以下の通り、2025年12月21日(日)午後1時半より6時半まで、国士舘大学世田谷キャンパス メイプルセンチュリーホール5階会議室およびZoomにて、第56回研究例会が開催されましたのでご報告いたします。対面参加者は20名ほど、加えてオンライン参加者も10人程でした。ご参加いただいた方々には改めてお礼申し上げます。
開会の挨拶 澤田直(代表理事)
新入会員紹介 甲斐敬識(東京大学)
第一部 研究発表 以下、司会者からの報告です。
(発表原稿および合評会での論評は、加筆の上『エレウテリア』次号に掲載予定です。)
発表1 前期サルトルにおける倫理の可能性―状況概念を手がかりに 三浦真空(専修大学)
報告:司会者 鈴木正道(法政大学)
『存在と無』、『倫理学ノート』と『弁証法李靖批判』に示されるサルトルの倫理の違いを指摘する先行研究を踏まえたうえで、サルトル倫理の全体に関する統一的解釈を試みる三浦氏は、今回の発表で、状況の概念を三段階の構造から成るととらえることで、他者との相克の問題を考える。
三浦氏はまず、『存在と無』で展開される状況と他者の関係をまとめる。他者は私を「まなざし」の対象としてとらえる「限界状況」であり、その意味でサルトルにとって他者問題は躓きの石である。また第2部で述べられる「価値」は、自己との一致としての全体性に対する欠如との合一である。自己との一致を目指す私と私の可能の関係は自己性の回路と呼ばれる。私の世界はこの価値への投企として現れる。私の状況が、私の目的に対する欠如として現れるのと併行している。自己性の回路によって現れる存在論的世界を一階とみなせば、自由な投企によって立ち上がる実存的な状況概念は二階とみなすことができる。
実存的な倫理において互いに自由な存在同士の私と他者との相克関係を、この二階構造によって捉えなおすと、第一にこの構造は人間の自由が自らの世界=状況の内部で働くという限定を与えること、第二にまなざしという構造が意識や自由の構造と統治されることで私の世界と他者の世界が分断されていることがわかる。それぞれが己の自己性の回路に相手の他者性を取り込んでしまうのである。こうした世界=状況のイニシアティブの取り合いは、サディズム、マゾヒズム、愛における他者との関係の叙述につながる。
以上の二階構造の考え方から見て、他者との相克は自由と自由の相克というよりも状況=世界の応酬関係として考えるべきだと言える。そのうえで他者との共同の可能性を探るうえで、『存在と無』以降の前期テクストから読み取ることのできる三階目の状況概念を用いたい。これまでの「普遍的な倫理」ではない「具体的な倫理」を要請する「具体的な状況」である。『倫理学ノート』においては「歴史性」を帯びた状況概念が示されている。第2次大戦かにおけるように、同じ具体的状況を共有することのできる他者は、『存在と無』において示された自分と同じように「超越であり事実性である」他者という抽象的な存在ではもはやない。それは具体的な「あなた」であり、「わたしたち」という共同可能性に開かれている。この三階の構造において、限界状況としての他者の問題は、状況に対する共同の具体的な応答という新たなる闘争として昇華されると考えられるのではないか。
以上が三浦氏の発表の骨子である。『存在と無』および『倫理学ノート』という1940年代のサルトルの著作における人間存在、他者との関係という問題を、改めて自分なりの枠組みを作ったうえで考えるという試みは意欲的なものであった。会場からは、結論の部分で言われた「新たなる闘争」とは何を意味するのかという質問があった。発表者は、絶対的な自由としての自分と他者の共同可能性としてのauthenticitéを求める三階の構造における闘いということを示唆した。他方、他者のまなざしによって作られる私の他者性とはそもそも乗り越えることのできないものではないかとの指摘もあった。発表者はそれを認めたうえで、三階の構造における別次元の乗り越えが考えられるのがサルトルの後期の集団論ではないかと述べた。
司会者としては、改めてサルトルにとって他者問題が躓きの石だったとする発表者の考えに対して、むしろまなざしにより私を固定してしまう他者があってこそサルトルは自分の存在論を組み立てようと思い立ったのではないのかと考えた。またサルトルの「倫理学」を「三階建て構造」とした場合の、特に「一階」と「二階」の概念区別が辿りにくいと思われたことも否定できない。とは言え新たなる枠組みにより未完のサルトルの倫理学をとらえなおそうとする視点は興味深く、「三階」における「わたしたち」の共同可能性に関する発表者の今後の研究に期待したい。(文責:鈴木正道)
発表2 サルトルにとって教育とは何か? 畑田晃佑 (筑波大学大学院)
報告:司会者 鈴木正道(法政大学)
同世代のメルロ=ポンティやアロンと異なり、大学教授にはならなかったものの、若いころにリセで高校教員を務め、その後も教育に関しての発言もあったサルトルが、いかなる教育実践を行い、教育に関していかなる考えを持っていたか、それが彼にとっていかなる意味を持ったかを、畑田氏はこの発表で問う。アニー・コーエン=ソラルによる伝記やボーヴォワールの回想録などの情報に基づき、畑田氏は、サルトルがル・アーヴル(1931年3月-1936年6月)やラン(1936年秋-1937年秋)の高校において生徒とは対等の間柄で接することに努め、生徒に知識を教え込むのではなく、生徒自ら考え批判精神を育むように、討論重視の授業を進めたことを述べる。伝統的な手法が無視されたがゆえに学校の管理職や一部の父母からは当惑や反発が生じたが、生徒や視学官の評判は良かったということである。しかしすでに『想像力』や『超越的自我』を発表し、『メランコリア』が受理されていた1937年10月に赴任したパリ近郊のリセ・パストゥールでは、教員生活が窮屈に感じられるようになっていたと思われる。戦後にこの高校に復帰した時には、堅苦しい感じになっていたということである。しかしパリのリセ・コンドルセではル・アーヴル以来の自由闊達な授業法に戻り、管理職をも含めた人々の賛辞を受けている。しかし執筆に対する情熱が勝り、1944年6月に教職を辞する。
その後1964年のソルボンヌ哲学科学生との対談「哲学教育と哲学の意味について」において、サルトルは哲学教育においては「批判的精神」を発展させ「精確な知識」を享受することが求められると発言している。哲学とは対話であり、教説はそれを伝える教師も含めて批判の対象となり、教師と生徒は相互に教え合うことになる。と同時に批判的に考えるにはその基となる対象に関する精確な知識が必要であり、教師は自分の考えを押し付けずにその知識を伝えなくてはならない。
また1968年のインタビュー「レーモン・アロンの城壁」(『シチュアシオンVIII』)においてもサルトルは批判的精神つまり「異議申し立て」を教育が培わなくてはならないと主張する。そしてアロンを引き合いに出して、大学において学生が批判的に教授と対話する機会がなくなっていることを批判する。(アロンはこのサルトルの批判に対して『回想録』の中で反論している。)サルトルは学ぶための唯一の方法は、異議申し立てをすることであり、大学とは異議申し立てをする人間をつくる場であると述べる。
その後、『サルトル自身を語る』、「70歳の自画像」などにおいて、サルトルはかつての教職生活を振り返り、規律に縛られながら生計のために働く日々であった一方、生徒たちと互いに教え合い、批判し合う満足のいく体験であったとしている。「自己に逆らってものを考える」という姿勢が教育に携わるなかで深められたのである。
このようにサルトルの教育実践を辿り、その意義をまとめた畑田氏は、今後の研究課題として、学校教育にとどまらない広い意味での教育という視点で、サルトル思想を教育心理学の文脈で考えることを挙げた。特に20世紀のフランス思想界に論議を引き起こしたピアジェは、サルトルが高等教育修了論文『心的生におけるイメージ』で批判的かつ好意的に扱いながらも、その後の初期論文ではその進化論的な思考ゆえに触れなくなった人物である。しかしサルトルは、戦後、再び幼年期の問題に立ち戻ることになる。畑田氏は、教育心理学において、ピアジェに代表される個体発達論を見直す系譜の中にサルトルが位置づけられることを明らかにすることを考えている。
会場からは、インクルーシブという観点が重視される現代の教育学にサルトルの思想がつながるのかという問いがあり、畑田氏は、マルクス主義の観点から疎外からの解放という点でつながるのではないかと答えた。またピアジェの教育学に関しては、現在行われている個体発達論から関係論への転換という視点でサルトルにつなげられるのではないかとの指摘もあった。ややコーエン=ソラルの伝記に頼りすぎた情報に関しては、他の資料を基に、サルトルの教職活動の背景をさらに明らかにする指摘もなされた。
これまであまり扱われてこなかったテーマに関して興味をそそられた参加者から様々な発言と今後のありうる開拓分野に関する示唆があった発表であった。(文責:鈴木正道)
第二部 合評会
生方淳子著『哲学のアンガジュマン ― サルトルと共に問う暴力、非理性、デモクラシー』
(法政大学出版局、2025年3月刊行) をめぐって
報告:司会者 根木昭英(上智大学)
例会第二部では、生方淳子氏『哲学のアンガジュマン』(法政大学出版局、2025年)の合評会が行われた。司会は根木が担当した。全体の流れとしては、生方氏がまず自著紹介を行ったのちに、評者の赤阪辰太郎氏、北見秀司氏がそれぞれ生方氏に質問とコメントを行い、さらに全体での討議が行われた。
生方氏による発表は、まず『哲学のアンガジュマン』という著作が書かれた目的を説明するところから始まった。本書は、氏の前著『戦場の哲学』におけるサルトル哲学の分析を西洋哲学との関連性から補完する専門研究の書であると同時に、彼のアンガジュマンの意義を検証し、現代世界におけるデモクラシー、非理性、暴力をめぐる問題へと向き合う氏独自の思索展開でもある。こうした関心の背景にあるのは、欧州のポピュリズム、トランプ現象、パレスチナ紛争、格差の拡大といった現下の社会経済状況であるが、氏は、階級闘争論や脱成長論をそれへの最終回答とすることに疑問を呈する。氏が提案するのは、むしろ、サルトル的な意識の「自由」が持つ意義を再考することであり、サルトルの著作と関連社会科学の知見とを突き合わせる本書の研究姿勢は、そこから帰結している。すなわち、サルトル最初期の小論文から『家の馬鹿息子』にいたる各著作が、そこでは国際法、国際政治学、戦争法、領土論、核抑止論、精神病理学、発達心理学といった多領域との接点において比較検討されるのである。
その後生方氏は、こうした関心や手法が、著作の各部においていかなる分析として結実しているかの説明に移った。まず本書の第一部「コギトの変成」では、サルトル哲学が自由で自律的な意識を、デモクラシーを支える理想的人間像として奉じたとの解釈が疑義に付される。氏は、サルトルがデカルト的コギトにもたらした変成を、ギリシャ哲学や発達心理学などとの関係にも配慮しつつ「前反省的コギト」「拡張コギト」「脱同一性コギト」と整理し、サルトル的コギトを、脆弱性をはらんだコギト、それゆえに現在のデモクラシーの迷走をも照射しうる人間意識として提示するのである。つぎの第二部「狂気の現象学」では、サルトル哲学において「狂気」の占める位置が検討される。氏は、サルトルの精神医学への関心を、「部屋」、想像力論、『アルトナの幽閉者』などの分析によって整理し、彼の哲学が、非合理的で破壊的な意識としての狂気の理解へも開かれていることを示す。そしてこのことは氏によれば、逆説的にも、サルトルにおいて狂気はコギトを排除しないということ、したがって、非「正常」とされるひとびととデモクラシーとが共生しうることを示唆するのである。つづく第三部「暴力の発生論」では、氏は不戦や非暴力を阻む要因をサルトルとともに探ってゆく。氏によると、暴力の諸相を記述する『道徳論ノート』の議論は、暴力の発生回避の可能性を探りながら、その限界を呈してもいる。『聖ジュネ』や『批判』といったサルトルのその後の著作は、不戦・非暴力を阻むこの暴力が、結局のところ、コギトのあり方と表裏一体であることをさまざまな視角から明らかとするものであった。しかし氏は、サルトルのアンガジュマンが、特定の状況下で発生する暴力を直視しつつ、しかし、(「イマジン」でジョン・レノンが歌ったような)非暴力と平和という「無限性」を見据えつづける試みであったことを、パレスチナ問題などの具体事例に即して示してゆく。サルトルと左翼ポピュリズムを分かつのも、イデオロギー化されえないが「無限性」への志向でもあるこの自由な選択なのであり、それが彼のアンガジュマンの現代的意義をなしていると氏は結論付ける。
生方氏の発表につづく提題「デモクラシーの主役としてのコギト?」において、評者の赤阪氏はまず、本書の特徴として、現代デモクラシー(の崩壊)を見据え、サルトルと「共に」「反して」「超えて」考えるという姿勢が同居している点にあることを指摘した。と同時に、サルトルの専門研究としても、本書が多くの新知見をもたらしていることも氏は強調する。
そうした俯瞰ののち、赤阪氏は、とくに本書第一部のコギト論を対象とする提題に移った。氏はまず、生方氏の議論を、すでに述べたコギトの三層に即してまとめる。すなわち、私に現象として表れることなく、前反省状態と反省状態の間を揺れる「前反省的コギト」、他人に何かしら思われている私を含み込む「拡張コギト」、そして、対自的にも対他的にも自己同一性を超脱しつづける「脱同一性コギト」としてのサルトル的コギトである。こうした揺らぎと危うさを孕んだコギトが、サルトル哲学におけるデモクラシーの基盤であることを、赤阪氏は本書の分析に従って確認する(合わせて氏は、サルトルによるストア派の「レクトン」概念受容をめぐる生方氏の分析が、『存在と無』とドゥルーズ『意味の論理学』との差異を把握するのにも有用であることを指摘する)。これを踏まえ、氏が生方氏に提起するもっとも大きな問いは以下である。すなわち、コギトがコギトであることのその先にある、デモクラシーが機能し働く実践的水準、いいかえれば、「交渉」したり「対立」したり「調停」したりといった様態におけるコギトを、さらに分析する必要があったのではないか、という問いである。赤阪氏は、そのためには実践哲学や行為論、言語や表現をめぐる理論や政治哲学、たとえば、アリストテレスやランシエールにおける「声」の主題、メルロー=ポンティにおける「沈黙」や「表現」の主題、バトラー、あるいはフーコーのパレーシアにおける言語行為の観点などを援用可能ではないかと示唆することで、質問を締めくくった。
生方氏は、提案された視座から議論を深化させうる可能性について同意を示した。両者が細かい応答を重ねる時間はなかったものの、司会者としては、第二部、第三部における本書の議論がこうした実践的な水準も取り扱った分析であることから、それらの考察から出発しつつ一定の応答を行ってゆくことも可能であるように感じた。
つづく発表「恒久平和の可能性の条件について」において、評者の北見氏は、長くサルトル研究をともにしてきた同世代の研究者らしく、生方氏の著作が「ライフワーク」と呼ぶのに相応しい力作であり、学術書にとどまらない氏の息遣いを感じさせるものであると述べることで質問を始めた。北見氏はまず、本著が、サルトルが道徳論の構築に失敗したとの解釈を示しているのではないかという見解を示したうえで、サルトル哲学には、自由を「諸価値の価値」とする規範性がやはり見いだされるのではという問いを提起した。ただ時間の問題から、この提題の詳細は資料配布による説明にとどめられた。
北見氏が提起するもっとも大きな問いは、あまりに戦争や暴力に満ちた近現代社会において恒久平和のための可能性の条件はなにでありうるか、という問いである。この問題に着手するために、北見氏はまず、近現代社会構造に組み込まれている暴力、とくに資本主義体制の構造的暴力を考察すべきことを主張する。啓蒙思想はサルトルにはるか先んじて、戦争状態の乗り越えを目指していた。しかし近代国家が、そのための方途として啓蒙主義の掲げた経済的平等や、国家間対立の緩和の考え方を引き受けることはなかった。その結果、資本主義の構造的暴力は国家の暴力、すなわち植民地主義やナショナリズムイデオロギーとして発現することとなる。そして今日のグローバル経済体制でも、こうした排他的思考は継承されている。北見氏は、以上の状況に対し、マルクスによる労働市場の搾取構造の分析や、ブローデル歴史学における市場経済と資本主義の区別が有効な視座を提供しうることを論じる。と同時に、これらが結局は「選択」つまりは「自由」の問題であることから、サルトルの存在論的人間観と、それに基づいた問題意識、すなわち「疎外の乗り越え」の問題として再考可能であることを指摘する。北見氏によれば、社会や個人間の諸事象を全体化可能なサルトル思想は、戦争状態の乗り越えによる平和と民主主義の実現という啓蒙主義以来の目標に重なる射程を持っているのである。
以上の指摘は、生方氏の提示したアンガジュマン論に対して北見氏のサルトル像を対置したものともいえ、全面的な討議とする時間がなかったものの、両氏の見解の共通点と相違についてさまざまな関心を惹起するものであった。司会者としてはとくに、北見氏による資本主義批判の観点と、生方氏の「無限性へのアンガジュマン」が、どこまで一致し、どこで分岐するのかがたいへん興味深く思われた。
最後に、全体討議の時間がほとんど確保できなかったことは残念であるが、個々の論点についてまだまだ議論の余地のあること、また、本書の主題であった「暴力」の問題については、学会各研究者が多様な視点から論ずることができるだろうとの見通しが示された。(文責:根木昭英)
総会 近況報告、情報交換
『エレウテリア』第3号の編集状況について森功次編集委員長から説明があった.
終了後、懇親会が開催され、11名が参加しました。
論文
関大聡 「J.-P. サルトルにおける実感不可能なものの理念─「冒険の不在」から物語的実存の誘惑へ」
フランス哲学・思想研究 30 (0), 298-309, 2025-09-01
https://doi.org/10.51086/sfjp.30.0_298
濱田 力稀「ガタリにおける二つの〈実践〉概念 ― サルトルとフーコーを通して」
フランス哲学・思想研究 30 (0), 322-333, 2025-09-01
https://doi.org/10.51086/sfjp.30.0_322
第24回フッサール研究会が2026年3月14日(土)・15日(日)、東京大学本郷キャンパスにて開催されます。概要は下記の通りです。ご関心をお持ちの方は奮ってご参加ください。
参加情報・プログラム https://sites.google.com/site/husserlstudiesjpn/meeting/24
・学会誌(電子ジャーナル)『サルトル研究 エレウテリア』第3号を1月28日に公開しました。
・今年11月刊行予定の『エレウテリア』第4号への掲載論文を募集します。原稿の締切は2025年5月末です。「論文」「研究ノート」「書評」「翻訳」のカテゴリーがあります。執筆要領・審査規程・原稿用フォーマットは、サルトル学会ホームページに掲載されておりますのでそちらをご参照ください。
日本サルトル学会AJES - 審査規程・執筆要領・原稿用フォーマット
・本学会では、研究発表・ワークショップ企画を随時募集しています。発表をご希望の方は、下記のメールアドレスにご連絡下さい。なお例会は例年7月と12月に開催しています。
・サルトル関連文献には漏れもあるかと思います。ご自身で新たに発表された論文や著書などがあればお知らせいただけるとありがたいです。
・会報が住所違いで返送されてくるケースが見受けられます。会員の方で住所、メールアドレスが変更になった方は、学会事務局までご連絡ください。なお、会報はメールでもお送りしています。会報の郵送停止を希望される方は、事務局までご連絡ください。
日本サルトル学会 AJES Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
〒102-8160 東京都千代田区富士見2-17-1 法政大学人間環境学部 竹本研史研究室
c/o Kenji TAKEMOTO, Hosei University, 2-17-1, Fujimi, Chiyoda-ku, Tokyo, 102-8160, JAPAN