以下の文章は、本座談会の開催前に、企画メンバーがそれぞれ今回の企画に参加するにあたっての経緯やこれまで考えてきたことを記したものです。原稿の完成順に並んでいます。
松岡美里
当時の学生から見えていたこと
この座談会のテーマであるギャラリー@KCUAでの出来事があった当時、私は京 都市立芸術大学大学院の修士1回生でした。2016年1月の終わりで、ちょうど2月 のはじめにかけて大学の制作発表展直前というタイミングです。作業の合間に Twitterで情報を追いながら、一体どんなことが起きたのかを詳しく知りたいと思 いました。当初からこのことについて相談していた教員の協力もあり、可能な範囲 でこの出来事に関係した方々から話を聞くことができました。しかしながら大学及 びギャラリーからの詳細な報告もない状況で把握できる内容には限度があったこと や、事態が落ち着くまで時間を要すると感じたこと、加えて修士2年目として自身 の制作に注力する必要もあり、それ以上の行動をとることなく大学を離れてしまい ました。結局この出来事は消化不良のまま、大学の対応への疑問と、ひいては芸術 という分野全体にわたる社会への無責任さを自分自身に問いかける記憶となりまし た。
今振り返ると、私が大学院に入学した2015年はちょうど安全保障関連法案に注 目が集まり、政治的テーマと日常がどことなく接近している空気がありました。さ らにその数年前からヘイトスピーチやヘイトデモが社会問題化していたこともあ り、学生として表現と倫理の関係について深く考えていた時期でした。そうした状 況で@KCUAの出来事を目の当たりにし「なぜ?」以外の言葉が出て来なかったこ とをよく覚えています。数ヶ月前には別の京都のギャラリーで表現と差別をめぐる 問題が起きたばかりでした。その後も表現する個人や集団の倫理 観が問われるような事例を繰り返し目にしましたが、時間が経ち距離のある状態か ら 見つめるようになると、@KCUAの出来事もまた、過去から現在まで長く 続く課題の一端なのだということを強く意識するようになりました。
2022年となる今年、@KCUAの出来事から6年が経過しました。6年間で私たち の生活する環境やその基盤となる倫理観は大小さまざまに変化を重ねています。 今、京都市立芸術大学の学生であるあなたや、あるいは教員や職員であるあなた や、あるいは美術や芸術に携わるあなたにとって2016年のギャラリー@KCUAの 出来事はどのように見えるでしょうか?
いくつもの経緯を経たこの機会が、当時見えなかったところまで見通すきっかけ となり、その先の足元を調べる手がかりになればよいと考えています。
濱口芽
ー当時の学内の様子を思い起こしてー
2016年1月30日、今回のテーマの基となるギャラリー@KCUAでの件が起きた時、私は京都市 立芸術大学大学院修士課程の1回生で、春には修士課程2回生へと進級し翌年に卒業が控えていま した。2月は年に1度の大学全体での作品発表展があり、学内が慌ただしくなる時期です。そんな タイミングで件の出来事がありましたが、当時はネット上(特にTwitter)でのいわゆる炎上が関係 者・表現者等に留まらず巻き起こりました。
過激な言葉が飛び交う中、しかし現在まで大学側からの事実公表や見解はなく、ギャラリーの ホームページに“問題の項目について詳しい方からお話を伺いました”といった旨の文章が追記され たのみで、詳細については何も分かりませんでした。(その後私自身は、友人達とこの件に関係し た方々からお話を伺う機会をいただきました。) 当時の学生間では、追記からワークショップの内容を知り、これは明らかにまずい事だと思う/ Twitterで自分が通う大学について大きく取り沙汰されているようだけれど、結局どういう状況 だったのかわからない、といった事などが話されていたように思いますが、直後は作品発表展に 向けて慌ただしかったことや、大学生活に実害があったわけではなく事実もわからないといった 状況から、この件は徐々に話題にのぼらなくなり卒業を迎えて大学を離れていきました。
ー今回の企画への関わり ー
ギャラリーの件から少し遡り、2015年は主に安全保障関連法について同年代のSEALDsが活動 していて、同年11月には別のギャラリーで表現と差別をめぐる問題が起き、それをきっかけに私 自身はヘイトデモの実情や反ヘイトスピーチの勉強会に参加したりと、社会的にも個人的にも、 政治/日常/表現といったトピックがインターネットを通して拡散・共有されることで、より活発で 身近なものとして在ったように思います。同時に、当時Twitterで交わされる議論を眺めていると 様々な言説が目に入ってくることで、表現の自由って?アーティストって?何を正しい事として、 表現者はどこを目指すべきなのか?といった疑問が、自身の制作活動の悩みと共にぐるぐる頭の中 を巡っていました。
なぜ今座談会を行うのか。現在に至るまでに前述の過去の疑問に暫定的な答えを出しつつ も、表現活動をすることで結果何を引き起こし得るのか?表現の中で他者を蔑ろにし、超えては いけない一線を超えてはいないだろうか?その一線とは?といった、当時から数年を経て、しか し確実に過去から続いてきている自問自答もまた増えました。疑問や違和感が浮かぶたび問題点 を多方向から見つめ直し、向き合い、整理をする為に。立ち止まって、人と会話し思考を続ける 為に。そのような場があればと考えました。
磯部洋明
本座談会開催に至る経緯
本座談会のテーマの起点となったギャラリー@KCUAでのワークショップ(以下では「アクアのWS」と書いています)がネットで話題になっているのを私が見かけたのは、京都芸大に教員として着任する2年ほど前のことでした。当時は「アート界隈でなんか炎上してるな...」くらいの気持ちで眺めていたというのが正直なところです。その後、縁あって2018年に京都芸大に着任してしばらくしてから、この件が自分の所属している大学に関係していたことに気づきました。
私の専門は宇宙物理学で、専門家コミュニティとしては芸術よりも科学に属しています。京都芸大では主に数物系の自然科学や科学技術と社会に関する授業を担当しています。
芸術と科学—あるいは人文社会系を含む学術一般と言い替えてもよいと思います—は、コミュニティとして似た課題を抱えています。それには専門外の人から見たときのわかりにくさや敷居の高さ、政治や経済との距離感、コミュニティ内部のジェンダーギャップやハラスメントなど様々な側面があります。そしてその中には、他者を対象にしたり介在させたりする調査研究や作品制作にともなう倫理的問題、そして意図せず誰かを傷つけてしまう可能性も含まれます。
芸術と科学がコラボする試みは数多くありますが、今その両者が交わるにおいて最も重要かつ有益なのは、コミュニティが抱えるこのような課題について互いの経験から学ぶことだと私は考えています。そして京都芸大においてそれを実践するにあたっては、アクアのWSで起きたことをスルーしたままではいられないと思うようにもなりました。
アクアのWSで起きたことへの批判に対して、京都芸大は大学としての応答はしていません。一方、授業でも折りに触れてこの件について紹介し、学生たちと一緒に考えるようになると、学生の中にも、アクアのWSについてネットで見聞きしていたけれど大学から特に説明もなく、もやもやした思いを抱え続けている人がいることが分かりました。
その一人が、2016年には学部1回生で、当時大学院生だった松岡美里さんと濱口芽さんが主催していた社会問題を話し合うサークル「きょうげい社会派モード」に参加していた河原雪花さんでした。3人は当時、アクアのWSの後でげいまきまきさんやブブ・ド・ラ・マドレーヌさんにも話を聞きに行っています。そして2019年に、科学/芸術と社会の関係について議論していた私の大学院授業の後に河原さんが話しかけてくれたことをきっかけに、アートとサイエンスのジェンダー不平等について考える研究会(https://sites.google.com/view/art-science-gender)を開催し、そこでもアクアのWSのことが話題になりました。
そして、「テーマ演習」などの授業を通じて大学院を修了した河原さんとも交流の続いていた今の在学生たちから、北村花さん、駒井志帆さん、峰松沙矢さんが今回の企画に参加してくれています。松岡さんと濱口さんから河原さん、そして今の在学生たちへと、表現の自由と倫理の問題を自身のこととして考え続けていた学生たちのリレーが、今回の企画に繋がったのだと私は考えています。また、京芸内の複数の教員がこの件に関心を持って授業等で取り上げて続けていたことも、合わせて記しておきたいと思います。
科学と芸術の交流を目的とした私のテーマ演習に参加してくれていた京都大学大学院生の土田亮さんも企画に参加し、対人フィールドワークを研究手法とする立場から座談会に参加してくれる竹田響さん、渡辺彩加さんを誘ってくれました。この場を借りて土田さん、竹田さん、渡辺さんにも感謝を述べたいと思います。
本座談会の企画者メンバーは、アクアのWSについて触れているサイトや文献に一通り目を通し、また当時アクアのWSに携わっていた京都芸大の関係者、現場にこられたげいまきまきさん、そしてげいまきまきさんたちと一緒に「わたしの怒りを盗むな」というサイトで批判の声を上げられたブブ・ド・ラ・マドレーヌさんにお話を伺っています。(丹羽良徳さんとは直接お話ししたことはありません。いつかお話を伺いたいとは思っています。)ですがこのサイト内に書かれていることは、あくまでも個々のメンバーが理解したことに基づいて、その責任のもとで書かれているものです。
河原雪花
6年前、私は京都芸大の1回生で、受験を終え新しい環境の中で表現することについて考えだした時期でした。また以前から社会問題に興味を持っていたので「きょうげい社会派モード」の張り紙をたまたま目にし、放課後の集まりに顔を出したのも必然のように思えます。そこで当時院生だった松岡さん、濱口さん達と出会いました。賑わっているのかと思ったのですが、毎回3〜5名程度の少人数で学部生はおらず、「みんなあまり話さないのかなぁ」と少し寂しい気もしていました。けれども先輩方の考えを聞いたり自分の思ったことを話せるあの集まりがあったことは、私の日常において、とてもありがたいことでした。
そうしてその場に参加するようになってからアクアの出来事が起こります。美術界隈でのこうした炎上が自分の大学を発端としていることに大きくショックを受けたのを覚えています。社会派モードでもたくさん話し、げいまきまきさんやブブさんから直接お話を伺ったりもしました。この件以降、表現する際に含まれる無意識の暴力と他者へ与える影響について考えることは私の制作において一つの重要な側面になりました。けれども正直、ここまで考えればOKというのはいつも無く、どこまでも不安が付きまといます。そのたびに考え続けなければいけない、と思うほかないのです。考え続ける、対話し続けるというのができる唯一の手段でもある気がします。
松岡さん、濱口さんが修了し、社会派モードが無くなって誰もアクアの件を話さなくなったことに、私はもやもやしていました。そうして3回生になった時、磯部先生が京芸に着任されます。先生が来られたことで、より開かれた形で多くの学生や教員がアクアの件について継続的に考える場が生まれました。6年の月日を経てまた、きょうげい社会派モードが始まったように思います。
北村花
在学生の立場から
私が京都市立芸術大学に入学したのは、ギャラリー@KUCAの件が起こった3年後の2019年になります。SNS上で取り沙汰されていたことや、入学後、学科の授業内でこの件について取り上げられていたこともあり、事件の概要については何となくは知っていました。しかしながら、事件の詳しい背景や、当時大学の内部で何が起こっていたのかということについては、よくわからないままでした。
今回の座談会に参加するにあたって、(座談会のメンバーの)先輩方と磯部先生が共有してくださった情報や、ギャラリー@KUCAでの件が記された様々な資料をもとにして、当時何が起こったのか、何が問題だったのか、ということについて調べ始めました。さらに事前の打ち合わせで当時の関係者の方々にお話を伺うことによって、今まで点でしかなかった情報は、次第に血の通った情報となって繋がりつつあります。
このような語りの場が設けられていなかったならば、書籍やインターネット上に載せられた断片的な情報をなぞり、その全体像をただ推測することしかできなかったと思います。
公立の芸術大学で芸術を学ぶ立場として、また少なからず表現に携わっている立場として、自身の生み出す表現そのものが孕む暴力性について考えることは、避けて通れない道だと思っています。作品を展示発表したり表現活動を行ったりすることには、必ず公共性や倫理といった問題がつきまといます。「表現の自由」というのも、あらゆる場面で何度も語り直されるワードの一つです。ギャラリー@KUCAの件に限らず、アートや表現の自由と言った言葉が免罪符となって、倫理的問題を覆い隠してしまうようなことも珍しくありません。
特に最近はSNSがごく身近になったこともあり、自身の作品あるいは表現活動を公にすることへのハードルは限りなく低くなり、反面多くの人の目に触れることのリスクは次第に大きくなっています。ギャラリー@KUCAの件も、インターネット上で炎上したことでその問題が露わになったという側面がありました。
この件について、長い間公的に語る場が設けられなかったことで、この事件の当事者であるげいまきまきさんが勇気を持ってあげてくださった声は、その問題の所在がうやむやになったまま、ともすれば立ち消えになってしまいかねなかったと思います。
松岡さん、濱口さん、河原さんら京芸の先輩方が、その灯火を絶やすことなく引き継いでくださり、また磯部先生がこうした場を設けてくださったことで、私を含めギャラリー@KUCAの件には直接関わりのない現役京芸生も、このことについて語り直す機会を得ることができました。この座談会で一件落着としてしまうのではなく、次につないでいくことが、私たち在学生にできることなのかなと思います。
今回の件を風化させない、という意味でも、自身の表現活動ひいては芸術そのものを俯瞰的に見つめ直す、という意味でも、今回の座談会が、もう一度原点に立ち戻って考える契機となれば良いなと思います。
土田亮
出来事とこだま:外側から見えること、ともに感じること
私は京都大学の大学院生です。初っ端ですが、私が何者か、手短に紹介させてください。私は洪水や土砂災害の現場に赴き、被災当時どのような被害を受けたか、被災や復興を経てどのような苦難があったかについて、被災者の声に丁寧に耳を傾けながら、現場やその人たちの声に内在する問題を提起することに携わっています。ややかしこまった言い方をすれば、他者理解を目指す人類学的な立場から災害の問題を捉えることを主眼にして、ともすれば、全くその出来事に立ち会っていなかった私たちの生き方や考え方そのものをも変えうる関わり方について、私は日々当事者とともに考えています。
さて、話は戻り今回の件に関して、正直に言えば私は当時この出来事の当事者でもなければ、その前後で何らかの形で関与していたわけでもありません。だから、私はこのまま何も知らずに生きていく、あるいは、仮に知ったとしても何かのポジションや権力を振りかざし斜に構えて批評するという選択肢も取り得たでしょう。しかし、磯部先生からこの座談会にお誘いただき、全く何も知らない手探りの状態からこの出来事に関して座談会メンバーとともに当時何があったのか、関わっていた人たちが何を感じたかに耳を傾けていると、次第に私の内面から湧き上がる感覚や感情に気づきました。この感覚や感情とは一体何でしょうか。それはまず出来事と他者のモヤモヤや悲しみを受け入れることから先行し、そしてこの出来事や語りを通して、ぐわんぐわんと私の内面にあったあらゆる感覚や感情が思いがけずかき乱されるようなものでした。まるで過去の出来事が断続/持続的に私の中で「こだま」となって、私たちの考え方や生き方、関わり方自体にも何らかの形で探求とともに応答しなければならないと鳴り響いているように感じました。
この座談会において、私はファシリテーターを務めさせていただきます。ここまで企画の趣旨や企画者の思いを読んでいただいてお分かりのように、京芸生ではない私がここで関与することで与えられた役割とは、何かの知識を与えることでも客観的に事態の分析や検証をするような社会の批評家でもありません。少なくとも、芸術に身を置いている/いない外側の参加者とともに問題の所在に気づき、複雑で悩ましい問題にいかに応答するかを考えることが私の役割だと考えています。
どうか皆さま、温かく長い目で見ていただくとともに、参加者の皆さんとともに考えていただける機会になれば、企画者一同、望外の喜びでございます。
峰松沙矢
本企画に携わるまでの経緯
私は2016年ギャラリー@KCUAで起こったワークショップでの一件から3年後、2019年に京都市立芸術大学(以下:京芸)に入学したので、2016年当時はこのことがあったこと自体把握してませんでした。
京芸に入学後、1回生の前期に授業内でこの事件のことが少し取り上げられ知った次第ですが、当時ネット上で大きな議論が巻き起こっていたことや大学内がどのような状況であったかまでは知ることはなかったです。そして入学同年2019年にあいちトリエンナーレの「表現の不自由展」の問題が起き、学生や教員含め様々な立場の人が有志で一同に会し話す機会などもあって、大学に入学してから表現活動と社会の関係性について考えざるを得ない状況にあったのを覚えています。
その後コロナウイルスが流行し、以前のように現在起きている社会の問題に関わらず”会話が起きる場”が学内で大幅に減少したことから、オンライン上で学生が主体となって今起きていることや悩みについて話す「炉辺談話ノライロリ」を今回企画に参加している北村花さんや学生の有志で2021年に立ち上げました。京芸の授業のテーマ演習を通じて磯部先生との関わりが生まれたのもその時期です。
2022年現在、本座談会が企画され、2016年@KCUAでのWSの件が起こった当時に学生であった松岡さん、濱口さん、河原さんと磯部先生が繋げていただいたところからお話しする機会をいただきました。@KCUAの件があった当時のネットや大学内の様子、大学側から何も公表がなかったことや同年他のギャラリーでも表現と差別について問題が起きていたことなど、これまで共有してくださった情報をもとに当時の背景を追っています。
在学生として
表現の担い手の一端として、自身の制作や展示は自身の認識を照らすものとして考えています。そしてそれは照らされなかったものも同様であり、無意識に他者を侵害する危険性も孕み、取り返しがつかないことになる可能性があることを、強く、自覚しておかなくてはならないと思っています。
6年もの年月を経て、この@KCUAの一件について疑問を抱いたままだった方がいたことは、この問題がいわゆる炎上の一件ではなくこの先も絶やしてはならない問題だからです。私もその背景を追うごとに、「既に他のギャラリーでそんなことが起こっていたのになぜ@KCUAでこのようなこと起こったのか?」「その後の対応は?」など様々な経緯を通して疑問を抱くようになりました。本企画で話されることが、この先の表現を考えるにあたって、ひとりひとり違う倫理観からどこから、何が、誰を傷つける可能性があるか、その基準を長い目で思考し続けるきっかけのひとつになればと思っています。
そして崇仁への移転を目前にした本大学にとって表現活動と社会のつながりを考えることは責務であり、倫理的問題は芸術の学舎として一層語り合う場が必要ではないでしょうか、と在学生の立場から主張します。