2022年2月22日の会当日の文字起こしを掲載しました。肩書きは開催当時のものです。会の後半に参加者を含めて話し合う時間も長く持ったのですが、その部分については参加者の話しやすさを優先して記録をとらずに行ったため、文字起こしには含まれていません。
前半(げいまきまきさんの講演部分)
00:00~ 司会からの説明
土田(ファシリテータ):
およそ40分程度お話いただき座談会メンバーを交えて座談会に移ります。 会自体は一旦20時までで中締めいたしますが、その後懇親会もあります。引き続き残ってお話ししたい方は 是非ご参加ください。 ここからお話ししていただきますが、座談会メンバーの皆さんは質問や発言したいことがありましたらぜひ 挙手ボタンを使ってお知らせください。こちらからさせていただきます。 またそれ以外の参加者は基本的にはチャット欄にてコメントをしていただくようお願いいたします。 それではお待たせいたしました。げいまきまきさん、お願いいたします。ミュートを解除してお話しくださ い。
00:47~ 挨拶
げいまきまき:
すみませんさっきあの勝手にミュート外しちゃった(笑) 初めましての方もいらっしゃると思うんですけど、初めましてこんばんは。 げいまきまきといいます。 ちょっと私、今咳が出る時期が来てて、咳き込んでしまいがちなんですけど、多分すごく高い確率でコロナ ではないっぽいのでご安心ください。皆さんもコロナの中で切磋琢磨していらっしゃると思いますが、大変 な時期の中でご参加ありがとうございます。よろしくお願いします。 これ、どうしようあの、画面共有ってどうしたらいいですか?
(画面共有の説明)
わかりました。見えました。はい。 じゃああの、当日あったことはそれほど逐一は触れないんですけども、6年経って私が考えてきたことと か、思うこととか、お話しさせていただいて、それでまた次の段階に入りましょう。
はい、それでは表現の自由と倫理について考える今日の、2016年@kcuaで起きたこと、2022年に私が思 うこと思い出すこと、っていう感じでお話しします。 最初にお伝えしておきたいのは、思い出してて思ったんですけれども、いろんな記録にもとってますし、本 にも書いたりしましたけれども、これは私が見た視野からのお話っていうことです。 私が見えたところから感じたもの、考えたこと、その時の記憶っていうものが記録なり反映されているって いうことです。よろしくお願いします。
04:30~ 自己紹介
げいまきまき:
まず自己紹介なんですけど、初めましての方もいらっしゃるので、えっと、私はげいまきまきといいます。 もちろん本名ではないんですけれども。 肩書きに一応女優パフォーマー、元セックスワーカーってあるんですけども、そうなんですね。 舞台とか出たり、あとパフォーマンスを自分でも作ったりして、今のとこ元セックスワーカーでまた機会があ れば現役に復帰も夢見てたりするんですけども。 それでセックスワーカーとしては現役の頃からSWASHっていうセックスワーカーの労働の健康とか安全に ついて応援する団体に所属しています。 それで今はそのことと一緒に仕事としては、大阪の梅田の近くに堂山ってところがあるんですけど、そこが ゲイタウンなんです。 一番有名な東京でいうところの新宿二丁目みたいなとこなんですけど、そこの中にあるコミュニティセン ターのdistaっていうところで働いています。 そこではHIVを含めて性感染症とか、そういうことへの予防啓発の仕事をしています。 でこのdistaっていうのが立ち上がった経緯というのは、もう2、30年昔になると思うんですけれどもその もともとっていうか根っこっていうのは京都で90年代起こったエイズアクティビズムですし、その中にいた 方が前の代表でした。立ち上げられた一人です。 そのエイズアクティビズムっていうのは京都市立芸大で80年代90年代、今も活動されているダムタイプが すごく関わっていて、なので私の今している仕事の根源っていうのにもアートっていうのはとても身近で す。
(スライドの画像について)
この画面の端っこの3つが今仕事でゲイの人やバイセクシャル男性の人たちに性的健康の情報を渡したり、 相談に乗ったりとかのお仕事をしてるんですけども、こういう風に写真を撮ったり予防啓発の資材の写真を 撮ったり、この真ん中のはあるイベントで撮ってもらった写真なんですけれども、あるイベントっていうの はHIVの世界的な新しいキャンペーンについてのイベントで撮ってもらったりとかしています。 それと後、セックスワーカーとしてはこの真ん中にあるのと、その横にあるの斜め下にあるのが国際エイズ 会議に参加したものだったり、アムステルダムのプライドパレードでセックスワーカーの団体のお船に乗ら してもらったり、あとこの一番大きな写真は一昨年か2019年の東京でのプライドパレードで、セックス ワーカーの団体のパレードってトラックとかがいっぱい出てるんですけどそのトラックの中にあるもので す。
あとスラットウォークっていう、よく性暴力被害とかあった時にそんな格好してるお前が悪いとかね、そん な期待もたすような態度したんだろとかそんなことがあるんですけど、これは世界共通な感じなんですけ ど、それに対してそんな娼婦みたいな格好してって世界中でも言われるわけですけど、その娼婦っていうの を逆手にとってスラットっていうんですけどね。そんな格好で何が悪い、娼婦だからといってそんな目に あっていいわけないだろっていうような主旨のデモが2011年ごろから世界各地で起こっているんですけ ど、それを、これも一昨年かな、大阪で開催して運営しました。あとは皆さんここにいらっしゃる多くの方と同じように作品、パフォーマンスとか映像とかで作ってるんで すけど、そういう作品を作ってた時の写真です。そういうことをしています!
10:03~ 表現とセックスワーカー これまでの例
げいまきまき: ここからなんですけど、@KCUAのことが起こった時に多分私の反応が過剰反応だと思われた方もいるかもし れない、なんであんな怒るねんって思われてるかもしれないけれども、それに至るまでに、まぁ別の話持っ てくるなって話かもしれないんですけど、表現の中でもセックスワーカーに関することこの日本でも2000 年代入ってからでもこの20年ほどの中でも問題っていうのはちょこちょこ起こっておりまして、2008年ご ろから、それ以前から東京では歌舞伎町の浄化作戦、風俗街とかね、今でいう夜の街を浄化する、摘発して いくみたいなことが多くてそこに生活してた人そこで仕事をしてた人たちが追いやられるっていう、散り散 りになっていくっていうものがあったんですけども、そういう浄化作戦があってそれの延長線上で2008年 ごろから横浜の黄金町のちょんの間エリア、セックスワークのエリアをことごとく摘発していきました。 ここは日本人だけではなく移民のセックスワーカーもいるようなところでした。 そこ(黄金町)がゴーストタウンみたいになったんです。そこに後から黄金町アートセンターっていうのが 入って、アートバザールっていうイベントを開催したりしてきました。 あるあるかもしれないんですけど、そういう浄化の後にカルチャー、芸術っていうものを持ってきて良かろ うって感じにして、それ以前にあったそこに住んでた人そこで仕事をしていた人たちの生活や文化っていう ものが振り返られない。それ以降その人たちがどこでどういうふうになっていったかっていうことへのケア やサポートもないっていうことはあるんですけども。 それは世界各地であるあるではあるんですけど、それが黄金町でもあって、その後にアートのものが入っ たっていうことですね。
そういうこともありましたし、2014年は、2007年に東京都立写真美術館で展覧会のあった「still arive」っ ていう展示で大橋仁さんって人が展示した写真がタイのセックスワーカーを無許可で撮ったものっていうの があったっていうことです。これが2014年になぜわかったかというと、インタビューに大橋さんが答え て、その中で武勇伝のように語っていたからわかってそれで大問題になったんですけれども、これも後で言 及させていただきます。
そして2016年、@KCUAのことがありました。 で、2017年は関西大学が講演している、大阪で行われている人権についてのいろんな講座があるんですけ れども、その講座イベントの飛田をフィールドワークするっていう、 飛田っていうのは大阪の新世界の近くにある、そこもセックスワークタウンなんですけれども、そこを フィールドワークするっていう。 ちょっとそこはセックスワークタウンの中でも特殊というか変わった形で、今でも玄関に、道に向かって ワーカーが座ってるのが道から見えるっていう形なんですけど、そこを商売とは関係なく、割とフィールド ワーク、良かろう、社会学、いい意識だ、みたいな感じで練り歩くみたいなことがあってこれも問題になり ました。
あとセックスワークについてではないですけど、人権というか倫理的な話でいうと、2015年京都のART ZONEっていうギャラリー、これは京都造形芸術大、あっ今名前変わったんか、京都芸術大学、すみません 市立芸大の皆さんの前で申し訳ないです、嫌味でもなんでもなく、すみません、名前があんなことになりま したけど。 当時の造形大学のギャラリーART ZONEで鳥肌実っていう、元々ずっとサブカルチャーのシーンにいた人な んですけれども、2000年ぐらいからかな、レイシズムのヘイトデモをしてるような団体ともスピーチをし たり、そこでヘイトスピーチを実際にしているっていうのも記録にあったりうる人をブッキングしたってい うことでこれも問題になりました。
(黄金町の方針のスライドを読みながら)
黄金町の浄化、「街づくりの歩み!」「これから!」みたいな看板があるんですけど、そこで浄化作戦って いうのがすごく街にとって良いことっていう感じでおそらく多くの人にとっては良いことだと思うんでしょ うけど、そういうことが書いてあります。「生活環境の健全化に向けて」今も風俗店がコロナの給付金の対 象外になってて裁判になってますけど、国からの見解は「健全ではない」とかそういうことを言われてます よね風俗というものが。まさに国の見解って感じで生活環境の健全化に向けて大きな一歩となりました! で、対してそこに住んでた人がどうなっていくかっていうのは書かれてないんですけど。 「それでクリエイターとかアーティストの人も来たよ~安全安心、一緒にやっていこうね~、でもかつての 街に戻らぬよう24時間体制の警戒は設けられています。」「かつての街に」昔のセックスワークタウンで あったことっていうのがここからは良くなかったことだと捉えられてるってうことがわかります。 で、「自立宣言:安全で安心な街をみんなで作っているよ、地域住民アーティスト、子供たちも一緒に作っ てるよ」でもなんかセックスワーカーは入ってなさそうですね。 で、「さくらの木の下を散歩する、老若男女の楽しそうな顔と顔。」 「しかし今が踏ん張りどころです。隙あらば昔の風俗の街に戻そうという不穏な空気が漂っています。」こ ういうふうに浄化っていうのは進んで塗り替えられて表現されていく、っていうところなんだなって思います。 ちなみに黄金町がゴーストタウンになった時に、その後も殺人事件も起こってるし、アートセンターが建っ てもそんなに人通りが多くない時にレイプ事件も起きています。まさにその場所で。
(2014年 大橋仁氏のインタビュー記事が抜粋されたスライド)
次に2014年東京都立写真美術館でのことです。これは2014年にあったインタビューから抜粋なんですけ ど、今出しているところは、タイに行って、タイの風俗店で女の子たちがいるところがあってねっていう経 緯を説明しています。 彼はそこですごく感銘を受けたと。「彼女たちがいろんなバックボーンや過去のストーリーがあるわけだけ ど、そういう私的なことを全て度外視した人として、生き物として、肉としてのエネルギーをビシッと食 らったんです。」って書いてありますね。すごくパワーを感じた。そのパワーを、彼はインスピレーション を作家として受けたということをここでは言いたかったんやと思います。 でもその後なんですけど、撮影禁止っていうことがよくわかる、一発でわかるところで撮ったわけです。そ れはゲリラ的に撮ってますよね。無許可ですもちろん。で、女の子はそれに気づくとパニック状態。これ ね、わざと写真とか載せてないんです(スライドに)、彼の。その写真っていうのも調べたらわかるんで しょうけど、ほんとに顔を隠して逃げようとしてる姿です。 それをしかも何枚も何枚も撮り続けてたっていうことです。で、彼は(風俗街の)用心棒に詰められるわけ です、そしたらそうなることは最初からわかってるから馬鹿な観光客のふりをしてコンパクトカメラで撮っ てる。すごく自覚があるんですね。自覚がある。そして馬鹿なふりをして、すごく相手側を二重に馬鹿にし てますよね。ゲリラ的に撮って気づいて逃げてても撮っていいっていうこと。そしてそれを止めに来た人に も素知らぬふり、いやいやわかんないです、向き合ってないです、向き合わない。こういう態度をとっています。 明文の中にはその時撮った問題になった写真っていうのは今後展示しませんっていうことを触れてありま す。 あとの飛田新地のフィールドワークは今回説明は外します。 今も記録は残ってますのでよかったら「人権スコラ飛田 フィールドワーク」とか見てもらえると良いんで すけど。
あ、でも一個だけ。
(画面共有 人権スコラのサイト「飛田新地をなぜフィールドワークするのか」)
これが飛田のセックスワークタウンをフィールドワークした時の問題になったあとその後に人権スコラって いうところのフィールドワークを企画した上杉さんっていうお方が書いた声明ですが、フィールドワークっ ていうのをこんなふうに自分はしてきたんだと、飛田とか部落のフィールドワークをよくされてきた方で す。
自分はそんな傷つけるために人権侵害をしたり物見遊山でしてるわけではない、だからきちんと少人数のグ ループ分けもしているし、歩く時には気をつけることとかもきちんと指導してきたと。 なので今まで問題も生じたことはほとんどない、というようなことを書いていらっしゃいます。 その上でそうした講義があったこととかその場に講義しに行ったことについて伝え方が足りなかったことに 関しては謝罪してるんですけども、その書いてる中ですごく面白いというか、「あ、なるほどな」と思った のは、飛田っていうのは公道なんです、道があるっていっても、公の道なので、本来別に誰が歩いてもいい んですけども、子供とかその辺に住んでる人は普通に歩いてたりもします。ただそういうわざわざ物見遊山 で見にいくというか、フィールドワークとはいえそういうのはどうかなっていうすごく慎重にデリケートな 話だよっていうことなんですけど、そういうこともこの先生はわかっていらっしゃるんですけど、その中で よくあるのはお客さんはほとんどは男性なので男性が歩く街なんです。だからあんまり女性が興味本位で歩 いてる感じだったりすると昔はよく水をかけられたとか塩を撒かれたとかも言います。 それでそういう人が本当にいたと、過去に参加者の中には塩を撒かれたんだっていう人がいたと。 で、そういう人たちもきちんと指導してきた、そしてみんなの問題意識のためにもフィールドワーク、現地 に行って足を運んで歩く、目で実際に見るってことは大事なんだよ、大事だからやってるんだ、止めるつも りはないっていうことを書いてるんですけど。
そのことを書いてる文章ですごい…いいというか皮肉でいいんですけど「学生たちにとって釡ヶ崎と飛田の フィールドワークは衝撃的でした。釡ヶ崎で炊き出しの姿などを見ると部落解放研究会の男子学生は部落と の落差に泣き出すものもいました。飛田でもわたしたちとは別世界に生活している女性たちは知らなかった と女性たちは悔やんでいました。」って書いてあります。別世界なんだということも思いましたし、この別 世界で生きてる女性たちを知らなかったと女子学生たちは悔やんでいたという、こういうフィールドワーク の意義の話として書かれているところっていうのが私はちょっとズレてるんじゃないかなと思うんですけど も。
そしてそのフィールドワークに関してもそういう講義があったこととかに対してフィールドワークっていう のはこんだけ意義があるんだよっていうのをいうためにいろんなことを書いて…「引率者っていうのは歴史 や社会学からの情報を解説し資料を渡して、また地元からの証言なども加え認識と情報を新たなものへと融 合させる作業であること、その結果学習者として現場の理解をさらに膨らませ、時にはその理解とイメージ を一変させる効果を持つ高度に教育的な作業であることに気づいてきました。」 なんか、すごいちょっとね、これがどうだっていうのを私が今説明するのは控えておきますが、どうでしょ うか、何か感じることがあればと思って今の2点を紹介しました。 で、今もされていますフイールドワーク。まぁでも今どんなふうに、飛田をしているかは把握していないん ですけれども、こういう問題があったということです。 (スライドに戻る)
31:00~ @KCUAで起きたこと 当日
げいまきまき: @KCUAのこと、多くの皆さんは今回のイベントで紹介されていたサイトとかご覧になられているかと思うん ですけども、見ていない方のために簡単にご案内いたしますと
(don’t exploit my anger! @kcuaで起きたこと 私の怒りを盗むなのサイトを共有)
これは@KCUAのことが起こった後にブブさんやったりいろんな有志の人たちと作った私の怒りを盗むなっ ていうタンブラーの記事です。これで経緯が@kcuaで起きたことっていうのが書いてあります。 もちろんこれは私からの視点で書いたことです。で、聞き取りをしていただいたとしても私からの視点のみ なのですが、ここに色々書いてあって、経緯が書いてあります。
つまり先ほども冒頭に解説があったように「88の提案の実現にむけて」展覧会の中でのワークショップの 中でデリバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶっていう項目があったと。それは実現可能なもの不可能なも のかも含めて実際にするしないっていうことはまた別であるもの、っていうことです。そういった説明など があったりして、私は、そうした展示があったことを知らなかったんです。で、ワークショップがあったっ ていうのも知りませんでしたし、確か日曜だったんかな、知人から電話があって「まきちゃん今から@KCUA に来れない?今ちょっと展示のワークショップでデリヘル、風俗嬢を呼ぶみたいなんがあるんだけれども。 それでちょっとまきちゃんに話聞きたいみたいやねん」っていうのを聞きました。
で、私その時ほんと偶然@KCUAからそんなに遠いところにいなかったところもあって、先ほども見てもらっ たようにセックスワークをめぐる表現についての問題っていうのもちょこちょこあったり、そうした大問題 にまではいかなくても、日々失礼の種みたいなものはいっぱい受け取っていたので、これはちょっとなんか 良からぬ感じがするな、なんかちょっといっといた方がいいなって思って行ったんですね。 で、その電話してきた人っていうのは@KCUAの展覧会の関係者ではないんだけれども、学芸員さんともお知 り合いなので、ワークショップでそういう話が出ているっていうので、そういや私のことって思い出してく れはってそれで声がかかったっていう。だから仲介してくれたっていう感じですね。
で、@KCUAに行ったら、私全く知らなかったので風俗嬢を呼びたい、ギャラリーに呼びたいっていうのはど ういうことだろうって感じで行って、それはセックスワーカーにとってのリスクも大きいので考え直しても らいたいなぁっていうのもあって、セックスワーカーっていうのはなかなか自分がセックスワーカーであ るっていうことをバレたくないと思っている、150人のセックスワーカーに聞いたら2人しか自分の仕事 を他人に話してない、その他人っていうのも店の人っていうことだったっていう調査結果があるぐらい、み んな友人とか家族とかには言えないわけです。
なので私はこれで済むと思ったんです、この説明で。つまり@KCUA、公共に開かれたギャラリーの形で、無 料で、公共なので入ってこれる、撮影も自由にできる、その中にバレたくない人を呼ぶ、セックスワーカー だということで呼ぶっていうのはすごく問題でしょう、一回やめときましょっていうことで、じゃあ一旦ひ こかっていうことになると思ったらそっから表現の自由とか作家についての話とかになっていくわけです。 今思い返したら彼ら、@KCUAにワークショップとしている人たちはもうワークショップとして、知っててい るからそういうことを検討する?不可能なのはなぜなのか、そう検討するっていう体でいはったんでしょう けど、私は全くそういうつもりはなかったです。10分で済むって思って行ったので。 初めに説明もなかったし、そっから2時間とかずっとそういう話をしていく、ずっとラリーを返していくっ ていうことっていうのはすごく混乱しました。思い返してみるとすごく混乱してたし困惑してたし、どうい うことなのか把握がうまくいってなかったんだと思います。
そこで冷静にいろんな視野でこれはどういう、みたいな感じで話せる余裕は私にはありませんでした。 で、噛み合わなかったわけです話の内容っていうんも。帰る時も「はい、さようなら」って感じでバーって 帰って行って、すごくやっぱり疲れたのとショックを受けたのと、やっぱり噛み合わない、10分で済むって 思ってた話が2時間半、しかも表現の話だったりする、私だって表現、作品作ったりしてるのにな、いきな りすごく引き裂かれる感じになる、急に。 そういうところに行ったからすごく緊張感がとけて、もう感情がワーってなって夜寝る前にツイッターに ダーって書いて、寝て起きたらすごい炎上してたって感じです。
そっから怒りを盗むなのメンバーが色々ここにあるような感じで聞き取りをしてくれたり、話し合いを重ね てこうしたタンブラー記事を作ることになったわけです。なので当日あったことはこういう感じなんですけれども。
そこ(タンブラー記事)に書いてあることから当日どういう流れだったかっていって私が引っかかるなって いうのはやっぱり急に呼ばれたわけです。急に呼ばれた、説明もすごくワークショップこっちです~みたい な風俗嬢を呼びたいんでデリヘル呼ぶっていうような項目があったのでちょっと話していただければみたいな感じだったわけです。 私は初めせめてちょっとそういう細かい説明がいくらかはあるかと思ってたらそういうこともなく始まった んです。
今思い返すとあれから6年、私今仕事でそういう逆に人の仲介?イベントとかの仕事で研修とかそういうこ との仲介に入ったりしてゲストのお願いをしたりとかそういうこともしますけれども、そういうことを経て 思い返してみると、なんというか、すごく手続きが杜撰。 その杜撰さっていうのが足りなかったねどころじゃなくて、例えば議論とかをするのに丁々発止であまりお 互いのやり取りを事前にせずにどんとぶつけるみたいなことが意図としてあったとしても、まずその前提と なるこういう話でこういう経緯があってっていう説明はありますよね。そいいういうことも勿論なかったで すし、なんでこういう、例えばこういうのって、普通って言っちゃダメなんですけれども、例えば事務方、 作家なりキュレーターなり学芸員なりからこういう企画があります、こういうことです、これについて何か お話しいただけませんか?っていうのはメールとか電話とかでまずコンタクトがあってお話ししますよね。 そんでじゃあ当日っていうことがあります、どんと行きましょうみたいなこととか、でもそういうこともな かったですし、なんというかそういう生な感じを良かったと思われたのかもしれないですけど、なんでそれ がそういう、急に呼ばなきゃ説明してくれる人に辿り着けないってなった時点で、これはちょっと仕切り直 しましょうかって、人に話してもらうっていうことにして仕切り直しましょうかっていうことにならなかっ たんだろうかっていうのを、この6年私もいろんな仕事でいろんなことをしながら学んで思い返すと、そう 思いました。ここがちょっと足りなかったんじゃないかなって、手続き、ですね。
で、次、ワークショップの間であったことなんですけれども、例えばビデオ撮影とかが自由で、しかも「デ リバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶ 実施中」って張り紙が示されてる中で撮影が自由ですよって、 で、最初の方に、座るぐらいまでの間になんかデリヘルをここに呼ぶって何か問題があるんですか?だめな んですか?って笑いながら質問をされて、なんか大分温度差があるというか、その温度差というか、今でも ちょっとウッってなるんですけど、その議論になっている中で、おそらく私がそのデリヘルサービスを会場 に呼ぶってことを示してる中で私が今いて喋ってるっていうことに指摘した時だと思うんですけど、「じゃ あなんでデリヘルを呼ぶっていう項目を消してって自分から言わなかったんですか?」とかなんかこう、対 話ではなく粗を見ようとする感じの参加者もいたり、その後最後ですよね、会場に来る交通費も急だったの でなく、その後どうしますってことも勿論言われず、2時間ほど喋った中で喉を潤すものも自腹で買い 、まぁ、あのいいんですというかよくないですよ、普段ならこういう話っていうのは私は事前に依頼を受け てきちんとギャラも提示された上で交渉っていうのが始まりますがそういうものもありませんでした。 つまり対話をする環境、人を招いて対話の席に座らせるっていう環境の安全とか安心は用意されてませんで した。このことも今思い返して、そりゃ辛いというか追い込まれる感じになるよねっていうのは思います。 こうしたことが思い返して見えてきた具体的な問題点ですね。 私はこれを見てやっとこれからってとこなんですけれども、ここで一旦共有を停止します。
46:25~ @kcuaで起きたこと その後の6年間
げいまきまき: すいません長くなりまして、今回実は思い返すために色々本を読み返したりさっき紹介したサイトを見返し たり、正直すごくしんどかったです。あの、なんというか、あれから6年経って、しかもそれはどういうこ とだっていうのを当時その流れできちんと整理はされなかったわけですよね。 個人の誰かのなんかのせいだっていうのではなく、システムなり流れの中であった問題点なりっていうのは 大きな枠で整理されなかったっていうのは、私にとってはすごくなんというか蓋をされたような感じでし た。
その炎上の中でいろんな人がいましたけど、割と、なんというか、私が騒いだだけだみたいなことも言われ ましたし、表現のことをわかっていないということも言われました。 そういう中で私がやっぱり間違っていたんかなとか、動揺してるから視野が狭くなってて見え方が、そうい う経緯もありますよねさっきも言ったセックスワークと表現の間で起こっていた問題も、私の中で蓄積され てるからそれで視野が狭くなって、あの、嘘だったんじゃないかって自分を、この6年間やっぱり、いつも じゃないですよ、いつもじゃないですけど私が間違ってたんじゃないか、嘘だったんじゃないかっていうこ とを思って、それは私が間違ったことが怖いんじゃなくてこのことで本当にいろんな人が、他の人たちもこ うやって学生さんとか怒りを盗むなで書いてくださったみんなとかも動揺したわけじゃないですか。 そういうことをしてしまったんだろうかっていうのをすごく思い返しました。だから二重に追い詰められま した。この6年の間にアート分野の中でもセクハラ問題とかがちょっとずつ問題が出やすくなってきたこと とかもありますけども、そういう問題があるたんびに、普通の男と女の話だったら恋愛の話だったらみんな 問題ってわかるんだね、どうこうしようって大きく問題だってわかるんだねって、そりゃわけわからんよ なって、セックスワーカーでしかもものまでつくって、お前誰やねんってなるやんって。 そんなお前誰やねんの人がなんか言ってたって、なんか、あんまり、わかんないのかなって思ったりもしま した。
だからそういう問題が起こるたんびに斜で見ちゃってたんです。その斜で見る自分にもう一回自分が殴り飛 ばされるような感じ、平手打ちされるような感じですよね。すっごく醜い、嫌なことだからそれも、そうい う大変な、本当に、ハラスメントっていうのもどんだけ辛いことかっていうのもわかってますし、わかるっ ていうか想像できますし、そのことをそういう風に斜に見ちゃう自分のフィルターっていうのにもう一度自分が抉られる感じがあったりしました。
なので今回このような座談会というか企画していただいて、磯部先生は2、3年前あのあいちトリエンナー レのね、京都文化庁の前で抗議したときに初めてお会いして、そのときに声をかけてくださって、@KCUAの ことはいつか取り上げられたらいいなっておっしゃってくださって、そっから本当にこのようにしかも当時 の学生の人、そのときすぐにね、話聞きにきてくれて、本当になんていうか、ちょっと困っている感じって いうのが若さで、若いとかあんまりゆっちゃだめなんですよね最近は、あの、私からしたらですけど、思わ せちゃったなっていうこともあったので、それがこういうふうに紡いでくださって、次のために考えるって いうことの時間を持って、次今からみんなで話しますけど、すごい希望で、ものすごいおっきな、なんとい うか、いい感じのこう、バァンっていうこの、視点がこうバァってこう、磯部先生なんかはよくあると思い ますよプラネタリウムみたいな感じですよね、ああいう空みたいな感じかなと思って、本当にありがとうご ざいますって思っています。 すいませんつたない発表に、気持ちがひきづられちゃって、つたない発表になっちゃいました。 ご清聴ありがとうございます。
後半(座談会部分)
52:40~ 座談会メンバーの自己紹介
駒井(ファシリテータ): げいまきまきさんお話しありがとうございました。 当時の表現をめぐる状況であったりとか、げいまきまきさんの立場がよくわかりました。 ここからの座談会を進める上でも参考にできるのではないかと思います。本当にありがとうございます。 … ではここから座談会に移っていきたいと思います。 まず座談会メンバー皆さんの自己紹介をお願いします。 お名前と所属されている、もしくは卒業された大学、と芸術に携わってらっしゃる方はどんな作品を作って いるかもお聞かせ願えればと思います。 学術に携わっている方はどんな研究をされているかもひと言お願いできると幸いです。 では松岡さんからお願いいたします。
松岡: はい、聞こえますでしょうか。 じゃあ自己紹介させていただきます。 2016年の@kcuaの出来事があったとこにちょうど京芸の大学院修士の一回生でした。 武蔵美ってわかりますかね、武蔵野美術大学ってところの学部を出てから京都市立芸術大学の壁画専攻、油 画の壁画ってところにいたんですけど、っていう感じです。 修了してから今はフラフラして京大の非常勤の職員として働いています。
駒井: ありがとうございます。 では次に濱口さんお願いいたします。
濱口: 濱口芽です。松岡さん、先ほど自己紹介された方と同じで2016年当時京都市立芸術大学の大学院1回生で、 先ほど少しげいまきまきさんが触れられて担ですが、当時この件が起こったときにお話を聞かせてください と直接言った卒業生のうちの一人になります。 現在は卒業して京都を出て今は岩手県にいますが、もともと油画の出身で、包帯でものを巻いて全体のフォ ルムを変えてみたりとかテープで絵を描いてみたりとか、あんま油画っぽくはなかったんですけどそんな作 品を作ったりしてました。以上です。
駒井: ありがとうございます。 次に河原さんお願いいたします。
河原: はい。河原です。 私は@KCUAの件が起きた時、当時京芸の学部の一回生でそのときに松岡さんと濱口さんが社会問題とかい ろんなことを話し合う会をされてたのでそれに行って、お二人と出会えて、週に1回とかぐらいで放課後に 話してた中で@KCUAのことが起こって、他にもいろんな方がいたので四人ほどでげいまきまきさんやブブさ んたちとお会いできたという経緯です。 今は京芸の院を卒業してまして、構想設計出身だったんですけども、切り絵アニメーションで映画を作った り、映像のお仕事をしたり今はそんな感じで過ごしています。 以上です。
駒井: ありがとうございます。 次に北村さんお願いします。
北村: 京都市立芸術大学、現役の3回生の北村花です。 今回の件に関しては入学以前の問題だったのでSNS上の炎上の流れであったりとか、ぼんやりとした概要し か知らない状態だったんですけど、今回参加している座談会メンバーの峰松さんと一緒に炉辺談話ノライロ リという社会問題を考えるオンライン交流会をしてまして、そうしたご縁もあって磯部先生が6年前に起き たことについて考える座談会を開催されるっていうことで参加させていただきました。 今は油画専攻で作品としては切り絵を元にしたドローイングをまたペインティングに変換するっていうのを やっています。今回はよろしくお願いします。
駒井: ありがとうございます。 次に峰松さんよろしくお願いします。
峰松: 京芸油画専攻3回の峰松と申します。 作品は油画なんですけど、他者と自分の身体との関わりについてをインスタレーション的に展開して制作を しています。 先ほど北村さんもおっしゃられてたんですけど、ZOOM上で話し合う、交流する場の炉辺談話ノライロリと いう社会問題とかについて話し合う場を企画しています。 今回の件は私も2019年に入学したので6年前は入学してなかったんですけれども、入学した年の一番最初の 前期の授業でこの事件のことは取り上げられていて、そこから一応知ってはいたもののインターネット上の 動きとかはまだ知らなかった状態で、今回座談会メンバーの皆さんに教えていただきながらこの事件につい て追っているという感じです。よろしくお願いします。
土田: 続きまして京大側の方のご紹介をさせていただきます。 まず最初に竹田さん、お願いいたします。
竹田: みなさん初めまして、こんばんは。竹田と言います。 今は京都大学の博士後期課程に在籍していまして、普段は日本と朝鮮半島にまたがっている家族のつながり について研究をしています。専門分野は文化人類学になります。 今回この座談会に参加させていただいた背景としましては、日頃植民地の朝鮮半島にルーツを持っている 方々にお話を伺いということをしているんですけれども、そういった他者に話していただく、他者が語るこ とをどういうふうに聞き取ってまたそれを咀嚼していくのか、そういたことを普段行ってるという立場から 今回参加させていただくということになりました。 よろしくお願いいたします。
土田: ありがとうございます。よろしくお願いいたします。 続きまして渡辺さん、お願いいたします。
渡辺: 初めまして、京都大学大学院総合総合生存学館博士後期課程2年の渡辺彩加と申します。 私は修士の頃は研究でミャンマーに訪れて国内避難民、紛争地から逃げてきている子供たちと一緒に生活を して聞き取りをするといった調査を行っていました。 現在はミャンマーがクーデターによって調査に行けない状態なので、タイに避難しているミャンマー出身の 難民の方の教育に関する研究をしております。 私も竹田さんと同じく今日の座談会に参加させていただいた背景として、インタビューを主とする研究手法 で研究を行なってますのでその観点からお話ししてほしいということを言われました。 恥ずかしながらこの件に関しては磯部先生にお声がけいただくまで全く存じ上げてなくてこの2ヶ月で勉強 させていただいたという形です。 どうぞよろしくお願いいたします。
土田: ありがとうございます。 遅れましてファシリテーター二人の方も自己紹介簡単にいたします。 まず最初に私の土田から始めます。皆様初めましてこんばんは。 京都大学大学院総合生存学館の博士課程の土田亮と申します。 私も先のお二人方竹田さん渡辺さんと同じように文化人類学だとかフィールドワークを元に研究しておりま す。具体的に言いますと災害、特に水災害洪水とか土砂災害ですね、そういった災害を被災している人に対 してどのような被害を受けたのか、その過程でどのような苦悩を抱いたのかってことに関して聞き取りをし ています。特に私はスリランカ、インドの南の島国ですね、でフィールドワークをしております。 磯部先生とは前の前任校の京都大学で色々お世話になって、そこで色々授業でお世話になりました。 そのつながりもあって芸術と科学ってことのコミュニティについて考えるってこともありましたので今回 ファシリテーターを仰せ浸かりました。今回、以降1時間皆さんと一緒に対話をしていきたいの思います。 よろしくおねがいいたします。 では続きまして駒井さん、よろしくお願いいたします。
駒井: 京都市立芸術大学美術学部デザイン科のPD専攻学部3年の駒井志帆と申します。 主な研究分野としては明確な分野はないんですけれども、人間が無意識に行う動作であったりとかそういう ものに関して興味を持っております。 特に研究分野と直接関わりを持って今回参加したというわけではないんですけれども、この問題に対して自 分の語彙力みたいなものがあんまりないなと感じておりまして、いろんな人がどういう考えを持っているの かとか、そういうものに興味があって今回ファシリテーターとして参加させていただいております。 土田さんと同じようにあと1時間ほど、よろしくお願いいたします。
1:04:22~ 表現の自由と倫理 座談会
土田: みなさんどうぞよろしくお願いいたします。 それではさっそくですけど、アイスブレイクほどではないですけれど是非今回ご登壇いただいてる参加メン バーの何人かにお伺いしたいなと思います。 というのは今回この座談会に参加されるにあたってどういった気持ちで受け止めているのか、あるいは先ほ どのげいまきまきさんの非常に繊細なというか、色々なお話がありました。そう言ったお話を聞いてどう いった気持ちを抱かれたということを率直にご感想なりを頂ければなと思います。 時間の都合上とかもありますので3人とか4人ぐらい何か話したいことがあるよってことがあれば挙手の上 でお話をお伺いしたいですが、いかがでしょうか。 (濱口さん 挙手) はい、では濱口さん、よろしくお願いいたします。
濱口: 先ほども紹介させていただきました。当時卒業生だった濱口です。 当時の学内の様子とかはあんまり今の在学生の方はちょっとわかりづらいかなと思って、サイトの方にも書 きましたが、そのことを主にお話しできたらなと思ってます。 当時のことを思い返して、大学内では主にツイッターで騒がれていて炎上してる感じだけど何が起こってい るか全くわからない状態で、ギャラリーで何か起きたらしい、なんかすごいワーっていってるっていう中で 先ほども上がった有志の方々が立ち上げてくださった私の怒りを盗むなのタンブラーが公開になってそれで 初めて経緯を把握して、だから大学からどうのっていうのがあったわけじゃなくて、大学内にいるけどネッ トからの情報を持ってくるだとか見るっていう感じでした。
で、直接、今京芸の卒業生の人とげいまきまきさんやブブドラマドレーヌさんにタンブラーの有志の方々に どういうことがあったのか、お話を聞ける機会をいただけたので直接聴きに当初は行ってきました。 この座談会に向けて色々ワークショップとかを、今ウェブ上にはないですけれど、上がっていたりとかする のでそれで見た時に、準備の中で調べている時に丹羽さんのワークショップがデリヘルを呼ぶっていうのが 目的じゃなくて呼ぶことを検討する、って文脈だったり、そもそもそのワークショップの前年にポーランド の作家の方達が行ったワークショップに丹羽さんたちが参加されていて、それを受け継いでいたものだって いうのを今回初めて流れを理解した感じではあります。
で、在学中は、自分は何もわからなくてとにかく全て混乱してるなってなったので、話を聞くっていうの も、どなたにしても聞くっていうようになるまで時間がかかるんだろうなってなったり、当時院1回生から 2回生になる時でその一年、M1からM2になって卒業してしまったので今回現役の学生の方が声をかけて話 を共有できるようになった、当時は自分達がワーって聴きに行ってこんなんだった、って外に広げることが できなかったので大学側と関わって話ができるようになったっていうのは一つ大きいことだなって思いま す。
で、その表現、今回の表題のことと絡めて話すと、自分の話をすると卒業後他に色々開催されている展覧会 を見たりとか自分の制作をしている中でも意図しない方向に表現が受け止められたりだとか、自分が想像外 だった見えない人を傷つけたりとかも結構あるんだなっていうことをようやく大学出てから思い始めて、そ の時に、問題が起こった時にどれだけ対話を重ねていけるか、すごいそれは時間がかかることで体力も使う ことだけどやっぱりそこの過程というのは絶対大事なんだなっていうことがひとつ。
と、6年経って今思い返してみて、何回かお話に出ていたセックスワークスタディーズを読んだ時にも自分 が見過ごしてきた問題だとかすごいハッとするようなこと、分かった気になっていたりだとか、レインボー プライドのパレードにいったりだとか、当時そういういろんな活動にちょいちょい見に行ったりだとか参加 したりだとかはしてたんですけど改めてハッとさせられることだったりとか社会の家父長制だったりとか そういうことの在り方が自然と無意識のうちに内面化されていて結構対等に見れてなかったんじゃないか なっていうのが今思い返して今回改めて考えたことで、作品についてもその先に見てくれる鑑賞者の人がい るっていうことは大学を出てから、特にその京都と比較して美術を受け止める前提っていう土壌が育ってい ないような地方、今岩手県にいますが、よりそういう「誰に」対象のことっていうのを考えるようになった なって思って、これはでも当時の@KCUAの件から表現の自由と倫理、今回のこの題材と全部結局地続きなこ とだったんだなってようやく少し時間と距離を置いて見えてきたことかなと思います。 ひとまず以上です。
土田: 濱口さんありがとうございます。 (渡辺さん 挙手) じゃあ渡辺さんよろしくお願いします。
渡辺: もうちょっと教えていただきたいんですけど、私は作品を作る人ではないのでちょっとよくわからなかった 部分があって、自分の制作をしている中でも意図しない方向に受け止められることがあるっていうお話はよ く分かったんですけど、それと今最後におっしゃられていた今回の件は地続きで考えていくべきことってい うのがちょっとよくわからなかったんですけど、 今回の件って誰かを幸せにしようと作品作ったようには私には見えていないので、濱口さんが何かを表現し ようと思って作ったことが見えない誰かを傷つけてしまったっていう結果論の話とはちょっと違うんじゃな いかなと思うんですけど、どう地続きで繋がっているのかがちょっとわからなかったので、もうちょっと深 くそこを教えていただけますか?
濱口: そうですね、両方とも自分の中では表現を見せてるっていう時点で見てくれてる他者だったりだとか、自分 の場合は学生時代ヌードモデルさんをドローイングしてそれを作品にするっていうこともあってその時はそ のヌードモデルさんがいて、それを発表するっていうことも当たり前の環境っていうか、ヌードモデルさん も大学に月に何回来ますよとかで、もちろん隠れた小部屋とかでやってましたけどそれってすごい普通に考 えてリスクがあることだし、改めてさらけ出してプライバシーを見せてくれる環境があったっていうのと、 在学時代、例えば地元に戻った時にヌードモデル、裸の人を地元の人に作品として見せたいのとか見せた時 にどう思うって言われたのが、そうかモチーフの話かどうだろうなって、その時はあぁ~ぐらいの感じだっ たんですけど、やっぱり戻ってきて実際同じ手法でやるときに確かにいきなり慣れてない場所に突然裸の女 の人の表現がいきなりパッとあった時にそれを見てくれた人たちの中で話題とかにはなるかもしれないけ ど、例えばそれのモデルになった人のことを自分はしっかり考えられてるのかだったりとか。
で、今回の表現の自由と倫理っていうのも、結局でもそういう裸の人をモチーフにして表現をするってこと 自体これは表現の自由かなって思うんですけど、それをじゃあどこまで本当に実際人に見せるとか、そのモ デルの人を例えば言い方はアレですけど使うだとか作品として自分が消費するってことに無意識のうちにし てたかも、する立場になっていたかもしれないなとか、そういうことをより考えるようになってその辺りが 自分の表現している人の先にはやっぱり見てくれている人だったり自分が関わって下さった人だったり、自 分が今まで見えてなかった人っていうのが自分の周りにはいたなっていうことで、そこで何か問題が起こっ た時とかにどうしていくかってなったときに、対話していく話していく、でもそれは違うよってなった時にもじゃあどの部分が間違ってたとかそういう議論、対話していくっていう のが一つのやり方として共通はしてるのかなと思って今の話でした。以上です。
渡辺: ありがとうございます、すごく良くわかりました。 ちなみになんですけれどももう一個ごめんなさい、裸の人を描く時は裸の人にはプロのモデルさんなんです かね、ちゃんと許可取って契約を結んで来てもらってその絵を描くというか表現をどこかに使う時にもその 人とわからないようにするっていう契約を結ぶんでしょうか。
濱口: どこまでの契約をしてるのかまでは分かってなくて、モデルさんを発見してくれる会社というか所属してい るところから来てくださったり、個人で来てくださったりっていうのが制度としてあって、予備校の時には ヌードモデルの人が所属しているところからだったりとか、大学の時も作品にして良いですっていうのが前 提としてあって半目隠しされたような部屋があるんですけど、そういった過程は確かに、どこまで書いてい いですかとか、作品にして良いですかどこまでわかるようにするかっていう話はなかったです。 描いていいもの、こういうふうに表現の一部として出していいものっていう前提が既に出来上がっててそう いうものなのかっていう風に思ってやってきてたかなって思います。
駒井: ありがとうございます。 河原さん挙手いただいてますね、お願いします。
河原: さっき濱口さんがおっしゃってたこと私もすごく似たようなことを感じてて、6年前は一回生だったので作 品スタイルをまだ持っていないような時期だったんですけど、6年経って自分が作品を作ってきてすごくい ろんな言葉が自分に返ってくるような感覚があって、私は社会問題を作品の中に取り入れて作ってきたんで すけど、大体多くの場合は自分が当事者ではなかったんですよね、そういった当事者じゃない時に対象にし ている人や出来事と向き合おうと思ったら、どうしても向き合いきれないというかわからないというか、が たくさんあって自分が当事者じゃない上で何を発するのかっていうのがものすごく難しく感じるというか、 下に降りていけなかかったんですよね、というか上だということにすごく感じてしまったというか自分が上 の場所にいるっていうのをすごく感じて、私の作品の中では水の底っていう場所が結構連続して出てきたん ですけど、水の底にいるような人、それは本人や出来事がそうしたくてそこにいるんじゃなくて、社会的な 背景によってそこにいざるを得ない人やものたち、そういう場所に自分が頑張って降りていこうと思ったけ どできなかったみたいな感覚がものすごくあって、それこそすごく上からっていうふうに感じちゃうってい うか、だし、私自身が動けない人間だなっていうことに気づいたし、そういうふうに6年経って葛藤してる んですけど。
6年経ってそういう風に思うようになってから@KCUAのことを振り返ると、なんかこう丹羽さんが例えば降 りていくというか、水の底をただ水面から見てるだけなんじゃないかとか、どうしても降りて行ききれない んですけど、どうしても立場が違うし生まれてきた人生も全然違うし、その人の隣に立つことっていうのが 本当に難しいことなんだけど、そういう風にしようとしたのかっていうことが結構今だに疑問に思ってると ころがあって、そこをなんとかしていこうとする態度が対話とか話し合い、時間をかけて過ごしていくって いうふうになるのかなって思うんですけど、@KCUAのことが起きた時点ではその態度っていうのはちょっと なかったんかなって思います。ただ、丹羽さんとげいまきまきさんはその後も何回か話し合いとかも重ねて いて、そういうこととかを聞いたりすると、なんだろうその、続けているなとは思うし、それはすごく言葉 で表現がしにくいんですけど、終わらなくてよかったなと思うし、ただそのよかったなって思うこと自体上 からに感じちゃうから申し訳なく感じるっていう、複雑に感じてます。
駒井: ありがとうございます。 個人的に河原さんの作品を拝見したことがあって、水の底っていうのは確かにそう表現されていてすごく納 得しました。 個人的な話なんですけど、ありがとうございます。 京芸の現役生の北村さん峰松さんで何か話したいなどある方いらっしゃいますでしょうか。
峰松: やっぱり大学っていう機関は一応研究機関として分類されると思うんですけど、芸術ってその普段の社会学 とかの研究機関であれば研究倫理に基づいた倫理査定というものがあると今回お聞きしてたんですけど、芸 術にはそれがないというか、まずその倫理というのを規定してしまうと、なんていったらいいんでしょう、 逆にできないこともあったりっていうか、あんまりそれを査定しすぎないほうがいいっていうのもあるんで すけど、このすごい言い方は悪いかもしれないねすけどやっぱり都合によっては研究機関だからっていうよ うに言ったり都合によっては芸術だからって言えたりするんですね。そこが問題やなぁというふうに思って るのがまず一つ。
今回の件に関して京芸に思うところなんですけど、それプラス今回の話し合いがある前に岸政彦さんの欲望と正義ていう本の抜粋から読んだんですけど、岸さ んは調査者に当たるんですけど、調査をする上でその土地に踏み込んでいってその声を集めてその代わりに 周りに発表することって、それ自体にすごく権力を持ってしまう構造になってしまってると思うんですね。 そう書かれてたんですけど、確かにすごく感じるなと思ってて、先ほど私は学内で話し合う場所みたいなの を、オンライン上で炉辺談話ノライロリというものをやってるって言ったんですけど、その時に毎回アーカ イブとして新聞を制作するんですね。そこで話された内容とか会話の抜粋とかチャットの抜粋を本人に許可 をとった上で一部匿名で公開させていただくっていう形でアーカイブを残してるんですけど、それでやっぱ りここをピックアップしてって選ぶのは私たちっていう風にあって、そのピックアップした内容で大体話し 合いがどんな内容やったのかのかがわかるという、すごくそれって結構権威的な他人の言葉を使ってその時 の話し合いの状況みたいなのを使うっていう構図にはなってしまうくて。
それが結構、新聞のことでは言ったんですけど芸術でも良くあるなぁって思ってて、今回の丹羽さんにのこ とに関してもそうなんですけど、芸術家ってすごくマイノリティであったりアウトローな存在として捉えら れがちではあるんですけど、声を集めたり表現するものって結構マイノリティではないっていうかマジョリ ティ側にいるのではないかなという風に、マジョリティ側というか権威を持った存在であるっていう認識が 芸大でもされるべきかなという風に個人的に思いました。以上です。
駒井: ありがとうございます。実際新聞を作られている峰松さんからのそういうお話は説得力があるなと思いなが ら聞いていました。 先ほど手を挙げられていたげいまきまきさん、お話しちょっと頂きますか?
げいまきまき: 私は対話とかすごい大事なことだとも思うんですけれども、なんというか多分モデルさんとか使ってだとな んかこう絵を描くとかだと色々関係性とかってプロジェクトとか、作品によって色々だと思うんですけど 例えばなんですけど「そのことについて対話しましょう」ていうより私は一緒にご飯を食べたり一緒に何か たわいもないことを話す中でその人を感じるということが対話の一つかなと思っています。 そういうのができたらいいなと思って私は@KCUAのことがあった後も丹羽さんなりいろんな人とコンタク トを取ってたんですけれども、難しいなっていうのが実際です。 対話したらうまくいくなんてことでもない、それは保証もされていない、そこを見つめたのは私の方なんや なっていう感じはすごいしましたけど、私はそういうもので手に取ったものは大きかったと思います。 ありがとうございます。
駒井: ありがとうございます。濱口さん、お願いします。
濱口: 今のげいまきまきさんのお話を聞いて、そういえば結構学校の時、学部にいる時にモデルさんのいはる部屋 に通ってて、一対一、も結構他の人がいなくて私とモデルさんで、でクロッキーなんで時間を決めて描い て、で休憩の時間もあるんですけどその時にそう言われたら確かにそういや他愛ない話とかそういや今日寒 いねみたいな話とか、その人自体も作品を作っておられる方やったんでどういう作品作ってたり未来な話と か、あとなんか当時は一回生や二回生の授業にヌードモデルさんを描くっていうのが授業としてあったん で、10何人いる中で2人モデルさんがいはるみたいな状況もあったんですけど、その時にモデルさんが結 構みんなの絵を見回ったりだとか、そういう時にちょっと見してみたいな感じで話したりだとか、とまた ちょっと話戻りますけど私が一人でモデルさんの部屋行った時とかでもだんだんなんか顔見知りになって、 そこに飴ちゃん置いてるから持ってってみたいな感じだったりとか、なんかこうそういうことが確かにあっ てモデルさんとどうっていうよりあの人とすごい仲良くなってたけど今どうしてはるやろなみたいなことと かを今会話してたこととかを思い出しました。 って思ってたことの話です。
土田: ありがとうございます。 どういうふうに他者を取り扱うかっていうところは非常に難しいポイントだなって思うところにこう共感し つつ悩ましいなぁという風に思います。 ここでちょっとあえて京大生の人も参加しておりますのでその点についてお伺いしたいんですけれども、特 にげいまきまきさんのお話の中でフィールドワークの意義というか難しさとか、他者を表象すること、ある いは他者の領域に踏み込むことに関する倫理観みたいな話もかなり出てきてそこも私たちにとっても非常に 悩ましいとこやなって思ったんですね、そういったフィールドワークの意義だとか、意義というかフィール ドワークをすることにはらむ難しさ歯痒さであったりとか、それを他者を理解する他者を表現するっていう ことについてどういう風に考えているのかっていうことに関して、例えば竹田さんの話、これまでの経験を 踏まえてちょっとお聞きしたいんですけどいかがでしょうか。お願いいたします。
竹田: 竹田です、よろしくお願いします。多分、どうやって説明したらいいですかね。 前提として私がアートに専門に携わっているわけではないということでお話ししておきます。 でその上ですけれども、先ほど倫理の話なども出てきたかなと思いますので、私自身がどういう風に考えて いるのかって観点からお話ししていければなと思っていうんですが、私が普段やっていることは、日本と韓 国と朝鮮民主主義人民共和国3つの場所で家族が分かれている人が日本に100万人ぐらいいるんですけど も、すごく簡単にいうと家族が朝鮮民主主義人民共和国、北朝鮮と呼ばれる場所にもいらっしゃる方にお話 を伺っています。で、社会では表章されないことを聞くわけですから、聞かれる相手にとっては非常にこう なんていうんでしょうか、特段それを社会に声を大にして話しているわけでもなければ話したくもないと 思っているからも多くいらっしゃるわけです。そういった方に話を伺う側に私はいるんですけども。
そもそも今回の京芸の話を最初に聞いた時にも少し考えたのは聞かれる相手がどういうふうに捉えられるの か、どういうふうに感じるのだろうか、そういった視点にまずそれが芸術に携わっていようと文章を書こう が相手に接する前提として必要だったんじゃないかな、ということです。 で、それは例えば予期せぬ形で空間を描くとか、人の暮らしを描くそういったことはあると思うんですけれ ども、一方で私自身が気をつけていることというのは自分がまずそれをされたらどうすると思うのか、とい うところと、それから、なんと言えばいいんでしょうか、他者に説明もなくそれを不特定多数の人の中で公 開される、それが例えば自分とすごい親しい人の一対一の関係もしくは知らない人を一対一でそれを伺わせ ていただくそういった姿勢があればいいと思うんですがそれを公の場にいきなりするという行為になった時 に多大な問題性が孕んでくるんじゃないかなって思っています。それは割と誰に対してもだと思います。
もう一つ先ほどどなたかがお話し上げてくださったと思うんですが、やはりそのなんていうんでしょうか、 自分が相手に語らせるという状態になってはいけないということを私自身は気をつけています。 でそれは大にして私の場合はですけれど語っていただく相手というのはそれを誰しもに言おうと思ってはい ない人に私は話を聞いているわけですけれども、その権力差というんですかね、語ってもらおうとしている 人がその話を聞く、描く、表章するのであればしっかりと相手の同意もしくは了承を得た上でそれを聞きと り、また私の場合はですけれどもそれを公開する場合はもう一回同意をとる必要があるのではないかなとい うところをちょっと思っている、ということです。 これをちょっと芸術の観点でいうとどういうふうになるのかっていうのは他の方に伺いたいなというふうに 思ってます。
最後に倫理の話は最後に出ました、大学にも倫理委員会というものがあります。 私自身はというよりもこれはどの研究でも倫理には関わる問題かなというふうに思いますけれども、倫理が あるからそれを守らなくてはいけないというわけではなくてですね、相手が不快もしくは非常に相手を蔑ろ にすることがないように倫理があるように認識しております。ですので相手を守るというんでしょうか、相 手が不快にならないためにそれを絶対守らなければならないですよっていうのが倫理であって誰かが倫理を 規定するものという認識では個人的にはないということをお話ししようかなと思いました。以上です。
土田: ありがとうございます。非常に学術側からして倫理っていうものをどういうふうに取り扱うかあるいはそれ をデータとか語りをどういうふうに調べた本人が取り扱うかというところが非常に鋭い指摘でした、ありが とうございます。 それでは渡辺さんの方からも何かご説明があればよろしくお願いいたします。
渡辺: 今竹田さんがおっしゃったことに私はすごく同意をしていて、倫理があるから表現の自由が奪われるってい うわけではないっていうのも私は強調したいです。 先ほど私のとったメモですけど倫理があるから制限されるようなお話しになってしまってたんですけど、そ うではなくて相手を守るためにあるものなので先ほど竹田さんがおっしゃったように事前にこういうことで すっていうっていう説明責任だったりこういう用途でインタビューさせていただきますっていう了承だった り、私たちの場合論文にしますが論文にしたときにこういうふうに書かせていただきました、個人名は伏せ てあります、みたいな説明をするためにあります。 でその文脈で考えると、先ほどのげいまきまきさんの話の中であった会場についても説明がなかったこと だったりとか手続きが杜撰だったことっていうのは、例えばですけどワークショップをやる前に倫理委員会 みたいなのがあって誰かがストッパーになってくれてたら防げた問題なんじゃないかなっていうのを少し思 いました。
自由を狭めるというのではなくて誰かにとって不快な思いをさせないっていうか被害を出させないために第 三者がチェックしてOKを出すというものなので、そういった構造は芸術の中ではあるのかないのか私には ちょっとわからないですけど、なんかそういうストッパーはなかったのかなっていうふうに思いました。 以上です。
駒井: ありがとうございます。 そうですね、第三者の目みたいなものは芸術の世界では往々にしてあったりなかったりするかなというの は、芸大の中にいる私からの直感的な印象ではあります。 それは今後も考えていきたいところではあるかなと思います。 北村さんとかお話し聞いてもいいでしょうか。
北村: さっきから倫理とかの話になってるんですけど、この問題に関してはいろいろな問題が内包されてるかなっ て感じはするんですけど、さっきげいまきまきさんがご紹介くださったタイのセックスワークの方をゲリラ 的に許可も取らずに言ったら通り魔みたいな感じで逃げ惑う様を撮ってあえてそれを作品にするっていうこ とと、直接的にギャラリー@kcuaの件もそれと一緒ってわけではないんですけど、やっぱりあえてタブーと されていることに切り込むみたいな、本来であったら事前にチェックをして相手に許可を取ってみたいな正 当な手続きが踏まれるはずのものをゲリラ的に突撃していくことで何かしらの意図があってそういうふうに しているんだろうなっていうのはちょっと思ったんですけど、ただそういうやり方っていうのがものすごく こう、タイの件はセックスワーカーの方々の人権をすごく侵害しているし、しているっていう自覚がそれほ どないっていうのと、でギャラリー@kcuaの件に関してはそもそもそれがダメなことだったと認識されてい たのか、そもそも芸術という名目であれば、そういうゲリラ的なあえて事前の打ち合わせもなく相手に許可 も取らずにやってみるっていうのが面白いっていうふうにアートとしての面白さっていうのが、相手に対す る思いやりとか最低限の倫理観っていうものを飛び越えてしまうのであればそれはすごく、そこがすごく アーティスト側のチグハグな倫理観っていうのがあるんじゃないかなって思ってて。
ちょっと話が外れるかもしれないんですけど、フィールドワークの話が出たじゃないですか、釡ヶ崎のこと とか色々取り上げられていて、でそのやっぱりこう、どうしてもそういうものって、河原さんがさっきおっ しゃってた水の底みたいな比喩にもなるかもしれないんですけど、対等でないっていう関係性がやっぱりま ずあって、その対等でない関係性を無視したままというか、降りてくるっていうのがなされないまま で、……、言葉によってはすごい、ものすごい失礼な言い方になってしまうかもしれないんですけど、やっ ぱり見て写真を撮って帰るとか、急に呼んで話してもらって帰る帰らせるというか、その行為そのものに対 する暴力性っていうか、それがそもそもダメだっていうことを権力者側にいるというかマジョリティ側にい るアーティストの人っていうのがちょっとやっぱり自覚が薄くなってるんじゃないかなっていうのをすごく 思ったんですけど、すごい失礼な言い方になってたら申し訳ないんですけど…っていうふうに思いました。 一旦以上になります。
駒井: ありがとうございます。 芸術としての面白さが相手への倫理観みたいなものを飛び越えるみたいなのはすごくいい表現だなと私は聞 いていて思いました。直感的にもわかりやすいと思いますし、飛び越えてはいけないものを軽くそこで自覚 なく飛び越えてしまうっていうのは気をつけていきたいというか、自覚的になっていきたいなと私も強く思 いました。 … 峰松さん、お願いします。
峰松: 先ほどげいまきまきさんがおっしゃってた対話っていうものの難しさ、難しさっていうか対話しても難しい 部分があるっていう話があった時に一緒にご飯を食べたりっていうことでわかるものっていうかそういう話 があったと思うんですけど、そういう対話という堅い、面と向かって何かを話すことよりもそういう濱口さ んもおっしゃってたように日常的なやりとりから生まれる信頼からきっとそういう対話というか関わりみた いなものって生まれてきてその上でこうこうこういうことをお願いしたいんですがとか、そういうやりとり があった上でオファー、なされるべきことだと思うんですけど、インタビューとかであったり調査であった りっていうのは。ただそれに頼りきってしまうと、普段話せないことが、なんか家族みたいな感じでこう、 普段話せないことが出てきたりとかそういうののために第三者が介入して仲はいいけど少し緊張感がある状 態で普段話せないことを話すという場がアーティストとかによって生み出されるべきなのではないのかなと 思っているんですけど、それがゲリラ的に起きてしまうと問題があると思ってて、 丹羽さんの文章を、アツミさんとかと藤田さん三人でやられていたイベントの文章を読んだ時にインタ ビューをするとインタビューされる側として答えてしまうからそれじゃ物足りないって話をしてて、それ以 外のものを引き出すために別の手法を取ったりするって話をされてて、そこの別の手法の時点でどういう手 法をとるのかがやっぱり倫理的な部分かなと思ってて、信頼関係がない状態で急にゲリラ的にやってしまう と、例えば今回の件であったらげいまきまきさんは(会場へ)行ったら急に知らない人がたくさんいて、っ ていう状態で話さなければならなかったっていう状態が生まれたことはそれは絶対あってはならないと思っ てて、そういう信頼に基づく関係からじゃないところから生まれる第三者の介入のあり方みたいなのを模索 するのも芸術の持つべき力なのではないかなって、今回話してる内容なんですけど、そうなんじゃないか なって思ってます。以上です。
駒井: ありがとうございます。 松岡さんとかちょっとお話しいただけないでしょうか。
松岡: 何から言ったらいいんだろうみたいな事ばっかりだと思うんですけど、とにかく北村さんがおっしゃってた みたいに問題だったこととか考えていかなきゃいけない要素っていうのがものすごく何段階にも何種類にも ある出来事だっていうのはみなさん思ってることだと思うんですね。 で、ただそこに対して自分自身がどう思うか、っていうことを考えると一番やっぱ在学生の時から思ってい たのはこの問題、この問題っていったらあれですけど、@kcuaの出来事っていうのが誰を蔑ろにしたり、何 を蔑ろにしたのかなって考えると、やっぱりどうしてもセックスワーカーの当事者である人たち、なんかす ごく蔑ろにしたんじゃないかなって思っていて、具体的にこうこうこういう部分がこうでしょっていうこと はもちろんいくつも言えることがあると思うんですけど、もちろんそれに対してそうじゃないでしょってい う意見だってあると思うんですけど、私の受け止めとしてはやっぱそういうふうに見えていて、 ただそこを考えつつもやっぱり自分が作り手だなっていう意識があるから、作っている側の考えっていうこ ともすごく色々考えてしまって、そっちの目線からどうしても話してしまうってのはあると思うんですけど。
ただどうしても表現の話に持っていってしまうこと自体が、ある意味セックスワーカーの当事者であり権 利っていうことを考えている人たちにとってはすごく暴力的なことなんじゃないかなっていうのはめっちゃ 思ってしまっていて、そこの慎重さとかそこの順番みたいなことは考えながら一つ一つやっていくべきこと かなと思いますね。その@kcuaの展覧会において何をやろうとしたかっていう話も聞いていかなきゃいけな いことだとは思うんですね。そこで色々活動された方に。た だその前にやっぱり一番これはおかしいでしょって指摘をしてくれた人たちの話を聞いてそこに関してまず 考えていくっていうのがまず順番としてそうだなっていうことはずっと思い続けてますかね。
1:57:02~ 座談会を終えて
土田: ありがとうございます。 僕自身も改めて皆さんのお話しを聞いてみて難しいことだらけっていうか、特に無意識のうちに何か他者を 傷つけてしまってるんじゃないかっていうことは、特に表現をするってことにおいてもあるいは学術の調査 ということにおいてもそれは両方に部分的には違うかもしれない、でも確かに共通するものであるのかなっ ていうふうには思って今の話を聞いておりました。 残りはそろそろなので、締めというわけではないんですけれども少しこれまでの話を踏まえて改めて座談会 のメンバーあるいは特にゲストスピーカーであったげいまきまきさんの方にお話を伺いしたいかなと思いま す。 まずげいまきまきさんにひとまず小一時間という短い時間ですけれどこのようなお話しの機会が得られたこ と、あるいはこういった現役生とか卒業生、京大生とかの立場を交えてお話ししたこととかを何か抱いた感 想とかお伺いしたいんですがいかがでしょうか。
げいまきまき: すいません鼻をかんでました(笑)ありがとうございます。 みなさんが正面から自分の延長線上に考えてくれてはる感じがすごいいいなぁって思って、こっからにつな げていけたら本当にいいし、そういうことっていうのは今そういう倫理っていうと難しそうだけれども私は 倫理を、さっきもおっしゃったように作品とか自由を制限するものではなくて、より違う視点を持てるため のものだと思っているので他人の目が入るってことでしょ?だかあらそれがすごくいいことだと思うんです けど、その上で自分が何を選ぶのかっていうことがすごい大事だと思うんです。 だからみなさんの、自分の中で一回どういうふうに考えたっていうこととかすごく私も勉強になるっていう とあれですけど、考えていきたいなと思ってますのでこれからもお願いしたいのと、 さっきの丹羽さんとかアツミさんが、アツミさんって、@KCUAの時もいた人なんですけど、インタビューし た答えしか返ってこないから面白くないって、なんで彼らは、何を降りてきた、何を…。 すみません、子供用のイヤホンにしたんですけどやっぱりちょっとでかい…。 なんか何を本当に…、何でそんなつまみ食いみたいな事ばっかりして。それでいられるんやろ。 私はあの後何回か丹羽さんに会ってちょっと話してそれこそご飯食べたりして、話して、ここでは丹羽さん がどういうふうに自分自身の話をどれくらいしてるかわからないので詳しくは言わないですけれども、ある 話を聞いてやっぱり全然伝わってなかったんだなっていうのを確信するようなこともありました。 なので自分の足場を動かせないフットワークっていうか、本当の意味でのフットワークとか感覚を動かせな い、視点を動かせないっていうのは私はやっぱりすごく、どうなんだろうなって思います。 すいませんうまく言えなかったんですけど、長くなっちゃった1分どころじゃないわ、すみません。
駒井: ありがとうございます。 最後に京都市立芸大側と京大側と、締めのコメントって言ったらちょっと俗っぽいですけど、一言ずつ頂け ればなと思います。 どなたかお願いしたいんですけど、お願いできますでしょうか? 松岡さんお願いできますか。
松岡: 本当は在学生の方に言ってもらった方がいいこともたくさんあるかなと思うんですけど、私は如何せん卒業 生なので。 ただやっぱりずっと思い続けてきたのは、大学としてこれまでずっとこの件に関してきちんとある意味検証 したりとかどういうところか問題だったんだろうとか、応答っていうものを多分きちんとしてこなかったっ ていうふうに思うんですね。少なくとも私にはそう見えてるんですけど。 だからそういう意味で今回6年経ってしまったけどこういう場所がたてたっていうことがまずやっとだなっ ていうところと、みなさん言及されてましたけどやっぱり大学っていうのはある意味権力を持っている場所 だし、自分もやっぱりそこにいたわけで、で、ある意味芸術ってものが持ってる権力みたいなものもあると 思うんですよね。良くも悪くも。 だからそういうものがある、そういう権力を持ってるところがやっていいことと悪いこととかなんかやって しまったことがあったんだったらそれに対してどう応答するかっていうのはちゃんとしなきゃいけないこと だと思うし、それをできない状態で自分が芸術って領域の人間ですっていうのを言っていきたくないってい うのは、私はあるので他にもそう思ってる方はたくさんいると思うので、そういう意味でどうにかそのまま の状態からは抜け出せるようにというきっかけになればいいかなって思いました。 すごい短かったですがありがとうございました。
土田: 松岡さんありがとうございます。 今回の会を踏まえて、通して考えることが非常にあったっていうようなコメントを寄せていただきありがと うございます。 改めて京大側の方にも聞いてみたいんんですけど、渡辺さんとかいかがでしょうか、お願いします。
渡辺: 全くこの件を知らないまま呼んでいただいて、事前に何度か勉強会をさせていただいたり、みなさんがどう 思っているのかご意見を聞かせていただいた中で、結構私にとってアートとか芸術ってすごい遠い世界の話 だったんです。 で、どんなに酷いことをしててもこれがアートだからって言われたら両手上げて降参せざるを得ないような 力もアートは持ってると思っていたんですけど、そうではないんだなっていうのも今回お話しさせていただ いてお話を伺って、私自身学ぶことができました。 さっきコメント欄もずっと見てて、研究もアートも援助も人を殺せるっていうふうに書いてあって本当にそ うだなと思います。
先ほどちょっとお話ししたんですけど、私が修士で訪ねていたのは紛争地から逃げてきた子供だったので、 どなたかが(チャットで)書かれていましたけれど論文になるということが理解できない子供だし、少数民 族なのでそもそも言語が話せなかったりいろんな問題を抱えていて、クーデターになってその子たちは徴兵 されてもうこの世にいないというか殺されてしまったり、誰かを殺してしまったりそういった状況にいる子 たちもいます。 なのでそれは私の研究がというわけではないんですけれどもも、いろんなことか重なって誰かを傷つけたり 殺してしまったりそういったことは絶対何処かで起こってると思うので、そういった意味でも一歩引いて見 る、マジョリティ側にいるという意識だけじゃなくて誰かを傷つけてる加害者側にもなってるっていう意識 は何においても必要かなというふうには思います。 この会、私は本当に部外者なのに呼んでいただいてありがとうございました。
駒井: 渡辺さんお話しありがとうございました。 ではそろそろ後ろ倒しにした時間も過ぎてしまい申し訳ありませんでしたが、予定時刻も終わりましたので 一旦中締めとさせていただきます。みなさんありがとうございました。 みなさんの思いを知って共有する貴重な機会になったのではないかと思います。 この後のことについてを土田さんからお願いします。
土田: まずはみなさんご参加いただきありがとうございました。 座談会のメンバーの皆さん、そして何よりげいまきまきさん本当にありがとうございます。 そして企画していただいた磯部先生やメンバーのみなさん、本当にありがとうございます。 そしてファシリテーターの駒井さんもありがとうございます。
ひとまず一旦ここで表現の自由と倫理について考える会をスケジュール通り終わらさせていただきます。 この後は一旦先ほど磯部先生から言ったように飲み会というか懇親会というか、非常にゆるっとした会に なっております。 多分いつまでに終わるっていうのは予定はしてないのですが、多分日付終わるちょっと前に終わるとは思い ます(笑) みなさんちょっと一旦休憩の時間を取ろうと思います。 お手洗いだとか飲み物だとか、夕方の時間でご飯をまだ食べてないという人もいらっしゃると思いますので 一旦10分ほど休憩の時間を取ろうかなと思います。 で今20:18ですので、20:30から懇親会、飲み会の方を再開しようかなと思いますので引き続きご参加され る方はこのまま画面オフあるいはマイクをミュートにして30分ごろにまた復帰していただければと思いま す。一応まだチャット欄の方もまだ動いてますので何かコメント残したい方は残してください。
で、これで退出されますって方はどうぞご自由に退出ください。ひとまず会の方はここで一旦中締めさせて いただきます。まずはみなさんありがとうございました、お疲れ様でした。
以下の文章は、本座談会の開催後に、企画メンバーがそれぞれの考えを記したものです。原稿の完成順に並んでいます。
濱口芽
ー座談会を終えてー
座談会を企画するまでの6年間、大学在学中に起こったこの出来事について、自分の中に残ってはいつつも、特に同期やそれより上の世代の方々との間で話題にすることはほぼありませんでした。(当時の状況については「企画者より」をご覧ください)
座談会当日には在校生・卒業生・教員等幅広い世代の参加があり、数年を経てこの件についてようやく人々と共有し、話をすることができました。
今まで意見を言う時に自分が何かを間違っていたら、場違いな事を言っていたらという不安があり、話し合いということに苦手意識がありました。一方座談会で議論が交わされる中で、自分自身の考えが深まったり、配慮の足りていなかった部分が見えました。
今回当事者・関係者から話を聞き、問題が周知され、そしてこれから必要なのは自分で学んでいくことです。大学は崇仁地区へ移転します。大学を出ると、より広範囲で人に接していきます。
表現活動でも日常生活でも、自身が自己と他者について比較し、考え、自分と異なる相手を理解する努力をすること。自分の内面化された差別的なものに気づいたり、指摘された際に自分の意識のアップデートをし、自分も指摘ができるようにしておくこと。
この座談会をきっかけに、自学をしていく際の助けとなるような、立ち話・オンライン・少人数・シンポジウム等、さまざまな形で知識や考えを共有できるような“場”を作っていけたらと思っています。
磯部洋明
ー座談会「表現の自由と倫理」を終えてー
2016年にギャラリーアクアで行われた「88の提案に向けて」で起きたことは、表現と社会の関係について多くのことを考えさせるできごとでした。今回の座談会でも、表現の自由と倫理の間の相克、キュレーターの役割、他者を調査・表象することの難しさ、自分の表現が他者を侵害してしまう可能性、公的機関である大学の責任など、様々なことが話し合われました。起きてしまったことへの批判と糾弾だけで終わるのではなく、そこから学び、考えるきっかけにしようという意識は、当日参加して下さった多くの方にも共有されていたと思います。現在、何人かの学生と卒業生がこの件に限らず広く表現と社会の問題について継続的に話し合う場を作っており、また何人かの教員で、一方的な講義だけではない形で表現と倫理や人権について考える授業を大学でできないか検討を始めています。
しかし、今回の座談会を通して私が改めて認識したことは、やはりあの時アクアで起きたことはダメなことだったと、そこをしっかり確認して言葉にしてからでないと、そのように前向きな方向には進めないということでした。
「デリバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶ」という「提案」があの形で公開されるべきではなかったし、そのことの危険性を会場でげいまきまきさんが指摘した時にすぐに撤回されるべきだったと思います。その理由はげいまきまきさんを始め多くの方が指摘されているように、それが誰かの生命や尊厳を脅かす可能性のあるものだったからです。文脈や意図がどうあれ、多くのセックスワーカーの方が置かれている差別的な構造を利用した行為であったと思います。当初から指摘されてきたことの繰り返しに過ぎませんが、そこをうやむやにしたまま何かもっともらしいことを語ることはすべきでないように思いました。
今回の企画メンバー間の話し合いでは、この問題は表現の問題である以前に差別と人権の問題だと思うという趣旨の発言が何度もありました。私もそう考えます。また、自らが表現に携わるものだと自認している学生・卒業生たちからそのような意見を聞けたことは心強く感じました。
以上を踏まえた上で、以下では座談会の前後で考えたことをいくつか書いています。様々な論点を網羅的に取り上げたものではなく、私個人の関心が反映されたものです。まとまった意見を表明するというよりは、今後の議論の材料として公開しておくものです。座談会前に色々調べている段階で作成したメモを起こしたものがある関係で「である」調にしています。
「88の提案」と「昼の家 夜の家」
「88の提案に向けて」(以下では「88の提案」)が単独のイベントではなく、「House of Day, House of Night 昼の家 夜の家」(以下では「昼の家 夜の家」)という一連のプログラムの一部だったこと、その中に問題となった「デリバリーヘルスのサービスを呼ぶ」という「提案」がなされる背景があったことは、これまでこの件について論じられる際にあまり触れられていない。このサイトの「背景の整理」にも書かれているように、「昼の家 夜の家」は京都市立芸術大学が文化庁から受託した新進芸術家育成事業の一環として行われたものである。ポーランドより美術作家のパヴェウ・アルトハメル氏とアルトゥル・ジミェフスキ氏が講師に迎えられ、公募選出の「育成対象者」であるアーティストが約10名参加していた。丹羽良徳氏による「88の提案」は参加していた育成対象者の成果発表展としての位置付けで行われた一連のイベントの一つである。なお講師のアルトハメル氏とジミェフスキ氏を招いたワークショップは2015年の7月に約10日かけて行われており、「88の提案」が行われた2016年1月の時点では両氏は日本にはいなかった。
ワークショップの報告書には、「88の提案」については以下のような説明がある。
1 月最終週の30日土曜日には,丹羽良徳のワークショップ「88 の提案の実現に向けて」が行われた。丹羽が会場に掲示した《88 の提案》では,2015 年夏のワークショップ「昼の家,夜の家」を受けて,そこで実際に行われたこと,そこで見聞きしたこと,連想されたことなどが88 個の短い文章で示されており,それらを読むことで,ある程度は観客もワークショップを追体験できるようにとの意図もあったらしい—中略—2015 年夏に実施したワークショップが「制限のない」コミュニケーションであり,ただし互いの提案を尊重しあい,いたずらに尊厳は傷つけない,という確認を最初に相互に行った上で実施されたのと似て,丹羽の88 の提案には,実現が容易なものも,そのままでは到底実現し得ないものも含まれていたが,あらかじめの前提として各自の尊厳は尊重し,人権を侵害しないことを確認した。30日に実施したワークショップでは,88の提案の中からレベルの異なる4項目,すなわちそのままで実現できそうなもの,少し解釈を加えることが必要となりそうなもの,更にそのままでは実現が非常に困難か,公共空間では実施不可能な項目も選ばれ,その「諸条件を検討」することが目指された。提案というアクションを丹羽が行い,それに対するリアクションが求められるような場ともなった[1]。
座談会の参加者からは、「昼の家 夜の家」における、ポーランドからの講師2名が行ったワークショップのあり方にそもそも問題があったのではないか、という意見があった。報告書によれば、このワークショップでは、「互いの提案を尊重しあい、いたずらに尊厳は傷つけない、という確認を最初に相互に行った」という上で「制限のない」コミュニケーションが行われたとあるが[2]、一部にかなり異様な、暴力的とも取れるような場面もあったことも示唆されている[3]。「88の提案」においては、このリスクのある「制限のない」コミュニケーションのモードがそのまま公開の場に持ち込まれてしまった側面があるのではないか。
また、アルトハメル氏とジミェフスキ氏の過去のキュレーションした展示(「選択.pl」展)において、会場に性的サービスを行う労働者がゲストとして招かれたということがあり[4]、問題となった「デリバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶ」という項目が「88の提案」に含まれていたのは、このことも関係していたのだと思われる。報告書には「選択.pl」展の説明として、参加作家たちが思い思いのゲストを招くことができ、
例えば幼稚園児,ギムナジウムの生徒,ヤツェク・マルキェヴィチに雇われた付き添い斡旋所16の労働者たち,美容学校の女生徒たちなどが招かれた。特に幼稚園児たちは,ゲームのルールには無頓着に,全くの「破壊」をもたらし,参加者によってもまた破壊がもたらされた[4]
とある。これについて座談会の企画メンバーの一人から、「作家を脅かすような力を持たない人しか呼ばれてないのでは」という指摘があった。
限られた報告書の文章のみから「昼の家 夜の家」ワークショップ全体や「選択.pl」展そのものへの評価はできない。しかし「昼の家 夜の家」が新進芸術家の育成を意図して大学が行った事業であり、「88の提案」を行った丹羽良徳氏がその時点で既に高い評価を得て活動しているアーティストであったとはいえ、その事業に育成対象者として参加していたことは、大学の責任を考える上では重要な点ではないか。「昼の家 夜の家」に説明を受けた上で自分の意思で参加したメンバーに閉じたワークショップにおいて起きたことは許容の範囲内という考え方もあるが、報告書に書かれた内容を読んだだけでも、もしこの内容が大学における研究計画として倫理審査にかけられたとしたら、通らなかったのではないかという疑念がぬぐえない[5]。
関係者の対応
この件について最初に批判の声があがったのはツイッターで、まとまったものとしてはげいまきまき氏と有志の方々が立ち上げたサイト「わたしの怒りを盗むな」である。これがなければ、私を含む今回の座談会企画メンバーがこの件を知り、そこから何かを学ぶこともなかったはずで、げいまきまき氏と「わたしの怒りを盗むな」を立ち上げた有志の方々には改めて感謝をお伝えしたい。
その後、個人ブログや対談イベントなどでこの件について論じられたものをネット上で読むことができる。いくつかの学術書等でも触れられている他、大手メディアでは京都新聞が記事にしている。「関連文献・サイト」のページはこの件について触れている文献・サイト等を網羅的に集めることを意図しており、未掲載のものがあればご教示頂きたい。
何度も参照している報告書を除いて、京都市立芸術大学および当日いた大学関係者からこの件に関して公にされた応答はない。げいまきまき氏を除いた当日参加者からの発信としては、丹羽氏と当日参加されていたF.アツミ氏が登壇しているトークイベントで語られたものがある[6]。そこにはアツミ氏による以下の発言がある。
当日のイベントをビデオ撮影していた人として言っておいたほうがいいことは、ワークショップ当日の最初から最後まで、感覚的な面白さを理由にデリバリーヘルスに従事する当事者の人を呼ぼうとした人は誰もいなかったということなんです。
京都市立芸術大学の大学関係者から聞いたのですが、この見解は大学内で当日の録音・録画資料を検証したうえで共有されている認識でもあります。
私がこの件を調べ始めてから最初にこの文章を読んだ時点では、私はこのような認識は共有していなかった。これは氏の認識が誤っているという意味ではなく、そもそも私がこの「大学内の認識」を共有していなかったのは、京都市立芸大に着任したのがこの件の約2年後であることを考えれば不思議はない。だがこの件についての大学の見解を問う意見も見られる中で、大学が公式な応答を示していないが故に学外者である氏の発言のみが大学の立場を説明するものになってしまっているのは適切ではない[7]。これは大学の中の人間がこの件についての認識をきちんと示すべきだと私が考えた理由の一つである。
また、座談会の企画メンバーだった当時の在学生(河原、濱口、松岡)たちによれば、当時少なくとも学生たちは大学から何も知らされず、ネットで行き交う情報だけを見て不安や大学への不信感を抱いていたということだった。そのもやもやとした感じは、後日ネット上に残された情報のみを通じてこの件について知った学生たちからも聞かされている。このことは今回の座談会をまずは学生たちがこの件について思いを話しあえる場として企画した理由の一つである。
当時を知る教職員に話を聞く限り、当時大学としての声明の発表なども検討されたが、具体的な人権侵害に当たる行為がその場であったわけではないことなどなどから見送られたらしい。またその決定はアクアの運営委員会や大学執行部のレベルで行われて、教授会など幅広い構成員に周知され、議論がおこなわれたというわけではないようである。ただ当時の大学で何があったかについては、当時は在籍していなかった現教員という中途半端な立場の私が説明するのではなく、実際の関係者の言葉で説明されるべきだと考えている。
人間はやるときはやる存在なのか
ツイッターに関してはまとめがいくつかできているのである程度当時の様子を追いかけることができる[8]。それを見ると「88の提案」や大学に対する批判に加えて、アートとは時に人権侵害や社会規範の逸脱するものだと主張するアート業界の体質そのものへの批判も多く見られる。ただそれらの相当部分は、丹羽氏を擁護し「アーティストなんだから人権侵害くらいすることもある」といったツイートをしているアーティストの齋藤恵汰氏の言葉に反応して引き出されているように見える。「88の提案」そのものを積極的に擁護しているものはあまり見られない。
「アーティストなんだから人権侵害くらいすることもある」ほど挑発的ではないが、どこか重なる部分があるのが、京都新聞に掲載された哲学者の千葉雅也氏の意見である[9]。以下引用。
千葉は「法律や憲法が禁止していようと、人間は何事かをやるときにはやる存在だ」と、あえて「無責任」に言い切る。「そうした危険でもありうる人間の行動可能性に触れているのがアートである」と。他人に迷惑をかけない限りでの自由ではなく、極端な自由の存在を「理念的」に認めること。「アートは他人に迷惑をかけてよいのだ、と擁護するつもりはない。しかし、あらゆる迷惑行為をあらかじめ防止しようとすることは『総萎縮社会』というファシズムに転化しかねない」と警鐘を鳴らす。
この発言についてもツイッターで批判的な言及が見られる他、東京大学の影浦峡氏がResearchmapのブログで詳細な批判を書いている[10]。
私自身は、もしアートが人権侵害を肯定することがあるのであればそんなものは無くなってしまえばいいと思うし、千葉氏のこの意見にも共感はしない。そもそも「88の提案」であったことへの批判の多くは「あらゆる迷惑行為をあらかじめ防止しよう」と主張しているのではなく、むしろ『わたしの怒りを盗むな』で山田創平氏が書いているように、それは大学への介入を招き、「表現の自由を損ないかねない危うい実践」であったことも批判の対象になっている[11]。
共感はしないが千葉氏のこの意見を読んだ時に感じたのは、それが科学者にとっての「100%正しいということはない」という言明にどこか似ているということだった。科学に厳密な意味での完璧はない。たとえば光速度不変の原理のように、いくつもの実験的事実で検証された根本的な自然法則として通常ではその正しさを疑うことのない事実であっても、究極的にはそれが成り立たないケースがあるかもしれないという可能性に対してはオープンでなければならないと、科学者の多くは考えるだろう[12]。もちろんほとんどの科学者は普段そのような可能性を念頭に置いて研究しているわけではないが、それが起こりうるのかと問われたら、無いとはいえないと答えざるを得ない。千葉氏が、「何事かをやるときにはやる」という人間にとっての極端な自由の存在を「理念的」に認めると言うのはそれと似ていて、その意義を積極的に認めるというよりは、「そういう自由はあると言わざるを得ない」という種のものなのだろう。
だが、科学に100%正しいということはないという言明は、正しいとしても慎重に使うべき言葉である。光速度不変の原理が破られる可能性がゼロでないように、敵対的な宇宙人が地球に攻めてくる可能性も、原発が全ての電源を失う規模の津浪が起こる可能性も、極めて感染力と病原性の高い新たな感染症が流行する可能性も、どれもゼロではない。ゼロではないがその蓋然性は大きく異なるし、それが事実上無視できる可能性なのか、相当のリソースを割いて備えなくてはならない可能性なのかについて、科学者には社会との丁寧なコミュニケーションをする責任がある。実際にできているかどうかはともかくとして。
「88の提案」において、相対的に力を持つマジョリティの立場であるアーティストや大学が、セックスワーカーという立場の人に対して恐怖やリスクを与えてしまったこと、その背景に構造的な差別があったことを考えると、「そうした危険でもありうる人間の行動可能性に触れているのがアートである」「あらゆる迷惑行為をあらかじめ防止しようとすることは『総萎縮社会』というファシズムに転化しかねない」といった指摘は、相対的に守らなくてもいいものを守り、守るべきものを傷つける結果を生んでいるように思う。端的に言えば「そこで言うことちゃうやろ」という気がする。
ユダヤ人精神科医のヴィクトール・フランクルは、ナチスの強制収容所での体験を書いた「夜と霧」の中で、彼はそこで、同胞すら迫害する人々と、悲惨と絶望の中にあっても他者へのいたわりを忘れず祈りを捧げる人々を見いだし、「どんなに自由を奪われた状況でも、与えられた状況においてどう振る舞うかという人間の最後の自由は、決して奪うことはできない」と述べた[13]。もちろんフランクルが収容所で経験したようなことが二度と繰り返されてはならないが、人間が「何事かをやるときにはやる存在」であることを思い返すべき時があるとすれば、こういう時だと思う。
一方で、人間や芸術の潜在的な可能性について問われたら、「何事かをやるときにはやる」と答えざるを得ないと感じる人もいることも何となくはわかる[*2022.10.12注を追加]。前掲書で岸政彦氏が、ロマンチックな闘いというよりはどうしようもない現実というニュアンスで「実存のぶつかりあい」と書いた[14]のはそういうことなのだろう。
『社会の芸術/芸術という社会』における記述
北田・神野・竹田編『社会の芸術/芸術という社会』(以下『社会の芸術』)は芸術と社会の関係について多くの社会科学者や芸術関係者が執筆している学術書である[15]。以下は同書で「88の提案」が言及されている箇所とその論じられ方のメモ[16]。
明戸隆浩氏は「88の提案」そのものというよりは、ツイッター上で「アーティストなんだから人権侵害することもある」という発言があったことなどを取り上げて、その主張に対して批判を加えている(p102)。
既に言及した岸政彦氏も、WS当日の事実関係やそれに対する評価についてはほとんど言及はない。「この件に中立であると述べるつもりはない」「若干の違和感を感じている」などと批判的な見解を持っていることは示されているが、それ自体が論考の主題ではない。「私個人にとってもっとも興味深かったのは、この事件を招いた当事者の発言よりもむしろ、そのアーティストを取り巻く外野の人々が倫理や欲望について語るその語り方だった」とあるように、この件関する反応を通じて表に現れた、アート関係者が政治的なもの、倫理的なもの、学校的なものに対峙する時の態度とアート外のコミュニティとのズレのようなものについて論じている。その多くはアート関係者が真剣に考えるべき問題提起であると思う。「それが社会に言及する際に、その言及の仕方が驚くほど凡庸で稚拙になることがたまにある」という箇所などは、アート業界だけでなく理工系の学者についても当てはまる気がする。(p127-142)
清水晶子氏は本文中での言及はないが、『(「科学の視線」でもある)「知る視線」の主体ではなくそのたいしょうとして設定され表象されることが「人間」としての権利と尊厳との侵害と密接につながっている』という文脈の中で、註としてタイのセックスワーカーを無断撮影した作品と本WSを『「一方的に見る/知る」姿勢がその対象の権利と尊厳との実際の侵害につながったケース』として挙げている。(p151, p163)
編者でもある神野真吾氏は、本書の中で最も多くこの件に触れている。清水氏も言及した大橋仁氏によるタイのセックスワーカーの無断撮影の件と「88の提案」の類似は神野氏も言及している(p58,p64)。神野氏は「88の提案」について、「ショックが思考の契機を生む」といったこの種のアートが持つことが期待されるような可能性を感じさせないとし(p172)、また丹羽氏の他の作品についても「人に対する敬意も社会的価値もない」と厳しい批判を加えている。(p340-346)
本書の編者の北田氏は当初ツイッターでこの件についての論争に参加していたが、本書ではこの件について一切言及していない。ただし2018年に出版された社会学者による対談を集録した書籍(岸政彦・北田暁大・筒井淳也・稲葉振一郎『社会学はどこから来てどこへ行くのか』, 有斐閣)では、「デリヘルなんて、あれ八〇いくつの提案のうちのいくつかのひとつなんだって。見てみたら結構な数が「性の裏側」みたいな話。ほんっとに凡庸というかさ、つまんねえの。」などとかなり辛辣に評している。
2022.4.25
[1] Artist Workshop @KCUA House of Day, House of Night(昼の家、夜の家) 事業報告書, 京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA, 2016, p21-22
[2] 同報告書 p22
[3] 同報告書 p80, 81, 135
[4] 同報告書 p11
[5] 「88の提案」が大学における研究倫理という観点から問題があったということは山田創平氏が「わたしの怒りを盗むな」 https://dontexploitmyanger-blog.tumblr.com/ への寄稿で指摘している。一方岸政彦氏はアカデミアにおける倫理審査制度のような「ちゃんと『人権』が保証される『しくみ』」を作ることについては、「人権を保障することに反対なのではなく、それは単に煩雑で無意味な事務手続きを増やすだけだろうから」反対だと書いている(岸政彦「欲望と正義—山の両側からトンネルを掘る」 北田暁大・神野真吾・竹田恵子編『社会の芸術/芸術という社会』 フィルムアート社, 2016, p139)。 私も事前の倫理審査のような「制度」がアートに馴染むとは思わない。もちろんそれは倫理審査に通らないような内容でもアートならば許されるという意味ではない。
[6] 「芸術祭の公共圏 ―敵対と居心地の悪さは超えられるか?」(2017年 TALK EVENTドキュメント) http://www.nadiff.com/?p=15369 このサイトでは省略されている部分を含めた対談の書き起こしが電子書籍として出版されている。(丹羽良徳, 藤田直哉, 丸山美佳, F.アツミ『芸術祭の公共圏: 敵対と居心地の悪さは超えられるか?』2019, Art-Phil, Kindle)。なお丹羽氏とげいまきまき氏の対談イベントも2016年3月に東京一度行われているが、現時点では詳しい内容には公開されていない http://bookandbeer.com/event/20160305_88/
[7] F. アツミ氏はArt-Phil名でこの件についての論考を電子書籍として発表しており、その中で「88の提案」であったことについても当日参加者の立場から比較的詳細に書かれている。Art-Phil『フレーミングするパレルゴンのパルマコン: 丹羽良徳の〈88の提案〉を後に』 Kindle版, 2017
[8] https://togetter.com/li/932391 https://togetter.com/li/932439
[9] 京都新聞 「「デリヘルを呼ぶ」は芸術か 提案に賛否飛び交う」2016年5月4日
[10] https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/74995/3bb35e51d930680562b8a3ec1c619048
[11] https://dontexploitmyanger-blog.tumblr.com/post/139271998817/
[12] 実際、2011年にニュートリノと呼ばれる素粒子が光速を超えたとする実験結果が発表され、物理学界が大いに賑わったことがある。その後、やはり実験の方に誤差の原因があったとされ、今のところ光速度不変の原理が破られるケースは見つかっていない。それでもこの一件は、物理学者たちが、たとえ極めて懐疑的であったとしてもその実験結果が正しい可能性が存在することに対してはオープンだったことを示すものである。https://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v8/n12/超光速ニュートリノが突きつけた難問/36435
[13] ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 『夜と霧【新版】』 みすず書房, 2002
[14] 岸, 前掲書, p139
[15] 北田他編, 前掲書
[16] この件について京都市立芸術大学の関係者として、まず耳を傾けるべきなのは、当日現場におられたげいまきまき氏、そして氏を中心にまとめられた「わたしの怒りを盗むな」に書かれたことだろう。ここで『社会の芸術』での記述を特に抜き出しているのは、それが「わたしの怒りを盗むな」や参考文献に上げられた他のブログ等とも違って、「88の提案」の件を中心に書かれたものではなく、社会と芸術について広く論じられる中でこの件が繰り返し触れられていたためである。なお、この件を論じるにあたって誰の話を聞くべきかという点でいえば、私は加須屋教授を始めとして学内で関係していた人には聞き取りをしているが、まだ丹羽氏の話を直接聞くということはできていない。
*2022.10.12追記 この文章を書いた後、座談会当日に参加していた京芸大学院の卒業生から、「千葉雅也さんの『現代思想入門』を読んだら、彼がなぜ京都新聞の記事のようなコメントをしたのかわかった気がしました」というコメントをもらったので、同書を読み、その卒業生と同じような感想を持った。同書における「現代思想」とは著者の専門である「ポスト構造主義」と呼ばれるフランスを中心とした哲学を主として指し、その特徴を同書は『秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する』『排除される余計なものをクリエイティブなものとして肯定した』とし、逸脱にクリエイティブなものを見い出すことの例として『芸術家にはハチャメチャなところがある、みたいなイメージ』が挙げられている。(ただしこのように逸脱や「ハチャメチャな芸術家」をポジティブに捉える見方には、90年代から2000年代にかけて精神形成をしたことの影響がある、より若い世代には違和感があるかもしれない、ということも書かれている。千葉は1978年生まれとのことだが、私も1977年生まれなのでこの感覚はよく分かる。)そして、『秩序維持、安心・安全の確保が主な関心になって』、『さまざまな管理を強化していくことで、誰も傷つかず、安心・安全に暮らせるのが本当にユートピアなのかという疑いを持ってもらいたい』ということが書かれている。千葉も秩序維持や安心・安全が不要だと言っているわけではなく『秩序をつくる思想はそれはそれで必要』だが、『他方で、秩序から逃れる思想も必要だというダブルシステムで考えてもらいたい』としている。これが千葉にとって重要な問題意識であることを考えれば、アーティストや大学・ギャラリーへの批判が多く掲載されることは予想される新聞記事において、『擁護するつもりはない』と断りつつもあのようなコメントをすることは、共感はしないものの、理解できるとは思う。
松岡美里
座談会への関わりを通して
2022年2月22日、2016年のギャラリー@KCUAでの出来事をテーマにした座談会を開催しました。
私はこの座談会の最も基本的な目的は、過去のこうした出来事について、ある程度オープンに扱うことができると可視化することであったと考えています。これはキャンパスの移転という節目を、変化を重ねる社会状況といかに関係するかという問い直しの機会と捉え、大学が内的に抱える、もしくは抱えたまま置き去りになっている課題を目に見えるようにする必要があるのではないかという問題意識に基づくものでもあります。座談会の内容的な不足はもとより、このような動機で過去の出来事をテーマとすることへの是非も問われるものですが、少なくともこの企画がある種のきっかけとなるよう行動することが、現時点での私が可能な範囲の応答であると考えています。ですからここでは、座談会を通して私が認識したことと、今後の取り組みについて整理していきたいと思います。
今回のような場に限らず、個人や集団が抱える疑問・課題は形、言葉、あるいは行動として誰かに共有してはじめて客観的にその意味を理解できるという側面があります。こうしたことは友人に困りごとを相談したり、組織の課題を議論する場合など、規模や内容によって差はあれど多くの人々が生活の中で経験し身に付けている感覚であると思います。
私は座談会への参加を起点としてこのような疑問・課題の共有の必要性を再認識しましたが、同時にそこで関係する人々の間での信頼の担保が重要であるということもまた強く実感した点です。ここで想定する信頼とは互いに自らの権力に対して自覚的であることや、不本意であれ存在する力関係の歪みを必要に応じて指摘し修正を促すことのできる状態を指します。こうした理念は議論の場の前提としてアカデミックな環境や企業などで一般的なものですが、形骸化していることも少なくなく、個々人の継続的な意識がなければ成立しないものであると感じます。
今一度このことに重点を置いて言い換えるならば、議論や対話の手前にこそ注目し慎重にならなければならないということであり、信頼の担保はこうした問いかけの準備のひとつとして捉えることができます。互いの権力を自覚し多少の妥協のうえに成立する信頼関係は、人々が関わる時間のなかで時に親密な態度を伴いながら地道に形作られるといった性質があることも確かです。また「たまたま共通項があった」など偶発的な要素が大きな意味を持つこともしばしばで、ある問いかけを目的として人々が交流する場を設けたとしてもそこで必ず理想的な信頼関係が構築されるとは言えず、問いかけへの準備は単純な方法論によって進められるものではありません。しかしながら、時に偶然を含む機会の全体を底上げし人々の交流を促すことや、自らそうした場に加わっていくことは、問いかけや議論が必要な場合に備えるための基本的な取り組みとして無視することはできないように思います。
学問や芸術は社会や世界を把捉する術としての働きを持ち、これらを通して自分自身と異なる思想やそれを体現する人々と関わることは目の前を新たに見渡すような感覚をもたらします。こうした営みは多くの人々にとってある時には救いに、ある時には実用的な知恵として私たちに精神的・物質的豊かさを与えてくれるものですが、ここでもやはりそれを実践する個人あるいは集団の持つ権力やその勾配に注意を払う必要があることを記しておきたいと思います。私がこうして今書いている文章でさえ、語るべき内容のために私が選び、排除している観点があることを覚えておかなければなりません。
以上のことを念頭においたうえで、まずは自分自身と身近な人々の必要性に基づき、疑問や不安を可視化する場として一定の信頼が担保された問いかけが可能となる状態を形作っていきたいと考えています。具体的には現在座談会のメンバーとともに実践しているもの、それとは別に主催しているオンラインミーティングなどがそうした場として機能することを想定しており、これらは比較的流動的な環境において共通の疑問を分け持てるような集合となるように感じています。