里山ってなに?

里山ってなに?

最近「里山」という言葉をよく耳にします。でも里山ってどんなところでしょう?

もともと「里山」はたんぼや畑、それをとりまくクヌギやコナラなどの雑木林、湧水や水路・・・これらが有機的な循環を構成する、かつて農業と密接に結びついて人間によって管理されて保たれてきた2次的な自然環境と言えるでしょう。そしてその環境の中で、人間は長い間木や草や動物や昆虫などととてもうまくやってきたのです。もともとは極めてありふれた日本の原風景とも言える、私たちにとって心安らぐ懐かしい風景です。

都市近郊の里山の効用

現代の都市近郊において里山の持つ機能は、エネルギー源の変化や農業のやり方の変化に伴って、かつての機能が失われ、宅地として開発されたり、逆に放棄される一方、以前とはまた違った側面から、逆により大きな意味を持つようになっているとも言えるでしょう。豊かな緑が二酸化炭素を吸収して酸素を生産し、地域住民に憩いとリフレッシュの場を提供し、子供たちが自然と触れ合うことができ、さらに防災上の役割も無視できない重要な機能です。また里山を保全するためのボランティア活動に参加する人達にとっては市民同士の新たなコミュニケーションの場としても大きな役割を果たしています。

東京の里山の現状と行方

東京近郊では農業がどんどん姿を消し、それにつれて懐かしい里山の風景も今ではほとんど見ることができなくなってしまいました。わずかに残っている農家でも以前は雑木林から定期的に伐り出される薪や炭からエネルギーを得ていましたが石油や電気・ガスなどにとって変わられ、また落葉から作られる堆肥も化学肥料に押されることによって雑木林の役割が小さくなってしまいました。その結果として多くの雑木林が姿を消し、あるいは荒れ放題になってしまったのです。

 こうした背景から現代の社会システムにおいて機能を失ってしまった都市近郊の里山はどんどん姿を消していっているのです。

 今東京近郊の農家は様々な問題を抱えています。高齢の親に代わって団塊の世代が農業を引き継いでいるものの、相続が発生すれば、高額の相続税、彼らの次の世代の後継者がいるか、また農業が経営として成り立っていけるのかといった問題にイヤでも直面せざるをえません。現実に現在農業を営んでいても、実際にはマンション経営や駐車場収入で生計が支えられている場合がほとんどといっても過言ではないでしょう。

里山保全への取組みの現状

 里山保全への意識や具体的な取組みが、一般市民のレベルでもまた行政サイドでも近年にわかに高まってきています。市民のボランティア活動も活発になっていますし、東京都や近郊の自治体が市民団体も巻き込んで共同して緑を保全していこうとする動きも見られます。国にしても地方自治体にしても財政的には極めて厳しい状況の中で、行政と市民が協調してなんとか良い方法を模索しようとする動きが現われてきており、大きな期待が持たれています。

 しかし、なんと言っても近隣の市民の果たす役割がいま最も重要かつ実効性の高いものになっています。ここ倉沢でも私たち倉沢里山を愛する会の活動実績が里山の公有化成功の前提となり、さらに市民自身の手で緑地を維持・運営する道が開かれたものと思います。

里山保全の条件

かつての里山は農業と密接に結びついてたるため、農業が消えてしまったら基本的に里山は成立しません。

雑木林の一部が緑地公園のような形で残ったとしても里山に存在していた豊かな生態系が存続することは非常に困難ですし、樹木や落葉の役割も以前よりずっと小さなものにならざるをえません。従って里山を保全するためには、都市農業を持続可能なものにすることがひとつの方法論ではあります。例えば自治体の支援による観光農園化などそのための試みがなされています。しかし、現代の農業において雑木林の果たす役割は昔に比べればかなり小さなものになっており、都市の農業を残すために雑木林を壊さざるを得ないという場面も容易に想像できます。

 同時に現代では、里山保全に取り組む息の長い、地に足のついた市民活動が存在することも重要かつ不可欠な条件といえます。市民自身が「業」としてではなく家庭菜園の延長としてでも農に関わることもこうした里山保全のために大きな役割を果たす結果につながると思います。里山の保全に市民が果たす役割は、今後ますます大きなものになっていくでしょう。

 私たちは、希少植物を保護育成する一方で、倉沢の雑木林と私たち自身で運営する市民農園「アリスの丘ファーム」との間での自然的循環を実践し始めています。


 さらに、特に都市近郊の里山の緑地に従来とは違う新しい社会的な機能(=経済的価値)を付加していくこともきわめて重要です。里山の緑地が地域で欠くべからざる重要な存在意義を持つような位置づけを模索し、具体的な政策に結び付けていくという視点が重要であると思います。

中・長期的に見ればそこで市民が果たす役割は大きいし、逆にそうした可能性を持っているのは市民であるということを認識する必要があるのではないでしょうか。