-液体ヘリウムの表面上の真空に浮かぶ電子という不思議な現象
真空というのは、何も存在しない状態を意味します。ヘリウムという物質は、室温(私たちが普段生活している温度)では気体ですが、-269℃以下では液体になります。この温度で液体のままでいられるのは、ヘリウムくらいです。
-どうして電子は浮かぶの?
「電子が真空中に浮かんでいる」と聞くと不思議に感じるかもしれませんが、これには物理的な理由があります。図(a)に示すように、液体ヘリウムの上に真空が存在するような状況を作ることができ、その中で電子が浮いているのです。
液体ヘリウムは真空に比べて「誘電率」という値が高いです。誘電率が高いほど、電子にとって「より魅力的な場所」になります。つまり、電子は真空より液体ヘリウムに引き寄せられ、引力が働きます。液体ヘリウムに近づくほどこの引力は強くなります。
しかし、電子は液体ヘリウムの内部に入ることはできません。ヘリウムが持つ「閉殻構造」によって、電子が近づきすぎると「入ってくるな」という斥力を感じるためです。閉殻構造とは、原子の中で電子が座れる席がすでに満席になっている状態で、新しい電子を受け入れることができません。
液体ヘリウム表面付近で引力と斥力が釣り合う場所があります。この位置は、液体ヘリウムの表面から約10ナノメートル(1メートルの10億分の1の長さ)離れた真空中です。つまり、電子はこの位置で「浮いている」状態になります。
図(a) 液体ヘリウム表面の真空中で、引力と斥力が釣り合う位置に電子が浮かぶ。斥力はヘリウム原子の閉殻構造によって生じる。
図(b)電子の持つ「電荷」と「スピン」という性質。
-電子の持つ2つ性質
電子は「電荷」と「スピン」という2つの重要な性質を持ちます(図(b))。
電荷
電荷とは、物質が電気を持っているかどうかを示す性質です。電子はマイナスの電荷を持っていて、これはとても小さいけれど(電子が持つ電荷の量は「e-」と表し、素電荷とも呼ばれます)、電気回路などに影響を与えます。この電荷により、電子はお互いに反発し合う力(クーロン力)を持ち、また他の物質と電気的な引力や反発を経験します。
スピン
「スピン」とは、電子が回転しているような性質を持つことを指します(実際に回転しているわけではありませんが、そのように考えるとイメージしやすいのでスピンと呼ばれます)。電子には、上向きに回っている状態と下向きに回っている状態があり、この回転の向きは矢印で表されます(図(b))。さらに、スピンは小さな磁石のN極とS極のように振る舞い、上向きのスピンの電子はN極が上を向いているような状態で、下向きのスピンの電子はN極が下を向いている状態に似ています。スピンの向きによって、電子が磁場の中でどちらに引き寄せられるかが変わります。
-電子の量子的な状態
「量子的な」とは、私たちが日常的に目にする物理のルールとは違った不思議なルールに従うことを指します(日常的に目にする物理のルールに従うものは「古典的な」と形容されます)。電子が持つ「電荷」や「スピン」は、量子的な状態(量子状態)を持ち、古典的には説明できない不思議な振る舞いをします。
例えば、電子のスピンは上向きか下向きのどちらか一方に決まっているわけではなく、両方の状態が同時に存在する「重ね合わせ状態」にあることがあります。観測するまでは、電子は上向きでも下向きでもあるという奇妙な状態です。
さらに、電子は一度に複数の場所に存在する可能性があり、これも「重ね合わせ状態」と呼ばれます。古典的には電子は特定の場所に存在すると考えますが、量子的には電子の電荷も複数の場所で同時に電気的な影響を及ぼす「重ね合わせ状態」をとることがあります。
-量子状態と量子コンピュータ
量子コンピュータは、不思議な量子状態をうまく利用することで、古典的なコンピュータ(私たちが普段使っているコンピュータ)では宇宙の終わりまでかかっても解けないような複雑な問題を解ける可能性を持っています。しかし、量子コンピュータを実現するための大きな課題は、量子状態が非常に壊れやすいことです。
-液体ヘリウムの表面上の真空に浮かぶ電子と量子コンピュータ
どのような物質の量子状態を使って量子コンピュータを作るかは、現在さまざまな研究が行われています。量子状態が壊れる原因の一つは、物質が周囲の不純物などから干渉を受けることです。しかし、液体ヘリウム表面上の電子は真空中に浮かんでいるため、周囲の物質からの干渉を受けにくく、他の物質と比べて量子状態が壊れにくいという特長があります。
特に、電子のスピンの量子状態は壊れるまでの時間が非常に長く安定しています。しかし、スピンを利用すると計算速度が遅くなるという課題があります。一方、電荷の量子状態を使うと計算スピードは速くなりますが、量子状態はスピンに比べて早く壊れてしまいます。そのため、計算スピードを上げたいときには電荷の量子状態を使用し、量子状態を長く保ちたいときにはスピンの量子状態を使う、といった工夫が考えられています。