆は、おいちの怨霊の強い霊威にあやかり、お祭り供養することで、八大災難除けを祈願し、常に計り知れない楽を得ようとしていたのであった。
八災難(註2)とは、民衆にわかりやすく教える必要があり、王難、賊難、人難、非人難、火難、水難、病難、毒蟲難の災難をいうのであろう。この石幢に祈願することによりこれらの災難を除けることができたら幸せである。
また、石幢の銘文には、仏教で使う「昌仏日」とか浄土宗の教えの「法界」(註3)を説いているので、浄土教の僧侶が関わったのだろう。
五、さいごに
高田某とおいち夫婦を祀った深田阿蘇神社の境内神社の西大王神社。それは大正時代に本殿に合祀されたらしく、戦後まもなく神社が宗教法人になった時に、なぜか西大王のご祭神の登録がなされなかった。その経緯で神社の歴史からは消えていた。江戸時代に書かれた『麻郡神社私考』には、西大王社の祭日は、旧暦十一月十九日と記載がある。筆者宮司は、その祭日が令和三年の新暦十二月二十二日にあたるので、戦後はじめてささやかな神事を行った。また、春彼岸の中日には、「石幢さん」の奉斎を行った。歴史が忘れかけていることに歯止をかけ、御魂が安らかにあることを祈る。
註
1 『大正十年整理 祭神及由緒記』深田村村社阿蘇神社
「境内祖霊社二社 西大王神社
由緒
不詳傳曰く深田地頭高田氏夫婦之霊社也古傳曰平川太郎盛高ノ後地頭ヲ高田某ト号室者須惠地頭ノ女也妬恨ニ依テ離別シ須惠ニ帰ル遂當所石坂トニ於テ入水其所今念佛石ト云 此亡霊冤結シテ夫ノ高田某ヲ厲殺又其家モ亦邪祟ニ侵サル所以其夫婦ノ霊ヲ祭テ怨魂ヲ鎮ム
2 八難とは、「仏教的な難 在地獄の難、在畜生の難、在餓鬼の難、在長寿天の難、在鬱単越の難、聾盲瘖唖の難、世智辨聴の難、佛前佛後の難受戒等で聞き許される説 王難、賊難、人難、非人難、火難、水難、病難、毒蟲難がある。」
3 法界とは、「浄土教における用法でもあるが、善導の観教疏定善義には、「法界という三義あり。一つには心遍ずるが故に法界と解す。二には身遍ずるが故に法界と解す。三には障礙なきが故に法界と解すとあり、法界は心身が遍満して障礙のない世界を説明されている。」とある。障礙=障害 さまたげになるもの。
参考文献
『大正十年整理 祭神及由緒記』深田村村社阿蘇神社 一九二一年
『麻郡神社私考(平成復刻本)』青井采女佐大神惟重 (福川義文編集・二〇〇七年)
『日本石仏事典』庚申懇話会 一九七五年
『模範仏教事典』聖典刊行会編纂部 (大文館書店・一九八〇年)
『おいちの墓説明看板』あさぎり町教育委員会 二〇〇三年
『深田村誌』深田村村誌編纂委員会 一九九四年
この拙稿は、『郷土 第39号』求麻郷土研究会 二〇二二年 に掲載したものである。
現代の日本の子どもの道徳教育に不足しているのは、偉人の徳目を明らかにした実話だという。戦前の小学校の道徳(修身)教科書にはそういう話がいっぱい書いてあった。いろいろな古人の立派な話によって、子どもが、日本の国柄、歴史、大和魂を学び、向上心や自己改善の志を養うことを目的としていた。戦後の親たちは、そのような教育を受けていないので、今や政治・経済・社会・文化などのあらゆる領域で、政治不信、現状への不満、社会不安、伝統文化の未継承などで未来への不安を醸しだしている。
これからは、それらに対する根本的な見直しが必要である。その解決作として、まずは人を教化することであろう。神道人は、戦前の教育に敬意をもっており、私はまずは戦後の親から尋常小学修身教育を学ぶべきと考えたので、そのたくさんある話を抜き出して紹介してみたいと思う。※原文を大人用に見やすくするためカタカナをひらがなに、また適度にかなを漢字に変換した。絵は省略した。
戦前の尋常小学修身書 第二学年、第三学年児童用の抜粋
尋常小学修身書 第二学年児童用 第二 おかあさん
おたけ(女の子)の弟が夜中に泣き出しました。おかあさんは、抱き上げていろいろと慰めています。おかあさんのご恩を忘れてはなりません。
同 第十二 ことばづかい
一人の子が、無礼な言葉を使いました。他の子どもがそれをとがめました。言葉遣いを慎まねばなりません。
同 第十三 約束
文吉は、雨の降るのに、絵本を返しに行きます。約束したことを違えてはなりません。
同 第十九 拾い物
まさお(男の子)が拾った金を、落とした子どもに返しています。拾い物を自分のものにしてはなりません。
同 第二十一 日の丸の旗
日の丸の旗は、日本のしるしであります。良い旗ではありませんか。
同 第二十二 規則
一人の子どもが、土手に登ります。友達が立札を見て、それを止めています。規則に従わねばなりません。
同 第二十六 人に迷惑をかけるな
この子が、道端にゴミを捨てようとするのをおとうさんが止めています。世間の人に迷惑をかけてはなりません。
尋常小学修身書 第三学年児童用 第三 祖先
徳川吉宗は、家康をまつってあるお宮に参る日には、どんなに雨が降ってもきっと参りました。また、ある年家康の誕生日に家来を集めて祖先の手柄を話して聞かせました。祖先を尊ばねばなりません。
同 第六 学問
(二宮)金次郎は、叔父の家に居ましたとき、自分で菜種を作って、種油と取り替えて、毎晩勉強をしました。叔父は、「本を読むより、うちの仕事せよ。」と言いましたから、金次郎は、言いつけられた仕事を済ましたあとで勉強しました。
艱難(かんなん)は、人を玉にす。※艱難→困難に出会って苦しみ悩むこと。つらいこと。玉→すばらしいもの。大切なもの。
同 第八 忍耐
イギリスの大将ネルソンは、フランスの艦隊を二年あまり囲んでいました。その間、雨が降っても風が吹いても、少しも油断せず敵の様子に気をつけていました。そして終いに敵を打ち破りました。何事をするにも、辛抱がだいじであります。
同 第十二 正直
ワシントン(元アメリカ大統領)は、庭に遊びに出て、おとうさんの大事にしていた桜の木を切り倒しました。「これは誰が切った。」とおとうさんが尋ねましたとき、「わたくしが切りました。」と、隠さずに答えてわびました。おとうさんは、ワシントンの正直なことをたいそう喜びました。
同 第十七 倹約
徳川光圀は、女中たちが紙を粗末にするので、紙すき場を見せにやりました。女中たちは、紙すき女が、冬の寒い日に、水の中で働いているのを見て、紙すきの仕事の難儀なことをさとりました。それから紙を大切に使うようになりました。物を無益に使ってはなりません。
同 第二十二 人を嫉(そね)むな ※嫉(ねた)む
吉田松陰の弟子に、高杉と久坂という二人の書生がありました。高杉は、勉強しませんから、松陰は常に久坂をほめて高杉を戒めました。高杉はそれからよく勉強して学問が進みましたので、松陰は、高杉をほめて、何事も高杉と相談するようになりました。それでも久坂は決して高杉を嫉まずに「高杉くんは、偉い人だ。」と言っていました。高杉も、「久坂くんは、立派な人だ。」とほめていました。松陰は、このことを聞いてたいそう喜びました。人を嫉んではなりません。
同 第二十七 復習
よい日本人になるには、忠義の心を持たねばなりません。おとうさんや、おかあさんには、孝行を尽くし、兄弟とは仲良くし、友達には親切にし、召使いを憐れみ、近所の人には、良く付き合わなければなりません。何事にも正直で、心のとがめるような事をせず、勇気があって、辛抱強く、物事に慌(あわ)てんようにし、自分のことは自分でし、そして、難儀を堪(こら)えねばなりません。また、体を丈夫にし、倹約を守って、仕事に精ださねばなりません。そのほか、礼儀を守り、自慢せず、恩を受けては忘れんようにし、人を嫉(そね)むようなことなく、度量を大きくし、人のものを大事にせねばなりません。かように、自分の行いを慎んでよく人に交わり、その上、世のため人のために尽くすように、心がけると、よい日本人になれます。
引用文献
平成十二年 「尋常小学修身第二、第三学年児童用」 『「修身」全資料集成』 (監修・解題)宮坂宥洪 (序)渡辺昇一 四季社発行
令和5年度深田阿蘇神社若宮会
令和5年5月13日(土) 13時15分~ 於 深田阿蘇神社
第一回講話 講師 宮司 北川賢次郎
「神社のタブー50撰 ~神様に不敬をはたらかない参拝のしかた~」
◎神様やご先祖様に不敬をはたらかないで参拝するのが基本である。
◎何が不敬に当たるかを知ることで、不敬を働かないようにする。
◎神様が嫌がること、不快に思うことはしないで、古来より定まった作法でご奉仕すれば、かならずご利益があり幸せになれる。
◆参拝前 赤不浄と黒不浄 血と死の穢れ
1 お産直後(一週間内とか)、子どもが無事に生まれたので神社の神様に奉告に行った。✖
2 怪我をして、血がついたままで神社に行ってしまった。✖
3 服忌中であるのに関わらず、神社に参拝した。✖
4 服忌中であるので、参拝はしないが、運転手として神社境内の駐車場に車を留めた。✖
(服忌の解説)
父母50日、嫡子20日、祖父母30日、末子10日、曾祖父母30日
伯叔父母20日、夫30日、妻20日、兄弟姉妹20日、いとこ3日
義父母30日、甥姪4日 以上が服忌期間なので参詣しないこと。
服忌中は、神社境内も入ってはいけない。神様の荒魂が怒ったら祟りを起こすと考えられている。
◆身のお清めと服装
5 斎戒(身を浄める行為)のことを知らず、その行為を行わずに神社に参拝した。✖
6 派手なTシャツ、短パン姿で神社に参拝した。✖
(斎戒、服装の解説)
身を浄め保つ行為で、身の外と内がある。外とは、沐浴(潔斎)する。衣服を改める。部屋を別にする。穢汚に触れない。内とは、飲食を慎む(四つ足物禁食)、思念・動作・言葉を正しくすること。
派手な服装、汚れた服装は、神前においては不敬に当たるので、やむを得ない時は正面に立たない方がよい。
◆参道
7 一の鳥居をくぐる時、一礼(敬意を表す)をしないで通った。✖
8 正中(参道の真ん中)を歩いた。✖
9 正中をまたぐとき、礼をしなかった。✖
10 バカ騒ぎしながら参道を歩いた。✖
(参道の解説)
一の鳥居や出入口の注連縄の結界を通るときは一礼する。正中は、神の通り道といわれ、またぐときは一礼する。神社内においてはバカ騒ぎをしない。
◆手水舎
11 手ぬぐい又はハンカチを忘れた。✖
12 手水の作法を知らず、適当に手を洗った。✖
13 ひしゃくに口に付けて、水を口に含んだ。✖
14 手水舎で水を飲んだ。✖
(手水舎の解説)
できれば、白手ぬぐい、白ハンカチを用意する。手水舎はお清めの場所であり、水を飲むところではない。手水舎では手水の作法がある。
コロナ禍でひしゃくがない手水舎の場合の手水の方法は、まず手を洗い、次に両手で水を受けて口を濯ぎ吐出し、更に手を洗うこと。
◆普通参拝(昇殿しない参拝)
15 参拝する神社のご祭神さまのお名前を知らないで参拝した。✖
16 二拝二拍手一拝の拝礼作法を知らず、適当に二拍手してお願いしてみた。✖
17 お賽銭のコインを投げ入れた。✖
18 二拝二拍手し、手を合わせながら感謝とお願いをして一拝した。✖
19 神様にはお願いばかりで感謝しない。✖
20 お賽銭とは、神様へのお願い料、お祓い料だけだと思っている。✖
21 御神前では一礼せずに、まず、鈴を鳴らす。✖
(普通参拝の解説)
ご祭神を事前に確認する。参拝するには作法がある。お賽銭は賽銭箱にそっと入れる。
神職の参拝方法を基本とすると、ご神前中央で止まり一礼し、三歩進んで一礼し(左足先)、二拝する。そこで鈴を鳴らすため少し移動して鈴を鳴らし、お賽銭を入れて、元の神前の位置に戻る。そして軽く頭を下げながら感謝と祈願を小声で奏上し、それから二拝二拍手一拝し、戻るために一礼し、三歩逆走(右足先)し、止まって一礼する。以上、簡単に記したが向拝所での本当の作法である。
どのタイミングで礼をするのか、鈴やお賽銭を入れるのか、感謝やお願いをするのかを知る必要がある。
一般的に教えているのは簡単な作法で、鈴を鳴らして、お賽銭を入れて、二拝二拍手一拝の作法のみであるので、できれば、神職の作法に近づけると神様は喜ばれ願いを聞き入れて下さると思う。
◆昇殿参拝(神職に依頼しての参拝)
22 拝殿の階段で靴を脱ぎ、靴を回して外側に向けて置いた。✖
23 拝殿の正中線のところに座った。✖
24 祓主が自分たちに向かって大麻(おおぬさ)を振る時、低頭しなかった。✖
25 神職が祝詞奏上するとき、低頭しなかった。✖
(昇殿参拝の解説)
基本的に神社建物内では、上位下位があるので、動作を始めるときに上位に背を向けると不敬となる。拝殿で靴を履くとき背中を向けたら不敬となる。正中線は上位となるので留まらない。またぐときは、軽く会釈するよう心掛けること。神職が大麻を振る時や祝詞を奏上するときは必ず低頭すること。
◆お供え物
26 お供え物を供えるときは、上位下位の順番はない。✖
27 お供え物の米が最上位で、次が塩と水で、その次が、酒と餅である。✖
28 野菜の大根と茄子は適当に並べてお供えした。✖
29 魚のお供えは、適当に置いてお供えした。✖
30 お供え物をするとき、専用の三宝を使わず、適当な皿を使用した。✖
(お供え物の解説)
お供え物は、米(和稲、荒稲)、酒、餅、ご飯類、海魚、川魚、水鳥、山鳥、海野菜(昆布等)、山野菜(大根等)、果物、お菓子、塩、水という順番で、素饌(最低限の神饌)としては、米、塩、水で供える。
魚の首尾があるものは、神殿に腹を向けて、首は正中に向ける。野菜の首尾があるものも魚と同様である。基本的にお供えには三宝を使用する。
三宝の折敷の継ぎ目は神前ではなく手前側に向ける。目通りに捧げ持ち、持つ、置く、運ぶことにも作法がある。総代役員は作法を覚えたほうがよい。
◆玉串拝礼
31 玉串拝礼の作法や意味を知らない。✖
32 拝とは、45度くらい腰を引いて頭を下げるものだ。✖
33 玉串拝礼は、先にした人の作法通りにすればよい。✖
34 拝礼などは、少々間違えてもいいと思っている。✖
35 玉串を回して神に向けて置くとき、どちらにも回してもよい。✖
36 玉串を最後には、手でつかんで供えた。✖
(玉串拝礼の解説)
玉串拝礼は、おおまかには上記の普通拝礼に似た作法である。玉串を神職から受けて、玉串案に捧げ置く作法で、神への感謝の心を表す。神職から受けるとき、玉串を右手で下部を上からつまみ、左手のひらに受けて胸の高さ左高に捧げ持つ。神前で止まり一礼し、つぎに三歩進み一礼し、玉串を立てて左手を下げて玉串の底両手でつまむ。ここで念(感謝の気持ち)を入れる。右手を離し右に回しながら玉串の葉先を右手で受け左手は右手下を添えて神前に玉串の底を向ける。一歩前に左足をだし右足をつけ、玉串案に落とし込むように捧げて、また一歩右足を下げひだり足をつける。そのあとは、二拝二拍手一拝に進み、普通参拝に準ずる。
拝礼は90度に3秒ほど頭を下げる。礼は45度に2秒ほど頭を下げる。
玉串は、案(机)に両手を添えて落とし込むような形で机にのせ、上からつかんで置いてはいけない。
◆直会(なおらい)
37 直会の意味がわからない。✖
38 直会は宴会であり、お金がかかると思うので参加しないほうがよい。✖
(直会の解説)
直会は、重要な神事の式の一つ。省略してはいけないもの。神と人とでお供え物を食べて饗宴するという意味があり、神と人とが一体となり、奉仕する人達が心を寄りそう儀式である。お金をかけた大宴会をする必要はない。
◆授与所(受付またはお守りの授け与える場所)
39 おみくじを引いて、おみくじ所があったが、神社の榊の木に結んだ。✖
40 おみくじは、記念に持って帰ってはいけない。✖
41 おみくじは、大吉が出るまで何回も引いた。✖
42 神社では、おみくじやお札やお守りを売りまたは買うという。✖
43 お守りは一年以上持ち続けてはならない。✖
(授与所の解説)
おみくじは、おみくじ所に結ぶこと。おみくじを記念に持って帰ってもよい。おみくじは凶がでても今後から運勢が上昇すると考えること。おみくじやお守りは、神さまから授与されるものなので、授与する、授与していただくを使う。
授与されたお守りやおふだは、一年以上持ち続けてもよいが、ご利益の威力は低下している。なるべくなら1年毎に新しいものに授与していただく。
◆家庭の神棚
44 神社の氏子になっているが、自宅に神棚は設けていない。✖
(家庭の神棚の解説)
できるだけ神棚を設けて神のご加護を受けたほうがよい。簡易的には、タンスの上とか、目より高い所に「天照大御神」の神宮大麻のお札と氏神のお札を重ねて置いて、お供えとして、小皿に米、塩を盛り、コップに水を上位の順にお供えする。
◆氏子の心得
45 神社の氏子であるが、例大祭、歳旦祭などのお参りに行かなかった。✖
46 神社の氏子であるが、懇志金(氏子の会費)の寄附はしなかった。✖
47 神社の氏子であるが、神宮大麻の寄付をしなかった。✖
48 神社の氏子であるが、大祭初穂料の寄付をしなかった。✖
49 神社の氏子であるが、神社は宮司、総代役員の所有物なので維持管理をするものなので、自分は関われないと思っている。✖
50 神社の氏子であるが、他の神社でもご利益の程度は何ら変わらないと思うので、崇敬者として初宮参り、七五三、各種祈祷を受けた。✖
(氏子の心得解説)
氏子は神社の祭りに参加して、神に対してご加護の感謝を申し上げること。氏子とは、神社の会費を寄附して氏子名簿に記入したら氏子となる。名簿に記入してなかったら氏子といえず、神の恩恵は少ない。神宮大麻は、神社が神社神道に属しているので神宮大麻を授与していただく規程になっている。神社は、みんなの所有であり、維持管理についても関係をもち自由に関われるので、積極的に維持活動に関わっていただきたい。氏子の産土神で氏神でもある神社でお祓いするのが一番である。二番が産土の神社でお祓いするのがよく、三番が氏神神社であり、最下位が崇敬する神社でのお祓いやお参り、お守りで、この順がご利益度の順である。
令和5年度深田阿蘇神社若宮会
令和5年8月11日(土)13時~14時15分 於 深田阿蘇神社
第二回講話 講師 宮司 北川賢次郎
「夏越の大祓いについて」
夏越の大祓いは、旧暦の六月晦日に行われた大祓いのことで、各神社の名越祓、夏越祓、水無月祓とか夏祓となり、茅の輪くぐりの祇園信仰とともに流布したという。今では、新暦の6月30日に行なっている神社も多数ある。
この大祓いは、古来、朝廷に於いて、役人の百官をはじめ国民の罪穢れを除くために行われた大変重要な公共の神事であった。毎年旧暦の六月晦日と十二月晦日に行われた。
記録では、『古事記』の仲哀天皇崩御の際に、国の大祓いを行い、種々の罪を求めて解除したことが記されている。また『日本書紀』の天武天皇の御代に、国の四方に罪の解除を行って、国別に「祓い物」を出させたことが記されている。そして「大宝令」ができて六月十二月の恒例の祓いとして定められた。平安時代には、京都御所の朱雀門において百官が集まり大祓いの儀式が行われた。
大祓いの儀式では、神祇官が宣読する祝詞が「大祓詞(おおはらいのりと)」であり、『延喜式巻八祝詞』の中に記載されている。江戸時代の国学者賀茂真淵(かものまぶち)の説では、大祓詞は天智天皇または天武天皇の頃に完成した祝詞といわれている。明治四年六月、明治天皇は、大祓い式を復興され、国民にも執り行うように布告され、翌五年六月に、その儀を一定して府県に通達された。現在では、昭和46年に神社本庁の恒例式の規程として定められた。
そもそも、祓いとは、『神道名目類聚抄巻六』の祓の項に、「祓とは、つつしみの義なり。邪念発(おこ)れば是を除(のぞき)、あやまりては即ち改(あらため)、不浄なれば是を去(さる)。日用平生かくの如くして、心神常に清浄清明ならしむ、是を祓と云。祓の訓は払なり。又洗なり。風、梢の塵を払、水、物の垢を洗うが如し。陰陽二神(イザナギ、イザナミ二神)蛭子(ひるこ)を生みたまいては、葦の船に載せて風のまにまに放ちやり、素戔嗚尊(スサノオ)のしわざ無状(あじな)ければ根国に逐之(やらふ)、伊弉諾尊、穢しき所に至給ては、檍原の水にすすぎたまふ。即ち皆是祓なり。此三事は神代祓の濫觴なり」と説明している。※濫觴(らんしょう 物事の起源)
つまり、祓いの目的とするところは、不浄を清浄に、不完全を完全に、不良を善良にすること。更には災いを除き幸福と平和とをもたらすことにある。(『神社有職故実』を引用)
大祓詞は、その原文が三段階に改作されたという。その読み下し文は別記1を参照のこと。
当神社の大祓い神事は、次の項目で進行する。①神職が所定の座に着く。②切麻を配る。③宮司が開始の合図をする。④祓主が大祓詞を奏上する。⑤切麻を執りて祓う。⑥神職が大麻を執りて祓う。⑦人形を執りて祓う。⑧人形等を回収する。⑨忌み竹を立て注連縄で張り回した火炉(かろ)で人形を浄火で焼く。(⑪後に灰を集めて川に流す。)。⑩茅の輪くぐり神事を行う。⑫散会する。
神事の解説
⑤は、米および麻、半紙、四色(赤、青、黄、紫)の色紙を四角形に裁断したものを左手に受け、右手で適量をつまみ、左、右、左と三度に自分の肩あたりに散らせる。
⑥は、祓主が天下(あめのした)を左、右、左と三度に祓う。
⑦は、あらかじめ紙人形には、名前と数え年を記入しておく。紙人形を手で持ち、自分の体で気になるところを撫でて厄を移す。紙人形に息(肺の底からでる温かい息)を三度に吹きかける。
⑧は、専用の紙袋に紙人形と切麻用ビニル袋等のゴミを回収する。
⑨は、⑧の紙袋を焼却する。
⑩は、茅の輪くぐり神事で、宮司の後を一列に並び、一礼して左、右、左と回る。回るときに「唱え言葉」を唱える。1回目「みな月の なごしの祓え する人は 千歳の命 のぶといふなり」 2回目「思う事 みなつきねとて 麻の葉を きりにきりても 祓ひつるかな」 3回目「蘇民将来 コロナ退散 蘇民将来 コロナ退散」。
⑪は、火炉の灰を専用の紙袋に入れ、神社下の球磨川に流す。
茅の輪神事
茅の輪神事の起源については、「『釈日本紀七』に『備後風土記逸文』を引用している。「神代の昔、武搭神(素戔嗚尊)が、南海の方へお出でになる途中、或る所でお泊りになろうとして、土民の蘇民将来、巨旦将来という兄弟に宿を求められた。その時、弟の巨旦将来は、裕福な身であったのにも拘わらず、宿を拒んだのに対し、兄の蘇民将来は、貧しい身であったが、尊をお泊めし、粟柄を以てかけ座を設け、粟飯を饗して御接待申し上げた。その後、年を経て尊は再び蘇民将来の家を訪れ、「若し天下に悪疫が流行した際には、ちがやを以て輪を作り、これを腰に付けておれば免れるであろう。」と教え給わった。この故事に基づき、蘇民将来と書いてこれを門口に張れば、災厄を免れるという信仰が生じ、また祓いの神事に茅の輪を作ってこれをくぐり越えるようになった」(『諸祭式要綱続編』より引用)という。
別記1
(大祓詞読み下し文) ※(『祝詞必携』金子善光、小野迪夫著を引用 傍線部分は筆者が加筆改変)
高天原にいらっしゃる天皇陛下のお親しい神漏岐・神漏美のご命令により、たくさんの神々を召集なさり、協議なさって、「私の皇孫は豊葦原の水穂の国を安らかな国として平らかに治めなさいませ」と御委託申しなさった。このように御委託申しなさった国のなかで荒れる神々を言葉によって鎮め祓って、物を言う岩・木・草をも黙らせ、高天原の神座を離れ、天空の八重雲を勢いよく掻き分け、天降し御委託申しなさった。このように、御委託申しなさった四方の国中と大倭と日高見の国を安らかな国とお定めして、大地の岩盤に宮柱を太く立て、天空に千木を高く揚げ、天皇陛下の御宮殿をお造りし、天日を避けるものとして内にお籠りになり、安らかな国として平らかにお治めになるであろう国の中に、生れ出るであろう人々が、うっかりと犯すであろう種々の罪は、 たくさん罪が出てくるであろう。このように出たなら、天の宮事により、天の金木を本と末を切り、たくさんの置き蔵に充分に置いて、天の菅曽を本と末を切ってたくさんに裂いて、天の祝詞の太祝詞を宣読しなさい。
そのように宣読すれば、天の神は高天原の頑丈な門を開き、天空の八重雲を勢いよく掻き分けてお聞き届けになろう。国の神は高い山の庵、低い山の庵を払いのけてお聞き届けになろう。このようにお聞き届けになると、天皇陛下の政府を始め国の中には、罪は悉くあるまいと、風(神)の所から吹く風が天空の重なった雲を吹き飛ばすことのように、朝夕の霧を朝夕の風が吹き払うことのように、大きな港に停泊している船を、舳綱(へづな)、艫綱(ともづな)を解き大海原に押し出すことのように、彼方の灌木の根本をよく切れる鎌で切り払うことのように、残る罪はあるまいと祓いなさり清めなさることを。
高い山・低い山の頂上から直角に落ちたぎる速い川の瀬にいらっしゃる瀬織津比咩(せおりつひめ)という神が、大海原に(罪・災いを)持ちだすであろう。このように持ち去ったなら、荒々しい潮が出会う所にいらっしゃる速開都比哶(はやあきつひめ)という神が、がぶがぶと吞み込むであろう。このようにがぶがぶと吞み込んだなら、風の吹く所にいらっしゃる気吹戸主(いぶきどぬし)という神が、根の国・底の国に吹き去らせるだろう。このように吹き去らせるなら、根の国・底の国にいらっしゃる速佐須良比哶(はやさすらひめ)という神が流離(さすら)わせ消滅させるだろう。このように消滅されるなら、罪という罪はあるまいと、祓いなさり清めなさることを、天の神、国の神、八百万の神たち、共にお聞き下さいませと申し上げる。