本 殿
神功皇后
(じんぐこうごう)
応神天皇
(おうじんてんのう)
比売大神
(ひめおおかみ)
相 殿
須佐之男命
(すさのおのみこと)
建御名方神
(たけみなかたのかみ)
高龗命
(たかおかみのみこと)
今から二千数百年の昔、第十四代仲哀天皇、神功皇后、熊襲征伐の砌この地に立ち寄られた。この地の縣主である熊鰐(わに)が真榊の枝に鏡・剣・瓊の三つの宝を掛けてお迎えした。この真榊は熊本山(現在の高炉台公園)で採られたものであったことから、以降「枝光(枝三)」と称される様になった。その後年移り、後鳥羽天皇の健久五年(現在より役800年の昔)下野国の宇都宮上野介重業(のちに麻生と改姓)が花尾城城主となり領内の守護神として宇都宮八幡大神を勧請して宮田山に崇祀、以来村民の崇敬篤く祭儀も盛大に行われていたが、時戦乱となり兵火のため社殿も焼失した。その後、寛永四年の秋、現在の地に社殿を再建された。明治に至り村社に定められ、大正7年(1918)には諏訪山の地にあった諏訪神社を合祀。同15年(1926)には県社に列した。現在の社殿は大正七年氏子各位の浄財の寄進により建立されたもので、平成六年御創建八百年祭を執行した。
中臣神社 (なかとみじんじゃ)
道祖神(さやのかみ)
市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)
御祭日
春季大祭 四月十七日 夏季大祭 六月十七日 秋季大祭 十月十七日
御由緒
今を去る二千数百年の昔、神功皇后三韓御征伐のみぎり、御船にて海路この地を(ロイヤルホテル跡地より 西北九百村の海岸の小島の浜と伝えられている) 舟行され、海路の安穏を祈り中臣である島賊津臣をして道祖神を鎮祭された。その後、官営製鉄所建設、第一期拡張工事用地となり市杵嶋姫神社を 合祀、明治四十年当八幡宮境内にお移しし、爾来五十年戦火ために社殿はいたく損なわれていたの 昭和三十三年四月、八幡製鉄所の寄進よって現在の姿に再建された。古くから咳の神様、病気が治る神様としても崇められており、各地から参拝者が訪れる。
貴船神社(きふねじんじゃ)
高龗神(たかおかみのかみ)
大歳神(おおとしのかみ)
御祭日
春季大祭 四月十二日 夏季大祭 七月二十二日、二十三日 秋季大祭 十月十二日
御由緒
麻生氏により枝光八幡宮の摂社として宇中名に鎮祭され、年月を経て神域の風致も備わりつつあったが明治三十九年十二月官営製鉄所の事業拡張のため熊本山(現在の高炉台公園)に奉遷され祭も執行されていたが、戦火により社殿を焼失し氏子住民も皆無の状態となり、終戦後一部有志によってささやかな仮社殿を建立し祭祀を続け現在に至ったが、諸般の事情により枝光八幡宮に 奉還、昭和五十一年二月十一日、枝光八幡宮の境内神社として正式にお祀りすることになった。
「枝光」の地名の由来は仲哀天皇が熊襲(くまそ)征伐の折、地元の豪族・熊鰐(わに)が真榊の枝に剣・玉・鏡の3種の宝物を下げて迎えたことから「枝三つ」=「枝光」と称するようになったという。また明治22年に枝光村・尾倉村・大蔵村の3村が合併することになった際、3村の鎮守神がそれぞれ枝光八幡宮(枝光村)・豊山八幡神社(尾倉村)・乳山八幡神社(大蔵村)であったため、八幡村と名づけられた。後に八幡村は八幡町、八幡市、八幡区と変遷し、現在でも八幡東区としてその名前は残っている。