近況報告
2024年1月 秋田中央地区 小玉 俊子
私がパーキンソン病と診断され約10年、本会に入会して8年が経とうとしています。現在の私は、当時に比べ身体も動きづらくなりましたし、体力もずいぶん落ちました。この10年で薬の量も増え、確実に病気は進行していると実感しています。身体が思うように動かず家事も滞ることがありますが、気ままな一人暮らし、私のペースでやればよし、とゆっくりマイペースで取り組んでいます。車の運転はしていますが、遠出はしていません。通院で秋田市に行く際などは、友人の助けを借りています。
私の一週間の主なスケジュールは、週2回リハビリセンターへ通うこと、針・マッサージなどを週1~2回ほど施術してもらっています。パーキンソン病の治療では2ヶ月に1回の割合で通院をしています。その他、歯医者や眼科へは同世代の皆さんとほぼ同程度の割合でしょうか。
私は、趣味でハーモニカを演奏をしたり絵手紙を描いたりしています。ハーモニカサークルの活動は月2回の練習があります。現在、演奏を披露する発表会などはコロナ禍前に戻りつつありますが、施設訪問などの機会は減りました。ハーモニカを吹いていると、自分の体力が落ちてきていることがよく分かります。息が長く続かなくなってきたのです。普段は気づかないでいる衰えを感じ、その分リハビリにもなると毎日練習するようにしています。時々気分が乗らないこともありますが、続けることが大切だと思い吹いています。それに、ハーモニカを吹いているときはゆっくりした気持ちになり、身体の痛みを忘れることもあるので、音楽が私に良い影響与えていると感じています。サークルのメンバーと定期的に会えることも楽しみで、季節の行事に合わせて料理を持ち寄り、楽しく語らうこともあります。
もう一つの趣味の「絵手紙」は、道の駅ブルーメッセに展示されていた絵手紙を目にしたことをきっかけに教室に通うようになりました。月1回の教室ですが、通い始めて4年ほどになります。なかなか上手に描けないのですが、移設折々のものを描き、遠方に住んでいる孫や仲の良い友人達へ絵手紙を送っています。絵手紙を始めてから、絵手紙に描けるような花木、野菜や果物など季節を意識して生活するようになりました。絵手紙を送った相手先から連絡が来るとそれもまた励みになり描く意欲が沸いてきます。自己満足のところも大いにあるのですが、これもまた私らしさ、と気ままに描いています。
今の私の生活は、周囲の手助けにより成り立っています。一人暮らしをしていることもあり、近所の方々や友人達が家を訪れ声をかけてくれます。遠方に住んでいる子ども達も毎日電話をくれます。身体が思うように動かず後ろ向きな気持ちになることもありますが、周囲の方々への感謝の思いを忘れず、私らしく生きていきたいと思っています。
この日から始まった
2024年1月 仙北地区 田澤 真
2019年2月8日、私は、パーキンソン病と診断されました。
5年近く経った今でも、この日のことは忘れられません。知人たちからは「病名を聞いてショックだったでしょう」とよく言われますが、決してそうではなかったのです。
初診のこの日、名前を呼ばれて診察室に入った私が主治医に対していきなり発した言葉は
「私、パーキンソン病ではないかと思って来たのですが、パーキンソン病でしょうか?」でした。
するとすぐさま「そうでしょうね。パーキンソン病だと思いますよ。」というような答えが彼から帰ってきたのでした。そして、「なぜそんなにすぐわかるのかしら?」という顔をした私に対して
「脳外科で撮ったMRIを見ても問題はないし、矯正視力も1.2あるのだから大丈夫だ。すると脳が出す指令を伝え様々な運動機能を調節するドパミン不足が起きていると考えられる。」
と図示しながら丁寧に説明してくれました。
同時に、薬によって症状を軽減できることや、ウェアリングオフについても景気循環のような図を描いての説明と、原因がはっきりしないために根本的な治療方法が無いことも教えてくれました。
そして、2カ月後、具体的な病状を知るために由利本荘市の病院でアイソトープを用いた検査をした結果、おそらく6,7年くらい前に発症していたのではないかという事や、右半身の方が病状が進んでいるという事も分かりました。
そう言えば59歳のころから確かに気になる症状はあったものの、老化現象と思って受診はしませんでした。そして、文字が書けないという深刻な状況に陥ったころ、前傾姿勢で庭仕事をしている私を見た息子にこの病気を指摘され、受診を勧められた事がきっかけで、この日に至ったのでした。しかし、認知面や視力の低下が原因としてあるかもしれないと考えた私は、事前に脳外科と眼科を受診したのです。
このように、私とパーキンソン病との出会いについて、記憶に留めておくべき事を記録しておきたいと思い、書いてみました。なぜなら、パ―キンソン病者である私自身が、このように生きていきたいという希望・願いが、私の内面にくっきりと形づくられて行くのを実感できたこの日は、私にとってとても大切な日だからです。私は、この日も徒歩で帰宅しましたが、初春の陽光も手伝ってか、心の中にポッカリと温かいものが在るのを感じることができました。では、なぜ、私とパーキンソン病との出会いは、このように希望に満ちた明るいものになったのでしょうか?その理由は大きく二つに括られるような気がします。
一つは私自身に有ります。私の性格はもともと悲観的でくよくよ考える方ですが、30代半ばからそれではやっていけないことが次々と振りかかってきたために、自分の意識を変えざるを得なかったのです。金子みすゞの詩にあるどんな暗がりにある葉や枝でも「明るい方へ明るい方へ」と伸びていくように、希望に繋がる方向を探し当てて、それに向かって努力していくという姿勢を、少しずつですが、身に着ける事ができるようになりました。
もう一つは、私の助けになって下さる人達の存在です。その中でも二人の主治医の存在はとても大きいです。最初の主治医であったO先生は、患者の気持ちを前向きにしてくださる方で、最初の診察日から必ず毎回おしゃべりの時間をセットしてくれ、それがとても楽しいものでした。
この日は趣味の話になって、「趣味は楽しいものだから、この病気にも良いことなので是非、続けるように。」と話してくれました。また、帰り際に笑顔でかけてくれた『20年後もこうして歩けるようにがんばりましょう。』という言葉が、この日、希望の種となって私の内面に蒔かれたのです。そして、現在は、くじけそうな私を支えてくれる一番の到達目標です。
では、なぜ、この日、パーキンソン病と診断されたとき、私は、冷静に受け止めることができたのでしょうか?人は誰もが健康寿命の生涯をと願うのですが、うまくはいかないものです。
私の母は80歳ごろから認知症となり、父は早期発見ではありましたが、3種類もの癌を患いました。ですから、私が引き受ける病気はこの二つかなと覚悟していましたが、意外にもパーキンソン病だったので、ちょっと驚いただけで、すぐに明るい方へと思考回路を再設定して「あーあよかった!直接死につながる病気ではなくて」とつぶやいていました。
また、この「引き受ける」という捉え方は、私が教師として初めて自閉症の子供達を担当していた時、先輩の先生に教えていただいたものです。私達の病気に例えると、パーキンソン病になる確率は100人に1人と言われていますが、その一人になった私達とその家族の辛苦ははかり知れないものです。でも、あえてそこで、「99人の中で誰がかかるかもしれないパーキンソン病を私が、引き受けて頑張るから、応援よろしく!」と胸を張って宣言するという意識に切り替えていくと、前向きな気持ちで病気に向かい合えます。
この日から5年経とうとしている今、様々な症状に難儀しておりますが、私の目標を叶えようと懸命に努力して下さる主治医I先生に託して、生活=リハビリであるという前向きな気持ちで過ごしています。特に、趣味であるバラ栽培を生かした庭づくりとパッチワーク、お菓子作りは、時間がかかるけれども楽しい分、リハビリ効果も大きいので、仲間に助けてもらいながら頑張っています。
私のパーキンソン病体験談
2023年11月 事務局長 佐藤 晶子
プロローグ ~ 始まりの前
はじめに
私がパーキンソン病と診断されたのは30年くらい前のことです。
俳優のマイケル・Jフォクスと同年代で、彼が発病したのもほぼ同じ頃だったと思います。彼の書いたラッキーマンを読んで共感したのを覚えています。
病気の始まりを話す前に、私の若い頃の話をします。
20歳の時に結婚しました。当時は夫が新潟だったので、秋田を離れて新潟に移り住みました。
その後、長男、次男が生まれ、26歳の時に秋田県の能代市への夫の移動が決まり、6年間過ごした新潟を後にしました。
今、思えば、新潟の生活が、自分が自分でいられる一番幸せな時間だったと思います。
病気の始まり
能代市に住み始めてから数年後、私が30歳を前にした頃、何となく体に違和感がありました。
それは、次男の幼稚園の謝恩会の出し物の練習で腕が上がらなかったり、謝恩会の時にビールを注ぐ手が震えて、うまく注げなかったりして、何かおかしいとは思ったものの、その時はみんなの前で緊張しているぐらいにしか思っていませんでした。
しかし、その後も腕が上がらないとか、手が震えるという症状は続きました。
そこで、近くの内科の病院を受診する事にしました。
これは私にとっては一大決心でした。
その内科の先生は、大きい病院で見てもらったほうがいいと言い、山本組合総合病院の脳外科を紹介されたのでした。脳外科から連想するイメージは良いものではなく、脳外科なら脳梗塞?など、不安はさらに大きくなり、心臓のドキドキを抑えられませんでした。
その頃は、検査といってもCTやMRIなどしかなく、検査では異常は見当たらなかったのですが、震え、体の硬直などから、パーキンソン病と診断されました。
その後、どうやって家に帰ったかはよく覚えていません。
夫にも、両親にも言えず、しばらくは自分の胸にしまっておきました。
診断結果を告げられて、「私はまだ30歳前なのに高齢者が多いパーキンソン病って …」と、愕然としました。
今は、パーキンソン病に関する様々な情報をインターネット等で簡単に得る事が出来ますが、当時はまだネットも携帯も普及しておらず、自分で情報を得る事が非常に困難な時代でした。ですから薬も脳外科の先生が処方したものを先生の言う通りに服用するしかありませんでした。
薬は「メネシット」の1種類だけだったのです。
その頃だって、 「エフピー」とか「コムタン」などの補助薬もあったと思いますが、処方されることはありませんでした。
1年くらいそんな生活を続けていました。
メネシットを飲めば一時的に普通の状態に戻るので、小学校の息子たちのことで忙しい事もありますが、この頃はまだ自分が難病だという事も忘れてしまう時間がありました。
秋田市へ ~ 本当の闘い
しかしそういう生活を続けている中、先生がパーキンソン病は神経内科の先生に見てもらうのが一番なので、秋田の病院を紹介すると言ってきました。
今思えば、最初からそう言ってくれていれば…、と、複雑な気持ちです。
今では、発病当初の軽い症状の段階ではLドーパの服用はまだ早い、と言ってくれる先生が沢山いらっしゃるので、最初から神経内科を受診していればどうなっていたのだろうと考えてしまいます。
そして、遅ればせながら秋田赤十字病院を受診する事となり、夫や、私の実家が秋田市にあるという事や、毎月の通院のためにもと秋田市に家を構え、能代から引っ越しました。そしてそれが、いつ終わるとも知れないこの病気との本当の闘いの日々の始まりである事を、私はまだ知りませんでした。
薬の治療を20年以上続けて、いろいろなパーキンソン病の症状と格闘しながらやってきました。息子達にも夫にも犠牲にさせることもいろいろあったのはわかっていましたが、病気と闘っている私は、結局自分のことばかり考えていて、それだけで一杯一杯だったのかもしれません。反省!!
20年を過ぎ、病気の症状として、運動系症状はあげられるもの全てがあてはまり、非運動系症状で経験していないのは、しいて言えば幻覚症状ぐらいだと思います。
10年ならないくらいの時から、薬の効果が長続きしなくなり、スイッチが切れるように体が動かなくなる「ウエアリングオフ」が始まってきました。逆に薬が効きすぎると体がくねくね動く「ジスキネジア」が起きるようになりました。
山あり谷ありとよく言いますが、その体調の山や谷では、疲れる毎日でした。生活においては、オンオフが激しくて、主婦業もオンの時間を逃してはなるものかと大急ぎでやるのですが、母親は「お前はウルトラマンみたいだな!時間がきてカラータイマーが鳴れば力つきて行ってしまう」と言っていたものでした。私にとって、ウエアリングオフは辛く、疲れる最悪なものでした。しかし、薬を飲めば飲むほど酷くなっていくような気がして、飲むのもためらう様になりました。時間切れが来る前に、やりたい事、やらなければいけない事、いろいろなことを考えるのも限界が来ていました。
デュオドーパとの出会い ~ 運命
20年過ぎる頃、会員さんからDBS(脳深部刺激療法)をやったという声が聞こえてきました。
でも私のとった選択は、レボドパ・カルビドパ配合経腸用液療法(デュオドーパ)でした。
それまでは、薬の調節を(気が遠くなるくらい沢山)して主治医ともいろんな手立てを考えました。
当時は御野場病院の石黒先生に20年くらい診てもらっていましたが、デュオドーパは秋田県では市立秋田総合病院でやっているということで紹介してもらい、大川先生に受診し、早速、検査をして苦手な胃カメラもウエアリングオフのために頑張って、手術にこぎつけました。
デュオドーパの詳しいことは昨年のオンラインでも赤十字病院の原賢寿先生をお招きして開催したときに、患者さんの体験談とあわせて紹介しています。資料もたくさん出ていますので、まだよく知らないという人や興味のある方は、是非友の会へ聞いてみてください。
結論から言うとこの選択肢は間違ってなかったと確信しています。
今はさらに大川先生にDBSをやらないかなどと言われていますが。
病歴30年もなるのですから、ウエアリングオフもゼロとは言わないまでも大幅に軽減されました。
5年前のあの時、デュオドーパを選択していなければ今、活動しているこの友の会の事務局長もやれてなかったと思います。あの時の決断がPDという悪魔に大きな一撃を加え、私の人生を大きく変えました。
パーキンソン病の治療は、基本、薬ですが、それに限界を感じた時、DBS、デュオドーパ、FUSそして最新の治療ヴィアレブにしても、選ぶのは私たち患者です。情報を得て、考え、良い方向に向かえるように挑戦するのも一つです。
最後に
パーキンソン病友の会のことを少しだけ付け加えます。
秋田県支部は、平成10年に発足し、私はその4年後くらいに入会しました。
最初は一会員として参加していましたが、そのうち、会のお手伝いをするようになり事務局次長として役員になり、その当時の事務局長の手助けを10年以上続け、現在は事務局長として会の活動の全般において動いております。
時に忙しいと愚痴を言ったりもしていますが、この役目があるからこそ今こうしていられるのではないかと思うこのごろです。
デュオドーパ治療体験レポート
2020年9月 大仙地区 佐藤 和彦
はじめに
◎デュオドーパ治療とは
薬液を携帯用のポンプから直接小腸に切れ目なく送り届ける、新たな投与システムによる治療法です。
◎レポート作成の背景
私は今年(2020年)の8月に、この治療を受けるために入院して手術を行いました。
デュオドーパ治療は最近増えてきているとはいえ、まだ知らない人もいるかと思いましたので、皆さんの今後の治療の参考になればと思い体験レポートを作成しました。
デュオドーパ治療の概要についてはweb上でも色々報告されているので、ここではより具体的な私が実際体験した事や感じた事などを中心に報告したいと思います。
入院までの経緯
◎径腸療法を考えるようになったきっかけ
最初に体の異変に気が付いたのは今から9年前で、当時49歳でした。
地元の病院に通っていましたが、パーキンソン病とは診断されず、しばらくして症状も改善されないため秋田赤十字病院を紹介されました。そこで検査(DAT-Scan)をして
初めてパーキンソン病と診断されました。
その後、病気が進行しオフ状態がひどくなり悩んでいた時に、友の会主催の医療講演会があったので、参加してみました。(昨年の11月のことです)
その中で友の会秋田支部事務局長の佐藤さんのデュオドーパ体験談があり、径腸療法を知る事となりました。
◎検討~決断
事務局長の佐藤さんのアドバイスにより特定医療費(指定難病)受給者証(※)ももらい、家族の強い薦めもありましたが、自分としては腹に穴をあける事への不安、服薬で何
とかなるうちは服薬でいいんじゃないかという気持ち、などから手術への踏ん切りがつきませんでした。
そんな時に、秋田赤十字病院でもデュオドーパ治療ができるようになったと主治医の先生から聞き、やるなら早いほうがいいだろうとの判断により、手術を決めました。
※)補助金や助成金などに関しては病院から積極的には教えてくれません。自分で調べましょう。
◎入院時点の状態
薬の種類と量は次のような状況でした
・マドパー配合錠 6錠/日
・エンタカポン錠100mg 6錠/日
・セレギリン錠2.5mg 3錠/日
・ノウリアスト錠20mg 1錠/日
・ニュープロパッチ18mg 1貼/日
ジスキネジアはありませんでしたが、オフ状態の筋肉硬直、筋力低下、姿勢障害がひどく、自力歩行ができない時もありました。
入院~退院
今回のスケジュールは大筋以下の通りです。
①今の状態の確認→②経鼻胃管留置 術の施術&ポンプ装着→③薬液の効果確認と投与量調整→④絶食開始→⑤胃ろう造設手術→⑥抗生物質の投与→⑦食事再開、経過観察→⑧退院
◎入院初日~3日目
入院初日から3日間は薬を服用しながら今の状態の確認作業でした。
記録を付けていき、これを参考にして朝の投与量、連続投与量のバランスを設定していくようです。
薬も服用しているので、普段の生活と変わりません。
◎入院4日目~
【経鼻胃管留置術】
鼻からNJチューブを十二指腸まで挿入し、ポンプを装着して、薬液を設定量だけ送ります。
チューブ挿入は約40分くらいで終わりました。
鼻から腸までチューブを通すなんて勿論初めての事なので、術後ものすごい違和感(異物感)が残り、こんな状態で食事など普通にできるのだろうかと不安がよぎります。
◎入院5日目~
食事は、異物感がありつつも特に問題なくとれました。
ここから胃ろう造設手術までの間、薬液投与量の設定を微調整していき、ベストな投与量設定にもっていきます。
最初は少ない量から始めるので、オフ状態が出まくりです。(私個人的には、この時が一番しんどかったです)
◎入院10日目
胃ろう造設前日なので、朝から絶食&点滴です。
この頃になるとチューブの異物感も殆ど気にならなくなっていました。
【胃ろう造設手術】
内視鏡を使いながら胃ろうを造設する手術ですが、実は私、この時の事を殆ど覚えていません。
手術台の上では、麻酔により半分寝てた状態だったので、あっと言う間に終わったっていう感じです。(実際は1時間くらいかかったようですが)
ここからいよいよ最終調整に向かっていきます。
◎入院12日目~退院
最終調整
絶食は続きます。
点滴で、絶食による栄養補給と化膿止めの抗生剤や胃薬等を体に投与しながら、術後の体の状態が安定するのを待ちながら同時に投与量の調整を行っていきます。
ここでちょっと予想外の事態が!!!
術後3日目くらいには食事とってOKと言われていたので、食事をしたら、術後にあった胃痛がひどくなって、食事中止!
原因を調べるために、血液検査、CT撮影、超音波エコー検査を行う事になった。当然、絶食と点滴は継続です!!
18日目の血液検査で最終的に大丈夫と判断され(炎症をおこしていたらしい…)、ようやく食事再開!(この時が一番嬉しかった)
デュオドーパの状態も安定して効いているので、22日目に晴れて退院となりました。
私はこの胃痛のおかげで22日間病院にいましたが、何事も無ければ18~19日くらいで退院できると思います。
デュオドーパの手術を終えて(所感)
手術そのものは短時間で終わるので、そんなに大変なものではありませんでした。
ただ、入院期間が3週間ほど必要なため、本人だけでなく周りの人たちの協力・サポートもかかせません。
実施を検討される場合は、周りの人とよく相談することが大切です。
服薬からデュオドーパに変えての最大のメリットは、薬液を直接腸に送り続けるので薬効が安定している点です。
つまり服薬におけるオン・オフの波が無くなるという事です。
朝にデバイスをセットしてしまえば、何もしなくてもオン状態が続くので、非常に楽です。
ジスキネジアで苦しんでいる方にも非常に有効だと思います。
ただし、実際に私がやってみた上で、全ての患者にデュオドーパを勧めるかというと、ケースバイケースだと思います。
・1週間近い絶食に耐えうる体力が必要
・デバイス(ポンプと薬液カセット)が重い
・ポンプのボタン操作がちょっとだけ面倒
・毎日のフラッシング(チューブ洗浄)や胃ろう部周辺のケアなどやることが増える
・薬液カセットの(冷蔵)保管場所の確保
などの事から、特に高齢の方に関しては介護サポートしてもらえる人がいないと厳しいのではないかと思います。
とは言え、デュオドーパにするメリットは非常に大きいので、上記をクリアできる方であれば是非検討してみてはいかがでしょうか。
最後に、今後私が望むことは
・デバイスの小型化&軽量化
・フラッシングの簡素化(自動フラッシング?)
です。
以上