お薦めの1枚

ジャズヴォーカル編

ジョニー・ハートマン

『ジョン・コルトレーン&ジョニー・ハートマン(John Coltrane&Johnny Hartman)』 

今月のお薦めの1枚〜ジャズ・ヴォーカル編は、ジョニー・ハートマンの『ジョン・コルトレーン&ジョニー・ハートマン(John Coltrane & Johnny Hartman)』です。

 

ジョニー・ハートマンは1940年代初頭から1980年代にかけての40年近くの間、アメリカ・ジャズ界の第一線で活躍してきた男性ジャズ・ヴォーカリストです。 多くの著名ジャズ・アーティストとの共演、20枚以上のアルバム制作の他、有名ジャズ・フェスティバルやテレビ、ラジオ番組にも数多く出演しています。

 

 ジョニー・ハートマンは1923年7月3日にルイジアナ州ホウマで生まれ、その後、家族とともに移住したイリノイ州都シカゴで育ちました。幼少期からジャズなどの音楽全般に興味を持ち、8歳の頃には歌を、11歳になる頃にはピアノを、独学で始めていたようです。

高校進学後は、高校の音楽指導者ウォルター・ダイエットに感化され、さらに音楽を熱心に学ぶようになります。そして成績優秀により奨学金を獲得した彼は、シカゴ音楽大学に進学しますが、すぐに第二次世界大戦が勃発し、兵役に就かねばならなくなります。しかし幸いなことに陸軍では特別任務官に任命され、音楽隊で歌うことが主な任務でした。そして1945年に第二次世界大戦が終わり除隊したジョニー・ハートマンは、翌年1946年9月にニューヨークのアポロ・シアターで開かれた歌唱コンテストで見事優勝を果たします。このコンテストは、ジャズ・ヴォーカリスト サラ・ヴォーン等、後に著名ジャズ・アーティストとなる人材を数多く輩出しており、音楽界から注目されていました。そのコンテストでのジョニー・ハートマンの見事な歌唱に感銘を受けたジャズ界のトップ・ピアニスト、アール・ハインズは、自己のバンドでの1週間の短期出演契約を結びます。この契約は、ジョニー・ハートマンのヴォーカルが期待以上の支持を受けたこともあり、何度も延長され結局1年間続くこととなりました。 

プロデビュー後の最初の本格的演奏活動が、ジャズ界のトップ・アーティスト アール・ハインズとの共演だったにより、自然にジャズ界からの注目を得られたことは、その後、彼がキャリアを順調に積んで行く上で大いに役立ちました。 実際アール・ハインズ・オーケストラが解散した直後、当時ジャズ界で高い人気を誇っていたジャズ・トランペット奏者ディジー・ガレスピーもその才能に注目しジョニー・ハートマンを自己のビッグ・バンドに招聘、8週間のカリフォルニア・ツアーを行っています。このツアーにより、それまでニューヨークを中心にアメリカ東海岸だけで活動していたジョニー・ハートマンの人気や知名度は西海岸でも高まっていくこととなります。 ディジー・ガレスピーバンドを退団後は、ジャズ・ピアニストのエロル・ガーナーバンドの専属を経て、1950年代からは、どのバンドにも属さず、独立したジャズ・ヴォーカリストしての活動を開始します。 独立後はさまざまなジャズのビッグバンドと共演し数枚のシングル・アルバムを録音、発表した後、1955 年にジャズ界の人気トランペット奏者ハワード・マギー率いるカルテットをバックに従え、念願であった初のソロアルバム『ソングス・フロム・ザ・ハート(Songs from the Heart)』を、当時の有力ジャズ・レーベル、ベツレヘム・レコードからリリースします。このアルバムの中でジョニー・ハートマンは『セプテンバーソング(September Song)』など、ロマンチックで優しさを感じさせるバラード歌唱を披露するだけでなく、ミディアム・テンポの『I'm Glad There Is You』などではスウィング感を十分に醸し出した歌唱を繰り広げ、この幅広い表現力、歌唱技術と独特の甘美な歌声はジャズ界で高く評価されます。

 

そして2年後の1957年に2枚目のアルバムとなる『オール・オブ・ミー:ザ・デボネア・ミスター・ハートマン(All of Me: The Debonair Mr. Hartman)』を、デビュー・アルバムに続きベツレヘム・レコードからリリースします。当時人気の有ったアーニー・ウィルキンス率いるジャズ・オーケストラがバックを務めたこの アルバムでも、『星影のステラ(Stella by Starlight)』等のバラードでは情感豊かな歌唱を、そしてタイトル曲『オール・オブ・ミー(All of Me)』や『ブルースの誕生(The Birth of the Blues)』などのややアップテンポの曲ではスイング感溢れる歌唱を繰り広げて、またもや高い評価を得ます。

 

そして1963年には、当時ジャズ界で絶大な人気を誇っていたジャズ・サクソフォン奏者ジョン・コルトレーンから、共演アルバム制作のオファーを受けます。このオファーはコルトレーンが所属していたレコード会社Impulse(インパルス)からなされました。

今回ご紹介するアルバム『ジョン・コルトレーン&ジョニー・ハートマン(John Coltrane &Johnny Hartman)』はジョン・コルトレーンにとってヴォーカリストが参加した唯一のアルバムであり、その事は当時のジャズ界で大きな反響を呼びました。またジョニー・ハートマンの高い歌唱力は、彼のジャズ・ヴォーカリストとしての名声を更に高めることになりました。このアルバムの反響の大きさや好売上も相まって、ジョニ―・ハートマンはさらに 4 枚のソロ・アルバムを同じ レコード会社Impulse(インパルス)から発表することができました。

 

しかし人気と名声を確立しつつ有あった1960 年代半ば頃から、音楽愛好層の志向は、ジャズからロックンロールやポップスに急激に移ろい始めて行き、ジョニー・ハートマンは困難な時代を迎えることになります。この時期 ジョニー・ハートマンはジャズを唄うことが許されていたニューヨークやシカゴ等大都市のカクテルラウンジで細々と演奏活動を続ける一方、当時本国アメリカとは逆にジャズの人気が高まりつつあった他国に目を向けるようになります。オーストラリアで地元テレビ局と共同のジャズの特別番組を制作し自ら出演、また、1967年にジョン・コルトレーンが亡くなった後には、ジョン・コルトレーンへのトリビュートアルバムを含む数枚のアルバムを日本のトリオ等のレコード・レーベルから発表する、等の活動を行っています。

そしてこの様な地道な活動が評価され、 1981年のグラミー賞では最優秀男性ジャズ・ヴォーカリスト賞にノミネートされました。

その後も、世界各地のジャズフェスティバルやテレビ、ラジオ等で演奏活動を行っていましたが、肺癌を患い、闘病の後に1983年ニューヨーク市内の病院で惜しまれつつ60年の生涯を閉じました。

死後10年以上経った1995年に公開され世界的ヒットになった映画『マディソン郡の橋』の中で、監督・主演を務めたクリント・イーストウッドは、ジョニ―・ハートマンのアルバム『ワンス・イン・エブリ・ライフ』から4曲もの収録曲を使用し、その深い敬愛の情を示しました。

 

今回ご紹介する『ジョン・コルトレーン&ジョニー・ハートマン(John Coltrane &Johnny Hartman)』は、Impulseレーベルから発売されていたジョン・コルトレーンの一連のアルバム全てでプロデューサーを務めていたボブ・シールが、かねてからジョニー・ハートマンのヴォーカルに関心を持っていたジョン・コルトレーン自身からの要請を受け1963年に共演オファーを行い、制作が実現したものです。そのオファーを受けた時はジョニー・ハートマンは半信半疑だった様で、「ジョンが私が歌っているような曲を演奏するかどうかは分からなかった」と後に語っています。

しかしジョン・コルトレーン・カルテットが出演していたニューヨークの「バードランド」等のジャズ・クラブにジョニ―・ハートマンが赴き、閉店後に何回かリハーサルを重ねている内に、ジョニー・ハートマンとジョン・コルトレーン、そしてマッコイ・タイナーらジョン・コルトレーンカルテットのメンバーは全員意気投合、アルバム作りへの手応えを感じ始め、正式にImpulseのスタジオでの録音セッションが行われることになったと言われています。

 

このアルバムでは、ジョニー・ハートマンの感情表現豊かなバリトンの歌声と、ジョン・コルトレーンの普段よりやや抑えめの優しく甘美なテナーサクソフォンの音色がうまく絡み合い、特に、多くのジャズ・アーティストが演奏してきたスタンダードのバラード曲「My One And Only Love」と「Lush Life」が、ジャズ史上最高の名演の一つと讃えられてきています。 

 

ジョニー・ハートマン『ジョン・コルトレーン&ジョニー・ハートマン(John Coltrane & Johnny Hartman)』

 

 

1. ゼイ・セイ・イッツ・ワンダフル - They Say It's Wonderful

2. デディケイテッド・トゥ・ユー - Dedicated To You

3. マイ・ワン・アンド・オンリー・ラヴ - My One And Only Love

4. ラッシュ・ライフ - Lush Life(Billy Strayhorn)

5. ユー・アー・トゥー・ビューティフル - You Are Too Beautiful

6. オータム・セレナーデ - Autumn Serenade

 

BarBarBar音楽院は、長年ジャズの街横浜で現役一流ジャズ・アーティストの講師陣によるレッスンを提供して参りました。その経験からトップアーティストによる様々な演奏をより多く聴く事が歌や楽器のレッスンに大きな効果をもたらす事を実感しています。

ジャズ・ヴォーカルのレッスンを受けている方、ジャズ・サクソフォンやジャズ・ピアノ、ジャズ・トランペット、ジャズ・ベース、ジャズ・ドラム等の楽器のレッスンを受けている方、そしてこれからこれらのレッスンを受けようと思っていらっしゃる方にも、ジャズスタンダード曲やポップスの名曲等ジャンルを超えた演奏が聴けるこのアルバムはお薦め出来る一枚です。

 

 

 

 


エイミー・ワインハウス

『 アット・ザ・BBC (AT THE BBC) 

今月のお薦めの1枚〜ジャズ・ヴォーカル編は、エイミー・ワインハウスの『アット・ザ・BBC(At The BBC)』です。

エイミー・ワインハウス(Amy Winehouse)は、2003年発表のデビュー・アルバム『フランク(Frank)』がミリオン・セラーになり、瞬く間に世界的な人気を博したイギリス出身のヴォーカリストです。

このデビュー・アルバムでは、当時まだ若干20歳のエイミー・ワインハウスが、スイング時代のビッグバンドや黎明期のソウル・ミュージック等のレトロなサウンドをバックに、往年のジャズ・ヴォーカリスト ビリー・ホリデーやエラ・フィッツジェラルドを彷彿とさせる情感豊かな歌唱を堂々と繰り広げたことが人気を博し、世界的なヒットに繋がりました。


その後も世界中で人気は高まり、2008年にはグラミー賞の主要部門を含む5冠を獲得するなどして将来を嘱望されていましたが、私生活ではアルコールや薬物関係での多くのトラブルやスキャンダルが続き、27歳の若さで死去してしまいます。しかし逝去後も類稀なるヴォーカリストとして才能や、短いながらも劇的だった生涯をストレートに反映させた彼女のオリジナル曲は世界中のファンを魅了し続けています。       

音楽界でも、ジャズ・ヴォーカリストの大御所トニー・ベネットや、ロック界の重鎮 元ローリング・ストーンズのミック・ジャガー、そしてポップス界の代表的アーティストのレディ・ガガ、アデル等、当代を代表する多くのアーティストたちが今尚賞賛を送り続けています。


エイミー・ワインハウスは、1983年9月14日にイギリス・ロンドン郊外の街エンフィールドで生まれました。ジャズ愛好家のユダヤ系の両親が収集していたダイナ・ワシントン、ビリー・ホリデー、エラ・フィッツジェラルド、フランク・シナトラ、トニー・ベネットなどのジャズ・ヴォーカルのアルバムを幼少期から聴いて育ち、彼女の叔父もプロのジャズ・ミュージシャンであったことから、自然にジャズに親しむようになります。
13歳の時に両親にギターを買ってもらい、さらに音楽にのめり込むようになったエイミー・ワインハウスですが、当時在籍していた演劇学校では、禁止されていたピアスを付けたり、タトゥーを入れたことが原因で退学処分になります。これを契機に16歳で本格的にプロのミュージシャンを目指すことを決意、イギリス国内のレコード会社にデモ・テープを送り続けるようになります。そしてその内の一つが、ロンドンの「アイランド・レコード」社で高い評価を受け、同社から2003年にデビューアルバム『Frank』をリリースします。 そして前述の様にこのアルバムがミリオン・セラーとなり、エイミー・ワインハウスは一気に世界的アーティストの位置まで駆け上がることとなります。

 

その3年後、2007年に発表したセカンド・アルバム『Back to Black』も全世界で1200万枚を超える大ヒットとなり、2008年2月の第50回グラミー賞で年間最優秀レコード賞を含む5部門を受賞する快挙を成し遂げました。

 このセカンド・アルバムもデビュー・アルバムと同様に30年代のスイング・ジャズや60年代のレトロなソウルやリズムアンドブルースを想起させるバック・バンドのサウンドと、彼女のハスキーで力強く情感豊かな唱法のコンビネーションが高く評価されました。この様な彼女の歌唱スタイルは幼少期から聴き続けていた往年のジャズ・ヴォーカリストらの影響を大きく受けたことによるものでしたが、このスタイルが、やや閉塞感の有った2000年初頭の音楽シーンにおいて、ある種の新鮮さを持って迎えられたことが、エイミー・ワインハウスの短期間での世界的な成功に繋がっている要因の一つと、多くの音楽評論家は指摘しています。

 

若くして多くの名声を得た彼女でしたが、私生活ではアルコール依存症の悪化からか、暴行やコカイン使用などの常軌を逸した行動を行う様になり、何度も逮捕され、アルコール依存症リハビリ施設への入退所を繰り返します。そして2007年28歳の時、ミュージック・ビデオの制作業界の男性と結婚しますが、この結婚相手が薬物中毒で有ったため、夫婦ともに薬物中毒となってしまい、この結婚生活は僅か2年間で破綻、離婚します。

 5冠を達成した2008年2月の第50回グラミー賞授賞式で、彼女はイギリスからアメリカ・ロサンゼルスに行き、そのステージに立つ予定でしたが、過去の逮捕歴を理由に米政府が入国ビザの発給を拒否。結局、ロサンゼルスの受賞会場に行くことはできず、ロンドンから衛星生中継で参加することを余儀なくされました。

 この様に心身ともに疲弊した状態が続いていた彼女ですが、2011年には心機一転 本格的な復帰を目指して同年6月からヨーロッパ・ツアーを開始します。しかし、セルビアで開催された野外コンサートでは、開始時間を大幅に遅れて登場したうえ、泥酔していてまともに歌うこともできない状態で、途中何度もステージを中断。観客からはブーイングが起こります。そしてその後のヨーロッパ・ツアーの公演は全て中止となり、治療に専念することとなります。

こうした立て続けのスキャンダルはタブロイド紙などでも数多く取り上げられ、彼女はパパラッチの格好の対象となり、更に精神的に追い詰められていったようです。そのような過酷な状況が続く中、2011年7月23日、彼女はロンドンの自宅で、遺体となって発見されます。死因はアルコール中毒による事故死と断定され、27年の短い生涯を閉じることになりました。

 

エイミー・ワインハウスの実質的な活動期間は僅か8年でその間に2作のアルバムと9作のシングルを発表しているだけです。

しかしこれらのリーダー・アルバム以外にも、ジャズ界の代表的音楽プロデューサーで作・編曲家の クインシー・ジョーンズへのトリビュート・アルバム『Q Soul Bossa Nostra』や、彼女が幼少期から憧れていたジャズ・ヴォーカリスト トニー・ベネットのアルバム『Duets II』などのレコーディングに参加しており、これらのアルバムでも彼女の歌唱は聴くことができます。

 

そして2020年3月には、エイミー・ワインハウスの公式インスタグラムが生前彼女の音楽活動に関わった関係者の手により開設され、ここでも、生前母国イギリスの代表的放送局BBC(イギリス放送協会)の音楽番組に出演した時の歌唱の収録動画やインタビュー動画などを観ることができます。

https://www.instagram.com/amywinehouse/?utm_source=ig_embed&ig_rid=60796238-f61a-48c9-ad3b-4c7a4f99c2b8


今回ご紹介する『アット・ザ・BBC(At The BBC )』は、2004年から2009年にかけてBBC(イギリス放送協会)の音楽番組に出演時の歌唱を収録した音源の中から、「Lullaby of Birdland(バードランドの子守唄)」、「I Should Care」等のジャズのスタンダード曲や、アルコール依存者向リハビリ施設に入る前の揺れ動く心情を赤裸々に映し出した彼女の代表的オリジナル曲「リハブ(Rehab)」等を集め2枚組のアルバムにしたものです。


このアルバムの音源が収録された時期は、不安定な精神状態では有ったものの、母国イギリスの出身地に近く当時自宅も構えていたロンドンの放送局での収録ということで少しはリラックスし収録に臨んでいることが伺われます。そして彼女の特徴の一つのダイナミックなフレージングを惜しみなく披露する一方、曲調に合わせ、時に繊細且つ情感豊かな表現も駆使しながら全20曲を見事に歌い上げています。

 

 

 エイミー・ワインハウス『アット・ザ・BBC(At The BBC)』

 CD 1

1.Know You Now

2.Leicester

3.Fuck Me Pumps

4.In My Bed

5.October Song

6.You Know I'm No Good

7.Rehab

8.Just Friends

9.Love Is a Losing Game

10.Best Friends, Right?

11.I Should Care

12.Lullaby of Birdland

13.Valerie

14.To Know Him Is to Love Him

 

CD 2

1.Tears Dry on Their Own

2.You Know I'm No Good

3.Love Is a Losing Game

4.Rehab

5.Mr & Mr. Jones

6.You Know I'm No Good

 

 BarBarBar音楽院は、長年ジャズの街横浜で現役一流ジャズ・アーティストの講師陣によるレッスンを提供して参りました。その経験からトップアーティストによる様々な演奏をより多く聴く事が歌や楽器のレッスンに大きな効果をもたらす事を実感しています。

ジャズ・ヴォーカルのレッスンを受けている方、ジャズ・ピアノやジャズ・サクソフォン、ジャズ・トランペット、ジャズ・ベース、ジャズ・ドラム等の楽器のレッスンを受けている方、そしてこれからこれらのレッスンを受けようと思っていらっしゃる方にも、ジャズスタンダード曲やポップスの名曲等ジャンルを超えた演奏が聴けるこのアルバムはお薦め出来る一枚です。

サマラ・ジョイ

『リンガー・アホワイル (Linger Awhile)

今月のお薦めの1枚〜ジャズ・ヴォーカル編は、サマラ・ジョイの『リンガー・アホワイル(Linger Awhile)』です。


サマラ・ジョイは、近年ジャズ界に彗星の如く現れた現在24歳の新進気鋭のジャズ・ヴォーカリストです。2021年、デビュー・アルバム「サマラ・ジョイ」を発表するやいなや、たちまち全米ジャズ界の注目を集め、ジャズタイムズ誌(アメリカの権威有るジャズ専門誌)の最優秀新人アーティストに。そして2022年、今回ご紹介するセカンド・アルバム『リンガー・アホワイル』がグラミー賞最優秀ジャズ・ボーカル・アルバム賞に選出されたことからもその実力と人気の高さを窺い知ることが出来ます。

 サマラ・ジョイ・マクレンドンは、1999年11月11日にアメリカ ニューヨーク市ブロンクス地区で生まれました。この地区は1980年代後半以降、ヒップホップやブレイクダンス等、現代を代表する新しいジャンルの音楽やダンスのムーブメントを発信し続ける地として世界的によく知られています。しかし彼女は、祖父母が著名なゴスペル・グループの創設者、父親もジャズやソウル・ミュージック、ゴスペルを演奏するプロボーカリスト兼べーシスト、と言う家庭環境で育った為か、幼少時から自然に親しんでいた伝統的なジャズやソウル、ゴスペルの方に興味を示していきました。そして地元のフォーダム芸術高校に入学したサマラ・ジョイは、同校のジャズバンドに加わりヴォーカリストとしての活動を始めます。在学中に、ニューヨークのジャズ・アット・リンカーン・センター(芸術監督は世界的ジャズ・トランペット奏者ウイントン・マルサリス)主催の高校生対象コンテスト“エッセンシャル・エリントン・フェスティバル”に出場し、見事“最優秀ヴォーカリスト”を受賞、早くも頭角を現します。

 高校卒業後はニューヨーク州立大学パーチェス・カレッジに進学し、ジャズ・プログラム声楽コースを専攻しますが、そこでも学業優秀者として、同大学に設立されていたエラ・フィッツジェラルド記念奨学金の貸与生に選ばれています。同大学在学中は講師陣らの薦めもあり、ジャズ・ボーカル界のレジェンドであるサラ・ヴォーンやエラ・フィッツジェラルドなどの歌唱をこれまで以上に熱心に聴き込む様になり、この事が自分のジャズ・ヴォーカリストとしてのスキルアップに大きく役立った、と後に彼女は語っています。また講師陣やクラスメートの人脈を介し、ニューヨーク ジャズシーンのトップアーティストであるジャズドラム奏者ケニー・ワシントンやジャズトランペット奏者ジョン・ファディスなどと知り合い、彼らからジャズ全般の多くのことを学ぶ事が出来たのも幸運でした。

 そして大学在学中の2019年には、ジャズボーカリストの世界的な登竜門の一つであるサラ・ヴォーン国際ジャズボーカルコンクールに於いて、若干20歳にして見事優勝を果たします。この優勝が契機になり、ジャズ・プロデューサーで、その後彼女のマネージャーにもなるマット・ピアソンとのコラボレーションが始まり、先ずデビュー・アルバムとなる『サマラ・ジョイ』の音源をレコーディングします。そして2021年にニューヨーク州立大学パーチェス・カレッジを優秀な成績で卒業すると、在学中にレコーディングしていた『サマラ・ジョイ』は同年7月9日に、Whirlwind Recordingsレーベルから満を持してリリースされ、前述のように、ジャズ・タイムズ誌の2021年最優秀新人アーティストに選出される等ジャズ界で大きな反響を呼ぶことになります。そして、その魅力はジャズ界だけではなく、地元ニューヨークのミュージカル業界関係者からも注目されるようになり、ブロードウェイで当時上演されていたミュージカル「ポーギーとベス」のPR用ミュージックビデオにも抜擢起用されます。その中で歌い上げた劇中曲の「サマータイム」は素晴らしく、そのミュージックビデオ制作を指揮した映画監督レジーナ・キングはインタビューの中で、彼女のことを「サラ・ヴォーンとエラ・フィッツジェラルドが体の中に生きているかのような若い女性」と呼び、絶賛しました。

このミュージックビデオの他にも、サマラ・ジョイはパフォーマンスを収録した多くのビデオ制作を行い、YouTube、TikTok等のSNS上で次々と発表。これらのビデオの一つが2021年10月時点でYouTube上で再生回数150万回以上、TikTok では全世界で200,000 人以上のフォロワーを獲得するまでになりました。このSNS上でのプロモーションの成功を受けて彼女がヨーロッパツアーを行った際、その人気はイタリアとオーストリアでの一連のコンサートのチケットが即完売となった程でした。そして2021年から2022年にかけては、20代前半のジャズ・ヴォーカリストとしては前例のなかった全米ツアーを敢行する一方、世界最大ジャズイベントであるモントレー・ジャズ・フェスティバルやニューポート・ジャズ・フェスティバル、そしてリンカーン・センター・サマー・フォー・ザ・シティ、ウィンター・ジャズフェスト等の多くの有名ジャズ・フェスティバルに次々と出演し、更に知名度、人気を不動のものにして行きます。

 そして2022年には二度にわたり、デビュー以来活動を共にしていたジャズ・ギター奏者のパスクワーレ・グラッソとともに、全米で最も歴史がある人気TVニュースショー番組「トゥデイ」に出演し、歌唱を披露。全米での認知度は更に高まります。また同年6月に開催された、世界的音楽ホール ニューヨーク カーネギーホールの年次注目アーティストを紹介するイベントの中でも、サマラ・ジョイの特集が組まれました。

 またこの頃から彼女はジャズ界の著名アーティストとの共演活動も積極的に開始する様になり、人気ジャズ・ピアニストのベン・パターソンやジュリアス・ロドリゲス、ジャズ・ドラマーのケニー・ワシントン(前述)等とライヴやアルバム制作で共演を重ねていきます。(中でもピアニスト、ドラマー、プロデューサーとしてマルチに活躍する奇才ジュリアス・ロドリゲスのアルバム『Let Sound Tell All』の中でフューチャリングされた“In Heaven”は圧巻!)

また 2022年冬には、世界的に有名なビッグバンドのジャズ・アット・リンカーン・センター・オーケストラが行ったホリデー・ツアーにも参加。これらジャズ界の著名アーティスト、グループの共演を通してジャズ界での高い評価を更に着実なものにして行きます。

 そして2022年9月16日に、彼女にとってはセカンドアルバムになる『リンガー・アホワイル(Linger Awhile)』をVerve Recordsからリリース。このアルバムも大きな反響を呼び、今年2023年のグラミー賞で最優秀ジャズ・ヴォーカル・アルバム賞を受賞。同時にサマラ・ジョイ自身はジャズ部門の最優秀新人アーティスト賞も受賞すると言う、近年のジャズ界では珍しい二冠受賞の快挙を見事に達成しました。

 このアルバムでサマラ・ジョイはスタンダード曲をヴォーカリーズのスタイル(楽器のソリストが即興で演奏した有名なメロディにオリジナルの歌詞を当てはめて歌う手法)などを用いて彼女流にアレンジし、その新たなスタンダードの世界を、パスカーレ・グラッソ(g)、ベン・パターソン(p)、デイヴィット・ウォン(b)、ケニー・ワシントン(ds)という気心の知れた名手たちがより魅力的な音楽に創り上げています。この、時代を超えた世界観と歌唱力は従来のジャズファンだけではなく幅広いオーディエンスの心を掴むのではないか、と感じます。

この作品について彼女は、“サラ・ヴォーンやビリー・ホリディ、エラ・フィッツジェラルド、ベティなど、私の最も偉大なヴォーカルのインスピレーションの源であるアーティストが多数在籍するヴァーヴの一員になれてとても光栄です。この系譜の一部であることは少し恐れ多いですが、私はシンガーとして、アーティストとして自分自身のユニークな旅を追求するために、彼女たちから得た全てのインスピレーションを大切にしたいと思っています“と語っているそうです。

 

サマラ・ジョイ(Samara Joy)

リンガー・アホワイル (Linger Awhile)


1.  Can’t Get Out of This Mood

2.  Guess Who I Saw Today

3.  Nostalgia

4.  Sweet Pumpkin

5.  Misty

6.  Social Call

7.  I’m Confession’

8.  Linger Awhile

9.  ‘Round Midnight

10.  Someone To Watch Over Me

 

BarBarBar音楽院は、長年ジャズの街横浜で現役一流ジャズ・アーティストの講師陣によるレッスンを提供して参りました。当音楽院でジャズ・ヴォーカルや、ジャズ・サクソフォン、ジャズ・トランペット、ジャズ・ピアノ、ジャズ・ベース、ジャズ・ドラム等のレッスンを受けている方、そしてこれから当院でこれらのレッスンを受けようと思っていらっしゃる方にも、次世代のジャズシンガーとして世界が注目するサマラ・ジョイの新しい解釈のスタンダードが聴けるこのアルバムは、是非お薦めしたい一枚です。


ペギー・リー

『ブラック・コーヒー(Black Coffee with Peggy Lee) 』

今月お薦めの1枚~ジャズ・ヴォーカル編は、1940年代から1990年代後半まで半世紀以上に渡り、ジャズ・ヴォーカリストとして、数多くのジャズ界のトップ・アーティストと共演してきたペギー・リーが、1956年36歳の時に、当時の人気ジャズ・レーベルの一つデッカ・レーベルから5枚目のリーダー・アルバムとして発表し、ジャズ界で高い評価を得た「ブラック・コーヒー(Black Coffee with Peggy Lee)」を選び、ご紹介したいと思います。 

ペギー・リーは、1920年5月26日に、アメリカ ノースダコタ州のジェームズ・タウンと言う小さな街で、7人兄妹の末っ子として生まれました。

幼少期に実の母親が亡くなったあと父親が再婚し、その継母はペギー・リーに非常につらく当たり始めます。

その頃に彼女の唯一の慰めとなっていたのが、家に有ったにラジオから流れる音楽であった様で、自然に音楽、特にジャズに興味を覚え、聞き覚えの有る曲を歌う様になります。その後もずっと歌唱を独学していたペギー・リーは幸いにも、地元ノースダコタ州のKOVCと言うラジオ局で、歌を披露する機会に恵まれます。

そしてヴォーカリストとしての才能を評価された彼女はすぐに自分自身のラジオ番組を得ることが出来ました。

そしてこの番組のスポンサーは地元のレストランで、番組出演の見返りの報酬として料理を提供してくれていた様で、家庭では余り居場所のなかった彼女にとってはようやく見つけた心地よい環境だった様です。

そして地元の高校在学中も卒業後も、ペギー・リーはラジオ局の仕事以外にもウエイトレス等、目についた仕事全てを行なっていた様です。 

その頃、ノースダコタ州で最も人気の有るラジオ局ファーゴのラジオパーソナリティであったケン・ケネディの提案により、彼女は出生名のノーマ・デロリス・エグストロームから「ペギー・リー」と名乗ることとなりました。

そして高校卒業後も続く継母の虐待に耐えかねた彼女は、17歳で家を出て、本格的にヴォーカリストとしての道を歩むために、ロサンゼルスに移住します。その後、ペギー・リーは扁桃腺の手術のためノースダコタへ戻りますが、その滞在中、当時アメリカのジャズ界で人気を博し始めていたジャズ・クラリネット奏者ベニー・グッドマンの楽団のアンバサダー・ホテルのクラブ「バッテリー・ルーム」でのコンサートにゲスト出演者として呼ばれます。

このことがきっかけで彼女は1941年にベニー・グッドマンの楽団に参加して2年間専属ヴォーカリストを務めますが、この時期が、同楽団が最もアメリカ中に名前が知れ渡った時期と重なり、それと共にペギー・リーの知名度、人気も飛躍的に伸びることになります。

ベニー・グッドマン楽団に在籍時の1942年初頭、ペギー・リーは初めての全米ヒット・チャートの1位となる「誰かが邪魔した」(Somebody Else Is Taking My Place)を発表。続けて翌1943年には「Why Don't You Do Right?」をリリース。この曲は100万枚以上の売り上げを記録し、ペギー・リーの名を大きく知らしめることになります。1943年に発表・上映された2つの映画『Stage Door Canteen』と『The Powers Girl』では、ペギー・リーはベニー・グッドマン楽団をバックに歌唱を披露しています。

そして1943年3月、ペギー・リーはベニー・グッドマン楽団のジャズ・ギタリストであったデイヴ・バーバーと結婚。その後2人は楽団を脱退し、デイヴ・バーバーはスタジオで勤務、ペギー・リーも一旦音楽活動を休止して、生まれてきた娘ニキの子育てに専念していました。しかし彼女は1944年には、創設間もないキャピトル・レコードに作曲者および歌手として所属することになります。

このレーベルで彼女は数多くのヒット曲を産みだしましたが、これらの多くはペギーと夫デイヴによる作詞・作曲によるものでした。例えば「I Don't Know Enough About You」やIt's a Good Day, 1946年」などが挙げられますが、その後、1948年のレコード年間売り上げ1位となるヒットを記録した「マニャーナ」(Mañana)のリリースにより、ペギー・リーは本格的に音楽界に復帰することになります。

1948年には、ペギーはペリー・コモやジョー・スタッフォード等、他の人気ジャズ・ヴォーカリストと共に、全米で放送されていたNBCのラジオ音楽番組『Chesterfield Supper Club』の司会者となり、更に人気を不動のものにします。

夫デイヴとは、作詞・作曲の共同作業を行っていたペギーですが、二人は1951年に離婚。そして離婚とほぼ同時期に、それまで二人が共同作業で数々の曲を制作して発表して来たレコード・レーベルのキャピトル・レコードを離れることになります。 

しかしその数年後に同レーベルに復帰し、多くのアルバムをリリースし、結果的にペギ・リーとキャピトル・レコードレーベルとの関係はほぼ30年間にも及びました。 

その他、デッカ・レコードとも1952年から1956年まで契約していましたが、この間も今回ご紹介する、当時高い評判を呼んだ「Black Coffee」をリリースするしたり、「Lover」や「Mr. Wonderful」などのヒットソングのシングル盤をリリースする等、4年間という短い期間でしたが、レコーディング・アーティストとして充実した期間を送っていた様です。

またぺギー・リーは作曲の才能も持ち合わせ、例えばディズニー映画「わんわん物語」の劇中歌を作曲、自身で歌ったりしていた他、いくつかの曲を作曲しています。また1952年公開の「ジャズ・シンガー」や1955年公開の「ピート・ケリーズ・ブルーズ」等、ジャズ関連の映画にも女優として出演しており、特に「ピート・ケリーズ・ブルーズ」でのアルコール中毒のブルース歌手役の演技は高い評価を得、アカデミー賞にもノミネートされたほどでした。

この様にヴォーカリストとしてだけでなく、作曲家、女優としても多岐に渡り活躍して来たペギー・リーですが、1990年代に入り体調の悪化に伴い、引退を余儀なくされ、数年間の闘病生活の後、2002年1月21日に、糖尿病と心臓疾患の合併症により、長年在住していたロサンゼルスで81年の生涯を閉じました。

今回ご紹介する「ブラック・コーヒー(Black Coffee with Peggy Lee)」は、1956年、デビュー後15年目の36歳という、アーティストとして円熟期に入っていたペギー・リーが、当時の人気ジャズ・レーベルの一つでデッカ・レーベルから5枚目のリーダー・アルバムとして発表したもので、当時の音楽界で高い評価を得ました。以来、このアルバムの人気は長年続き、今でもジャズ・ヴォーカルの名盤の1枚として認められることも多い様です。



ペギー・リーPeggy Lee     ブラック・コーヒー

Black Coffee with Peggy Lee


1.Black Coffee

2.I’ve Got You Under My Skin

3.Easy Living

4.My Heart Belongs To Daddy

5.A Woman Alone With The Blues

6.I Did’nt Know What Time It Was

7.When The World Was Young

8,Love Me Or Leave Me


このアルバムでは、ペギー・リーは長年の音楽界での盟友、ピアニストのジミー・ロウルズ率いるピアノ・トリオに、同じく盟友的トランペット奏者コーティ・チェスターフィールドを加えた小編成バンドをバックに、アルバムタイトル曲「ブラック・コーヒー」の他、「イージー・リビング」等のスタンダード曲を中心にした8曲を、ややハスキーな独特の歌声を駆使し、情感豊かに歌い上げています。

BarBarBar音楽院は、長年ジャズの街横浜で役一流ジャズ・アーティストの講師陣によるレッスンを提供して参りましたが、当音楽院でジャズ・ヴォーカルや、ジャズ・サクソフォン、ジャズ・トランペット、ジャズ・ピアノ、ジャズ・ベース、ジャズ・ドラム等のレッスンを受けている方、そしてこれから当院でこれらのレッスンを受けようと思っていらっしゃる方にも、このアルバムではトップ・ヴォーカリストによる、スタンダード曲を始めジャズの名曲の演奏が多く収録されていますので、ご参考用に是非お薦めしたいと思います。

ジューン・クリスティ

『サムシング・クール(Something Cool with June Christy) 』

今月のお薦めの1枚~ジャズ・ヴォーカル編は、ジューン・クリスティの 『サムシング・クール』”です。

ジューン・クリスティは、1930年代から1980年代まで半世紀近くに渡りジャズ界の第一線で活躍し、40枚近いアルバムを発表、スタン・ケントン楽団を皮切りに、数多くの著名バンド、著名奏者と共演したジャズ・ヴォーカリストです。

今回はジューン・クリスティが1954年29歳のに、当時の大手レコード・ーベル キャピトルコードから4枚目のアルバムとして発表した『サムシング・クール(Something Cool) 』を選びご紹介したいと思います。

ジューン・クリスティは、1925年11月20日にイリノイ州の州都スプリングフィールドで生まれました。 3歳のとに両親とともに同じイリノイ州ディケーターに引っ越しましたが、両親の不仲から恵まれない幼少期を送っていた彼女は、興味を持ち始めていた音楽、特に歌うことに没頭していた様で、才能もあったことからわずか13歳で地元ディケーターを拠点とするビル・エッツェル・オーケストラで歌い始めます。 地元ディケーター高校に通っている間も、エッツェル・バンド、ベン・ブラッドリー・バンド、ビル・マッデンズ・バンド等、地元に近い所を拠点にしている多くのバンドと共演しました。 この様な地元ディケーターでの積極的な演奏活動を通し、次第に他地域のバンド、アーティストに注目され始めた彼女はその後、イリノイ州シャンペーン近郊を拠点とするディレク・シスネ・オーケストラとも共演し、このバントと共に、遠くテキサスやルイジアナまで演奏ツアーを行うようになります。そして高校卒業後、ジュより多くの演奏活動の場を求め、同じイリノイ州内最大都市のシカゴに移り、アーティスト名をシャロン・レスリーに変更し、シカゴをあ拠点とするボイド・レイバーン率いるグループで歌い始めました。その後、彼女は同地で人気の有ったベニー・ストロングのバンドに参加しましたが、 このベニー・ストロングのバンドがニューヨーク市に拠点を移したことから、ジューン・クリスティも共にニューヨーク市に活動の場を移した様です。

1945年、人気ジャズヴォーカリスト、アニタ・オデイが、当時人気を博していたジャズ・ビッグバンド、スタン・ケントン楽団の専属ヴォーカリストを辞したことを聞き、同バンドのオーディションを受け、見事後任専属ヴォーカリストに選ばれます。この機会に、彼女は再びアーティスト名をジューン・クリスティに変更します。このスタン・ケントンバンドへの参加が、彼女のその後のアーティストとしてのキャリアとっての大きなターニング・ポイントになります。

スタン・ケントン楽団に参加後のジューン・クリスティは、その歌唱力が多くの聴衆に支持され、「シュー・フライ・パイ・アンド・アップル・パン・ダウディ」、1945年にミリオンセラーになった「タンピコ」、「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」など数多いヒット曲を生み出します。 実際「タンピコ」は数多いアルバムを数多く発表して来たスタン・ケントンバンドにとってさえ、最も販売数の多いレコードになりました。 1948年にスタン・ケントン・バンドが一時的に解散していた間も彼女は短期間ナイトクラブ等で歌い、2年後にバンドが再結成された際、ケントンのアルバムにゲスト・ボーカリストとして出演する形で再会を果たし、共演活動を繰り広げていきます。

 これらのアルバム録音活動だけでなく、1959 9 28 日からは、ロード ショーと呼ばれる 38 公演からなる 5 週間大規模ツアーを行います。 このツアーでの演奏は、『オールスターの出演』『スタン・ケントン&彼のオーケストラ』『ジューン・クリスティ、フォー・フレッシュメン』等のアルバムに収録されています。


ジューン・クリスティは1947年からスタン・ケンバンドとの共演活動を一旦離れ、ソロ活動を本格化。主に編曲家でバンドリーダーのピート・ルゴロとともに自身のレコードの制作・発表を開始しました。 1954年、彼女は、夫でマルチ楽器奏者のボブ・クーパー、アルトサックス奏者のバド・シャンクを含む著名なロサンゼルスのジャズ・アーテイストが参加しているルゴロのオーケストラと共演し、今回ご紹介する「サムシング・クール」をはじめ、いくつかのアルバムを制作・発表しました。これらのアルバムの完成度には彼女自身満足していた様で、特にアルバム「サムシング・クール」については、「私がレコーディングした中で唯一不満がなかったものだった」とまで語っています。

そしてこのアルバムは、当時アメリカ西海岸在住のアーティストが中心になり起こっていた『クール・ジャズ」ムーブメントの始まりにも重要な役割を果たしただけでなく、多くの聴衆に支持され、彼女の3枚目のアルバム『The Misty Miss Christy』と同様にトップ 20 チャートに見事ランクインしました。

1950年代から1960年代にかけては、CBS番組「アドベンチャー・イン・ジャズ」、エディ・コンドンの「フロア・ショー」、「ジャッキー・グリーソン・ショー」、「ザ・トゥナイト・ショー」(1955年)などのテレビ番組に出演し、更にナット・キング・コール・ショー、スターズ・オブ・ジャズ、スティーブ・アレン・ショー、ライブリー・ワンズ、ジョーイ・ビショップ・ショーの音楽系の数多くのテレビ番組にも出演し、人気・知名度を不動のものにして行きます。彼女はまた、テレビ初のスポンサー付きジャズ・コンサートであるタイメックス・オールスター・ジャズ・ショーI(1957年)にも出演し、ルイ・アームストロング、カーメン・マクレー、デューク・エリントン、ジーン・クルーパ等、錚々たるジャズ界のスター・アーティストとも共演を果たします。

この時期に、当時の有力ジャズメディアの一つ『ペンギン・ガイド・トゥ・ジャズ・レコーディングス』のライターであるクック・モートンとブライアン・モートンは、ジューン・クリスティの一連のアルバム作品を高く評価し、「ジューン・クリスティの健康的だが官能的である声は(楽器奏者の)即興演奏的な手段というよりは、長く制御されたラインと細かいビブラートの陰影を表現する楽器に近いと述べています。

 

この時期、彼女はヨーロッパ、南アフリカ、オーストラリア、日本への演奏ツアーも敢行しますが、大規模なツアーがボブ・クーパーとの結婚生活に悪影響を及ぼし始めた為か、1960年代までは大規模にツアーから徐々に撤退して行きます。

ジューン・クリスティのほとんどのアルバムでは、写真・イラストの違いを問わず、爽やかな微笑を浮かべた金髪童顔のポートレートがしばしば用いられていましが、その清楚な容姿に似合わぬ酒豪であった様です。男性相手に延々と飲んでも決して酔い潰れなかったとされ、ケントン楽団時代に彼女と呑み比べをして潰れなかった同僚はサックス奏者のアート・ペッパー一人だった、という逸話もあるほどでした。そのためか、1950年代後期以降は徐々にアルコール中毒に陥り、歌手にとって大事な喉を傷め、歌唱力を大きく損なう様になります。そして1960年代半ばに第一線から退き、半ば引退状態に入りました。後に1977年に日本のレコード会社の要請でアルバムを録音しましたが、既に往年の歌唱の精彩はなかった様です。そして長年の飲酒に起因する腎臓病により、1990年6月21日にカリフォルニア州シャーマン・オークスで65年の生涯を閉じました。

今回ご紹介する『サムシング・クール(Something Cool) 』は、ジューン・クリスティが1954年29歳のに、当時の大手レコード・ーベル キャピトルコードから4枚目のアルバムとして発表したもので、当時起こり始めていた『クール・ジャズ」ムーブメント上で重要な役割を果たしただけでなく、多くの聴衆に支持され、トップ20にチャートインした人気アルバムにもなりました。以降ジャズ・ヴォーカル史上全体でも代表的な名盤の1枚として認められることも多い作品です。

ジューン・クリスティ

June Christy

サムシング・クール

Something Cool

 1.Something Cool

2.It Could Happen To You

3.Lonely House

4.Midnight Sun

5.I'll Take Romance

6.A Stranger Called The Blues

7.I Should Care

このアルバムでは、バックは当時ジャズ界で最も活躍していたアレンジャーで指揮者のピート・ルグロ率いるジャズ・オーケストラが務めていますが、このオーケストラには夫のボブ・クーパや、バッド・シャンクら気心の知れたジャズ・アーティストが多く参加しており、リラックスした雰囲気の中で、伸びやかなかつダイナミックな歌唱を展開しています。

 

BarBarBar音楽院は、長年ジャズの街横浜で現役一流ジャズ・アーティストの講師陣によるレッスンを提供して参りました。当音楽院でジャズ・ヴォーカルや、ジャズ・サクソフォン、ジャズ・トランペット、ジャズ・ピアノ、ジャズ・ベース、ジャズ・ドラム等のレッスンを受けている方、そしてこれから当院でこれらのレッスンを受けようと思っていらっしゃる方にも、ジャズのスタンダードや名曲のトップアーティストによる演奏が聴けるこのアルバムは、是非お薦めしたい一枚です。