発行:河合塾グループ株式会社KEIアドバンス
この教材は、運動部学生が大学入学後、学生アスリートとしてデュアルキャリアを着実に歩み、デュアルキャリアを通じてよりよい人生を築き上げることを目的に、大学入学までに、「言葉を使って考え、表現する力(言語リテラシー)」を身につけるとともに、大学生アスリートのマインドセットやスキルを身につけるために開発されました。
本教材の開発にあたり、本研究会は制作協力を行いました。
【参考記事】山本啓一「学業と競技活動の”両立”から”相乗効果”へ―デュアル・キャリアを支える教育プログラム」
筆者及び東寺祐亮(日本文理大学)、中村有希(九州共立大学)、石川勝彦(大阪大学)の4名は、株式会社KEIアドバンスから依頼を受け、大学の運動部に所属する学生(以下、アスリート学生)に対する入学前教育教材「運動部学生のためのスポーツ探究ことば入門」(以下、本教材)を作成した。本教材は販売元の同社が一般社団法人大学スポーツ協会(UNIVAS)と共同で運営するサイトで紹介されており、UNIVAS加盟大学には会員価格で提供される。
(UNIVAS/KEIアドバンス) https://univas.keiadvanced.jp/news/20221115-610/
筆者らは本教材を、アスリート学生が2つの力を身につけることを目的として作成した。第1に「言葉を使って考え、表現する力」(日本語リテラシー)、第2に「アスリート学生としてのマインドセット」(課題発見解決力や自己調整学習スキル)である。入学前の1月から3月にかけて取り組むことを想定した。
全3巻で構成しており、第1巻では、日本語の基本を復習しつつ、高校までの競技経験をふりかえることで「自己理解」を深める。第2巻では、アスリート学生として求められる知識やスキルを様々なテキスト読解を通して理解するとともに、「課題発見解決力」や「自己調整学習スキル」の身につけ方を学ぶ。第3巻では、アスリートスキルやレジリエンス力を自己診断しつつ、4年間の「デュアル・キャリア」を構想する。
アスリート学生に対しては、以前から「学業と部活の両立」が求められていたが、近年では海外の動向もふまえ「デュアル・キャリア」という言葉が使われるようになってきた。UNIVASではこれを「学業、競技活動などを通じて自身のキャリアをより豊かにするために取り組むこと」と定義している。
アスリート学生が入学前に高校までの競技経験をふりかえり、自己分析や入学後の目標設定を行い、それらを文章で表現することは、入学後のデュアル・キャリアを歩むための足場作りになると考える。日本語リテラシーや課題発見解決力、それに自己調整学習スキルは、入学後の学修への円滑な移行を支えるだけでなく、大学スポーツで求められる力でもあるからである。
スポーツ庁の調査によれば、運動部に所属する学生数は2018年時点で約36万人という。大学生の1割以上がアスリート学生であることになる。UNIVAS加盟校も2022年2月28日現在で219大学にのぼる。多くの大学は募集戦略やブランド化戦略等の理由からスポーツ振興に取り組んでおり、アスリート学生は全国で増加の一途をたどっている。
では、36万人のアスリート学生はどのような学部に所属し、どのようなデュアル・キャリアを歩んでいるのか?
体育学部やスポーツ科学部等、スポーツが中心の学部の数は全国で50に満たない(東京大学政策評価研究教育センター「全国大学学部定員」をもとに筆者推計)。したがって、多くのアスリート学生は、競技との両立が比較的容易だという理由から、経済学部や法学部といった社会科学系学部に所属していると推測される。
アスリート学生は、学力不問の「スポーツ推薦入試」で選抜されることが多い。彼ら自身が所属学部を選べないことも珍しくない。受け入れる大学側にも、スポーツ・アドミニストレーターが配置されていないとか、学部にスポーツの専門教員がいないなどの問題もある。教員がアスリート学生の資質・能力を低く見積もりがちであったり、ひどい場合には問題児扱いすることもある。アスリート学生のみを集めた初年次クラスを設定するケースもある。その場合は他の学生との分断が起きる。
アスリート学生の学びのモチベーションが低かったり、成績不振に陥ったりする場合が少なくない理由は、彼らの学力不足だけでないだろう。むしろ、彼らと所属学部との間に発生しているギャップを見逃すべきではない。かつて初年次教育は高校と大学の「段差」を埋める目的で導入されたが、アスリート学生の目の前にはいまだに大きな「段差」が存在するのではないだろうか。
筆者が2016年に北陸大学に着任する以前、初年次基礎ゼミナール(必修)は"一般学生クラス"と"スポーツクラス"に分けられ、アスリート学生を担当するのはスポーツ指導者教員だった。その後、筆者は2017年度から2020年度にわたって経済経営学部長をつとめる中で、次のようなアスリート学生対策を行った。
第1に、質保証および多様性理解の観点から、アスリート学生と他の学生混成の基礎ゼミナールクラスを編成した。また、基礎ゼミナール担当教員がそのままキャリア科目を連続して担当する方式をとった。キャリア科目では「経験のふりかえり」を主題とし、高校まで頑張ってきたことを10分間かけてスピーチするプログラムを導入した。
アスリート学生には小学生で競技を始め、10年近くその競技を続けている者もいる。そうした長期間の経験にもとづく豊富なエピソードや深い気づきに裏打ちされた優れたスピーチを行う者も少なからずいた。毎週実施していた基礎ゼミ担当教員の打ち合わせでは、しばしばアスリート学生のスピーチの内容が紹介され、教員たちが彼らに対して次第に認識を変え、評価を高めていく様子が見られた。
たしかに、アスリート学生の中には高校までの学習が不足している者も少なくない。他方、競技経験を通じて高めてきたコンピテンシーは彼らの強みである。その経験を明示化・言語化させる10分間スピーチは、彼らのコンピテンシーをさらに高めるだけでなく、教員や他の学生からの評価にも影響を与えてきた。それは回り回ってアスリート学生の学修面での自己肯定感や意欲の向上をもたらしたと考えられる。
第2に、アスリート学生の学業へのモチベーションを確保するために、スポーツ推薦入試では、面接官が学部の人材目標等について説明し、学業との両立や学部の方針に関して受験生が納得できるよう努めた。また、正課カリキュラム面での学修目標についても質問し、学業と競技の両立を目指す学生を受け入れるという姿勢を明確にした。
第3に、2019年度から導入したカリキュラムでは、スポーツが専門の教員の協力を得ながら、「スポーツと言語技術」と題したアスリート学生専用科目を3科目導入した(この科目は「一般教育講座㈵・㈼・㈽」というアドホック科目を利用して設置した)。これらの科目では、アスリート学生として必要な分析力や論理的思考力を身につけるとともに、ふりかえりを通じて、主体性やコミュニケーション能力等を伸ばすことをねらいとしている。具体的には、失敗経験の掘り下げ、目標設定と具体的な行動計画の立案、競技の名場面や自己のプレーの詳細な解説、アスリートライフスキルの自己評価などを行う。授業には、様々な部活の学生が参加しており、他の競技の考え方に触れる機会にもなっている。これらの授業が本教材の雛形であることは言うまでもない。
受講生の中には、「これまでだと『このプレーうまいな』などと一言だったのだが、この授業を通して一つ一つのプレーをしっかり観察して分析できるようになり、分析したことを言語化して相手に伝えることができるようになった」とか、「自分の考えが鮮明になり目標から逆算した行動がとれるようになった」という感想を述べた学生もいる。
以上は取組の成果であるかは即断できないものの、筆者の学部長任期中の4年間で、成績不振や退学等の問題を抱えがちだったアスリート学生の退学率はかなり低下した。また、彼らは警察官をはじめとする公務員試験に多数合格し、大手企業にも多く内定を獲得した。「体育会系だから学力が足りない。学びのモチベーションが低い」といった偏見は、彼ら自身が自らの実績によって打ち砕いたのである。
現在、スポーツ指導の分野では、運動と言語の関連性を重視する考え方が広まりつつあるという。他方、PBLやキャリア教育などにおいて、「経験の言語化」は経験学習サイクルを回すために不可欠であるとされている。大学のポートフォリオ評価では、正課授業だけでなく課外活動も含めるようになっている。学生の主体性を育成する観点から「自己調整学習」の考え方にも注目が集まりつつある。このように、課外の競技活動と正課教育プログラムを接続・連携させ、アスリート学生のデュアル・キャリアを支援する道具立てはすでに揃っている。
スポーツを専門科目として展開していない学部であっても、入学前教育や正課カリキュラムの中で、アスリート学生の競技経験をもとに様々なスキルを育成する教育プログラムを導入する意義は大きい。アスリート学生の学修意欲や学修成果を高めるだけでなく、彼らの競技能力の向上にもつながる可能性もあるからだ。
今後、アスリート学生に対するデュアル・キャリア支援とは、学業と競技活動の「相互作用や相乗効果(シナジー)」を生み出し、より豊かで総合的な学修成果につながる教育プログラムを作る方向に進むべきだと考える。