神社は必要なのか。神社を知らない方のための宮司の雑談です。
神職が宮司になりたくない神社
●宮司不在の手続き
宮司が死亡、退任などで、不在となった神社では、新たに宮司を招へいすることになります。本来ならば、神社の総代会が、神社本庁へ「この神職さんになってほしい」と具申(意見を申し上げること)することで、審査の上、宮司の辞令がでます。宮司の見込みがない場合は、神社庁支部へ推薦を依頼し、その推薦で総代会に提案し協議のうえそれが了承されたら神社本庁への手続きになります。
●宮司を断るケース
ところが、神社庁支部の推薦ができないこともあり得ます。それは、神職がその神社の宮司になりたくないと断るケースです。その場合は、支部では、総代会に氏子中で神職養成してくださいと助言します。総代会では、自前で神職養成するか、宗教法人を任意解散して隣接の神社に吸収されるか、神社を辞めるかを選択することになります。
●神職が宮司になりたくない神社とは
では、神職がその神社の宮司になりたくないとは、どのような場合でしょうか。それは、総代さんや氏子のみなさんが、宗教法人法をはじめ、神社規則・神社組織や宮司・責任役員・総代のそれぞれの立場を理解していないことで、神社運営が正しく行われていない場合です。 例をいいますと次のとおりです。
〇 宗教法人法を理解せず、遵守していない。これは、総会(責任役員、総代)を開かない。事業報告と決算報告をしない。責任役員の異動を報告しない、議決書、神社規則、役員名簿、氏子名簿、神社印、法人カードを適所に保存していない。または何処と在るのかわからない。
〇 神社建物が正しく維持されていない。建物内、境内が常に掃除されていない。神社内に危険個所があり放置されている。雨漏りを放置している。
〇 宮司と責任役員、総代役員の確執があり、前任の宮司が退任した。
〇 宮司が一身上の都合で、突如として退任した。
〇 責任役員や総代役員の担い手がいない。理解がない。役員継承のすべがない。
〇 氏子が、神社経費に理解を示さず、集めるのが困難。また、神宮大麻や神社初穂料に協力しない。
〇 責任役員、総代役員、氏子は、宮司に神社の運営、管理をすべて任すつもりでいる。協力もあまりしない。
〇 総代が総代会に出席したがらない。祭りの準備や祭りにも出席しない。
〇 例大祭や祭りに参詣しない。そもそも祭りに参詣する意味を知らない。
〇 初宮詣り、七五三、成人式、厄入り厄晴れ、還暦奉告祭などの神事は意味がないと思っている。
〇 神社神道の教化、発展に興味がない。神社の将来を考えない。
●神社の宮司さんは、いったいどのような職務と責任を背負っているのでしょうか?
〇 宮司は、神社の長にして祭祀と社務(宗教法人の管理・事務以外の社務)を司り、神社信仰と伝統の護持に努めることになっています。
〇 神社の代表役員として、宗教法人を代表する行為を行い、神社内においては、法人の事務を総括・管理し、宗教法人を善良な状況において維持運営する職務と責任があります。
【宗教法人法】
宗教法人の能力
第十条 宗教法人は、法令の規程に従い、規則で定める目的の範囲内において、権利を有し、義務を負う。
宗教法人の責任
第十一条 宗教法人は、代表役員その他の代表者がその職務を行うにつき、第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。
●宮司の一番重い責任は?
宮司として一番重い責任は何かといいますと、神社内で事故が起こり、業務上過失致死の判決が下り、事故責任を背負うことになった場合です。代表役員の宮司は、責任者として被害者へ一生をかけて償わなければなりません。それゆえに、神社が正しく運営できるところでなければ、宮司になってはいけないし、神社の責任役員もかならず理解しておかなければならない事項です。
●宮司の報酬
小さい神社では、宮司は、一年分の報酬、給与はなく、そのほとんどはボランティアをしているのです。もし、経費がつけてあるのならば、20万円ほどで、それは一年間の儀式と社務(紙垂などの飾付など)の奉仕料です。別に清掃管理委託料をつけている場合もあります。宮司がいただける奉仕料と背負う責任の重さにはかなりの差があります。そういう状況下で、宮司をはじめ、総代役員もボランティアで働いていることをご理解していただき、神社発展にご協力を賜わりたいと思います。
●神社も淘汰される時代
さいごに、神社の建物の老朽化、担い手の人材不足、経費の困窮と物価上昇、神社への理解不足で、神社運営はますます厳しさを増してきています。神社が潰れていくのがもう足元まできているのです。宮司や総代役員ががんばってもどうにもならない時代なのです。神社の建物は、解体されるまで、メンテナンスをしながら延命策をとり、そして終焉の時を待つのです。また、祇園祭とか続いている大きな神社は勝ち組の神社で、これは無くならないでしょう。勝ち組として残るか、負け組となって滅ぶか、試される時代となりました。あなたの神社は勝ち組でしょうか。それとも負け組でしょうか。
「大祓」とは、古代の昔から行われてきた神事儀礼の一つです。人が知る知らずのうちに犯した罪や穢れを除去解消浄化し、それによって厄災を避けることを目的としたものです。
罪とは、人が規範や秩序を犯す行為または危険・不浄なものとして忌避すべき自然的凶事を含めた観念を示します。具体的には、ルールを守らない、悪口をいう、不倫姦淫、人や動物の心や身を傷つけることなどの行為をいいます。
穢れとは、神道が忌み嫌うもので、汚れて悪しき状態をいい、自分が起こした行為ではなくて自然的に汚濁が身に着くことをいいます。例をいいますと、近親者が亡くなったとき死の穢れがその人の身に着くということです。穢れは伝染していくものとされ、それゆえに一定の期間は喪に服すのです。また、知り合いの葬式に行く、病人を見舞に行く、四つ足物を食べる、役人が死刑を申し渡す、役人が処罰を決定する、不浄で汚いものに触れる、不潔でいるなどが穢れが付くことになります。
神道では、この罪穢れが積み重なることによって、病気、伝染病、洪水、地震、台風、火災、雷災などの災禍が人にもたらすものと言われています。
基本的に罪は、「お祓い」によってすべて解消・除去され、穢れは「禊(みそぎ)」によって浄化できるという特質をもっていますので、お祓いの神事はこの二つの要素があるので定期的にお祓いを行うのです。
また、お祓いは、その人の罪や穢れの大きさによって、それ相応の供物を神に捧げました。罪穢れをそのままにしておくとそれは大きくたまり、やがてその人に厄災を引き起こすものと信じられ、特に国家や地方の重要人物が大祓いの神事に関わったのでした。
このことは、大祓い神事が個人的なものではなく、共同体の厄災に関わるものであったので、地方では領主級の人が主催していましたが、時代が下り、一般庶民の個人的な神事にも行われるようになりました。
大祓式は、6月30日と12月31日の年2回に実施される神事です。新暦で行うところもあれば、旧暦で行うところもあります。半年間にその人の身に付いた罪穢れを祓い、残る半年間の無病息災を祈願する神事で、全国の神社で行われています。当神社でも終戦直後の頃までは実施されていたようですが、いつの頃からか途絶えたといいます。
そして大祓いの神事では、茅の輪くぐり神事も行われます。これは、祇園信仰の無病息災祈願を目的としています。
氏子のみなさんは、神社と疎遠にならないように、参拝に行きましょう。そして氏神様に感謝し、この神事を受けることによって氏神様のご利益を頂き、無病息災、疫病退散、厄難消滅を祈願しましょう。
最近、若い人たちの間で、「家庭内の夏祭り」をネットで動画発信しているのを見かける。家族の手作りで、屋台、遊戯セット、やきそば等の食べ物、浴衣着を用意して、さらに露天商の紛い物までも神社の縁日風に作りだしている。その家族は、その昔風の雰囲気に和み、思い出作りを目的にし、子どもも大人も喜び楽しんで、そしてかけがえのない家族の思い出となるのだろう。
それはそれで良いとして、神職の立場からその動画を見ると、その家庭のお祭りは、誰をお祭りしているのだろうかと首をかしげてしまう。残念ながら、お祭りというものを、本来の意義を知り得ないまま、ただお祭り屋台を作り出したものになっている。それは、この家族の祭りに限ったことではなく、スーパーやデパートの〇〇祭とか行政が行う祭りも同じことである。
そもそも祭りは「神仏、祖霊、御霊」に感謝や祈りを捧げ、神と人とが一つになることである。「家庭内の夏祭り」をするのであれば、できれば、ささやかなものでも神棚や仏壇を設営して、神や仏と一緒にお祭りをしていただきたい。その神棚や仏壇を見た子どもが「これは、なに?」と聞いてきたら、「手を合わせて、ありがとうというのよ」と、教えていただければ幸いである。きっと、子どもが大人になったとき、日本人の心を伝える大人となるだろう。そして、日本の素晴らしい文化を繋いでくれるだろうと期待するのである。
また、できることなら、本物の神社仏閣の縁日を味わっていただきたいのである。祭りは、実は公共のものであり、地域のみんなが大勢で行うものであることを知っていただきたい。
神社側でも、夏祭りを行っていないところもあり、それは神社運営に関わるもので、反省はともかく大変厳しい現状にある。神社と子どもがいる家庭との協力があれば、ささやかなものでも実行できるのではないかと思うのである。
日本魂(大和魂 やまとだましい)とは、『神道事典』には、「日本人は、本来清浄にして果敢な精神をもち、国家安泰を祈り、事にあたって身命をも惜しまない気概・心情をもつとして、これを示すために用いられた語」「日本人固有の知恵、才覚、思慮分別のこと。学問・知識に対する実務的・実生活上の能力・才知をいうこともある」と記している。
江戸時代の国学者の本居宣長は、『古事記伝』を表し、儒教や仏教を排除した純粋な日本の精神性を見つめた人で、「敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂う 山桜花」と和歌を詠んだ。
また、幕末の思想家吉田松陰は、維新の精鋭を育てた人であったが、志半ばで国を憂いて散った。「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」「身はたとえ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも とどめおかまし大和魂」と詠んでいる。
このように日本魂は、清々しく、いさぎよく、果敢で気概があるものだ。
しかし、現在の日本は、グローバル化により日本人の精神性が自己中心に向かい、欲深くなり、国家の危難に対しては無頓着になっている。また、自治会においても、寄合に理由もなく出ない人、祭りや講に加わらない人、所属する団体の役員を損得で断る人、決められた仕事に遅刻してくる人など多くなってきている。
日本人は、基本的には性善説をとる文化である。これは、太古から日本人が清く、正しくという思慮分別ができる文化が育まれたことによる。外国人からみれば信じがたい文化の高さだ。
これからの日本は、人口減少によりますます移民政策がとられる。その時に問題となるのが外国人が主張する異文化との協調である。しかし、相手は性悪説をとる文化であるので、争っても勝ちようがないだろう。徐々に日本文化、日本魂は蝕まれて相手の意のままになることが予想される。
いずれにしても、このすばらしい日本魂を守っていくには、各自が日本魂をもち、それを発揮し、後世に伝承していくことしかない。
日本には、八百万(大勢)の神々がいらっしゃいます。その神々たちは、一つにまとまり自分勝手に造反などを起こす神様はいません。いったい、どういう方法で仲良くやっているのでしょうか。
その答えの一つとしては、「天の岩戸の神話」にあります。弟の素戔嗚尊が高天原で非道を働き、それに怒った姉の天照大神が岩戸にお隠れになったときに、神々は寄合いし、その会議で謀(はかりごと)を企画して、何とか天照大神を岩戸から出ていただくことに成功された記述があります。
また、神社の宮司が神事で奏上する「大祓詞」の中にも、神々の親神が、「神集いに集い給い、神議(はか)りに議り給い」と、神々が集って盛んに相談しなさいとご命令されている記述があり、古代の頃からその寄合いのしきたりがあったようです。
日本の小さな村社会でも、古来よりそれぞれの家長たちが神社の拝殿に集まり、神様を前にして相談し合い問題解決をする、即ち寄合いしながら仲良く暮らしてきました。とても良い日本の民主的な社会システムだと思います。
しかし、戦後の社会では、損得主義、利己主義、自己の権利主張、グローバリズム(地球主義で外国人の思想が入る)など戦後の新たな考え方から、地区の寄合いはしたくない、何か理由をつけて会議を欠席する、他人がやってくれるだろう、地域貢献はバカバカしいからしないという風潮になってきて、人と人とのコミュニケーションをとるのが苦手な世代になってきたようです。
神社の神事の最後に行われる「直会(なおらい)」も行われなくなりました。この直会とは、神と人とがお供えされたお酒や魚などを共に食べるという神と人とが一つになる重要な儀式です。これは神事のために総代さんたちが清浄を守る行為(斎戒)を解き平常に戻ることや反省会と情報交換の意味合いもありました。
しかし、直会の経費が高額になったのが問題となり、今では取りやめていますが、これがまずいことに、反省会をしないし情報交換もできていないので、「神社のしきたりがわからない、神社の役員になりたがらない」という神社保護の意識低下を招く結果となっています。
戦前の小学四年生の道徳の教科書には、「よく人に交わり、世のため、人のために尽くすように心がけるとよい日本人になれます」と教育されていました。よい地域社会をつくるためには、各自が地域貢献意識を持って寄合いに参加しましょう。
「あなたの宗教は何ですか」と聞かれたらどう答えますか?
今の日本人は、常日頃から神仏に対して熱心に祈りを捧げている人は少ないでしょう。しかし、お正月の初詣をはじめ人生儀礼の初宮詣、七五三、厄払いは神道で、供養や葬式は仏教で、クリスマスやハロウィーンもやっていると思います。
なぜ、日本人はこのように多様な宗教を受け入れることができるのでしょうか。それは、明治時代に始まった「国家神道」という神道の国教化政策の影響がその一つにあります。
この政策は、「神道は宗教ではない」と考え、国家が神道を国教として信仰するという概念で、法令によって国民は必ず神道に属すことになりますが、しかし、各自の宗教は自由に信仰できるとしたものでありました。
例えば、浄土真宗を信仰する家は、宗教としての浄土真宗と国教とする神社神道も信仰するのを同時にしていたのです。「うちの家には、神棚と仏壇がある」というのがその信仰政策からできたものです。
この政策は、日本が敗戦となった時に連合国により解体され、神社神道は宗教として位置づけられました。ある熱心な仏教信仰の家は神社に行かなくなりました。それから、神社の氏子制度により、神社の会費(懇志金)を納めると氏神神社の氏子となるので、元々仏教を信仰してきた家でも、神社神道の氏子でもあるから、実際には2つの宗教を信仰していることになるのです。
そもそも日本人は、多神を崇拝する文化であり、歴史的にも神仏習合を明治時代になるまで信仰してきました。また、儒教やキリスト教も取り入れたこともあり、信仰においては肝要とする民族で、外国人にはそれが理解できないのです。
「あなたの宗教は何ですか」と聞かれたら、神社の氏子であるなら「神社神道」と「信仰する宗教名」を答えて、「2つの宗教? 信じられない」といわれても、「これが日本人の概念です。日本文化は西洋人にはわからないものなのです」と答えましょう。肝心なのは、欧米の概念に合わせる必要はないのです。
氏神様とご自分との関係が、氏神と氏子の関係だとする。氏神様の放つご利益と氏子のあなたが、氏神様へのご奉仕料はどのくらいの比較だろうか。氏神様の立場にたって考えてみよう。ん・・・フィフティ フィフティ・・・?。
初詣に行って、100円のお賽銭で「5億円の宝くじが当たりますように」と神様にお願いした場合、その比率は、簡単にいえば、1/500万である。当然、神様の受ける利益は少なく、ご自分のご利益はありすぎで、これは、宝くじに当たりそうでない。
今度は、その100円のお賽銭の内訳を考えてみよう。氏神様が、前1年間を50円であなたと住む家を「雨風、台風、雷、火災、悪霊、疫病など」から守っていただいた感謝料と、そして今後1年間を50円で同様に守っていただこうとする委託料に加えて、さらに宝くじが当たりますようにとの御祈願料である。たぶん、宝くじは却下だろう。
私は、氏神様がそこで一言、言いたいことがあるのではと思うのである。
また、私はあるご年輩のご婦人が賽銭箱に5円玉を投げ入れたところ、その5円玉が賽銭箱で跳ね返りその人に戻ってきたのを見たことがあった。その時、氏神様のご意思を見たような瞬間だったのを記憶している。
氏神様は、土地神様であり、別に頼んでいなくても、一年間の朝から夜まで24時間、氏子の生命と財産を霊的にお守りして頂いているのである。
もし、前年にご自分に何の災難が無かった場合は、その行為が履行された結果であり、それは金額に表せないような多大なご利益を与えている。氏子のみなさんはそのことを知るべきである。そうしたら、氏神様へもっとご奉仕する気持ちになるのではないかと思うのである。
ちなみに、感謝の気持ちが無く、神に非礼であれば、容赦なく災難が降りかかることも知っておかなければならない。
「神は非礼を享(う)け給(たま)はない」。
神社にご鎮座されています神様に、非礼や不敬を働いてはいけないことは、昔からの常識でありますが、最近では、氏子であっても神社のお祭りに参拝もせず、神様への感謝が忘れられて、その常識も通用しなくなってきたように思います。
非礼といいますのは、礼にそむくこと。無礼なこと。失礼なことをいい、不敬といいますのは、皇室や社寺に対して敬意を失することをいいます。言い返せば、敬意というのは、皇室や神仏に対して敬う気持ちをいいます。
そして、その神様に対して、無礼で敬う気持ちを失った場合には、祟りを受けます。祟りとは神様や怨霊などのする災いで、つまり災難を受けるのです。昔の人は、そのことを恐れて、神や御霊に鎮まっていただくため「まつり」をやってきたのです。その「まつり」の意味を現代人は忘れてきています。
神様を仏様と同じように慈悲深いと考える人もいますが、それは、自分勝手な考えであり、神を知らずして仏教の影響でそう考えるのかと思いますが、そうではありません。神様は、ご機嫌が悪いと、非礼や不敬をゆるされません。だから、神様を侮ってはいけないのです。心して、敬意をもちましょう。
身に魂が宿ることで生となり、身の魂が離れることで死となる。古来より、産土神は、生まれてくる胎児の肉体に魂を授けるといわれている。
人のもつ魂は永遠なものとされていて、人が生きる目的は、魂を成長させて神に近づき最終的に神となることにある。長い期間、人は何回も何回も肉体を取り替えながら魂を成長させる。魂の成長は、いうならば「世のため人のために尽くす」という古来より日本人が受け継いできた大変立派な魂の成長の教えである。
亡くなった人が再度生れ替わる時、その魂は、魂の成長計画を産土神に提出し、そして自ら自分の母親を選び生まれてくるという。産土神はその魂の願いを聞いてお世話してあげる存在という。
初宮詣りは、子どもを授けてもらった産土神に、感謝とこれからの赤子の成長、母体の安穏のためご加護を祈願するものである。神社は、目に見えない霊的な世界での対処法で子どもを加護するもので、その他の現代科学的な生物対処法は病院等に任せるのである。
ちなみに、結婚できなかったり、子宝に恵まれなかったりすることは、それも苦労が伴うもので、魂の成長に一役買っているそうである。
日本神話では、大地の形成はイザナギノミコトとイザナミノミコトの国生みによってなされた。従って、日本の大地はもともと神様のものであり、人は神様の大地を所有することを許されて住まわしてもらっているのである。そして、氏神さまの領地内では、神から様々な恵みを人に与えてくれている。日の光、自然の恵み、家族の恵みはもとより、人の生活に大切な衣食住や生業などある。
日本の神様は、和魂と荒魂を持つといわれる。この魂を簡単にいえば、和魂は恵みで、荒魂は祟りである。あらゆる事象は神様の支配といわれているから、人々は、神様の恵みには感謝し、神様を怒らせた場合の祟りは恐れて、神様が起こす災害が起こらないように荒魂を鎮める神事を行っている。感謝と鎮魂の神事がお祭りなのである。
土地に建物を建てようとするときは地鎮祭を行っている。建物によって日が当たらなくなるので、あらかじめ土地の神に許しを請願するという祭りが今も続けられている。
千古の歴史をもつ日本には、他国とは違う国柄(品格、性格、持ち味)があり、ある国では日本人の民度に並ぶことは100年経っても追いつけないだろうといい、日本国の国柄が進んでいると世界も納得している。戦前に生まれた人は、日本の国柄を小学校の道徳の授業で学んでいて、その精神性で戦後日本国を高度成長させ、ジャパンアズNO1と世界に言わしめ、バブル景気をけん引した。
しかし、戦後の教育は、日本人が自国に誇りを持たない自虐思想の教育を進め、国柄の源泉となっていた国家神道は解体された。そのことで、戦後の日本人は、国柄、神様の神勅(教え)、日本人魂(精神性)などを学ぶことはタブーとされ、積極的に欧米の精神性を取り入れ、日本人はグローバル人化していった。欧米の精神文化は、日本人には合わず、人が善い日本人は外国人にたぶらかされ、技術は国外に持ち出され、日本企業は外国資本に買い取られ、その結果、安い賃金で外国人に雇用されている日本人が増加している。今や日本国は30年間もの長い不景気の時代を強いられているのが現状であり、そのことは、戦後の日本人が素晴らしい日本文化と精神性の教育を小さいころから学んでなく、そんな政治家や行政人がグローバル趣向を取り入れるのはいいが、その外国文化を日本化しなかったことが今日の日本の低迷につながっていると思われる。
神社は、日本の国柄、神様の神勅(教え)、日本人魂(精神性)などの日本文化を学ぶところである。未来に生きる子どもたちへは、是非とも日本文化を学んでいただき、神様の神勅にあるように、善い国と人々が幸せに暮らすことができる国を作ってもらいたいものである。
これからは、神社をもっと活用する時代となるだろう。遠慮なく、神社へお越しください。
神社本庁は、神道を信仰する人のために『敬神生活の綱領』(昭和31年5月23日宣言)という神道の行うべき方針を制定している。神社のあらゆる会合の初めには、必ずこれを斉唱し、神社界の発展を願った。神職を目指す人は、特に大切な方針であり、これの解説本をもとにして詳細に学んでいるのである。氏子のみなさんも知るべき文章である。
『敬神生活の綱領』
神道は天地悠久の大道であって、崇高なる精神を培ひ、太平を開くの基である。神慮を畏み、祖訓をつぎ、いよいよ道の精華を発揮し、人類の福祉を増進するは、使命を達成する所以である。ここにこの綱領をかかげて、向かふところを明らかにし、実践につとめて、以て大道を宣揚することを期する。
一、神の恵みと祖先の恩とに感謝し、明き清きまことを以て祭祀にいそしむこと。
一、世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと。
一、大御心をいただきて、むつび和らぎ、国の隆昌と世界の共存共栄とを祈ること。
(注釈)
●神のみこともち→ 信仰者が、神のお言葉(ご命令)を身に仰いで、それに従って生きることをさす。
●世をつくり固め成すこと→ 天神がイザナギ、イザナミの二柱の神に、このただよえる国(大地)をつくりかためなせ(修理固成)とご命令なさってアマノヌボコを賜われてご依頼なされた神話の故事からとったもので、言い換えれば、善い国を作り完成させなさいとご命令されていること。
●大御心→ 神のご命令は、天皇陛下が第一にいただいているものである。国民も同じようにいただいてご命令を実践するのである。国民を「おほみ宝」と考える天皇陛下は、国民を幸せにしてくれる存在で、国民は、天皇陛下がお幸せであるならば、自分も幸せになれると考える。そのことは両者が相互幸福であることを意としているのである。
上記の『敬神生活の綱領』を基として、公的の祭祀に参加することが必要である。公的の祭祀とは、神社の例大祭、祈年祭、新嘗祭、歳旦祭、紀元祭に神社へ参詣して神に感謝を申しあげるのである。昔は、神への敬意として晴れ着を着て参詣していた。今でも晴れ着で参詣するべきである。個人宅ではお赤飯を炊いて祝っているところもある。新嘗祭では、収穫を感謝するため、初物の作物を奉納していた。
また、私的(個人)の祭祀を行い、神に感謝することである。私的の祭祀とは、初宮詣り、七五三、勧学祭、成人祭、結婚奉告祭、厄年祓い、慶賀祭(還暦など)の神社に昇殿拝礼して行う人生儀礼がある。
家庭の祭祀は、家に神棚がある時は、家の主人が祭祀を行うものであるから、拝礼作法やお供えの方法、榊や注連縄などの配置は正確に行いたいものである。これは、日本人としてぜひマスターするべき伝統文化であり、子どもの跡継ぎにも教えて行ってほしいものである。
さらに、必要に応じては、車のお祓い・交通安全、開運厄除、病気平癒、合格祈願、子孫繁栄、商売繁盛、家内安全、各種の心願成就などがあり、その都度に神社へ行ってご祈祷をしてもらい、神様にご加護の祈願を立ててご自身の心の平安を維持してほしい。
人の死に対しては、昔は、神に奉告(代理人が参拝)し、家の神棚は忌明けまでの50日間を半紙で覆い、忌明けしたなら、神社の社務所で「清め祓い」をおこない、自宅に帰ってから神棚の半紙を撤去していた。今ではその風習は風化してしまっているが、神様へ生の報告の初宮詣でをするのであれば、死の報告もおこなうのが筋道である。
わからないことがあれば、氏子の皆さんには懇切丁寧に神社の宮司が教えることになっているのでご気軽にご連絡ください。
神様は、穢れを嫌う。穢れとは「汚れて悪しき状態。清浄の反対の観念。神道においては、忌まれる状態」という。穢れた状態で神前に参詣すると神への不敬となり、神の荒魂が祟りを起こすのである。
困ったことに、神の祟りはその個人のみに与えるものではなく、家族はともかく地域社会に災いをもたらすというので、それは大変に恐れられた。昔の記録では、不敬を働いた宮司は、むち打ち50回の刑罰(半殺し)、宮司以外(総代とか神社の役員)はその半分の刑を処せられたのであった。
穢れを具体的にいえば、身内に死者があった(黒不浄)。お通夜・葬式に行った。病人のお見舞いに行った。獣(四つ足)の肉を食べた。役人が罪人の刑を執行した。役人が罪人の処罰を決定した。不浄で汚いものに触れた。不潔でいる。お産の穢れ(赤不浄といい昔は女性の月経も忌むものであったが時代とともに考え方も変わってきている)。
では、家族や親族が亡くなったとき、一定期間で喪に服することを「服忌(ぶっき)」という。神職以外の一般の氏子の服忌の期間はどのように決められているのかご存知であろうか。下記してみる。
◆本人に対し亡くなった親族との服忌期間
父母(1親等)50日間 嫡子(1親等)20日間
祖父母(2親等)30日間 末子(1親等)10日間
曾祖父母(3等身)30日間 伯叔父母(3親等)20日間
夫(1親等)30日間 妻(1親等)20日間
兄弟姉妹(2親等)20日間 いとこ(4親等)3日間
義父母(1親等)30日間 甥姪(3親等)4日間
お寺(仏教)の忌明けは、49日間で、神道はその1日後の50日間である。
この期間中は、神社神域(境内)に入ってはいけないのが昔からの規程である。当社は、お寺に隣接していて、境内が駐車場になっている。服忌を知らずに神域に立入ると神の祟りを招く恐れがあり、それは、自分はともかく地域社会にまで災い(周りの人を不幸に招く)をなすものといわれるので、昔から続く伝統伝承をぜひともお守りいただきたい。
もし駐車場に停められるならば、服忌に関係のない人の運転で入場していただきたい。また、納骨する時に駐車場への立ち入りはもってのほかであることなので注意していただきたい。
人の日常生活では、穢れを身に積み重ねていっている。その限界に達した時に災難が起こるとされる。氏子は、この災難に遭わないために、半年の間に行われる「旧六月と旧十二月の大祓い神事」に参加して、罪穢れを祓い、もとの良い状態にリセットできる。
残念ながらこの風習もすたれていて、呼びかけても参加人はごくわずかだ。「氏子さんは大変もったいないことをしている」と嘆かずにはいられないのである。
戒む(いましむ)とは、『広辞苑』では、「忌ましむ(忌み遠ざける)が原義といい、禁じられていることを教えさとす、慎ませる、過ちのないように注意すること、用心させること、警戒する、行動を禁止する、とどめる、罰する」とある。斎戒とは、「神仏をまつるとき、体を清く保つこと」と記されている。従って、「神社の奉仕者のルール(規程)は、体(心身)を清く保つことを守るのが戒めですよ」ということである。そのルールについて以下のとおり決められている。
斎戒に関する規程 昭和46年6月15日 規程第9号
凡そ神明に仕へる者は、浄明正直を旨とし、恭敬の誠を致すことを常道とし、祭祀を行ふに当つては、特に斎戒を重んじ、その精神の徹底をはかり、禁忌を慎み、過失遺漏のないやうにつとめなければならない。
一、祭祀に奉仕する者は、大祭、中祭にはその当日及び前日、小祭にはその当日斎戒するものとする。
二、斎戒中は、潔斎して身体を清め、衣服を改め、居室を別にし、飲食を慎み、思念、言語、動作を正しくし、汚穢、不浄にふれてはならない。
三、潔斎に関し、一社伝来の慣例等がある場合は、これによる。
附則
この規定は、昭和46年7月1日から施行する。
この規程の前文にある、「凡そ神明に仕へる者」、規程第1項の「祭祀に奉仕する者」とは、宮司をはじめとする神職、御神楽の伶人、氏子の総代の方々、その他である。
斎戒とは、具体的には、朝起きて、潔斎(沐浴、湯や水を肩から10回くらい流すこと。入浴とは違う)。衣服は、神職は白衣、袴、足袋、下着は白色に改め、総代は羽織袴、足袋またはスーツ、下着は白色、靴下は無地の黒色。家族との居室を別にして、余計に飲食するのは慎み、よこしまな思念、悪しき言語や動作をとることを禁止し、なおも汚いもの、穢れたもの、不浄のものに触れてはならないというのである。
その斎戒の時間というのは、例大祭、祈年祭、新嘗祭の大祭、歳旦祭、紀元祭の中祭を行うときは、祭りの前日の朝からの潔斎(沐浴)にはじまり、1日は神社か適した場所で過ごし、祭りの当日を迎えては、再び朝に潔斎をやって、祭祀を無事に終える。終えてから何時までが斎戒時間なのかは、当日すぎて翌日の朝日が昇るまでと解していいだろう。なお、小祭の時は、前記に準じるのである。
このように、昔からの神道のしきたりは、神明を奉仕する人は、身も心も清浄にして、禁忌(服忌期間)に触れずに、神の前に出なければいけないのであって、それをおろそかにする人は、神罰をうけるのもやむなしであろう。
前記のとおり、宮司や神職は斎戒を学んでいる。しかし、氏子総代の方々へは、学ぶことが伝わっていないので、知らないのがこれまでの習慣であった。この規程にあるとおり、大変ではあるが神明奉仕者は、「祭式作法」ともども「斎戒」も学んでいただき、神様のご神徳を十分に頂いてもらいたいと思う次第である。
戦前までは、小学校では神話教育をしていて、日本国の国柄を教えていた。戦後は、連合国によって、日本人の大和魂精神の弱体化をはかり、それらを教える図書は焚書され、学ぶ機会を失った。従って戦後の日本人は、個人的に神話を勉強する者以外は、日本神話を学んでいないのが現状である。それは、古来より日本人の信仰生活の核や本質を学んでいないのだから、つまりは日本文化の核心を知らないのである。
私たちの祖先神である神は、私たち日本人に「神のお言葉(ご命令)」を発せられている。天つ神は、伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)に「この漂える国を修理(つくり)固め成せ」(地上を神々が住む天つ国と同じような世界にしなさい)とご命令になり、国生み、神生みは為されたが、伊弉冉尊がお亡くなりになったので、事は未だ完成せずに、後の天皇と国民に伝承されることになり、それはつまり「良い国を作って、みんなで幸せになりなさい」とご命令されているのである。みんなが幸せになることが大切なのである。
そして、天照大神の神たちは、その使命から五大神勅を皇孫と国民に発せられている。
「天壤無窮の神勅」「待殿防護の神勅」「斎鏡共殿の神勅」「神籬磐境の神勅」「斎庭の稲穂の神勅」があるが、簡潔に述べてみる。
◆「天壤無窮の神勅」は、万世一系の天皇が治める国であること。
◆「待殿防護の神勅」は、国民の心得として、皇孫をよくお守りしなさい。
◆「斎鏡共殿の神勅」は、皇孫に宝鏡を私と思って、宮殿を一つにしてお祭りしなさい。(これは、天照大神のご意思を守りなさいということである)
◆「神籬磐境の神勅」は、神社の祭祀は、基本として皇孫の弥栄のために祈りなさい。(皇孫の弥栄は、即ち国民の弥栄でもある)
◆「斎庭の稲穂の神勅」は、高天原にある稲穂を皇孫に与え任せるので、稲作を以て国民の糧としなさい。
以上、天照大神は皇室の奉護と国民の繁栄を期待せられている旨を宣言されているのである。私たちは、神の御心を心にいただいて、国、皇室、国民の繁栄のため、世のため人のために尽くさなければならない使命があるのである。
特に、政治家、官僚はもとより、国の政策を忠実に従う地方公共団体の職員は、日本の国柄を知っておく必要がある。
言霊と祝詞 (ことだま と のりと)
日本古来の言葉は、大和言葉(やまとことば)という。今でも神社では、神々と日本人とをつなぐ神秘性を持っている。
大和言葉は、漢字の単語は音よみをしない。また日本語の中の外来語や創作語を除いて、そして古語を足した言葉が、純粋の大和言葉である。
古代日本人の言葉は、神々に通じる言葉であり、もともと神々の言葉といっていいかもしれないという。その神々の言葉は、残念ながら漢語を含めた外来語や創作語にまみれている。
さて、古代日本人は、よい言葉、美しい言葉、正しい言葉には、よき、美しき、正しきものを生み出す働きがあることを知っていて、それを「言霊」の働きという。現在でも神事の際に神職が祝詞として神に奏上しているのが「言霊」の働きなのである。もう一つ述べれば、祝詞などでよこしまな言葉を奏上すると、悪事や災いを呼び出す働きもあるとも信じられていて、もしも使うものなら、神罰が降るものであり、恐れられてもいる。
では、言霊のよき、美しき、正しき言葉とはどういうものだろうか。すぐに考えつくのは、感謝の言葉であろう。今もよく使う「ありがとう(有難う)」という言葉である。
ところが、神職が祝詞で神への感謝の意を奏上する言葉は、「ありがとう、ありがたく」は使わず、「喜び奉(まつ)り」、「嬉(うれ)しみ奉り」、「忝(かたじけな)み奉り」、「謝(いや)び奉り」など神へ対して直接に感情を表して、奉(まつ)りを付けてへりくだる言葉をよく使用している。ということは、「ありがとう」では、神様に通じないのではないかと思うわけである。
そこで、一般の人が神社参拝で神さまに感謝を申し上げるとき、「ありがとう」の言葉を使わずに、神さまに感謝と祓い清めてお守りいただく何か簡単な言葉がないか聞かれた場合、私としては、次の言葉を考えてみた。
「感謝の辞」
「常日頃から大神(おほかみ)さまの御恵(みめぐみ)を感謝(いやび)申し上げ、祓い清めて、お守りいただき、幸せでありますようにと恐れながら申し上げます」
「感謝の辞、祝詞調」
「常(つね)も大神(おほかみ)の御恵(みめぐみ)を謝(いや)び奉り、祓い給(たま)ひ、清め給ひ、守り給ひ、幸(さき)はへ給へと恐み(かしこみ)恐みも申す」
上記の文にあるように、感謝(かんしゃ)の音よみの言葉では、神様には通じないものと思われるので「謝(いや)び」を使用した。また、謝びに替えて、言い易いのは、「忝(かたじけなく申し上げます)」と「忝(かたじけな)み奉(まつ)り」もよいかと思う。
さて、「言霊」を発するのは、それなりのよき文章であり、単語で発するのはご神名など少数あるものと思われる。例えば、「アマテラスオオミカミ」を何十回、何百回も唱えると効果がありそうである。
最近の日本語は、特に若者は、言葉の乱れが生じている。それは時代性ともいえようが、祝詞は、古来からの純粋な大和言葉である。現代人は、神職が奏上する祝詞を聞いても何のことやらわからないだろう。もはや今の日本語は、神様には通用しなくなっているといえよう。
もし、神社参拝の折、神様と言葉を通じたいと考えるのなら、二拝二拍手の前に先に述べた「感謝の辞」を(小さい声で)言葉に出して奏上してみてはいかがだろうか。願いを叶えたいのであれば、潔斎と服装も整えておくことも必要である。
また、願掛けする神社にも配慮が必要である。初めて行った崇敬神社の神様に願いをかけても、果して願いを聞いて頂けるだろうか。神様からみれば、余程の供物を捧げた人、神様の気まぐれ以外は難しいだろう。
産土神社、氏神神社を大切にし、信仰心篤く、日頃から神様に感謝の奉告をしている人がご利益を頂けるのではないだろうか。まずは、やはり産土神様か氏神様とのご縁が強いのであるから、それを抜きにして崇敬神社を頼るのはいけないだろう。
崇敬神社での願掛けは、地元の産土神、氏神を篤く信仰しいる人が、そのご利益を得ることができるものだとといえよう。
産土神様、氏神様の願掛けも、年に一度の初詣くらいのご縁だと、たいして願いは届かないだろう。やはり日頃から節々毎にお参りをし、お祭りに参加して、人生儀礼の神事を行っている人が、神様から好かれる人で、ご加護をを授けてくれるものである。
【参考文献】
平成二十八年 第二十三版 『神道の基礎知識と基礎問題』 小野祖教著 澁川謙一改訂 神社新報社
神社にお参りする場合、ご鎮座の神様とその人の関係によっては受けるご利益の違いあることをご存知だろうか。それには、氏神(うじがみ)さまと産土神(うぶすながみ)さまの違いを知り、今、自分が何処の神社の氏子であり、また生まれた所の氏子だった神社を知る必要がある。
一般的に氏神さまとは、今、ご自分が住んでいる土地を領有(霊的に支配する区域)する土地神で、鎮守神ともいう。明治時代にできた社格制度でいうなら村単位でお祀りしている村社格以上の神社のご祭神をいう。一方、産土神さまは、ご自分が生まれた土地の村社格以上の神社の土地神、鎮守神をいうのである。
神社は、それぞれ土地を領有していて、その区域内に住んだら、その神社の「氏子(うじこ)」になる資格がある。しかし、領有地以外の人はその神社の氏子にはなれない。もし、その神社と関わりを持ちたい場合は、「崇敬者(すうけいしゃ)」になることになる。
『神社本庁憲章』の第15条に「氏子区域に居住する者を伝統的に氏子とし、その他の信奉者を崇敬者とする。氏子・崇敬者は神社護持の基礎であり、斯界(神社界)発展の母体である」としている。
氏神さまの持つご神徳(ご利益)は、それぞれに種類や特徴がある。当社の武磐龍命(タケイワタツノミコト)は農業神の土地神で、降雨止雨を司り五穀豊穣と土地内に関わるご利益を氏子と崇敬者にお授けくださる。
また、相殿神の平河盛高公は、祟り神であったのを鎮魂したことで福神となり福徳をお授けくださる。
さらに、境内の西南にある石塔は、ある女性の祟り神を鎮魂し、福神としては、八つの災難(王難、人難、非人難、病難、賊難、火難、水難、毒蟲難)を除き、常に無量の楽を得ることができるというありがたい石塔である。
さて、重要なことは、氏神さまが産土神の場合のときである。つまり、生まれた所に住んでいる氏子のご利益のことである。産土神はその人の誕生に関わった神であり、一生ご加護いただける神で、近くにご鎮座されているので直ぐにもお参りできる。そしてご利益の種類が多いことである。
なお、遠い所に転居された方の場合も産土神のご利益は氏子ではないので一等を減じ、また近所でないので大変不便である。逆に、遠方から当地へ転居してきた方は、氏神さまの氏子になったが産土神でないので、地元の氏子と比較すれば地元の氏子が断然有利なことは理解できよう。
神を信仰する人は、産土神に対し人生儀礼の折にこれまでのご加護を感謝し、これからの御守護を祈願するものである。絶対に軽視してはいけない。遠くに転居した方は、時よりお里帰りして今までのご守護の感謝を申し上げることが大切である。それができない場合でも、産土神社の方角に向かって拝する(遙拝)ことはできよう。
産土神の授けてくださるご利益(御守護、ご加護)を次に紹介してみよう。また、万能神ではないこともご理解いただきたい。今では氏神さまと産土神さまを混同しているところもある。
【産土神の御守護に関する行事、儀礼、祈願祭】
◆年中行事・人生儀礼 (還暦など算賀祝い、節分祭、ひな祭り、端午の節句、七夕祭、成長、成人式、家祓い、宅神祭)
◆開運厄除(開運、厄除・厄祓い、冤罪消除)
◆商売繁盛関係 店営業(工務店、生鮮品・食品、理髪店、燃料店、水商売、保険など)
◆工事安全関係 (地鎮祭、上棟祭、建物解体など建築関係) (架橋、堤防、道路、水道、開通式、渡橋祭、石碑建立、土地区画整理) (通水式、除幕式、公園開園式などの開始式)、井戸
◆諸祈願(健康、病魔退散、子授け、安産、子育て、長寿、延命、家内安全、交通安全、車祓い、水難除け、盗難除け、禁酒、引越し、転居、勝訴、仲裁、地震・雷除け、天候被害除け)
◆教育・研究(学校、保育園、入学、学問、塾、学術団体、合格)
◆スポーツ・芸術(武芸上達、運動競技、書道、絵画、優勝)
◆農林水産・製造業関係(五穀豊穣、豊作、豊漁、繁栄)
◆旅行(海外渡航、旅行安全、海上安全、航海安全)
◆政治(当選、出陣式、勝利)
◆帰幽奉告(産土神への感謝)、各種奉告
お守りを授けていただくとき、その人にとって氏神さまで産土神さまのお守りが最強である。崇敬する神社のお守りは、ご神徳はあるがそれには及ばないのである。また、人生儀礼などの祭祀のお祓いも全く同様であるので、なるべくなら最強の氏神産土神社でお祓いをお勧めしたい。
【ご利益度】
宮司の独断であり何の根拠もないが、お参り、お祓い、お守り等のご利益度を考えてみた。産土神で氏神である神社を100%とした場合。
・産土神で氏神である神社でのお参り等 100% 最強
・産土神の神社でのお参り等 90% 転居している分マイナス
・氏神神社でのお参り等 80%~90% 誕生地でない分マイナス
・崇敬者でのお参り等 70% ご縁が少ない分マイナス
神道の場合、罪はお祓いによってすべて解消・除去されるという特質をもつ。穢れは、自分が知る知らないに関係なく汚穢が身につくもので、個人のみならず社会へも災いをもたらすものと考えられた。一般的に罪穢れは、神職によるお祓いで浄化できるものとされるが、あくまでも神のご意思によるものであり、罪穢れを重く背負っている人は、祓えないこともあるだろう。古代では、お祓いの対価として麻をはじめ祓へつ物(反物、金品、土地、その他)を神社へ奉納していた。
現在、厄払い神事での祓へつ物(玉串料)は、最小金額の低額で見積もられている。その金額を分析してみよう。これまで生きて来た神様への感謝料とこれから先のご加護料とお祓い料、お札料、お守り料を足してみたら、その金額は妥当なものであろうか。
当神社では、玉串料は、神様に奉納する分と宮司の奉仕料とを含んでいるので、何卒、神社の隆盛と維持経費分としての奉納をお願いしたい。