ロイ・ヘインズ 『ウイ・スリー(We Three) 』
今月お薦めの一枚〜ジャズ・器楽編は、ロイ・ヘインズの『ウイ・スリー(We Three)』です。
ロイ・ヘインズは1942年に若干17歳でのプロ・デビュー以来70年以上にわたり、アメリカ・ジャズ界の第一線で活躍してきたジャズ・ドラマーです。 ジャズアーティスト史上、最も多くのレコーディングに参加してきたアーティストの一人と言われています。
スイング、ビバップ、ジャズフュージョン、アバンギャルドと時代の変遷とともに現れたジャズの新しいジャンルに挑戦し、絶えずジャズ・ドラミングの分野で先駆的な役割を果たしてきました。
ロイ・ヘインズは1925年3月13日にマサチューセッツ州ボストンで、バルバドスからの移民であるグスタバスとエドナ・ヘインズの両親の下に生まれました。
幼少期からジャズを始め音楽全般に深い興味を示していたロイ・ヘインズはやがてジョー・ジョーンズ、ケニー・クラーク、マックス・ローチらジャズ・ドラマーの演奏に大きく感銘を受け、ジャズドラマーの道に進むことを決心します。 因みに弟のマイケルは、音楽の道に進んだ兄とは違い、若い頃からマサチューセッツ州の黒人コミュニティの重要人物として公民権運動中に傾注。その後マーティン・ルーサー・キングととも活動するまでになり、マサチューセッツ州を代表する政治活動家になったようです。
ロイ・ヘインズは1942年17歳の時に生まれ故郷のボストンでプロデビューし、デビュー後しばらくはローカルのいくつかのバンドで演奏を続けた後、キャリア・アップを目指して1945年20歳の時にニューヨークに移住します。
そしてニューヨークでは、当時のジャズ界で高い人気を誇っていたジャズ・テナーサクソフォン奏者レスター・ヤングに演奏を聴いてもらう機会が訪れ、レスター・ヤングはその場でロイ、ヘインズの才能を高く評価、1947年から自らが率いるレスター・ヤング楽団のドラマーに招聘します。 レスター・ヤング楽団への参加は、若いロイ・ヘインズにとってジャズ界での名声・人気の確立に大いに役立つこととなります。
2年間のレスター・ヤング楽団での演奏活動の後、1949年からは、当時スイング・ジャズに代わる新しいジャズのスタイル、ビバップを創出しその普及を推し進めていたジャズ・アルトサクソフォン奏者、チャーリー・パーカーのクインテットに参加することになります。 参加当初は、チャーリー・パーカーが指示するこれまで経験したことのないようなビバップ特有の曲を演奏することに戸惑うことも多かったようですが、やがてチャーリー・パーカーのリーダーとしての意図を十分に理解したドラム演奏ができるようになり、信頼を得ていったようです。 チャーリー・パーカークインテットには1952年まで3年間在籍しましたが、この間の演奏活動を通じて、ロイ・ヘインズはビバップ等の新しいジャズスタイルにも対応できる高い技術と音楽性を備えたジャズドラマーとなり、名声を更に不動のものにしていきます。
そしてチャーリー・パーカークインテット離脱後はミルト・ジャクソン、マイルス・デイヴィス、バド・パウエル、セロニアス・モンク等ビバップ・ジャズを推し進める多くのアーティストから共演オファーが舞い込み始め、これらのアーティストと数多くのアルバム制作やライヴ活動を行います。 しかし余りにも多くのアーティストとの様々なバンドでの活動に疲弊したロイ・ヘインズは、もっと落ち着いた演奏活動を求めて、1953年からはジャズ・ボーカリスト サラ・ヴォーンの専属伴奏者としてだけの活動に専念するようになります。
そして1958年に5年間在籍したサラ・ヴォーンのグループを辞したロイ・ヘインズは再びニューヨークのジャズ・シーンにカムバックを果たし、それまでの5年間のブランクを埋めるかの様に精力的にニューヨークの様々なジャズ・クラブでの演奏活動を展開していきます。まずは超絶技巧のジャズ・ピアニストとして知られるフィニアス・ニューボーンと、ベースには名手としてジャズ界で高い評価を受けていたポール・チェンバースを迎え自己のトリオを結成。4月より人気ジャズクラブ「ファイブ・スポット」でのレギュラー出演、同年秋には毎週月曜に同じく人気ジャズクラブ「バードランド」にレギュラー出演する様になります。 そして11月にはこのトリオで今回ご紹介する、自身初のリーダー・アルバムとなる『ウィ・スリー』をプレスティッジレーベルから発表します。 またリーダーとしての活動以外にも、同年夏にはジャズ・ピアニストセロニアス・モンク・カルテットの一員としてジャズクラブ「ファイブ・スポット」で演奏。その他にもジャズ・トランペット奏者マイルス・デイヴィスやジャズ・アルトサクソフォン奏者リー・コニッツのグループに入って 精力的に演奏活動を展開します。 その後もジャズ・コーラス・グループのランバート、ヘンドリックス&ロス、ジャズ・ピアニストジョージ・シアリング・クインテット、そしてジャズ・ギタリストケニー・バレル・カルテットなど著名アーティストのグループに参加して「ファイブ・スポット」や「プレリュード」等のジャズ・クラブでの演奏活動を続けました。 1960年代に入ってからはジャズ・サクソフォン奏者ジョン・コルトレーン、ローランド・カーク、エリック・ドルフィーなど進歩派と呼ばれていたアーティスト達とも進んで共演、また折から注目を集め始めていたフリー・ジャズの演奏活動にも少しずつ関わって行きます。
その様な姿勢は、常に新しいジャズにチャレンジするロイ・ヘインズの面目跳如たるものとして、ジャズ界では好感を持って受け入れられていました。
1968年には当時先進的な演奏スタイルで注目を集めていたジャズ・ピアニスト、チック・コリア、ジャズ・ベース奏者ミロスラフ・ビトウスとのピアノ・トリオで録音したアルバム『ナウ・ヒー・シングス、ナウ・ヒー・ソブス』は大きな反響を呼び、ジャズ史上の名盤の一枚と呼ばれるまでになりました。 このピアノ・トリオは当初このアルバム・レコーディングのためだけのものでしたが、その後も続いたこのアルバムの人気を背景に、25年後の1982年に再結成され、ワールド・ツアーも敢行される迄になりました。
長年、常に先進的なスタイルで演奏活動を続けてきたロイ・ヘインズは ジャズ界
だけではなく、他の音楽ジャンルのドラマー達にも影響を与え、例えば世界的なロックバンド、ローリング・ストーンズのドラマー チャーリーワッツはロイ・ヘインズへのトリビュート曲を作りレコーディングした程でした。
1990年代に入ってからは長年のジャズ界への貢献が認められ、バークリー音楽大学を始め多くの教育機関から名誉博士号がたて続けに授与された他、1996年にはフランス政府から、文学芸術の分野での貢献者に贈られる勲章シャバリエが授与されました。
その後90歳代になってからも精力的に演奏活動を続けていましたが、2024年秋 数日間の病に伏せた後、11月26日にニューヨーク・ロングアイランドの自宅で99年の生涯を閉じました。
今回ご紹介する『ウイ・スリー(We Three)』は、
1958年ロイ・ヘインズが33歳の時に、プレスティッジ・レコードから3枚目のリーダー・アルバムとして発表したアルバムです。
このアルバムでは『After Hours』等のスタンダード曲や、数多くのジャズ・アーティストが好んで演奏してきたピアニスト タッド・ダメロンの名曲『Our Delight』等6曲が収録されていま す。
このアルバムでロイ・ヘインズは以前から数多く共演していた盟友のベーシスト ポール・チェンバース、そしてジャズ史上最も技巧派ピアニストの1人として知られるフィニアス・ニューボーンから成るピアノ・トリオ編成の中で、グルーブ感溢れる演奏を縦横無尽に繰り広げています。
ロイ・ヘインズ 『ウイ・スリー(We Three) 』
1. "Reflection"
2. "Sugar Ray' "
3. "Solitaire"
4. "After Hours"
5. "Sneakin'Around"
6. "Our Delight"
BarBarBar音楽院は、長年ジャズの街横浜で、現役一流ジャズ・アーティストの講師陣によるレッスンを提供して参りました。その経験からトップアーティストによる様々な演奏をより多く聴く事が楽器や歌のレッスンに大きな効果をもたらす事を実感しています。 ジャズ・ドラムやジャズ・ピアノ、ジャズ・サクソフォン、ジャズ・ベース、ジャズ・トランペット等の楽器のレッスンを受けている方、ジャズ・ヴォーカルのレッスンを受けている方、そしてこれからこれらのドラムレッスンを受けようと思っていらっしゃる方にも、多くのジャズの名曲が収録されたこのアルバムはお薦め出来る一枚です。
『 レッド・ガーランズ ピアノ(Red Garland's Piano) 』
今月お薦めの一枚〜ジャズ・器楽編は、レッド・ガーランドの『レッド・ガーランズ ピアノ(Red Garland's Piano)』です。
レッド・ガーランドは1944年に21歳でプロ・デビュー以来40年近くにわたりアメリカ・ジャズ界の第一線で活躍したジャズ・ピアニストです。 カウント・ベイシーやバド・パウエル、アート・テイタムら歴代ジャズ・ピアニストの伝統的奏法を採り入れながらも、両手を駆使し和音を分厚く重ね弾くブロック・コードと呼ばれる手法を伴奏時だけでなく、メロディや即興の演奏時にも多用する独自の演奏スタイルを確立。この斬新なスタイルは当時のジャズ界で注目を集め、ジャズ・トランペット奏者マイルス・ディビスやジャズ・サクソフォン奏者ジョン・コルトレーンら著名アーティスト達と共演、数多くのアルバムを制作し、後進のピアニスト達にも大きな影響を与えましまた。
レッド・ガーランドは1923年にテキサス州ダラスに生まれました。10代前半からジャズに興味を持ち始め、ジャズ・アルトサクソフォン奏者チャーリー・パーカーの少年時代の指導者であったバスター・“プロフ”・スミスに師事する機会に恵まれ、彼からクラリネットとアルトサクソフォンの演奏とジャズの理論を習い始めました。
1941年18歳の時にアメリカ陸軍に入隊し、アリゾナ州フォート ファチュカ基地に駐屯します。その駐屯期間中に陸軍音楽隊のピアニストのリー・バーンズからピアノの手ほどきを受けたことでピアノに興味を持ち、ほどなく管楽器からピアノに転向します。またこの時期は音楽だけでなくボクシングにも興味を持ち始めていて、ボクシングの練習にも勤しみ、アマチュアの試合に参加する様になります。戦績優秀だったためにプロボクサーとしてスカウトされ、プロとして35試合を戦いました。しかし1944年軍隊除隊後はジャズの演奏活動に再び専念するようになります。
1946年にトランペット奏者ホット・リップス・ペイジのバンドに加わり、1946年3月にニューヨークでのツアーが終了するまで同バンドでの活動を続けます。 その最後のツアー先ニューヨーク滞在中に、当時絶大な人気を誇っていた男性ジャズ・ヴォーカリスト ビリー・エクスタインにスカウトされ、彼のバンドで演奏活動を開始します。 ビリー・エクスタインバンド退団後の数年間はいくつかのバンドに参加して演奏活動を続けていました。
その頃、かねてからレッド・ガーランドの、ブロック・コードを多用する独自の演奏スタイルに、興味を持っていたジャズ・トランペット奏者マイルス・デイヴィスからの誘いを受け、1955年マイルス・ディヴィスクインテットに加入します。(マイルスは、自身の趣味であるボクシングでレッドガーランドがプロ活動していたことにも興味を持っていた、と言われている)当時絶大な人気のあったマイルス・ディヴィスの下に、ジャズ・サクソフォン奏者ジョン・コルトレーン、ジャズ・ドラマーフィリー・ジョー・ジョーンズ、そしてジャズ・ベーシストポール・チェンバースが集まったいわゆるオールスター的グループの一員になったことはレッド・ガーランドのジャズ界での名声を一気に高めることとなります。 レッド・ガーランドはこのクィンテットのメンバーとしてプレスティッジ・レコードから発表された『ニュー マイルス デイヴィス クインテット 』、『ワーキン』、『スティーミン』、『クッキン』、『リラクキン』等、後にジャズ界で名盤として語り継がれるアルバムの録音に参加しました。 これらのアルバムでも独特のブロックコードを用いた演奏だけでなく、マイルスお気に入りのジャズピアニスト アーマッド・ジャマルの軽妙なタッチと独自のコード・ボイシングの手法も採り入れた演奏スタイルを披露し、ジャズ界での名声は更に高まり、マイルスからの信頼も厚いものになっていきました。
しかし1957年にマイルスがコロムビア・レコードに移籍し最初に発表した『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』の録音に参加した頃から、目指すジャズの方向性の違いから二人の関係は徐々に悪化していった様です。それでも暫くはマイルスと活動を共にしていましたが、1958年に入ると同じくマイルスに不満を持っていたドラムのフィーリー ・ジョー・ジョーンズと共に録音やライブへの参加をしばしばキャンセルするようになり、最終的に二人はマイルス・ディヴィスから解雇を言い渡されることになります。
1958年にマイルス・ディヴィスの下を離れたレッド・ガーランドはピアノ・トリオを結成します。 マイルス・ディヴィス・クィンテット時代に独自の演奏スタイルを持った気鋭のジャズ・ピアニストとしてジャズ界で名声を確立していたこともあり、このトリオは直ぐに人気を集め、結成後25年間で50枚近いアルバムを制作・発表しています。
これらのアルバムの大半はトリオ編成での演奏ですが、レッド・ガーランドのマイルス・ディヴィス・クィンテット時代の演奏に大きな関心を持っていた管楽器、ギター等の著名ジャズ・アーティストが自ら客演を申し入れ、録音に参加した作品も残っています。それらのアーティストには、ジャズ・サクソフォン奏者ペッパー・アダムス、エディ・“ロックジョー”・デイヴィス、ジミー・ヒース、ハロルド・ランド、ジャズ・トランペット奏者ブルー・ミッチェル、ドナルド・バード、ナット・アダリー、ジャズ・ギタリスト ケニー・バレル等、いずれもジャズ界を代表する錚々たるメンバーが含まれています。
1958年のトリオ結成後の数年間は数多くのリーダー・アルバムを精力的に発表し、演奏活動も幅広く展開していましたが,1960年代後半から70年代にかけてのロックンロールやポップスの急激な台頭、それに寄るジャズ人気の低下に嫌気がさしたレッド・ガーランドは、数年間ジャズピアニストとしての活動を休止していました。 その後も薬物中毒にもなりその治療のための活動休止や、母親の介護のための活動休止も有りましたが、ようやく1970年代後半に活動を本格的に再開。1977年に『Crossings』というタイトルのアルバムを、ドラムにマイルス・ディヴィスクインテット時代の同僚フィリー・ジョー・ジョーンズを、ベースにはジャズ界で人気を博し始めていたロン・カータを迎え録音、発表しています。また翌1978年には55歳にして初来日を果たし、それまでアルバムを通してでしかレッド・ガーランドの演奏を聴くことのできなかった日本人の多くの聴衆に深い感銘を与えました。
その後もアルバム制作やライブ等の演奏活動を続けていましたが、1984年4月23日、丁度在留していた故郷テキサス州ダラスで、心臓発作により60歳の若さで急逝しました。
今回ご紹介する『レッド・ガーランズ ピアノ(Red Garland's Piano)』は、1957年レッド・ガーランドが34歳の時に、デビュー以来所属してきたプレスティッジ・レコードから2枚目のリーダー・アルバムとして発表したアルバムです。 このアルバムでは『The Very Thought of You』や『But Not for Me』『If I Were Bell』等のスタンダード曲を中心に8曲が収録されています。
このアルバムでレッド・ガーランドは、マイルス・ディビスクインテット時代からの盟友のベーシスト ポール・チェンバース、そして当時最も人気の高かったドラマーの一人 アート・テイラーから成る強力な布陣のピアノ・トリオで、リリカルな中にもグルーブ感溢れる演奏を縦横無尽に繰り広げています。
レッド・ガーランド
『 レッド・ガーランズ ピアノ(Red Garland's Piano) 』
1. "Please Send Me Someone to Love"
2. "Stompin' "at the Savoy
3. "The Very Thought of You"
4. "Almost Like Being in Love"
・5. "If I Were Bell"
6. "I Know Why"
7. "I Can't Give You Anything But Love'"
8."But Not for Me"
BarBarBar音楽院は、長年ジャズの街横浜で現役一流ジャズ・アーティストの講師陣によるレッスンを提供して参りました。その経験からトップアーティストによる様々な演奏をより多く聴く事が楽器や歌のレッスンに大きな効果をもたらす事を実感しています。 ジャズ・ピアノやジャズ・サクソフォン、ジャズ・ベース、ジャズ・ドラム、ジャズ・トランペット等の楽器のレッスンを受けている方、ジャズ・ヴォーカルのレッスンを受けている方、そしてこれからこれらのレッスンを受けようと思っていらっしゃる方にも、多くのジャズスタンダード曲が収録されたこのアルバムはお薦め出来る一枚です。
『タイムレス・テイルズ (Timeless Tales)』
今月お薦めの一枚〜ジャズ・器楽編は、ジョシュア・レッドマンの『 タイムレス・テイルズ ( Timeless Tales)』です。
ジョシュア・レッドマンは、多くの有望若手ジャズ・アーティストを輩出してきたアメリカ・ジャズ界の登竜門の一つ セロニアス モンク国際ジャズ コンクール1991年大会での優勝を機にプロ・デビューし、以来30年以上にわたりジャズ界の第一線で活躍している現在55歳のジャズ・サクソフォン奏者です。高度な演奏技術に裏付けされた独創性溢れる即興演奏や、ジャズに留まらずビートルズやプリンス、スティービー・ワンダー等他ジャンルのアーティストの楽曲も積極的にレパートリーに採り入れ、斬新な解釈による演奏活動を行っていることが高く評価されています。
ジョシュア・レッドマン 1969 年2月1日に、カルフォルニア州バークレーで、ジャズ・サクソフォン奏者の父デューイ・レッドマンと図書館司書の母レニー・シェドロフとの間に生まれました。 幼少期は母親が趣味のインド伝統ダンスのレッスンを受けるために通っていた地元バークレーのワールド ミュージック センターに付いて行き、そこでさまざまな国の多彩な音楽に触れる機会を得ていました。 その後サクソフォン奏者の父親の影響で楽器にも興味を持つ様になり、9歳でクラリネットを演奏し始め、1年後にはその後のメインの楽器となるテナーサクソフォンに転向します。父親は演奏ツアーで殆ど家にいなかったので習う機会は少なく、サクソフォンは殆ど独学だったと後に語っています。 10代はサクソフォンの独習に勤しみながら、ジャズではジョン・コルトレーン、キャノンボール・アダリー等代表的ジャズ・サクソフォン奏者の演奏を、ジャズ以外ではビートルズ、アレサ・フランクリン、レッド・ツェッペリン等様々なジャンルのアーティストの演奏を熱心に聴き込んでいました。 この頃の経験が、その後のジュシア・レッドマンの幅広い音楽性の醸成に繋がったようです。
地元のバークレー高校に通学していた 4年間は校内ジャズ アンサンブルに入団し演奏活動を続け、 卒業後も地元カリフォルニア州のレイニー大学ジャズ科主催のジャムセッションに頻繁に参加。ジャズ奏者としての実力を着実につけて行きます。
音楽だけでなく学業も優秀だったジュシア・レッドマンは、アメリカの名門大学ハーバード大学に進学し1991年に優秀な成績で卒業。社会学の学位を取得します。その後イェール大学ロースクールに進み、さらに学業を積もうとしていましたが、進学のために転居したニューヨークで、ジャズ・ピアニスト ブラッド・メルドー、ジャズ・トランペッター ロイ・ハーグローブ、ジャズ・ベーシスト クリスチャン・マクブライド等、後にジャズ界の代表的アーティストになる同世代の人達との数多くのジャムセッションに参加し、刺激し合い切磋琢磨する内に、自分がニューヨークのジャズシーンに深く浸かっていることを自覚。イェール大学ロースクールへの進学を断念します。父親のデューイ・レッドマンは苦労の多かった自分と同じ道には進まずに、先ずは学業に専念する様にと反対しましたが、ジュシア・レッドマンの意志は固くジャズ・アーティストとして道に進むことを決心します。 そして1991 年にセロニアス モンク国際ジャズ コンクール サクソフォン部門で見事優勝し、その時の演奏で彼の突出した才能に注目したレコード会社ワーナー ブラザーズ は彼とレコーディング契約を結び、1993 年春にデビュー・アルバム「ジョシュア・レッドマン(Joshua Redman)」を発表。このアルバムはいきなりグラミー賞にノミネートされ、 順調にプロアーティストとしてのキャリアをスタートさせます。
1990年代は、ジャズ・ドラマー エルヴィン・ジョーンズのリーダー・アルバム『ヤングブラッド』に抜擢起用されたり、自身の 2枚目となるリーダー・アルバム「ウィッシュ(Wish)」では、ギタリストのパット・メセニー、ベーシストのチャーリー・ヘイデンら当時のジャズ界を代表し、父デューイ・レッドマンとも数多く共演して来たゆかりのあるジャズ・アーティスト達と共演し大きな話題を呼び、ジャズ・アーティストとしてのキャリアを着実に積み重ねて行きます。
その後もニューヨーク移住当初から共演していた同世代のベーシスト クリスチャン・マクブライドをフィーチャーしたジョシュア・レッドマン・カルテットを編成。アメリカ国内ツアーを行い注目を集めます。
ジャズの演奏活動の他に1999 年には、子供向けの人気テレビ番組『アーサー』に、お互いがファンだと認め合っていたクラシック界のトップ・チェリスト ヨーヨー・マと出演。番組内でヨーヨー・マと共作した子供向けの曲を披露し大きな反響を呼びました。その他にもロック界のレジェンド・バンド ローリング・ストーンズの1997年のセントルイス公演にゲスト参加する等、ジャズの枠だけ留まらない幅広い演奏活動を続けていきます。
2000 年にジョシュア・レッドマンはサンフランシスコに拠点を置き、ジャズの啓蒙・普及や、若者へのジャズの教育活動を行っている非営利団体「 SFジャズ 」の芸術監督に31歳の若さで任命されました。 就任後ジョシュア・レッドマンは、この団体の創設者ランダル・クラインの協力を得て、「SFジャズコレクティブ」と言う、若手アーティスト達からなる8人編成のジャズ・アンサンブルを結成します。このアンサンブルはジョシュア・レッドマンの意向が反映され、各メンバーの創造性に重点を置きながらもアンサンブルとしての一体感も追求していることが特徴です。 このアンサンブルは毎年春にだけ結成され、常設バンドでは有りませんが、その創造性や革新性がジャズ界で大きく支持されました。その後もジョシュア・レッドマンのリーダーシップの下、ジャズ・ビブラフォン奏者ウオーレン・ウルフやジャズ・サクソフォン奏者クリス・ポッター等、全米から若手実力派メンバーを迎えながら現在まで活動を続け、結成20周年の昨年には初来日も果たしています。
2000年代に入ってからのジョシュア・レッドマンは、ピアニスト ブラッド・メルドーや、ドラマー ブライアン・ブレイドらの同世代アーティスト達とカルテットやトリオ等を組み演奏活動を積極的に展開して行きます。
この様な一般的編成での演奏の他にも、2013年にはピアニスト ブラッド・メルドーをプロデュ―サーに迎え、ジョシュア・レッドマンカルテットとフル編成のオーケストラの、「Star Dust」等スタンダード曲、ビートルズの「Let It Be」、そしてJ.S.バッハの「Adagio 」等、ポップスやクラシカルの曲の演奏を収録した野心作「Walking Shadows」をリリースし大きな反響を呼びました。アメリカの有力新聞「ニューヨーク・タイムズ」は、このアルバムについて、「ジョシュア・レッドマンの20年のレコーディングキャリアの中で、これほど崇高で抒情的な表現はなかった」と高い評価を与えています。
今回ご紹介する『 タイムレス・テイルズ ( Timeless Tales)』は、1999年ジョシュア・レッドマンが30歳の時に、デビュー以来所属してきたワーナー・ブラザースから4枚目のリーダー・アルバムとして発表したアルバムです。 このアルバムでは『How Deep is the Ocean』や『Yesterdays』等のスタンダード曲や、スティヴィー・ワンダーの『Visions』、ジョニ・ミッチェルの『I Had a King』、ボブ・ディランの『The Times They Are a-Changin』等、ロック・ポップス界の代表的アーティスト達の楽曲、そしてジョシュア・レッドマン自身作曲の『Interlude1-7』等が収録されており、これらの選曲にもジャズに留まらずに多岐に渡る楽曲の演奏を繰り広げて来たジョシュア・レッドマンらしさが出ています。 このアルバムでジョシュア・レッドマンは、長年の盟友のピアニスト ブラッド・メルドーと彼がトリオ結成以来10年以上不動のメンバーとして活動して来たベーシスト ラリー・グレナディア、そしてウェイン・ショーターやチック・コリア等数多くのレジェンド・アーティストと共演を果たして来たドラムー ブライアン・ブレイドから成る強力な共演陣のサポートを得て、精緻且つ想像性、音楽性豊かな演奏を縦横無尽に繰り広げています。
ジョシュア・レッドマン『タイムレス・テイルズ ( Timeless Tales』
1. "Summertime"
2. "Interlude 1"
3. "Visions"
4. "Yesterdays"
5. "Interlude 2"
6. "I Had a King"
7. "The Times They Are a-Changin'"
8. "Interlude 3"
9. "It Might as Well Be Spring"
10. "Interlude 4"
11. "How Deep is the Ocean"
12. "Interlude 5"
13. "Love for Sale"
14. "Interlude 6"
15. "Eleanor Rigby"
16. "Interlude 7"
17. "How Come U Don't Call Me Anymore?"
BarBarBar音楽院は、
長年ジャズの街横浜で現役一流ジャズ・アーティストの講師陣によるレッスンを提供して参りました。その経験からトップアーティストによる様々な演奏をより多く聴く事が楽器や歌のレッスンに大きな効果をもたらす事を実感しています。 ジャズ・サクソフォンやジャズ・ピアノ、ジャズ・ベース、ジャズ・ドラム、ジャズ・トランペット等の楽器のレッスンを受けている方、ジャズ・ヴォーカルのレッスンを受けている方、そしてこれからこれらのレッスンを受けようと思っていらっしゃる方にも、ジャズスタンダード曲や、ポップス、ロックの名曲等ジャンルを超えた演奏が聴けるこのアルバムはお薦め出来る一枚です。
『 アート・オブ・ザ・トリオ Vol.4:ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード
(Art of the Trio 4: Back at the Vanguard)』
今月お薦めの一枚〜ジャズ・器楽編は、ブラッド・メルドーの『 アート・オブ・ザ・トリオ Vol.4:ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード ( Art of the Trio 4: Back at the Vanguard)』です。
ブラッド・メルドーは、1988年に弱冠18歳でプロ・デビュー以来、30年以上にわたり第一線で活躍している現在53歳のジャズ・ピアニストです。ウイントン・ケリーやマッコイ・タイナー等の歴代ジャズ・ピアニストの影響を感じさせる手法を採り入れながらも、確かな演奏テクニックに裏付けされた独創的な即興演奏や、ジャズに留まらずビートルズやクラシック音楽の楽曲等もレパートリーに採り入れ、斬新な解釈による演奏を行っていることが高く評価されています。アメリカで最も長い歴史を誇るジャズ専門誌「ダウンビート」のジャズ・ピアノ部門の年間人気投票では、これ迄9度も1位に選ばれた他、グラミー賞のジャズ器楽アルバム部門で14回ノミネートされ、2度受賞。名実ともに近代ジャズ界を代表するピアニストの一人とされています。
ブラッド・メルドーは1970年8月23日にフロリダ州ジャクソンビルで眼科医の一家に生まれました。典型的なアメリカの白人中流層、と彼は表現していますが、リビングルームにはピアノが置かれ、ラジオでは毎日ポップスやロック、ジャズが流れている、そんな自然に音楽に親しめる環境で育ったようです。
幼少期からピアノを弾くことに興味を持ったブラッド・メルドーに両親はレッスンを受けさせます。 この頃は主に簡単なポップスの曲やピアノの練習曲を演奏していましたが、10歳の時に一家で移住した街でレッスンを受け始めた先生からクラシック音楽の名曲を初めて紹介され、興味を覚える様になります。この体験が元になり、2000年代からはジャズだけでなく、バッハ等クラシック作曲家の作品の演やクラシック歌手や楽団への自作曲の提供を始めています。
14歳になった頃には、ジャズ・サクソフォン奏者のジョン・コルトレーンやジャズ・ピアニスト ウイントン・ケリーやマッコイ・タイナー 、キース・ジャレット等の演奏に興味を持ち、ジャズをさらに熱心に聴き込むようなります。特にキース・ジャレットの『ソロ・コンサート・インブレーメン/ローザンヌ』のアルバムを聴いて、楽器としてのピアノの大きな可能性を強く認識するようになったと、後に語っています。
その後、地元の高校に進学。学内のジャズバンドでピアノを担当し地元のライヴハウスや結婚式、パーティ等で演奏するようになります。この時期には既にリスニングのスキルはかなり向上していたようで、ジャズの即興演奏力を付けるために様々なジャズ・アーティストの即興演奏を熱心にコピーし、楽譜に書き溜めていました。そして高校3年生の時、バークリー音楽大学が実施していたジャズを学ぶ学生を対象としたコンテストで、見事最優秀ミュージシャン賞を受賞しています。
高校卒業後、1988年にニューヨーク市に移住し、奨学金を得て同市内に有る音楽大学ニュースクールに入学、ジャズと現代音楽を専攻する様になります。入学直後から早くもその才能はニューヨークのジャズ界の多くのアーティストの注目を集め、ジャズ・サクソフォン奏者クリス・ホリデイのバンドにスカウトされプロ・デビュー。ツアーやレコーディングに参加します。
その後は、現代ジャズ界の代表的サクソフォン奏者の一人で有るジョシュア ・レッドマン率いるカルテットのピアニストに招かれ、このバンドでの数々のアルバム制作や、アメリカ国内だけでなく、ヨーロッパや日本等へのツアーの活動を通じ、世界的な名声を高めて行きます。
そして1990 年代に入ると、満を持して自身のリーダートリオを結成します。 このトリオ結成時には、ベースにはラリー・グレナディア、ドラムにはホルヘ・ロッシーが参加しますが、その後2005年にドラムがホルヘ・ロッシーからジェフ・バラードに代わるまで15年近くも、現代ジャズ界では余り例のないオリジナル・メンバー固定のピアノ・トリオとしての活動が続きました。そしてこのピアノ・トリオは、メンバー同士の深い信頼に基づいた精緻且つ音楽性の高いアンサンブルが高い評価を得て、今回ご紹介する『 アート・オブ・ザ・トリオ Vol.4:ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』を含む14枚ものアルバムを制作、リリースすることになりました。
2000 年代に入るとそれまでのピアノ・トリオやソロピアノでの演奏活動に加え、他の形式も取り入れた演奏活動を行うようになります。2002 年にリリースされたアルバム『 Largo 』では、シンセサイザー等電子楽器によるサウンドを多用、収録された自作曲はロックやクラシックのテイストが強く感じられる内容になっています。また、同時期に電子楽器のサウンドを多用して斬新なジャズを模索していたジャズ・ギタリストのパット・メセニーと数多く共演し、ツアーやレコーディングを行います。
そして新しい領域に踏み出すきっかけになった前述のアルバム『 Largo 』でプロデューサーを務めたジョン・ブライオンの協力を再び得て、2008年には『ハイウェイ・ライダー』を制作・リリースします。このアルバムは、全曲ブラッド・メルドーの自作曲から成る2枚組アルバムで、長年の盟友のジャズ・サクソフォン奏者ジョシュア・レッドマンもゲストで参加しています。28人編成の室内管弦楽団をバックにしたピアノ・トリオの演奏等、ジャズの枠にとらわれない、どこまでも美しいサウンドを追求したこのアルバムは当時のジャズ界で高い評価を受けました。
またこの時期はクラシック音楽の領域でも積極的に活動を行う様になり、クラシック歌手のレネー・フレミング、アン・ソフィー・フォン・オッターらのために連作歌曲を作曲し、提供。2007年にはパリのシャトレ劇場でイル・ド・フランス国立管弦楽団と自作のピアノ協奏曲『ピアノとオーケストラのためのブレイディ・バンチ変奏曲』を初演。そして2011年には当時ヨーロッパのクラシック音楽界で高い評価を受けていたオルフェウス室内管弦楽団との共演で、自作曲「憂鬱な主題によるピアノとオーケストラのための変奏曲」を初演し、ヨーロッパのクラシック音楽界からも大きな注目を集めました。また同楽団とアメリカ国内のツアーも敢行。特にニューヨークのカーネギー・ホールでの公演は大きな話題を呼びました。
そしてこのクラシックの分野での活動はその後も継続しており、昨年2023年2月の日本公演では東京フィルハーモニー交響楽団と、バッハの『「平均律クラヴィーア曲集」より『前奏曲とフーガ』や『プレリュード ロ短調』、そして自作のピアノ協奏曲を共演した他、ピアノソロでもバッハの『フーガの技法』や『音楽の捧げもの』の演奏を披露しています。
今回ご紹介する『 アート・オブ・ザ・トリオ Vol.4:ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード ( Art of the Trio 4: Back at the Vanguard)』は、1999年がブラッド・メルドー29歳の時に、アメリカの大手レーベルの一つワーナー・ブラザースから8枚目のリーダー・アルバムとして発表したアルバムです。 このアルバムはニューヨークの代表的ジャズ・クラブ『ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』での演奏を収録したシリーズの第4弾で、『All The Things You Are』や『I'll Be Seeing You』等のスタンダード曲やマイルス・デイヴィス作曲『Solar』、イギリスの世界的ロック・バンドレディオヘッドのオリジナル曲『Exit Music』、そしてブラッド・メルドー作曲の『London Blues』等が収録されており、これらの選曲にも多岐に渡る演奏活動を行って来たブラッド・メルドーらしさが出ています。そしてアルバムの中で彼は、ベースのラリー・グレナディア、ドラムのホルヘ・ロッシーというピアノ・トリオ結成以来10年近く不変の気心の知れたメンバーと共に、斬新な曲解釈をもとに精緻且つ音楽性豊かなピアノ・トリオアンサンブルを縦横無尽に繰り広げています。
ブラッド・メルドー『 アート・オブ・ザ・トリオ Vol.4:ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード ( Art of the Trio 4: Back at the Vanguard)』
1.ALL The Things You Are
2.Sehnsucht
3.Nice Pass
4.Solar
5.London Blues
6.I'll Be Seeing You
7.Exit Music
8.Gunga Din
BarBarBar音楽院は、長年ジャズの街横浜で現役一流ジャズ・アーティストの講師陣によるレッスンを提供して参りました。その経験からトップアーティストによる様々な演奏をより多く聴く事が楽器や歌のレッスンに大きな効果をもたらす事を実感しています。
ジャズ・ピアノやジャズ・サクソフォン、ジャズ・トランペット、ジャズ・ベース、ジャズ・ドラム等の楽器のレッスンを受けている方、ジャズ・ヴォーカルのレッスンを受けている方、そしてこれからこれらのレッスンを受けようと思っていらっしゃる方にも、ジャズスタンダード曲、ロックの名曲等ジャンルを超えた演奏が聴けるこのアルバムはお薦め出来る一枚です。
『ウォーム・ウッズ(Warm Woods)』
今月のお薦めの1枚~ジャズ・器楽編フィル・ウッズの”Warm Woods”です。
フィル・ウッズは1950年代から2000年代前半まで半世紀以上に渡りジャズ界の第一線で活躍し、70枚近くのリーダー・アルバムを発表、デュ―ク・エリントンやクインシー・ジョーンズ、ジャズ・クラリネット奏者ベニー・グッドマン、ジャズ・ピアニスト セロニアス・モンク、ジャズ・ドラム奏者ジーン・クルーパ、ダニエル・ユメール等、数多くのジャズ界のトップ・アーティストと共演したジャズ・サクソフォン奏者です。
今回は1957年26歳の時に、当時の人気ジャズ・レーベル エピックレコードから8枚目のリーダー・アルバムとして発表した『ウォーム・ウッズ(Warm Woods)』を選びご紹介したいと思います。
フィル・ウッズは、1931年11月2日にマサチューセッツ州スプリングフィールドで生まれました。
12歳でアルト・サクソフォンを知人から譲り受けた後、地元の楽器店でレッスンを受け始めます。
この頃のアルト・サクソフォンにおけるフィル・ウッズのヒーローは、当時アメリカジャズ界で人気の有ったベニー・カーターとジョニー・ホッジスだった様です。
その後も、アルト・サクソフォンの演奏への興味、ジャズ、音楽全般への興味を持ち続けていたフィル・ウッズは故郷を離れ、ニューヨークに在るマンハッタン音楽学校とジュリアード音楽院に進学することになり、そこで当時革新的な理論に基づく演奏で知られていたジャズ・ピアニストのレニー・トリスターノと出会いもあり、その後のジャズ・アーテイトしてのフィル・ウッズの基礎をつくりあげるくらいの大きな影響を受け、理論やジャズ・音楽全般を学ぶ機会に恵まれた様です。
当時ジュリアードにはサクソフォン専攻がなかったため、先輩のジョー・ロペスと言う人が管楽器演奏法を指導し、1952年には無事音楽学士号を取得します。
その頃のフィル・ウッズは愛称バードのレジェンド チャーリー・パーカーの模倣をしていなかったものの、当時のジャズ界では「ニュー・バード」として知られ、同世代のソニー・スティットやキャノンボール・アダリーなどの他のアルトサクソフォン奏者とも一線を画するスタイルを確立していた様です。
この様にニューヨークでレベルの高い教育を受けることが出来、その才能にジャズ界での注目も集まっていたフィル・ウッズは1950 年代に入ると自分のバンドを率い始めました。
その様な活動に注目していた著名なジャズ作曲家でバンド・リーダーのクインシー・ジョーンズは、アメリカ国務省主催の世界旅行に同行するよう彼を招待しました。
数年後、クインシー・ジョーンズとともにヨーロッパをツアーし、その後も1962年にはやはり著名ジャズクラリネッ奏者でバンド・リーダーのベニー・グッドマンともロシア・ツアーをしました。
この様に当時のジャズ界で最も影響力の有ったバンド・リーダー達との共演を通して、新進ジャズ・アーティストのフィル・ウッズの知名度、人気は急速に高まって行きます。
その後も本国アメリカのジャズ界で着実に名声と人気を築いていたフィル・ウッズでしたが、ジャズ界自体がロック、ロックン・ロール隆盛と共に停滞し始めていた頃の1968 年に、他の多くのジャズ界のアーティストと同様にフランスに移住します。
そこでフィル・ウッズは革新的な音楽を志向するグループであるヨーロピアン・リズム・マシーンを結成しましたが、このバンドの革新的なジャズの演奏展開手法や、ドラムのダニエル・ユメールを始めとしたバンドのメンバーの演奏能力・音楽性は高く評価され、日本を始め多くの国々で人気を博することなります。
その後、フィル・ウッズは1972 年に米国に戻り、エレクトロニック グループを設立しようとしましたがうまく行かず、2004 年に通常のジャズのスタイルのクインテットを結成し、メンバーの変更はありましたが、晩年まで演奏活動を主にこのバンドで行います。
この間 フィル・ウッズは、ジャズ界で最も権威の有ると言われるダウンビート誌の年次読者投票でトップアルトサクソフォン奏者賞を30回近くも獲得した他、彼の率いるクインテットは何度かトップスモールコンボのタイトルを獲得し、トップ・ジャズアーティトとの名声・人気を保持し続けました。
またこの時期は、フィル・ウッズはポップスの分野でも数多くのトップ・アーテイストと共演しており、サイドマンとしての彼の最もよく知られた録音作品では、1977 年のビリー・ジョエルの「Just the Way You Are」でのアルト・サクソフォン・ソロや、スティーリー・ダンの1975年のアルバム『ケイティ・リード』収録の「ドクター・ウー」でのソロ、1975年のアルバム『スティル・クレイジー・アフター・オール・ジーズ・イヤーズ』収録のポール・サイモンの「ハブ・ア・グッド・タイム」の中のアルト・サクソフォン・ソロを等が挙げられます。
晩年のフィル・ウッズはジャズの啓蒙・普及活動にも傾注していた様で、ジャズ・トロンボーン奏者のリック・チェンバレン等とともに、1978年に長年こよなく愛し在住していた街、デラウェア州ウォーター・ギャップでセレブレーション・オブ・ジ・アーツ(COTA)という団体を設立しました。
この組織は最終的にデラウェア ウォーター ギャップ セレブレーション オブ ザ アーツとなり、彼らの当初の目標は、ジャズの理解と他の芸術分野との関係を促進することでしたが、その後この団体は毎年9月にデラウェア州ウォーター ギャップでセレブレーション オブ ザ アーツ フェスティバルを主催するに至っています。
フィル・ウッズはチャーリー・パーカーの内妻であったチャン・パーカーと17年間結婚していて、チャンの娘キムの継父でもありました。
そして2015年9月4日、マンチェスター・クラフツマンズ・ギルドでストリングス・オーケストラとともにチャーリー・パーカーへのトリビュート公演を行い、このショーの最後に引退を発表しましたが、 その僅か3週間余り後の2015年9月29日に、周囲に惜しまれながら肺気腫のため83年の生涯を閉じました。
今回ご紹介する『ウォーム・ウッズ(Warm Woods)』は、1957年フィル・ウッズが26歳の時に、当時の人気ジャズ・レーベル エピックレコードから8枚目のリーダー・アルバムとして発表したアルバムです。 スタンダード曲が多く含まれた選曲のアルバムですが、生涯70枚近くのリーダー・アルバムを発表したフィル・ウッズのアルバムの中では、最も幅広い層に支持されて来た様で、ジャズ界ではフィル・ウッズの代表的アルバムとして評価されることも多い様です。
フィル・ウッズ 『ウォーム・ウッズ(Warm Woods)』
1.In Your Own Sweet Way
2,Easy Living
3.I Love You
4.Squire’s Parlor
5.Wait Till You See Her
6.Waltz For A Lovely Wife
7.Like Someone In Love
8.Gunga Din
このアルバムでは、フィル・ウッズは、アニタ・オデイやカーメン・マクレー等トップ・ジャズヴォーカリストとの数多くの共演で知られているボブ・コーウィン率いるピアノ・トリオをバックに、「イージー・リビング」を始め、「アイ・ラブ・ユー」、「「In Your Own Sweet Way」等のスタンダード曲を中心にした8曲を、長年ジャズ界で支持されて来た特徴の有る美しく芳醇なアルト・サクソフォンの音色を駆使し演奏しています。
BarBarBar音楽院は、長年ジャズの街横浜で現役一流ジャズ・アーティストの講師陣によるレッスンを提供して参りましたが、当音楽院でジャズ・サクソフォンやジャズ・トランペット、ジャズ・ピアノ、ジャズ・ベース、ジャズ・ドラム等の楽器のレッスンを受けている方、ジャズ・ヴォーカルのレッスンを受けている方、そしてこれから当院でこれらのレッスンを受けようと思っていらっしゃる方にも、このアルバムではトップ・アーティストによるスタンダード曲を始めジャズの名曲の演奏が多く収録されていますので、ご参考用に是非お薦めしたいと思います。
『ザ・スタンダード・ジョー(The Standard Joe) 』
今月のお薦めの1枚~ジャズ・器楽編は、テナー・サクソフォン奏者ジョー・ヘンダーソンの 『ザ・スタンダード・ジョー(The Standard Joe)』です。
ジョー・ヘンダーソンは、1950年代から1990年代後半までの40年以上に渡り、ジャズ界の第一線で活躍し、40枚近いリーダー・アルバムを発表。ジャズ・ピアニスト ホレス・シルバーやジャズ・トランペット奏者リー・モーガン、ジャズ・ベース奏者ルーファス・リード等、数多くの著名奏者と共演したジャズ・テナーサクソフォン奏者です。
今回はジョー・ヘンダーソンが1992年55歳の時に、ジャズ・レコード・レーベル RED Recordsから32枚目のリーダー・アルバムとして発表した『ザ・スタンダード・ジョー(The Standard Joe)』をご紹介したいと思います。
ジョー・ヘンダーソンは、1937年4月24日にオハイオ州のライマで生まれました。兄弟・姉妹は合わせて14人もの大家族でした。両親や兄の一人ジェームスが熱心な音楽愛好者だったため、幼少の頃からいろいろな音楽を聴くことができる音楽的環境に恵まれ、その事がその後アーティストに育っていく原点になった様で、その事への感謝の意を示すために自己の初期の頃のアルバムに収録された曲「for being so understanding and tolerant」を彼らに捧げています。その後、地元の何人かのジャズ奏者から、当時ジャズ界で人気のあったジャズ・サクソフォン奏者レスター-ヤング、チャーリー-パーカー、の演奏を聴くように勧められ、音楽好きの兄弟のレコードコレクションの中からこれらのアーティストのアルバムを見つけ出しては熱心に聴くようになります。その中でもチャーリー-パーカーの演奏には強い感銘を受け、地元の高校入学後は高校の音楽指導者からサクソフォンを習い始めます。またこの時期、彼は作曲も始めていた様で、同じ高校のロックバントのためにいくつかの楽曲を提供しています。
その後、18歳になったジョー・ヘンダーソンは、当時活況を呈し始めていたデトロイトのジャズシーンで早くもジャズ・サクソフォン奏者としての活動を開始し、ニューヨークから訪れていた著名アーティストたちとのジャムセッションを通し、ジャズ・アーティストとしての実力を着実に伸ばして行っていた様です。
またこの時期は演奏活動を続ける一方、ウェイン州立大学でフルートやベースの演奏法の講義を受講、また、地元のテール音楽学校で、名教師と定評のあったラリーティール氏の指導のもと、サクソォーフォンの演奏法と作曲の手法を学んでいました。ウェイン州立大学在籍時はクラスメートにも恵まれ、後に著名アーティストになるジャズ・サクソフォニスト、ユセフ・ラティーフやジャズ・トランペッター、ドナルド・バード、ジャズ・ピアニスト、バリー・ハリスらには、同じジャズ・アーティストを目指すクラスメートとして、大いに刺激を受けていた様です。
その後、彼は1960年から1962年の2年間を兵役で米軍に在籍。最初の任地、ベニング基地にて軍のタレントショーのコンテストに参加し、1位を勝ち取り、米軍兵士慰問の世界ツアーのメンバーに選ばれます。そしてそのツアーでのパリ訪問時に、当時パリで演奏活動を行っていたジャズ・ピアニスト ケニー・ドリューや、ジャズ・ドラマーケニー・クラークら著名アーティストたちと交流する幸運に恵まれます。そして1962年に退役後はニューヨークに移動し、同地のジャズ界で人気の有ったジャズ・サクソフォン奏者のジュニア・クックらと共演していましたが、同時期、後にジョー・ヘンダーソンにとって、生涯のジャズ全般の師の様な存在になるジャズ・トランペット奏者ケニー・ドーハムと出合います。
この頃のジョー・ヘンダーソンの演奏は、ジャズ界で主流になっていたハードパップの影響を受けてはいましたが、リズム・アンド・ブルースやラテンアメリカ・ミュージック、そしてアバンギャルドの要素も採り入れており、その斬新さはジャズ界で注目を受け始めていた様です。 当時の彼の演奏スタイルの代表的なものとして、当時参加していたジャズ・ピアニスト ホレス・シルバーグループのアルバムに収録された名曲「ソング・フォー・マイ・ファーザー」でのソロ演奏で聴くことができます。
その後、1966年にホレス・シルバーのバンドを去った後はフリーランスに戻り、師と仰ぐジャズ・トランペット奏者ケニー・ドーハムと共に、ビッグバンドを率いての演奏等、更に積極的に活動を行っていきます。
1960年代は当時のジャズ界で最も大手のレコード・レーベルで有ったブルーノートと契約し、5枚のリーダー・アルバムを発表した他、共演者としても30枚近い他のアーティストのアルバムに参加し、多くの名演奏を残しています。 特にジャズ・ピアニスト、 ハービー・ハンコックの「プリズナー」や、ジャズ・トランペッッター、りー・モーガンの「サイドワインダー」等、ジャズ界で今なお名盤と呼ばれるアルバムで、ジョー・ヘンダーソンの卓越した技術と豊かな音楽性に裏付けされた名演奏を聴くことができます。
またこの頃は、当時ジャズ・トランペット奏者の第一人者で多くの若手アーティストを自分のバンドに登用し育てることでも定評の有ったマイルス・ディビスのバンドにも、短期間では有りましたが、ジャズ・ピアニスト ハービー・ハンコック、ジャズ・ドラマ―トニー・ウイリアムスらと共に参加し、更にジャズ界での名声を確立しました。
1967年になり、ジョー・ヘンダーソンは、ジャズ界の著名プロデューサー オーリン・キープニュースが新しく作ったばかりのレコード・レーベル、マイルストーン・レコードと契約し、これを機に彼の経歴は新しいフェーズに入り、これまで共演して来なかった、ジャズ・トランペッター、フレディ・ハバードらの新進気鋭のジャズ・アーティストたちとのアルバムの共同制作活動やツアーを開始した他、当時人気が出始めていたジャズ以外のファンクやジャズ・フージョンのジャンルの演奏や、スタジオ多重録音、電子音響といった新しい手法を用いた音楽制作を経験し、アーティストとしての音楽領域を更に拡げて行きました。
またこの時期に制作・発表したアルバム、「Power To the People」、「In Pursuit of Blackness」、「Black Narcissus」等では、彼のこの頃の政治・社会への関心の高まりを反映している様です。そして1970年に入ってからは、暫くの間サンフランシスコに移動し、音楽教育機関でジャズの講義を行うようになっていた一方、引き続きレコーディングおよびツアー等での演奏を続けてはいましたが、ジャズの聴衆からの評価は以前に比べ余り芳しいものではなかった様です。
しかし、当時のジャズ界で最も人気が出始めていたジャズ・ピアニスト チック・コリアと共演したアルバム『あの頃のジャズ (Echoes of an Era)』がジャズ界で高評価を得たことを機に、ジョー・ヘンダーソンは再び1980年代を代表するジャズ・アーティストになりました。
そしてこの頃までに多くの曲の編曲も手がけて来た彼は、ジャズのスタンダード曲と彼自身の初期のオリジナル曲の再解釈に集中するようになります。その様な活動を評価したレコード・レーベルのブルーノートは彼に、それまでややファンクやフュージョン等新興ジャンルに押され気味立ったジャズ自体の復活を推進する最前線の役割を与え、1985年にはニューヨークの名門ライブハウス ヴィレッジ・ヴァンガードでアルバム『ヴィレッジ・ヴァンガードのジョー・ヘンダーソンVol.1 & Vol.2』という2巻のアルバムの録音を行いました。このアルバムは、同レーベルが1957年にジャズ・テナーサクソフォンのレジェンド、ソニー・ロリンズをリーダーに起用、同じヴィレッジ・ヴァンガードで録音したライブ・アルバムと同じ、ベースとドラムとのトリオという編成(ピアノやギター等コード楽器のないテナー・トリオ)を再現していることからも、同レーベルのジョー・ヘンダーソンへの期待の高さが表れているアルバムと言えます。
その後も、イタリアの独立レーベルのから今回ご紹介する 『ザ・スタンダード・ジョー(The Standard Joe)』や、『An Evening with Joe Henderson』をリリース、また、有力ジャズ・レーベル ヴァーヴと契約して1992年『ラッシュ・ライフ』を発表し商業的に大きく成功、そしてマイルス・ディビスやボサノバ界の第一人者アントニオ・カルロス・ジョビンのトリビュート・アルバムやジョージ・ガーシュウィン作曲の『ポーギ&べス』を取り上げたアルバム等、次々と制作・発表していきます。
この様に1990年代以降ますます精力的な演奏活動を続けていたジョー・ヘンダーソンですが、残念な事に肺気腫を患ってしまい何か月かの闘病の後、2001年6月30日に心不全で64年の生涯を閉じました。
今回ご紹介する『ザ・スタンダード・ジョー(The Standard Joe)』は、ジョー-・ヘンダーソンが、1992年55歳の時に、イタリアの新興ジャズ・レコード・レーベル RED Red Recordsから32枚目のリーダー・アルバムとして発表したもので、彼の代表的アルバムの一つとして挙げられることも多い作品です。
ジョー・ヘンダーソン(Joe Henderson)
ザ・スタンダード・ジョー(The Standard Joe)
1. Blue Bossa
2. Inner Urge
3. Body and Soul
4. Take the ”A” Train
5. Round Midnight
6. Blues in F
7. Body and Soul (take 2)
このアルバムでも、その6年前にブルーノート-レーベルから発売されたジョー・ヘンダーソンのリーダー・アルバム『ヴィレッジ・ヴァンガードのジョー・ヘンダーソンVol.1 & Vol.2』と同じく、ベースとドラムとのテナー・サクソフォン・トリオの編成による演奏、(ピアノやギター等のコード楽器は入っていない)が収録されています。
ベースには、ジャズ・サクソフォン奏者デクスターゴードン、スタンゲッツ、ジャズ・ボーカリスト ナンシーウィルソンらジャズ史上に名を連ねる数多くの著名アーティストと共演してきたルーファス・リード、そしてドラムにはトランペット奏者マイルス・ディビスや、サクソフォン奏者ウェインショーターらと共演してきたアル・フォスターと言う名手2人が共演しており、その中でジョーヘンダーソンは定評の豊穣な音色を駆使して時に奔放,時に繊細な演奏を展開しています。
BarBarBar音楽院は、長年ジャズの街横浜で現役一流ジャズ・アーティストの講師陣によるレッスンを提供して参りました。当音楽院でジャズ・サクソフォンやジャズ・トランペット、ジャズ・ピアノ、ジャズ・ベース、ジャズ・ドラム、ジャズ・ヴォーカル等のレッスンを受けている方、そしてこれから当院でこれらのレッスンを受けようと思っていらっしゃる方にも、ジャズのスタンダードや名曲のトップアーティストによる演奏が聴けるこのアルバムは、是非お薦めしたい一枚です。