浅草小島一丁目町会の歴史と歩み

明治5年、松前修広(蝦夷藩主)・大久保保忠明(下野鳥山3万石領主)・柳沢徳忠(5代将軍綱吉の寵臣、柳沢吉保の末孫、越後三日市1万石の殿様)の三邸を合併したと(台東区発行、浅草町名由来)記してある。

時は過ぎ昭和9年3月15日、浅草小島町は南北二町にわけられ南側が1丁目、北側が2丁目となった。また大東亜戦争初期の頃、南部町会(小島町8番地、旧柳沢跡地の住民が組織した町会)が合併する。そして昭和18年頃、浅草小島1丁目町会が誕生する。間もなく終戦とともに町会は解散、代わりにレクリエーションクラブ(二交会・三親会・文化会)と云う会を作り合議制(議長・大谷才助氏)により運営された。

昭和29年再び小島1丁目町会が誕生し、昭和39年1月住居表示変更により小島1丁目は左衛門橋通りを境にその西側が小島1丁目、東側が三筋1丁目に属する事になったが住居表示には関係なく、従来通り三筋1丁目7・8・9・10・11番地を含め浅草小島1丁目町会として現在に至る。