column 8

「トランジスターのセールスマン」の謎

鈴木 宏尚(静岡大学)


池田勇人が196211月に訪欧した際、フランスで会談したドゴール大統領が、池田のことを「トランジスターのセールスマン」と評したというのはよく知られた話である。しかし、いろいろ調べてみると、さまざまな謎が浮かんでくる。


この話を最初に世に出したのは、おそらく池田の秘書官であった伊藤昌哉の『池田勇人――その生と死』(至誠社、1966年)(同書は、後に『池田勇人とその時代――生と死のドラマ』(朝日文庫、1985年)として文庫化されている。以下、引用は文庫版からである)であろう。


引用しよう。

「のちに、ドゴールは、池田のことをトランジスターのセールスマンと言ったとつたえられるのだが、これは反ドゴール派のフィガロ紙が記事にしたものだ。フィガロ紙はかつて、アメリカが鶏肉の対仏輸出をはかったとき、ケネディを「チキンのセールスマン」と呼んだ。私はニワトリよりもトランジスターの方が近代的だと思ったが、池田は、「会談の内容を知りもしないで、何を言うか」と怒っていたことがある。」(注1)

「トランジスター」というのは「トランジスタ・ラジオ」であり、当時の日本の主要な輸出品のひとつであった。また、ここから読み取れることは、「反ドゴール派」の「フィガロ紙」がドゴールが池田を「トランジスターのセールスマン」と揶揄したと報じることによってドゴールを批判しようとしたと思われ、本当にドゴールがそう言ったのかははっきりとしていないということである。


ドゴールの発言の真偽も定かではないだけでなく、「フィガロ紙」にそのような記事が掲載されたかも定かではない。フィガロを探しても該当する記事は見つからない。


なんと、記事が掲載されていたのは『フィガロ』ではなく、週刊誌『レクスプレス』であった。おそらく伊藤の記憶違いだったのだろう。今でいう「ファクトチェック」なしに世に出てしまったのである(だから回想録を鵜呑みにするのは危険なのである)。このことについて産経新聞パリ支局長であった山口昌子が次のように書いている。

「ただ、反ドゴールだった週刊誌「レクスプレス」が、なぜか半年後の196387日号で短く報じている。「政治通信」のページの「外交」の欄の記事は、「商人」との見出しのたった十五行のベタ記事だ。ドゴールが会談後、側近の一人に、「会談中、トランジスタの商人と向かい合っているような感情をもった」と「あまり外交的でない意見」を漏らしたと記している。」(注2)

『レクスプレス』も「反ドゴール」であり、その点は伊藤の回想も間違ってなかった。だが、「池田のセールス」については、少なくとも会談記録には残っていない。外務省外交記録によれば、池田=ドゴール会談では、中共問題に時間が割かれ、ドゴールは会談の終わりに「日本の国際的地位及び池田総理の地位が高まったから、あたかも高い所に登れば、登る程、遠い所がみえるように、日本及び池田総理がアジア及び太平洋のみに限られず欧州までも見渡されて、その関係の緊密化を計ろうとするのである」と述べている(注3)。池田がトランジスタ・ラジオの話をした形跡もないし、ドゴールも池田に好意的な様子である。


だが、火のないところに煙は立たない。結局、池田はドゴールにトランジスタ・ラジオを売り込んでいたのかどうか。真相はこういうことらしい。池田夫人満江の回想である。

「そのあと新聞(フランス紙レクスプレス)に「ドゴール大統領はトランジスタの商人に会っているようだったと語った」と書かれたときは、池田は怒ってましたね。バカにしてるって。

あれはね、日曜日、会談がないのでパリ郊外のフォンテンブローにドライブにでたら、日本のトランジスタラジオがウインドーにでていました。池田は喜んでね。その話をドゴールにしたらしいのね。そしたら新聞におかしくでちゃった。」(注4)

どうやら、池田はドゴールにトランジスタラジオの話をしたようだ。ならば、ドゴールが側近に「池田はトランジスタの商人のようだった」と漏らしたのも事実だったと考えられる。前出の山口によれば、当時の『レクスプレス』の記者も「ドゴール将軍は毒舌に近い辛辣な発言をよくしたので、たぶん、発言は事実だったと思う」と述べていたという(注5)。


残る謎はこのドゴールの発言が、池田訪欧から半年もたって報じられたことであるが、残念ながら、その理由はわからない。


ここまで、「トランジスターのセールスマン」発言の真偽を追いかけてきたが、むしろ重要なことは、このエピソードが「日本で大々的に流布されるようになったこと」(注6)なのかもしれない。思うにこれは、日本のコンプレックスあるいは「引け目」の現れだったのではないか。


日本は1960年代、高度経済成長によってその国力を増し、先進国クラブとも言われたOECDへの加盟を実現するなど国際的地位を向上させる。1968年にはGNP(国民総生産)自由世界第2位となり、「経済大国」と言われるようになる。日本が「経済大国」と言われたことは、日本国民のプライドを満足させた。しかし、わざわざ「経済」を冠しなければならないのは、やはり通常の意味での「大国」ではないということを示唆している。「トランジスターのセールスマン」は、そこを衝いているのではないだろうか。


池田の時代から半世紀が経ち、現在は「経済」も中国に抜かれ、もはや日本は大国なのかもはっきりしない。「~大国」ではないアイデンティティ――自画像の設定が求められているように思う。



(注1)伊藤昌『池田勇人とその時代――生と死のドラマ』朝日文庫、1985187頁。

(注2)山口昌子『ドゴールのいるフランス』河出書房新社、2010年、222頁。

(注3)欧亜局「池田総理訪欧の際の会談要旨」196212月、戦後外交記録『池田総理欧州訪問(1962.11)A'.1.5.3.4

(注4)塩口喜乙『聞書 池田勇人 高度成長政治の形成と挫折』朝日新聞社、1975年、280頁。

(注5)山口『ドゴールのいるフランス』223頁。

(注6)同上、222頁。


2021年7月28日執筆