だいちゃんのお米を一緒につくる仲間たちをご紹介します。
(※2025年現在、おかいこは飼育していません。)
昔から山里では、桑を育て、おかいこを飼いました。
桑畑にするのは大抵、野菜がまともに出来ないような、山際の畑です。
桑は、そのままではただの木の葉っぱですが、
その葉っぱを蚕に食わせると、蚕は繭になります。
繭からは、絹とさなぎが採れます。
絹はもちろん、着物の材料となり、防寒に優れた真綿(まわた)にもなります。
そして、さなぎは佃煮になります。
「さなぎ一つで卵三つ分」と言われるほど、栄養価の高い食べ物です。
(ちょっと癖はありますけどね。)
また、さなぎは田んぼのコイの餌にもなります。
さなぎを食べたコイは、脂がのって美味しくなります。
(※2025年現在、鯉は飼育していません。)
鯉は、縄文時代から、日本人にとって身近な魚でした。
だから魚へんに、里という文字が当てられています。
佐久地域では、昔から田んぼでコイを飼ってきました。
気候が寒く、他の地域のように田んぼで二毛作ができないため、
イネと同時にコイを飼い始めたのでしょう。
昔はコイは高級魚でした。
コイは大人になるのに3年もかかります。
その間、夏は田んぼへ、冬は生け簀へと、
何度も行ったり来たりするので、とても手間がかかります。
その上、農薬が使えないため、現在では飼う人はほとんどいません。
でも田んぼでコイを飼うと良いことずくめ。
コイは、田んぼの虫や草はもちろん、
田んぼに入れた米ぬか、生ごみや鶏糞、
時には人糞も(!)食べて大きくなります。
コイは生け簀で飼うよりも病気になりづらく、元気に育ちます。
そして、コイが元気に泳ぎ回ると、田んぼの除草と、稲の成長促進に繋がります。
コイのフンは、イネの良い肥料となり、コイ米は美味しくなります。
そのうえ鯉料理はとても美味しい。
一年目のコイは、背開きにして揚げてすずめ焼きに。
3年目のコイは、刺身やあらい、鯉こく、うま煮になります。
どれも絶品です。
昔は、田んぼの畔草は「財産」だったそうです。
ヤギや牛の主食となるからです。
かつてはどの家も、ヤギや牛を飼っていました。
そのため、畔草が伸び放題になることはあり得ませんでした。
時には、夜の間に畔草が刈り取られてしまった!と騒ぎになることも。
現代では考えられません。
ヤギは、畑や田んぼのやっかいな草木を食べてくれて、
人に癒しと、乳と、フンをくれます。
ときにはおいしい肉も。
春に産まれる子ヤギは、子供たちのかわいい遊び相手でした。
ヤギ乳は、牛乳よりもお腹に優しいので、ミルクの代わりにされてきました。
フンは、もちろん田畑の肥料となります。
そして肉はというと…。
ここ春日では昔から、牛や豚ではなく、
ヤギ肉を食べる文化がありました。
さばき上手な人が来てくれて、家の庭でさばき、
ジンギスカンで頂いたそうです。
(※2025年現在、鶏は飼育していません。)
鶏が一番好きなのは、土と虫。
だから、虫がたくさんいる畑の地面の上で飼うのが、一番健康的で合理的です。
鶏糞はそのまま畑の肥料となります。
また鶏は、魚の骨や、卵の殻などの動物性の生ごみとか、
米ぬかや、くず米といったものを喜んで食べるため、無駄がありません。
そしてなにより、毎日おいしい卵を産んでくれます。
放飼いの鶏の卵は、卵かけご飯にして食べると絶品です。
そして、全てのものをどんどん分解してくれる、
縁の下の力持ちである“微生物ちゃん”達の存在を忘れてはなりません。
この働きがなければ、私たちは生きていけません。
ビフィズス菌とか乳酸菌とか、
人の役に立つ「善玉菌」だけ増やせば良いんだ、とか
「悪い菌」を殺せばいいんだ、とか
そんな単純なものではないのです。
それよりも「雑菌」と呼ばれるような、
何千、何万種類もの、名もなき微生物ちゃん達の、
種類が多ければ多いほど、バランスが安定するのです。
殺菌や消毒は、そこにいる全ての微生物を殺します。
バランスは崩れます。
そして崩れたバランスを取り戻すために、
「悪」と呼ばれる種類だけが、猛烈に増えることになります。
土も、身体も、環境も、人間社会も同じです。
私たちは、微生物ちゃんから、色々と学ばなくてはならないと思います。
私たちの命を支えてくれている、無数の微生物ちゃん達に敬意を払い、
農薬や化成肥料は使わないことにしています。
人は、「人間社会だけで生きて行ける」と錯覚しています。
でも、人間社会だけで生きていくということは、とても無駄が多く、非効率です。
現代の、行き場のない大量の「ゴミ」が、それを証明しています。
昔からずっと、人と共に生きてきた、いろんな動物や植物たち。
どれも、人間にとってはゴミのような食べれない、利用価値のないものばかり食べて、
その代わりに役立つもの、美味しいものをくれる。
無から有を生み出し続ける循環。
その循環のなかで生きる、
これが百姓の豊かさの源ではないかと思っています。