東京医科歯科大学 難治疾患研究所

病態生理化学分野

大学院医歯学総合研究科   脂質生物学分野

News& Topics

・ 難治疾患研究所オープンキャンパス 2023 3/27(月)


・ Biochemical Society Meeting "The PI3K-AKT-mTOR-PTEN pathway: a new era in basic research and clinical translation"  

2023 Sept 13-15, Barcelona, Spain    プログラム・招待講演

・ 8th World Congress on CANCER RESEARCH AND THERAPY  

2023 Jul 19-20, Frankfurt, Germany    プログラム・招待講演

・ EMBO Workshop "Inositol lipids: Signaling platforms for organizing cellular architecture and physiology"  

・ FASEB Conference "The Protein Phosphatases Conference" 


ようこそ

    脂質は生命を包み、区画する生体膜を構成する細胞の基本構成要素です。 生体における脂質分子の多様性、生理機能を理解することは、 生命秩序の原理を知る上で重要な課題の一つとなっています。 私たちの研究室では、新規生理活性脂質の発見と脂質代謝の破綻により生ずる病態の解明を目指して研究を進めています。自ら発見した脂質を手に、医学・生命科学の研究を進めたい方、是非私たちの研究室をお訪ね下さい。

脂質の生理機能

    多細胞生物において脂質は、エネルギー貯蔵、細胞間シグナル伝達、細胞膜の構成などに利用されています。脂肪酸の炭化水素鎖は還元状態にある良質なエネルギー源であり、トリグリセリドの形で脂肪組織に貯蔵されています。また、ステロイドホルモンや甲状腺ホルモン、プロスタグランジンやロイコトリエンなどは、細胞間の情報伝達物質として働く脂質です。そして、私たちがもっとも興味をもっているのは、膜構造を細胞に与えるという、他の生体分子にない脂質特有の機能です。言うまでもなく、すべての細胞は、両親媒性の脂質が集合した疎水性コアをもつ膜で周囲の環境から自身を区切り、自己の空間を定めています。細胞の内部でも、種々のオルガネラや小胞が、同様の膜構造によって区画化されています。このような水中にある“脂質の袋”は、試験管内で単一種類の脂質のみでも作製できます。しかしながら、生きている細胞がもつ膜は、多種多様な脂質によって構成されています。これは、膜を挟んだ区画間での物質と情報の往来や膜の形態変化が、様々な構造の脂質とタンパク質の特異的な相互作用によって制御されているためと考えられています。

脂質研究の新しい展開

    このように脂質は生命の存在に必須の分子群ですが、核酸やタンパク質と比較すると研究の進展は遅れています。ご存知のように遺伝子については、増幅法、配列決定法、発現解析法の技術革新が次々とおこり、研究手法がかなり一般化されています。一方、脂質に関しては、研究者がそれぞれの経験に基づいた、いわば職人芸を駆使して、各論的に課題に対峙してきました。そのような中、化合物を非侵襲的にイオン化できるエレクトロスプレー法が開発されたことで、液体クロマトグラフィーと組み合わせた質量分析が可能となりました。この方法の出現で、難揮発性で高分子量の脂質解析も進歩を遂げ、最近では、新しい生理活性脂質の発見などの成果につながっています。理想的には、ゲノムのように全脂質(リピドーム)を一斉解析できればいいのですが、現状ではその段階に至っていません。リピドミクスという言葉が生まれ、質量分析で得られたスペクトルを照合するためのデータベースが整備されつつありますが、実在する脂質の種類は依然として未解明です。既知の脂質の中でも、後述のイノシトールリン脂質のように、誘導体化など個別の工夫がないと質量分析計では検出されないものもあります。私たちの研究室では、検出対象を特定の構造の化合物に予め絞り込み、親イオンと娘イオンの質量/電荷の組合せで物質を同定する「選択的反応モニタリング」とよばれる質量分析法を用いて、がんや神経疾患で変動するいくつかの新規脂質を見出して、特許化も進めています。

イノシトールリン脂質と疾患

    分子生物学のセントラルドグマの外にある脂質ですが、代謝酵素を対象とすることで、生理機能解析に遺伝学的なアプローチをとることができます。イノシトールリン脂質は、六炭糖の誘導体であるmyo-イノシトールを親水基にもつホスファチジルイノシトールが、様々なパターンでリン酸化されて生じる細胞膜リン脂質群です。キナーゼとホスファターゼ(イノシトールリン脂質代謝酵素)の働きで相互に変換され、各リン酸化体のバランスが調整されています。私たちは約40種類のイノシトールリン脂質代謝酵素の遺伝子改変マウスを用いて、この脂質群と疾患の関連を研究してきました。その結果、イノシトールリン脂質代謝系の破綻がマウス個体レベルでは、がん、炎症性疾患、神経疾患などの発症につながることが明らかになりました。その根幹にあるメカニズムは、①脂質結合タンパク質(細胞骨格制御タンパク質、イオンチャネル、プロテインキナーゼなど)の局在、活性の異常、②形質膜のマクロ形態(髄鞘形成、エンドサイトーシスなど)やマイクロドメインの異常、③タンパク質分解系(オートファジー、多胞体経路)の異常などで、イノシトールリン脂質が制御する細胞機能と病態発現との関連についての理解が深まってきました。このような知見に基づいて、いくつかのイノシトールリン脂質代謝酵素は疾患の治療標的としても注目を集めています。がんにおけるPK3CAとPTENはその代表例です。PIK3CAはPI二リン酸というイノシトールリン脂質をリン酸化してPI三リン酸を生成し、逆にPTENは、PI三リン酸を脱リン酸化してPI二リン酸に戻す働きをもちます。PI三リン酸は他のがん遺伝子産物に結合して活性化する機能をもっています。PIK3CAの機能獲得型変異や増幅、PTENの機能喪失型変異や欠失が、様々なタイプのがんで見い出されています。

脂質プロファイルによる疾患の層別化

    PIK3CAとPTENによって調節される「PI3キナーゼ経路」構成因子のがんにおける遺伝子異常は高頻度で、p53経路の異常に匹敵します。さらに、形質膜で機能するRASやHER2といったドライバー遺伝子産物の中には、PI3Kに直接結合してこれを活性化するものが多く知られています。また、食餌として摂取する脂肪酸の量や種類が、がんの発生や進展に影響を与えることが疫学調査や動物実験の結果から示唆されています。このようなことを考えると、遺伝子と環境因子の両者の影響によって、多くのがんではイノシトールリン脂質の状態が正常から逸脱することが予想されます。そこで私たちは、質量分析計を用いたイノシトールリン脂質測定技術を開発しました。この新技術で、RI標識に依存した従来の方法では不可能であった、がん組織や血液などでの解析ができるようになり、さらに、脂肪酸組成が異なる分子種を個々に定量することも可能になりました。

    現在のところサンプルごとに8通りのリン酸化状態と25通りの脂肪酸構成の違いを見分ける計測を行っています。遺伝子の解析に比べると少ない数ですが、こうして得られた200個の数値を変数として、がんの組織や細胞の性状を判定できるアルゴリズムの構築を試みています。例えば、リンパ腫生検の解析では、ある分子種への偏向が、サブタイプの枠を超えた強い予後不良因子となることを見出しています。また、細胞株の解析では、約20種類の分子種を変数として、PI3K阻害剤など分子標的薬への感受性の予測式が得られています。PI3K阻害剤については、様々ながんに対する臨床開発が進められていますが、多くの治験の結果は芳しくなく、PIK3CAPTENの遺伝子異常と治療効果の間に相関が得られないことが指摘されています。患者層別化マーカーとしてのイノシトールリン脂質プロファイルの利用が期待できます。

おわりに

    医学・生命科学の研究者で遺伝子を扱わない人はいません。これと同じように、脂質がより多くの研究者から当然のようにアクセスされる日も遠くないかもしれません。脂質には遺伝子からの情報と環境からの情報が収斂しています。解析技術の発展が遅れている分だけ、疾患原因となる脂質、病態を反映する脂質など、未知の分子がまだまだたくさん眠っています。自らがが発見した脂質を手に、医学・生命科学の研究を進めたい方、是非私たちの研究室をお訪ね下さい。


(東京医科歯科大学医科同窓会 会報寄稿文改変)