感謝(加藤武雄)
寡婦暮らしだったお常のもとに、アメリカへ行って死んだとばかり思っていた息子の与三郎から、突然の大金が送られてきた。与三郎はアメリカでよい稼ぎ口を見つけ、これから毎月、彼女に潤沢な仕送りをしてくれるのだという。あまりの歓びに舞い上がったお常は、息子の自慢話に連日明け暮れ、過去の記憶をねじ曲げて、遂には赤の他人にまでお門違いな感謝を捧げる……。
表題作『感謝』ほか、青自働車を溺愛するタクシー運転手の物語『青自働車』、低能児と癇癪持ちの教師との悲しい関係を描いた『嗚咽』、大石内蔵助に愛されながらも死を遂げた少女の物語『お輕の死』など、往年の大流行作家である加藤武雄の、豊かな才能の表れた初期短篇計七篇を収める。
≪収録作品≫
青自働車/嗚咽/感謝/黒髮/鷄/お輕の死/秋
煙草と惡魔(芥川龍之介)
日本に煙草をもたらしたのは、西洋からキリシタンと共に渡ってきた悪魔だった……そんな伝説がある。天文十八年、イルマンの一人に化けて日本に住みついた悪魔が畠で育て始めたのは、紫の花をつける、見たこともないような植物だった。通りかかった一人の牛商人がその植物の名を尋ねると、悪魔は笑いながら奇妙な賭けを提案する……。
表題作『煙草と惡魔』のほか、ユダヤの伝説を題材にした『さまよへる猶太人』、ドッペルゲンガーに苦しむ大学教授の独白『二つの手紙』、殿が持つ煙管を狙う坊主たちと忠臣との心理戦を描く『煙管』など、芥川龍之介の多彩な短篇計十一篇を収める。
≪収録作品≫
煙草と惡魔/或日の大石内藏之助/野呂松人形/さまよへる猶太人/ひよつとこ/二つの手紙/道祖問答/MENSURA ZOILI/父/煙管/片戀
父を賣る子(牧野信一)
自身の父を題材として当人の怒りを招いた『熱海へ』、更にその出来事をも題材とした『スプリングコート』及び『父を賣る子』、西洋人の少女に対し、必死に見栄を張ろうとする自身の姿を描いた『或る五月の朝の話』など、家族や自身の姿を容赦のない筆で生々しく描き出した、牧野信一の私小説計七篇を収める。
≪収録作品≫
熱海へ/スプリングコート/父を賣る子/渚/鞭撻/或る五月の朝の話/公園へ行く道
修道院の秋(南部修太郎)
北海道の当別岬で、海を臨む丘の上にある修道院を訪れた「私」は、冷たい彫像のような修道士たちの生活を目の当たりにする。そこは刺戟に満ちた都会からは遠く隔てられた世界であったが、「私」の心に浮かんだのは、実社会を離れたこの信仰生活が、果たして人間としての本当の生活であろうかという疑問だった……。
表題作『修道院の秋』のほか、生徒たちとどうしても対立してしまう教師を主題とした『猫又先生』、温厚な祖父に厳しい叱責を受けた少年時代の物語『遠足』、幼い妹の病死を描いた『黒焦げの人形』など、南部修太郎の優れた短篇小説計七篇を収める。
≪収録作品≫
修道院の秋/S中尉の話/猫又先生/遠足/蟀谷のきず跡/彼と毛蟲/黒焦げの人形
夢と六月(相馬泰三)
新聞記者の曾根四郎は、ある日、気が付くと警察署の中に寝かされていた。警官に話を聞くと、自分は泥酔して警察署のわきの川に落ち込んだのだという。元気なく普段の生活へと戻っていった曾根は、再び貧乏と孤独の中で、内向的な心を抱えて暮らし始める……。
表題作の一つ『六月』のほか、悪夢に悩まされる老人の物語『夢』、死期の近い孫を持つ老人を主題とした『ギプスの床』、都会から帰郷し、情けない生活を送る医師一家の次男を描いた出世作『田舍醫師の子』など、相馬泰三の短篇小説六篇を収める。
≪収録作品≫
地獄/鞭/夢/六月/ギプスの床/田舍醫師の子
涯なき路(岡田三郎)
四年前に軍隊生活を送っていた北国の町を、三週間の勤務演習に召集されて再び訪れた林。そこで再会した寺山大尉は、何やら以前とは違った、寂しい様子を見せていた。林はやがて、大尉が青年士官の杉田少尉に妻を寝取られているという噂を耳にする。そして或る日の夜、大尉が相談を持ち掛けるために林を呼び出した士官室へ、招かれざる杉田少尉が現れた……。
デビュー作『涯なき路』のほか、去勢された軍馬と人間の性慾の悲哀を主題とした『慘めな戲れ』、果ての見えない夜の行軍を舞台に軍馬との心の触れ合いを描写した『泥濘』、友人の発病とその最期を描いた『監獄附近』など、岡田三郎の短篇小説計五篇を収める。
≪収録作品≫
涯なき路/慘めな戲れ/泥濘/軍馬の死/監獄附近
手品師(久米正雄)
浅草で興行される連鎖劇を書く若き作者の悩みは、自分の思うままの創作ができないということだった。そんな中でも観客たちの感情を操ることへの面白さに、次第に生涯の目的を忘れるようにもなりつつあったが、そんな彼の前に或る日、座に雇われたいという一人の手品師が現れる。米国で修業したというその手腕は実に鮮やかなもので……。
表題作『手品師』のほか、御真影焼失の責任を取り自害した、実際の著者の父を描いた『父の死』、教員の良心により発生した悲劇を描いた『柿の木』、十銭銀貨を媒介として生れた芸妓と学生の恋物語『銀貨』など、往年の大流行作家である久米正雄の初期短篇計八篇を収める。
≪収録作品≫
父の死/母/競漕/山の湯/柿の木/流行火事/銀貨/手品師
二人の文學青年(新井紀一)
仲間と同人誌をやっている浅見健吉は、自らの携わったストライキ事件を一篇の小説にまとめようと悪戦苦闘していた。職工を辞めて文筆活動に専念する仲間の高木に、彼の執筆生活や作品は手厳しい批判を受ける。やがて健吉の勤めている工場で、労働時間の短縮に伴う賃金減少に抗議してのサボタージュ運動が勃発するが、創作の時間を取りたい彼は、それに参加する気にもなれずにいた……。
表題作『二人の文學青年』のほか、脱営願望を抱く新兵を描いた『山の誘惑』、労働運動を主謀したが故に就職先を見つけられない男の物語『失業者』、新兵の教育を行う軍曹を描く『怒れる高村軍曹』など、兵隊作家と呼ばれた新井紀一の、プロレタリア小説及び軍隊小説計四篇を収める。
≪収録作品≫
二人の文學青年/山の誘惑/失業者/怒れる高村軍曹
イボタの蟲(中戸川吉二)
或る朝に「私」は兄から、姉の容態が急変し、余命幾許もないであろうことを知らされる。母の頼みを聞き入れて「私」が買いに向ったのは、イモリを黒焼にした時代遅れの売薬、「イボタの虫」だった。効く筈もないと思いつつも黒焼屋へ向う「私」の心に、優しかった姉の思い出が去来する……。
表題作にして著者の代表作『イボタの蟲』のほか、北海道を旅する兄弟に起った珍事の話『兄弟とピストル泥棒』、インドへ旅立つ友との別れの一夜を描く『わかれ』、島への孤独な滞在中に出会った青年画家との出来事を描く『島で遇つた畫家』の、中戸川吉二の短篇小説計五篇を収める。
≪収録作品≫
イボタの蟲/金を受取る話/兄弟とピストル泥棒/わかれ/島で遇つた畫家