(3)高瀬裏川をめぐる

高瀬裏川をめぐる(1/16) 高瀬蔵~くらしの文化継承と創造拠点

高瀬蔵は、猿渡家より寄贈を受けた商家を改修・整備して、ミニコンサートや体験工房など多目的ホールとして使用されています。もと米蔵だったここは、入口の狭さと内部の広さがアンバランスですが、昔、そうすべき合理的な理由があったとのこと。米俵を運んだレールは今でも残っています。昔の建物を生かしたレトロな空間に、インド料理・日本料理・カフェなどの飲食店が入っています。高瀬蔵を一緒に歩いてみましょう。

[詳しい情報]http://www.tamana-cci.or.jp/NPO/indexf.html

位置(GPS):32.93005,130.564731

高瀬裏川をめぐる(2/16) 溝がミソな小崎橋

この橋は、片側に轍(わだち:車輪が通った跡)を作った珍しい橋です。この溝に大八車の片側車輪を入れて通ればバランスを崩さず川にも落ちず安全です。片側だけの溝切りは大八車の大きさに関係なくどんな車輪でも利用できるのがミソです。

位置(GPS):32.929048,130.564603

高瀬裏川をめぐる(3/16) 商人たちのこだわり~算木積み編~

裏川の川沿いには、このように石垣がずっと続いています。この石垣は切り石を積んでいるため隙間がなく、100年以上たっても隙間が開くことなく当時のままの姿を残しています。この石垣は角の積み方に特徴があり、算木積みと呼ばれています。長方体の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせることで強度を強めています。商人達がお金を出しあって作ったもので、この当時の高瀬商人達の力のほどを示すものです。

位置(GPS):32.927441,130.562763

高瀬裏川をめぐる(4/16) V字にくぼんだ酢屋橋

V字型にくぼむ不思議な橋。この橋は天秤棒に担いだ酢の入った甕(かめ)などを運ぶ時、足場を安定させるために、このように表面をややV字型にしたようです。一般市民のためというより、作業を行う人のための特殊な橋として機能していました。

位置(GPS):32.928528,130.564182

高瀬裏川をめぐる(5/16) 生まれ変わった迎賓館~肥後高瀬菖蒲庵~

ここはお酢屋さんの離れだったが、改修によって新しいコミュニティー空間として生まれ変わった。明治8(1875)年、酢の醸造を営む商家の離れとして建てられた約78平方メートル(約24坪)の木造平屋。西南戦争時には官軍総督の有栖川親王が宿泊したと伝えられる。ここは花菖蒲祭りには絶好のスポットである。花菖蒲祭りの際には是非お立ち寄りを!

位置(GPS):32.928571,130.564023

※西南戦争古戦場をめぐる(9/10)

高瀬裏川をめぐる(6/16) ミステリーな石段

裏川沿いには多くの石段があります。その中でもこれは変わっています。どうしてこんな中途半端な高さなのでしょう?外部からの進入を防ぐためか?設計ミスで作られたのか?それとも・・・・謎は深まります。しばし、周囲の状況を見ながら、謎解きに挑んでみてはどうでしょう。こういった理由ではないかということが閃いたら、ぜひコメントに書き込んでみてください。

位置(GPS):32.928569,130.564117

高瀬裏川をめぐる(7/16) 商人たちのこだわり~布積み編~

方形に整形した比較的おおきな石を目が横に通るように積み上げる方法で、整層積(せいそうづみ)とも言われます。目地が通っているので、強度に問題がありますますが、現在でも擁壁事業(土留工事)で用いられている。長い石と短い石を交互に積み上げる積み方であり、見た目をきれいにできる積み方です。

位置(GPS):32.928092,130.56365

高瀬裏川をめぐる(8/16) 商人たちのこだわり~谷積み編~

平石の隅を立てて積む積み方で、落積(おとしづみ)とも言います。長方形の平石を用いる例もあるようです。1800年代中期以降に見られ、城石垣ではその多くは近代の造営であるそうです。またこの積み方は昭和年間に至るまで道路工事で使われ、現在でも多く見ることができるものです。互い違いに石を組むことにより強度を増しています。

位置(GPS):32.92786,130.563353

高瀬裏川をめぐる(9/16) 商人たちのこだわり~乱れ積み編~

この写真の上部の石垣が乱れ積みと呼ばれる積み方です。パッと見ると乱雑に積まれていて、下手くそな石工さんが作ったのかなと思われるかもしれませんが、ところがどっこいなのです。理由が分かりますか? 乱雑に積むには、様々な石をその場で加工して調整する必要があり、このため、この積み方が石垣の中でも最もやりにくい積み方なのです。石工さんの腕が問われる積み方と言えるでしょう。

位置(GPS):32.927558,130.562945

高瀬裏川をめぐる(10/16) オーバーテクノロジィーの結晶~高瀬眼鏡橋~

この橋は9ヶ月ほどで完成し、当時としては驚異的なスピードであったようです。橋のそばにある菊池川は、当時、渡し場があって、眼鏡橋は渡し場から来る人たちにとって町の玄関となり、高瀬の象徴的な存在だったようです。

位置(GPS):32.927097,130.562588

高瀬裏川をめぐる(11/16) お達し場所・高札場(こうさつば)

高札場とは、古代から明治時代の初めにかけて行われたもので、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを板面に記して往来などに掲示し、民衆に知らせるための場所でした。要するに、公的な掲示板のあったところです。高札場はたくさん設置されていたわけではなく、このことより高瀬が当時重要な場所であったことを示す史跡のひとつと言えます。

位置(GPS):32.9272,130.562553

高瀬裏川をめぐる(12/16) 秋丸眼鏡橋

この橋は市指定重要文化財。元々は裏川の上流にあったのを移設した橋です。なぜ移設したのかというと、往来が激しくなり上流にあると不便であるため現在の場所に移設しました。この橋は片側から見れば眼鏡橋、反対から見れば関がある特殊な形になってます。この橋に関があるのは、上流にある田んぼに海流が逆流するのを防ぐためです。

位置(GPS):32.926509,130.562205

※西南戦争古戦場をめぐる(8/10)

高瀬裏川をめぐる(13/16) 海にゆかりのある金毘羅

江戸時代に船による流通が盛んになると、海運業者や商人によって金毘羅信仰が日本中に広められ、分社が各地に作られた。現在、金刀比羅神社・琴平神社は日本全国に約600社ある。 海上交通の守り神として信仰されており、現在も漁師、船員など海事関係者の崇敬を集めている。

位置(GPS):32.922727777778, 130.56424722222

高瀬裏川をめぐる(14/16) 高瀬船着場跡

ここは物資の流通拠点として江戸時代に繁栄した高瀬を象徴する場所です。菊池川流域から集められた年貢米はこの一帯に集積され、ここから大阪へと運ばれ、藩財政の源になっていました。高瀬船着場は藩で最大の蔵米積出し港であり、最も多い年は25万俵もの米を扱っていたそうです。現在、記念公園として整備されたこの一帯では、7~8月には海老釣りができるそうです。餌はミミズ。地元の方がよれば、簡単に釣れるということです。

位置(GPS):32.926662,130.56294

西南戦争古戦場をめぐる(7/10)

高瀬裏川をめぐる(15/16) 高瀬御蔵跡

昔、船着き場が機能していた頃、大量の米俵が船着き場に運搬されていたのですが、その米俵を蔵に入れる前に平地に米俵を保管していた場所が御蔵山床です。現在では跡地になっていますが、土台がしっかりしているため民家が跡地の上に建っています。

位置(GPS):32.923999,130.560925

高瀬裏川をめぐる(16/16) 西郷小兵衛(さいごうこへえ)戦死の地碑

小兵衛は西郷隆盛の末弟。西南戦争の激戦地となった高瀬において、薩軍一番大隊小隊長として出陣。明治10(1877)年2月27日に高瀬をめぐる攻防戦で陣頭指揮をとっていたところ銃弾で左胸を打ち抜かれた。永徳寺の堤防に退避、焼け残った民家橋本鶴松方の雨戸を借り受け、北岡の西郷隆盛の本営に運ぶが途中で絶命。橋本家には小兵衛の松子夫人からの礼状6通などが残されています。石碑は戦死した場所付近を示したものです。正式なお墓ではありませんのでご注意。

位置(GPS):32.924129,130.558839

※西南戦争古戦場をめぐる(5/10)