人間にも四季がある。試練の冬を耐え、負けない力をつけてこそ、幸福と勝利の花は爛漫と咲き薫る。「心の花」は豊かな「心の大地」に咲くからこそ、その人の笑顔のような花となるのだろう。春の花が厳冬を越えて開花するように、心に笑顔の花を咲かせるには、忍耐と努力の時が必要だろう。新しい生命が躍動する春。自分らしい笑顔の花を咲かせる、新しい挑戦を始めよう!
「挑戦すべき『山』をつくり、『山』を乗り越え、
また次の『山』をつくって乗り越えていく。
乗り越えるたびに、もっと強く、
もっと大きな自分へと変わっていく」
先輩は後輩に物事を教える立場であると、そんな固定観念にとらわれず、その立場をリバース(逆転)させ、部下や若手が上司のメンター(助言者)になるというもの。例えば、若い世代が年配者にデジタルスキルを教えたり、若者の価値観を伝えたりする。そうすることで組織が活性化され、皆の成長につながるという。「何が得意かは人それぞれ。自分は自分らしくあればいい。相手から何かを学ぼうという姿勢が一番大事」。「我以外皆我師」とは作家・吉川英治の言葉。どんな人にも見習うところがある。そんな心の持ちようが、自分の世界を豊かにする
「挑戦すべき『山』をつくり、『山』を乗り越え、また次の『山』をつくって乗り越えていく。乗り越えるたびに、もっと強く、もっと大きな自分へと人間革命していく」
「ストーリー」は物語の筋書きを意味する。筋書きだから、当然、語り手が誰であれ、物語は変わらない。
対して、「ナラティブ」は、語り手自身が、一つ一つの経験をどう感じ、どう意味づけていったのかという物語で。ゆえに、経験それ自体は同じだったとしても、語り手の数だけ物語がある。
「尊敬」と「敬遠」は紙一重。師と仰ぐ存在に敬意を抱くあまり、肉薄しようとするより、自分は到底及ばないと、敬して遠ざけてしまう。そうした“神格化”が、思想精神の形骸化を招いた歴史は多い。インド仏教もそうであった。米国のモアハウス大学・キング国際チャペルのカーター所長は、ガンジーとM・L・キングの非暴力の闘争を継ぐことを、わが使命とした。二人が少しずつ神格化され、人々が“自分には非暴力は関係ない”と思うことに懸念を抱いた。
絵本『ひっくりカエル!』は、言葉の意味をポジティブに変換させるカエルの話。ページをめくると、「泣き虫」は「心が優しい」に、「おとなしい」は「話をじっくり聞ける」に、「飽きっぽい」は「頭の切り替えが早い」に変化する。捉え方の枠組み(フレーム)を変えることを心理学で「リフレーミング」という。その本質は、単に「プラス思考」を目指すものではない。ある臨床心理士は、“それまでの枠組みでは見過ごされていたものを発見すること”だという。地上からは高く見上げる壁も、空から見れば地面と大差ない。それぞれの地域で抱える課題も、見方によっては前進の制約要因にも、突破口にもなる。未来を開く根幹は、必ず壁を乗り越えるとの一念である。
「リスキリング」(学び直し)という言葉が最近、定着してきた。これまで社会で頑張ってきた人が、これからも価値を生み続けるために、時代の変化に対応しながら、自身のスキルを更新することが求められている。だが、今までのキャリアが無駄になるわけではない。新たな力を身に付けることで、それまでの経験の価値がかけ算のように増す。そんな現象が、仕事にも人生にも起こりうる。「象徴的にいえば、『辛』という字も、『一』を加えれば『幸』に変わる」と。「一」を加えるのは自分自身。歩んできた道を信じつつ、新たな挑戦を恐れない。その不断の一念が「辛」を「幸」へと転じていく。
「懸命に生き、働いているその真摯な姿勢は、つくろわずして、家族に対する豊かな精神的栄養になる」
家族が仲良く、家庭が安心の場であれば、人はどんな困難にも負けることはない。誰よりも身近で、自分の味方になってくれる存在。時には、窮屈に感じることや意見がぶつかることもあるかもしれない。だが、互いの幸せを祈っていけば、家族の絆を強める好機に変わる。
「君は戦おうとしない。たえず病気と死を考えている。死と同じく生も避けられない。生命だ、命だ。宇宙にある力が地球を動かし木を育てる。君の中にある力と同じだ。その力を使う勇気と意志を持つんだ」
喜劇王チャールズ・チャップリン
フランスの哲学者フレデリック・ルノワール氏が、つづっている。どんな苦境にあっても「『何のために?』という問いかけができる人は、『どういうふうに』でも生きていける」「何のため」を見いだせば、試練に立ち向かう力が湧く。自身の中の無限の可能性を開くこともできる。
「何でできないんだろう」・「どうしたらできるんだろう」
何かが達成できない時、思わず口にする言葉。
似ていても、心の向きが全く逆になる。
前者には自分には“できない”という先入観と諦めの気持ちがにじみ、後者には“やってみせる”という自身の可能性を信じ抜く信念と執念を感じる。
失敗の原因究明は大事だが、どんな状況でも、できる方途を見いだそうとする前向きな気持ちが、より価値的な結果を生む場合がある。
春の花々が咲き始める今の時季は、七十二候の「桃始笑」(3月10~14日ごろ)。花の固いつぼみが少し開くことを「ほころぶ」という。これには、硬かった表情が和らいで笑顔になる意味も。だから「笑」を「咲く」と読ませるようだ
試験ゆえ、合否はある。だがそれは自分という「人間」を判定されたわけではない。どんな結果でも“これには意味がある”と捉え、前進し続ければ、その後の人生の厚みが増す。人生の途上には成功もあれば、失敗もある。だが、失敗は“敗北”ではない。さまざまな経験を味わってこそ、味わい深い人生を築ける。全ての出来事を自身の成長の糧として、最後は勝って決着をつける。これが本物の勝者である。
「ものごとにはA面とB面がある。A面は何もしなくても見えるが、B面は自分から見ようとしないと見えてこない。」ーーアルピニスト野口健の父
「若さとは、『動く』ことである。
知恵を振り絞り、心を働かせ、何かを為すことだ。
どんな境遇にあっても、何とかしようという挑戦の心を忘れないことだ。
その人の生命は若い」と。
数え年では毎年正月、年齢に1歳を加える。
それでも心はますます若く、前進を期す新年を迎えたい。
「笑う」という言葉は、
古くは「咲う」とも書いたという。
笑顔は、人間が咲かせることのできる花である。
お金があってもなくても、
家族にも、友人にも、
惜しみなく贈ることのできる
幸せの花が笑顔である。
人を傷つける心ない言葉が
氾濫している現代だからこそ、
思いやりのある言葉を
かけ合うことを大切にしたい。
その第一歩は、「あいさつ」である。
始めは硬い表情でも、あいさつから笑顔が生まれ、
心の通った対話が広がる。
雑踏の中にいても聞き分けられる「声」がある。それは声の主が身近な家族や親しい友人の場合が多い。耳にさまざまな音が飛び込んできても、その声に反応し、意識が向くのはなぜか。“聞き慣れた声”ということも重要な要素だろう。だがそれ以上に、声を発した人の人間性を含めた自分との関係が大きく影響しているように思う。人には忘れられない瞬間がある。自分が励まされたり、勇気づけられたりした時のことを思い出すと、心によみがえるのは、活字化された言葉ではなく、相手の“声”である。大雨による各地の被害に、アナウンサーが視聴者に呼び掛ける。「離れて住む家族などの声掛けで助かった例もあります」。報道でも「どこで災害が起きてもおかしくない。最大級の警戒を」と繰り返し訴えている。その上で、私たちの声で救い、守れる人がきっといる。「人の『生きる力』を引き出した分だけ、自分の『生きる力』も増していく。人の生命を拡大してあげた分だけ、自分の生命も拡大する。『利他』と『自利』の一致」と。自分の命と、大切な人の命を守ることは同じだ。
日本語の「さわる」と「ふれる」――英語ではどちらも「touch」と訳されるが、微妙に意味が異なる。広辞苑を引くと、「さわる」には「感触を確かめる」とあり、「ふれる」には「ちょっとさわる」とある。「さわる」が一方的なのに対し、「ふれる」は気持ちや意思を確認する意味合いが含まれているととれよう。「ふれる」の方が控え目だが豊かな関わりだ。文学博士の伊藤亜紗氏は、現在のコロナ禍にあって、「さわる」を避けようとして、「ふれる」まで捨ててしまうことを危惧する。対面であれ電話であれ、人との心の触れ合いがあってこそ、日常の生活に希望や歓喜が生まれる。「信心のこころ全ければ平等大慧の智水乾く事なし」と。信あるところ智慧は無限に湧いてくる。工夫を凝らし、心と心の「触れ合い」を。
「努力はウソをつく」――フィギュアスケートで冬季五輪2連覇を果たした羽生結弦選手の言葉。厳しい練習や準備を重ねても、望んだ結果を得られるとは限らない。勝負の世界に生きるトップアスリートならではの実感だろう。その言葉には続きがある。「でも、無駄にはならない。『努力の正解』を見つけることが大切」。一見、報われないと思う取り組みや失敗も、それらの経験はすべて勝利の未来へと続く布石になる、と。つまずいても立ち上がり、新たなステージへと歩みを進めていく。その挑戦の歩みの中でこそ、“なぜ”と思う出来事の「正解」も見つかる。
2014年7月、高校野球の石川県大会決勝戦は球史に残る逆転劇勝負は最後の最後まで分からないものである。9回表で小松大谷高は8対0と、星稜高に大差をつけていた。ところが9回裏、星稜は9点を取ってサヨナラ勝ち。2年連続17回目の甲子園出場を決めたその試合を星稜高の在校生としてスタンドで応援したという青年、彼は開口一番、「勝敗を分けたのは『笑顔』でしたね」と。「必笑」が合言葉の星稜ナインは、ピンチの場面でも笑みを絶やさなかった。それが活気を生み、チームは勢いづいていった。一方、対戦相手は大量リードにもかかわらず、追い詰められたように見えたという。表情や動作は、身体に影響を及ぼす。特に笑顔をつくると、脳は“この状況は楽しいのだ”と感じ、能力を発揮しやすくなる
プロ棋士の羽生善治氏は「以前、私は、才能は一瞬のきらめきだと思っていた。しかし今は、十年とか二十年、三十年を同じ姿勢で、同じ情熱を傾けられることが才能だと思っている」と。将棋界の第一人者の言葉だけに、大きな説得力がある。「何をしてきたか」が現在の自分をつくっている。そして「何をしていくか」という今の決意が、未来の自分をつくる。自身の勝利の姿を思い描きながら、今日も挑戦の一歩を!
環境が整っているからといって、成長できるとは限らない。それを生かせるかどうかは自分次第だ。良かろうが、悪かろうが、置かれた環境の「意味」を見いだし、目の前の課題を一つ一つ乗り越えていく。その積み重ねが、やがて確かな実りをもたらす。アテネ五輪・女子マラソン金メダリストの野口みずきさんには、選手として転機になった出来事がある。実業団を退社し、4カ月もの間、無所属状態になった時のこと。受けていたサポートがなくなり、仲間と共に全てを自分たちでやるようになった。それまでは「どこか他人任せな感じで練習に取り組んでいた」という野口さん。サポートのありがたさを再認識したことで、社会人としての自覚が生まれ、結果を出そうという気持ちが強くなった。この意識の変化から“考えて走る力”が養われ、自己ベストを次々と更新。大きな飛躍につながった。“苦しい状況だからこそ見つけられる、成長への気付きがある”と。人はどんな試練も人生の財産にできる。全ては自分の心で決まる。
マスターズへの初挑戦は10年前。東日本大震災が発生した直後だった。当時、松山選手は大学生。キャンパスのある仙台市が被災し、出場辞退も考えた。だが多くの励ましに背中を押され、参戦を決意。アマチュア選手として最高の成績を収め、ゴルフ人生の転機をつかんだ。帰国後の会見で松山選手は語った。「10年前、大変な時に送り出してくれたという感謝の気持ちは忘れていません」。10年の経過が早いのか遅いのかは分からないが、東北の皆さんにいい報告ができて良かったと、震災から10年1カ月の日(11日)の優勝を笑顔で振り返った。「感謝の心」は人を大きく成長させる。試練に直面した時、自らを支える力ともなる。反対に、その心を失ってしまえば、いつか行き詰まる。恩を忘れない生き方が人間を強くする。「この人生における疑う余地のないただひとつの幸福は、他人のために生きることである」とは、文豪トルストイの言葉。“誰かのため”との一念から未来は開かれる。
俳句は「喜びの見つけ方」を教えてくれる――俳人の夏井いつきさんはこう語る。かつて、再婚した夫が肺がんと診断された。それでも夏井さんは夫の入院中に俳句を詠み続けた。「蛍草コップに飾る それが愛」――病室での情景を一句詠むごとに前向きになれた。「悩みと喜びは、表裏一体です。この真理に目覚めるところに、真の人間の強さ、人生の深さがある」と。どんな困難にも揺るがず、不屈の心で立ち向かう。そうすれば、全てを意味あるものに変えていける。
「この魚は足がはやいから」と言って、母親がいそいそと台所で調理を始めた。それを聞いた幼い娘は目を丸くしている。「そのお魚さん、足が生えてるの?」。駆けっこやマラソンを思い浮かべたのだろう。「足がはやい」という言葉には「食物の鮮度が落ちるのが早く、傷みやすい」との意味もある。「商品の売れ行きがよい状況」を表す際にも用いる。「足」を辞書で引くと、“ものごとの流れや変化”“人の行動”を表現する語句でもあるようだ。歳月は人を待たず、季節は足早に過ぎていく。仮に思うに任せぬ状況であろうと、時間を腐らせてしまってはもったいない。「わが人生は常に今日が旬」と決め、挑戦の一日を生き生きと(紙面より)
青年の夢は“五つ星”の高評価を得るホテルで働くことだった。だが病で視力の95%を失ってしまう。それでもわずかな可能性に懸けて就職に挑む。この実話は「5パーセントの奇跡」というタイトルで、4年前に映画化された。物語では、挑戦に反対する周囲の「非現実的だ。夢を見るのは諦めろ」という声に対し、青年が言い切る。「夢は絶対に諦めません」。その信念を貫いた青年は見事、採用試験を突破する。耐え難い逆境にも消えない心の灯――それが「希望」だ。(紙面より)