「移民する本 」のアイデアが最初に動き始めたのは、2014年頃です。
私は「移民」という存在を、社会問題として作品のテーマにするためにこの企画を考えたわけではありませんでした。
ひとつの作品が形になるまでは決して一様な過程ではないので、理由を限定して語ることはできません。しかしながら、社会問題への視点としてスタートしていないということは、「移民する本」にとって大切なことなので、長くなりますがこちらにきっかけを書いておこうと思います。
移民状態にある心
2010年代に入って以降、いくつかの個人的な経験として「所属先を持たない人間が、組織化されたコミュニティーと関わって生きることの困難」に直面することが重なっていました。(私は個人事業主としての仕事もありますが、そちらの方面で嫌な思いをすることはありません。)その経験は表沙汰になる道筋を持たない分、腹立たしさ、悔しさ、悲しさ、孤独、諦め、喪失、といった自分には馴染みの薄かった感情に大きく揺さぶられながら日々を過ごす時間を私にもたらしました。
この経験が、私に「移民」という存在に目を向けさせたのだと思います。
正確には、世界を移動して生きている実際の「移民」という以上に、自分が生きる同じ社会のなかで「人知れず、移民状態にある心」に深く関心を抱いていきました。
「人知れず、移民状態にある心」を発見することは簡単ではないのですが、それでも自分なりにインタビュー取材などを通してみて、それがどういう構造で発生するのか、どのような状態なのか、2010年代を通して考え続けました。その結果は、「移民する本」ではなく*別の作品になっていったのですが、並行して「人間の心が所属している景色」に思いを寄せるようになっていました。
( * 学校社会において養護教諭を「移民である」と考えている保健室の先生の取材をさせていただいた作品は、2018年にロサンゼルスで発表。)
心が所属している記憶
わざわざ言うまでもないことですが、人間の心が所属している景色は、肩書きや立場とは異なります。
身体的に同じ場に居たとしても、同じ国にいるとしても、同じ家庭のメンバーだとしても、居合わせる人間の心の拠り所が同じだとは言えません。ひとつの町には多種多様な心の在処が息づいていて、それは外からは伺い知ることができない。
身体は身体で、心は心で、ある関係に所属し、ある意味では囚われています。幸不幸によらず。
時には、身体の移動や変化以上に、心の所属の変化は起きにくいこともあります。
人の心が、環境や経験や記憶に支配され得るものなのであれば、いっそのこと誰かの心に強い影響を及ぼしている経験や記憶を個人の中から取り出して、身体と切り離して、旅に出して、世界中を移動させよう。
それが「移民する本」のはじまりです。
事情は様々あれど、「移民する」ことには移動のエネルギーがあります。「移民」という行動に、生きていくことのダイナミズムを私は見ています。
移民は訪れない場所としての本屋
「移民する本」は、町の小さな本屋を舞台にしています。
その理由のひとつは、本屋には現地で使用されている言語以外の言語使用者が訪れることは稀だからです。
都市の大きな書店ならいざ知らず町の小さな本屋さんは、レストランのように多様な人種・バックグラウンドの旅行者が長居をして行き交う場所ではないでしょう。もちろん、旅行者だけではなく同じ町に暮らす、現地語を習得していない段階の移民の方々も訪れる機会は少ないのではないでしょうか。
けれど、独立系の書店はとても魅力的です。日本では特に入店する人種の多様性の幅は小さいかもしれませんが、そこではオーナーの選択眼もさることながら、土地に暮らす人の好みや文化を感じることができる。個人的には真っ先に旅行者に知ってもらいたいくらいの場所です。
そんな本屋さんを港として、人種や使用する言語の異を問わず、様々な心の所属が書かれた本が集まっては船に乗って、見知らぬどうしのまま別の街へ移民していく。その動きを作りだしたいと考えました。
船に乗って別の土地に行くという移動を介して、個人に張り付いている記憶も解放されるチャンスを得る、そんな想像が沸いてきます。
張り付いた記憶がいい悪いの話ではありません。心が移り変わることを起こすささやかな装置なのです。
「移民」という言葉を掲げること
企画の初期段階では、実際に街に移民してきた人々に書店にきてもらいたいと考えて、移民の方や移住してきた方を中心に参加を呼びかけることに重きをおいていました。そのため東京バージョンでは、海外や東京以外から東京にやってきた人々にまずは参加を呼びかけています。しかし、東京での企画を進めるうちに、実際の移民にこだわることの意義は自分にとって小さいように思えました。あくまでも、心の所属を扱いたいという思いが強くあり、オスロバージョンでは「移民」という参加条件をなくしています。その時に「移民」という言葉を使用するか少し迷いも感じました。
そして同時期に、「移民」という言葉をプロジェクトタイトルに掲げることを躊躇するような世界各地でのできごとがニュースで届くようになっていました。厳密には「難民問題」というべきものですが、それらのニュースはどれをとっても痛ましく、問題の根も複雑です。日本においても、出入国在留管理局の対応の問題や、フェイク情報を利用しながら地域に暮らす移民を排除しようとする動きが露になっています。
オスロでのプロジェクトを終えた後に、世界の別の都市での開催先を探してはいましたが、同時に「移民する本」というタイトルで続けるべきか迷いも大きくなっていきました。特に欧米では日に日に難民や移民問題が深刻さを増す最中に、「個人の心の所属が書かれた本を移動させる」ことを「移民する」と表現していいものか、このタイトルから現代の人々が読み解くものとズレた作品を自分は提示しているのではないか、そのズレは、私の意図とは関係なく実際に移民している人々を軽んじる要素にならないか....と思案していました。
加えて、実施にかかる費用の問題もあり、コロナによるパンデミックも続いたことから、躊躇しているうちに気づけばオスロから10年が過ぎ去っていました。
2025年になり、アメリカを筆頭にますます移民排除の動向が強まっています。
そのような世界において、「移民」という言葉を掲げてひたすら個人の「心の記憶の所属とその移動」をアートプロジェクトとして実施することに、どれだけの力があるのか、何を示すことになるのかは正直わかりません。
けれども、です。
人間が生きることは、抽象的かつ詩的なエネルギーと、具体的で動かし難い問題と、さまざまなことがら・思い・行為・ニュースが雑多にまぜこぜです。雑多にまぜこぜの世界を見るひとつの手立てとして、「移民する本」のタイトルのまま、個人の心の所属が書かれた本を移動させることを継続していくことに決めました。