神槍・李書文の八極拳の真実とは?
神槍・李書文の八極拳の真実とは?
演武・協力/李書文系八極拳嫡伝継承者・李志成
資料提供/丸山宏之
編集/中国武術WEB編集部
李書文の子 李萼堂(1904年~1972年)
塩山県南良村の出身。李書文の2番目の子として生まれ、少々の頃から李書文の後継者として
英才教育を受け、李書文系八極拳の全伝を授かった。
「鉄羅漢」と称され、李書文一門の代表として山東省国術館、天津国術館で八極拳を指導した。
そして奉天騎兵旅団青島海軍旗艦の武術教官を経て、1931年には湖南省主席兼ねた国術訓練所所長の何健之の招きに応じて、
湖南国術訓練所主任教官を務めた。
国民軍六十三師技術大隊長を任命された。その後、湖南邵陽地方行政幹部訓練所の大隊長になった。
1957年5月、湖南省で開催された武術観摩交流大会に参加し、一等奨を獲得した。
同年、全国武術評奨観摩大会に参加し、三等奨を獲得した。
文化大革命の間は、神槍・李書文の武術を受け継ぐ人物として
危険人物と見なされ、迫害を受けたが、邵陽市中医院傷科医師を務めた。
八極拳は、元々河北省滄州地区に伝わる武術であり、華麗な動作がなく、実戦本位に編まれた強打は「崩撼突撃(山をも崩し、山を撼す突撃の打法)」といわれ、その強さは広く知らせている。
元々は孟村に伝承があったのだが、やがて漢族の羅タン(田+童)に伝われ、羅タン(田+童)独自のものへと発展していった。その羅タン(田+童)から多くの優秀な人材が輩出してきた。特に民国時代には李書文、強瑞清、馬英図といった当時の武術界に広く名をとどろかせた八極拳家は羅タン(田+童)から出た人材なのである。
羅タン(田+童)から出た八極拳家の多くは、数多くの他流試合をしたり、武術教師となって軍閥などで武術を教えたりして、八極拳の強さを広く伝えたのである。李書文の弟子である霍殿閣は、清朝最後の皇帝にして満州国の皇帝である愛新覚羅溥儀のボディーガードとなっている。逆に孟村は役者や運送業といった職業に就いたりしていた者もおり、武術教師になっていた者は多くなかった。
武術家の武勇伝の多くは、多少の眉唾物だと思えるものがあるが、八極拳の李書文に限れば、その武勇伝を知るにつれ、その強さと驚愕のエピソードは戦慄を覚えざるを得ない。李書文の武術は戦いだけを目的としたものばかりでなく、殺人さえも目的としたものであったという事実を思い知らさせる。八大招の中にある猛虎硬爬山を最も得意とし、それを繰り出す強打は「二の打ち要らず(最初の一打で勝負がついてしまうので)」と謡われ、実際に試合において一打必倒の打撃で多くの武術家の命を奪っている。
李書文は武術で生計を立てていたので、霍殿閣たちといった弟子を育てていたが、その李書文の武術を受け継いだのが彼の息子の李萼堂である。李萼堂は父・李書文の後継者となるべくして幼少から英才教育を受け、青年の頃から李書文が華北の地で指導しに行く時は、必ず付き添って回っていたという。李萼堂といえば日本では周馨武との試合が知られている。その試合の時は李萼堂18歳の若者だったという。
だが歴史の運命なのか、李書文の後継者・李萼堂には迫害を受ける運命が待ち受けていたのであった。李萼堂は退役した後は歴史的迫害にあったこともあり、職業武術家にならず、1957年、北京で全国武術評奨観摩大会が開催された時に、李萼堂は湖南の代表として出場することとなる。その時の試合会場で偶然に許家福、許家禄、霍慶雲といった李書文一門と再会することとなる。李書文一門は李書文の息子であり、李書文の後継者である李萼堂との再会を喜んでいたが、退役していた当時の李萼堂の境遇を知るうちに、3人とも皆声が出ず涙したという。そういう迫害の歴史があったということで、李書文や八極拳の名前は、今では日本人の多くに広く知られているが、李書文の息子である李萼堂、そして李書文の後継者・李萼堂に伝授した李氏嫡伝八極拳においては残念ながらまだ日本ではほとんど知られていないのが実情ではないだろうか?
八極拳を日本に最初に紹介したのは松田隆智なる中国武術研究家であるが、氏に八極拳を指導したのが劉雲樵という李書文から八極拳を習ったという人物である。かつて発売されていた武術誌といったような書籍でも松田隆智の弟子やその子分といった人間たちが集まって編集したものである。そういうわけなのか、自然と自分たちに息がかかったものを優先しがちとなり、これまで日本では劉雲樵系と以前に松田隆智と交流があった東北系の八極拳(霍殿閣系)ばかりの紹介が目立っているのが実情であった。逆に李書文の息子であり、李書文の後継者・李萼堂の功績を黙殺していたかのようである。李萼堂が後年、湖南の偏狭の地で迫害を受けたこともあり、今まで世に出にくかったのも原因の一つでもあるだろうが、今回、李萼堂のご子息であり、李萼堂から李氏八極拳を受け継いだ李志成老師と接触することができた。その李志成老師が語ったものも交えて正統な李氏八極拳について紹介したい。
神槍・李書文の遺伝子は今も受け継がれている!!
李書文の嫡孫であり、神槍・李書文嫡伝の武術を伝える李志成老師(1945年~ )
李志成老師は現在湖南省邵陽市において神槍・李書文直系の八極拳を指導されている。
李志成老師とその門下生による八極拳の練習
神槍の八極拳は脈々と受け継がれている。
見よ!!これが神槍・李書文嫡伝の猛虎硬爬山だ
日本初公開!李書文嫡伝の八極拳『猛虎硬爬山』の動画を見たい人はこちらの動画をご覧下さい。
李志成老師は温和な方であり、最初に「私は子供の時から父・李萼堂について家伝の八極拳を習いました。私の父は神槍・李書文の息子です。李書文は私の祖父になります。李書文には3人の子供がいました。息子2人に娘1人いました。長男は病気で幼少の時になくなりました。娘は孟顕忠という人に嫁ぎました。孟顕忠は祖父の弟子でもあります。私の父は次男です。父は滄州からここ湖南へ移住してきました。父は祖父(李書文)と同様気性が激しい人でした。父は華北にいた時は数多くの試合をしてきたそうですが、ここ湖南に移住してからも試合はしましたが、華北にいた頃よりも人間関係に努めていました。父はとても力がありました。竹なんか簡単に握り潰すこともできましたし、壁に体当たりをしたら建物全体が揺れていたほどです・・・」と説明してくれる。
李志成老師は1945年生まれ、幼少の頃から李老師の父上であり神槍・李書文の息子である李萼堂から家伝の武術を学ぶ。その頃の修行当時のことを李老師は「私が子供の時は父はすでに退役していて、邵陽の郊外の農村で農業をしていました。なので、こちらで私は朝と夜と父について武術を学びました。父の指導はとても厳しかったです。父は招聘されて湖南へ移住してきたのですが、政治的理由によりこれまでの地位を奪われ、農民にさせられました。こういう運命は父にとっては不服なことだったかもしれませんが、父は何も文句を言わず、黙って農業の仕事をしていました。元々言葉数が少ない寡黙な人でしたが、忍耐強さは人一倍でした。文化大革命の時には、強制労働をさせられたりもしていましたが、そんな時も父は何も文句を言わず労働に励んでいたようです」と言う。
李志成老師は、父・李萼堂ついて武術を学んでいた1959年に、湖南省第一届運動会武術大会に出場され、その成績が認められ、1960年に、湖南武術隊に選出される。その後、武術隊が解散させられた後に、工場で働かれていたが、1984年、邵陽地区武術館兼同武術館教練を務める。1988年には、錦州全国武術観摩交流大会に出場されて双刀を表演され優秀賞を獲得された。それから邵陽市武術協会副主席兼秘書長を歴任されながら、武術の指導をされている。
続いてこちらが"気について説明したいのですが、李書文は易筋経を練習していたようですが・・・。”と聞くと、李老師は以下のとおりお答えになられた。
「父は八極拳で練ることによって体得できた功夫による運気をこれが気だと言っていました。父の気は非常に強かったのは今でも鮮明に覚えています。これはやはり八極拳で練った功夫による気でありました。以前に湖南で気功と点穴の達人だと名乗る僧侶がいました。武術をやる仲間だということで、父とその僧侶は親しくなり、父はその僧侶を自宅に招きました。自宅で父と食事をしている間もその僧侶は気のことを延々と話すので、父は突然食事をしていた箸をテーブルに置き、"それなら私を打ってみなさい”と言い出しました。その僧侶は父の体内から発する気のパワーに圧倒されたのか、結局は父を打ち込めませんでした。父の気のパワーは尋常ではありませんでした。これは先ほど言いましたように八極拳で練ったものです。でないと武術に活かすことはできません。他ではどのように気功を練習されているかは知りませんが、気功で神秘的に世の人を煽るのはどうかと思います。現に昔から中国では気功や内功と言っておいて、神秘的に世の人を変に煽り学生から高い学費をとって金儲けしている武術家は実に多いのです。そのようにした方が学生もすごいと思って高い学費を払うのでしょう。大切なのはやはり功夫です」
さらに"日本では一部の人が李書文は気功を練習してその功夫が凄かったので、丹田に気が溜まりすぎて性器が小さくなり、子供を作ることができなかった・・・と言う人たちもいます”と突っ込んで聞くと、
「実際李書文には3人の子供がいたのですよ(笑) そうやって祖父を神秘化するのは良くないことだと思います」とのこと。
ついでに"李書文は毒殺されたという噂もあるようです"と聞くと、
「祖父は脳溢血で亡くなりました。病死ですよ。親戚の中で祖父の最後を看取った人もいますから、毒殺されたなんていうのは出鱈目な話です」と苦笑いされながら答えられていた。今まで日本の雑誌など誌面上で紹介されているのと食い違うなと、ふと心の中で思いながらも、話題を変えてみた。
震脚について・・・お伺いすると、
「震脚は沈気と協調しておこなうのが重要です。最近、試合でいろんな門派の八極拳を見たりしますが、多くの人たちは震脚をただ足に力を入れて踏みつけて音を大きく鳴らしたり、足を高く上げて強く震脚するのが震脚と思い込んでいる人が多いようですね。震脚をする時は膝より高く上げてはいけません。足を強く踏みつけるだけでは間違いなく膝を壊したりしてしまいします。震脚する場合は必ず沈気と協調しておこなわないといけません。沈気と動作が協調して震脚すると決して大きな音が立たずに、地面が震えるような音が出るはずです。我々の所では基本功で震脚の単練の練習を厳しくおこないます。」とのこと。
"八極拳の震脚の練習をしていて頭がおかしくなりそうになったという研究家がいましたが・・・”と聞くと、
「そんなことがあるのですか?正しく練習すればそんなことはなりません。私が今まで教えていた弟子の中で頭がおかしくなりそうになったという人は誰もいませんから」と苦笑いをされて答えられました。日本では八極拳=強い震脚と変に勘違いされていて、多くは正しく練習をされていないのではないかと編集部も感じている。
以上のように今まで日本で伝わっていることが、李志成老師が語る李書文の実像とは食い違うことがいくつかあったので、今まで日本で誌面上などで李書文の虚言を言っていた人たちやそれを調査しようとせずにそれが正しいと決め付けて載せていた偏ったメディア連中には、島流しにしてもいいぐらいだと、思えてくるものである。
李書文にはこういうエピソードがある。李書文は孟村八極拳家の呉会清に客として孟村の呉家に招かれた時に、当時の呉家には一頭の暴れ馬がいた。その馬は命令を聞かずに、気性が激しく、人に噛み付くことも合った。李書文は「この馬は私さえも噛み付くのですか?」と飼い主の呉会清に尋ねたら、呉は「見知らぬ人には噛み付かないかもしれません」と答えた。李書文はその馬の前に行くと、馬は首を伸ばして噛み付きに来たので、李書文は膝を上げ、馬の顎に膝蹴りを入れた、馬は痛くて頭を上げると、李書文はその勢いに乗じて馬の鬣をつかんで、馬の背に飛び乗り、沈墜の勁を用いて力を入れると、馬は崩れるかように地面へ伏せってしまい、李書文が沈墜の勁を緩めると馬が起き上がってくる。再び李書文が沈墜の勁を用いて力を入れると、馬は再び地面へ崩れるかのように伏せてしまう。それを続けて3度おこなうと、呉会清は慌てて「早く馬から降りてくれないか。これ以上やってしまうと私の馬が殺されてしまう」と言ったという。このエピソードから李の沈墜勁の功夫の高さが知ることができる。(孟村在住の老人談)
続いて李老師は「八極拳は打つのがメインです。肘、肩を主とする一打必倒の打撃なのです。私の祖父は試合で多くの人を殺めてきました。それは肘などによる強い打撃によるものです。最近孟村の八極拳を見る機会があったのですが、ただどういうわけなのか彼らは投げが多くなってきていますね(笑)祖父も父も拳で戦う時はもっぱら打でした。」と李志成老師は笑顔で八極拳の特徴を身振り手振りと動いて見せてくれて説明してくださった。李老師の説明を受けながら編集部の人間も思わず李老師はすごくいい人だと感じ入ってしまう。
李志成老師のご自宅にて
左側の髭を生やしている武人風の男が李書文。
右側が李書文の子であり、李志成老師の父上であられる李萼堂。真ん中の老女は李萼堂夫人。
近年八極拳の強さを広めたのは神槍・李書文と馬英図の功績が非常に大きいのは言うまでもない。李書文は162センチの小柄であったが、馬英図は184センチもあり大柄であった。李書文と馬英図の2人は年齢が離れていたが、羅疃 八極の宗家、張景星の弟子ということで、兄弟弟子同士(李書文は黄四海から八極拳を習っていたが、張景星の拝師弟子でもある)であり、李と馬の一打必倒の打撃は試合において多くの武術家の命を殺めた(軽くて重傷)ということで危険視され、当時の武術界ではこの2人を「李大狠子」、「馬二狠子」という言葉があったのである。
馬英図は、兄の馬鳳図から孟村系八極拳を学びながら、6歳の時に張景星に拝師して八極拳と六合大槍を学んでいたが、全伝を授ける段階になってから張景星が当時高齢になっていたということもあり、動作の一部の示範がうまくできなくなったということで、張景星の依頼により張の弟子であり馬の兄弟子にあたる李書文が馬に伝授したこともあったという。
馬英図は身体が大きく、両手が膝の下まで伸びるほど頑健な体格をしていたので、張景星の代理を務めた兄弟子の李書文から指導を受けた時の李からのアドバイスに従い、後に馬英図は苦練を重ね、自分の大柄な身体を技に活かせるように実戦で戦う時は猛虎硬爬山よりも、迎風朝陽手を好んで使っていたという。このことは馬英図の弟子である牛増華が語っている。
李書文は生涯武術教師だったので、多くの軍人に指導していたのは武術愛好家たちも広く知っている事実だ。
馬英図の方はのちに史上初の武術国立学校であった「南京中央国術館」において何福生、蒋浩泉、李元智など多くの弟子を厳格に育てた。
何福生は「南京中央国術館」第三期を首席で卒業し、のちに「南京中央国術館」の精鋭として広く知られ武林の発展に大いに貢献した。日本では1985年に「日中武術交流会」が日本武道館で開催され、その時に馬賢達(馬英図の兄・馬鳳図の次男)と八極対接を演武し馬と共にこれこそ本物の伝統武術であると日本の観衆に見せつけた。
その同期であった蒋浩泉は西洋拳王として知られ、中国共産党・江沢民の信頼を得て、政治中枢である「中南海」警護の総教官を勤め、「中国第一位武術博士」という称号を与えられた。
以上の理由から李書文と馬英図が極めていた羅疃 系の八極拳が大いに近代武術界の発展に貢献していたのがおわかりであろう。
李志老師による六合大槍の基本
李書文の嫡伝の六合大槍の動画を見たい人はこちらの動画をご覧下さい。
李書文の嫡孫であられる李志成老師は「昔の八極拳家は本当に実戦を追求して練習していたそうです。よく同門で集まり一緒に練習していました。霍殿閣、霍慶雲、孟顕忠等といった祖父の弟子や、あの有名な馬賢達先生と馬明達先生の叔父(馬英図)たちが祖父のもとに集まってよく練習をしたそうです」と昔の練習のことを説明される。
さらに「幼少の時から祖父から後継者になるべく英才教育を受けてきた父は、14歳になると祖父について指導しに行っていました。そんな時に、東北軍に招かれていた武術高手と試合をし、打ち勝つことができました。父はその後も多くの他流試合をしたそうですが、祖父について山東国術館に行っていた頃ですが、ある日、鉄槍王と称された武当派の武術の達人として知られていた洪金龍が、自分の武術を自慢し、祖父・李書文を馬鹿にしたことを言っていたのです。それを聞いた祖父は洪を懲らしめに行こうとしていましたが、父が祖父を止め、"父の問題でしたら、息子がやります。私が洪を懲らしめるのでそれで十分です”と言い放ち、父が試合をすることとなりました。その時は父の功夫はちょうど油が乗り切っていました。父は2本の大槍を手に持ち、洪にどの大槍を使うか選ばせました。それから試合となり、洪は白蛇吐信という技を用い父の胸に突いてきました。父は六合大槍の中の技法の一つの鉄牛耕地という技で洪が持っていた槍を猛烈に跳ね飛ばしました。洪は父の技に感服し、試合後には父と洪は仲良しになりました。それにより父の名は山東の地で知られるようになりました。このように父は祖父の代理で他流試合をしたことが多くありました」と李老師の父であられる李萼堂の武勇伝を語ってくれる。
以前武術誌で"周馨武との試合のことが載っていたのを見たことがあります”と言うと、
李老師は「あれは父が18歳の時です。周先生は当時、別の門派の武術をやられていて、"鉄の腕”と称されていたほどの達人でした。当時の父はまだ子供だったので、ある日街をぶらぶらと歩いていたようです。その時に周先生が教えておられる道場に通りかかり、周先生が弟子に教えていたのを見たそうです。当時の父はまだ子供だったので、周先生たちが練習している武術を見て、周先生の武術のことを貶したそうです。それで父と周先生は試合をすることとなり、父が勝ちました。周先生は負けたその場で父に弟子にしてくれと頼んだそうです。当時の父はまだ子供でしたので、どうしてよいかわからず、祖父の所へ周先生を連れて行ったのですが、あいにくその日は祖父は留守だったので、困り果てた父は兄弟子の霍殿閣の所へ周先生を連れて行きました。よって、周先生は祖父の弟子ということで霍殿閣から八極拳を学んだのです。もう昔の話になりますが、父が周先生に失礼なことを言って試合をしてしまった過去があるので、私は私の弟子に"他門派の人に対して馬鹿にすることを言ってはいけない。たとえ相手が実戦に役に立たないような練習をしていても馬鹿にする態度をとってはいけない”と言ってそれを守らせています。人には心があります。いくら自分が正しいと思っていても、相手の心を傷つけてしまうことを言えば、相手だって面白くないわけですからね」としみじみと答えてくれたのであった。
万勝双刀
日本ではあまり知らせていないが、李書文-李萼堂-李志成老師と李氏八極拳直系の間で伝わってきたものである。
「これは祖父李書文から父に伝えたものです。父が双刀を振り回すと大変速く、たとえ水をかけられても、父の体はまったく濡れることはありませんでした」と李志成老師が語りながら演武してくれました。
李書文の嫡伝に伝わる双刀の動画を見たい人はこちらの動画をご覧下さい。
李志成老師と小林正典師範
小林師範は以前から李老師と親交があり、李老師は小林師範の武術に対する情熱に感動され、禁を破り、小林師範が湖南の地に滞在している間、寝食をともにしながら、ついに日本人で初めて李書文直系の真伝を授けたという。
小林師範曰く「李書文は八大招を4つしか伝授されなかったと聞きますが、李書文が多くの実戦経験によりより実戦的に改良されてきたのでしょうね。今まで学んだものと照らし合わせすことができ勉強になりました」
今回の取材は小林師範の協力によりできることができました。ありがとうございました。