稽古帳 【心】

日々の稽古の中で目指していること、気づいたことについて記載します。

合気道は多様な捉え方があり、道場ごと、様々な取り組みがなされています。梓川道場の目指すところをご紹介できればと、思います。 

18.「不安と向き合う」について

武道家は臆病、とはよく聞く話。自分自分も臆病だな、とだから一生懸命備えているのだな、と思います。

不安なのです。

ただ、自分が不安でいっぱいで怖がりなので、他の人の不安な気持ちも少しは分かる気がします。それが自分の強みなのかも、とも思います。

人間、最大の不安は、いつ死ぬか分からないこと。誰も自分がいつまで生きていられるか分からないこと。なので一期一会、今日のこのお稽古を精一杯やることしかないかな、と。

なんてことを、ボーっと考えるのは6年前の6月7日に実父が亡くなったので、ここ数日、そのときのことを思い出していたから。コロナ前だったので、最後は同じ時間をたくさん過ごせました。そして、最後に死への向き合い方、生き方を教わったような気がしています。(2024.06.11)


17.「黙想のときの呼吸」について

黙想のときには、ただ、静かに深く呼吸をします。

でも、2、3も呼吸をすると、ふと、普通の呼吸に戻っています。これは、自然なことで身体は本能的に生命維持に最小限必要な動きにするのです。そんなに頑張らなくても、身体が呼吸を忘れることはないのです。

ただし、生命維持の最低限を少しでも超えたかったら、身体の声と戦う必要があります。

眠くても勉強する、疲れても走り続ける、苦手なこともやってみる。自分との戦いが武道です。誰かと戦う必要はなく、自分の、最低限でいい気持ちからちょっと超えてみる。ただ、寿命が尽きるのを待つだけの人生から、一歩前進かと。(2024.06.10)


16.「何も考えない」について

何も考えないことは、難しいことです。

ただ、なにか一つのことだけを考えるのは訓練次第かと思います。そして、考えていることすら意識しないことも、おそらくは普通の人にもふつうにできそうです。

スポーツの世界ではフロー状態とかゾーンに入ったとか、言うらしいのですが・・・

合気道では、稽古前に黙想をします。呼吸のことだけ、考えます。そして、お稽古中は合気道のことだけ、考えます。合気道は、普段と違った体の使い方をするので、ほかのことを考える余裕など、ないのです。

そうして、稽古終わりの黙想が終わって、パンっ、と目を覚ましてはじめて、あ、今、合気道のことだけを考えていたな、ということに気がつきます。

フローとかゾーンとか、言わなくても、です。(2024.05.31)


15.「反応する稽古」について

どんなに技のかけ方を覚えても、突然、思いもよらないことをされると、その技は使えません。

固まってしまうだけかもしれません。

お稽古の時、かけあう技は決まっているかもしれませんが、考えるのはやめ、体が自動的に反応するようにしたいと思います。

相手が動き始めるその気配を感じて、反射的に同時に体が動く。そんな境地を目指したいものです。そのために、稽古の時に相手の気配を読むことが入口、と思っています。(2023.01.23


14.「相手を大切に」について

特に子どもたちには、「力くらべをしない!」「ていねいに!」「相手を大切に!」と常に声をかけます。

合気道には、お互いに技をかけたりかけられたりして、向上していく稽古体系がありますが、お互いに上手になろう、上手にしてあげようという気持ちがないと十分な効果は得にくいのです。

競う相手は、争う相手は、戦う相手は、自分自身、特に弱い自分と思います。

相手を大切にする心は、日常でも同じ。一見立場が違う相手でも、相手を尊重して技を掛け合うことが合気道家なのかと。(2022.06.09


13.「指導することは2度学ぶこと」について

合気会発行の月刊誌「合気道探求」No.59号師範の横顔に、秋田大学時代にお世話になった松田秋田県合気道連盟会長が掲載されておりました。

自分の知っている先生が特集されることは嬉しいことです。

合気道の技法のみならず、争わない心を伝えていきたいとの考えを述べておられました。そうですか・・・、技法もしっかり、みっちりとご指導いただきましたが ^_^;

争わないということは難しいことと思いますが、まさに最強。私も、改めて肝に銘じます。

そして記事の中で、「指導することは2度学ぶことだ」とも言っておられました。確かに、平易な言葉で分かりやすく、相手の反応を見ながら説明すると、思っていなかった結果を掘り出すことができるものです。これも、記憶にとどめたい一言でした。(2020.02.23)


12.「修行」について

合気道はどう接しても、良いと思います。健康体操として、楽しく仲間つくり。はたまた格闘術、護身術。

でも、もし武道としてとらえたとき、合気道に取り組む時間は「練習」でもなく、「トレーニング」でもなく、稽古です。修行として稽古をするのです。余った時間でするのではなく、時間を作ってするのです。

もちろん家庭や仕事、学問も大切です。生活に生かしてこその合気道。ですが、修行者ですのでお稽古は最優先です。稽古を守ることも修行です。

そうして必死に守った稽古の時間を真剣に過ごす。これを続ける。この蓄積は心の拠り所になります。拠り所は自分で、自分の中につくる。何かと不安なことは多いもの。修行によってなにを得られるかは分かりませんが、依り何処をもてることはそのひとつの成果かと思います。(2019.01.18)


11.「先手必勝」について

戦いにおいて、先手をとった方か勝つ、との意です。

戦いは情報戦。先手とは相手の情報を得ること。そう、「よく見ること」です。見ることで得られる相手の情報、それは体調、気分、気持ち、何をしたいか等。見ることが、先手です。

もちろん、収集した情報、読みが全て正しいかは不明。

合気道でそれは、技の応答によって確かめます。試行錯誤の中で、だんだん精度があがってきます。そしてこれが、生活に、生きてくる。生き方が合気道になってくるのです。(2018.12.09)


10.「戦闘技術の平和利用」について

インターネットやGPSは軍事目的で開発されたのがはじまりです。

その他、戦争によって大きく進歩した科学技術の例は数え切れません。科学技術、ではありませんが、体を使う技術、その技術も戦いによって洗練されてきたと考えてよいかと思います。柔術もそのひとつ。そして、その柔術からインスピレーションを得て生み出されたのが合気道です。

戦いの技術を修練しても、その目的は戦いではありませんので、格闘技ではないのです。

戈を止める道が武道だとすると、使わないことを前提に戈(戦いの技術)を磨く、合気道はもっとも武道らしい道ではないか、と思うのです。(2018.05.05)


09.「答えは自分の中にある」について

先生の言葉や誰かの本の中に、答えはありません。答えは自分の中に、あります。

先生が答えを知っていてそれを教えてくれるのではなく、先生は、自分の中の答えを気づかせてくれる「きっかけ」を与えてくれるのです。自分の求めているものは自分しか知らず、そして、その答えを出せるのも、自分だけです。

ときどき、いえ、ずっと、間違えているかもしれません。でも、本を読むと、翁先生ですら、一生修行とおっしゃっていた、ということですし、技も変わっていったのです。一般の稽古者などは間違えても、どんどん変わってもいいと思います。

自分の中にある、答えを求めて、稽古をするものではないでしょうか?


08.「型(かた)」について

合気道にはいわゆる、「型」はありません。技と受け方の組み合わせを繰り返し稽古します。 この「技と受け方」は、こうきたらこうする、といった戦いのテンプレートではなく、動きの伝承です。 

繰り返しでその動きを身に染み込ませていく中で、これまで感じることができなかった感覚に気がつきます。 この感覚を言葉にするのはむつかしく、この感じを表現するために、先生・先輩方は、自分の言葉でなんとか 表現しようと試みます。腕を鉄の輪にする、気を出す、脱力する、全部一緒に動かす、指先から動かす、 丹田から力を出す、等々。

その表現は、受け止める人によって、時には正反対のことを言っているようにも感じます。 皮肉なことに、自分で、その感覚を会得した、そのときに、言葉の意味を理解できることが、 多いのです。

その気づきは、理解が深まるほど、多くなります。ゴールはありません。みな、道の途中です。 

07.「正座」について

全ての武道では稽古の始めと終わりには正座をして礼をします。

共通点が本質だとすると、正座、そして礼が武道の本質かもしれません。正座は、骨を積み重ねるようにして、力を抜いてすーっと、まっすぐに座ります。お腹にだけは、上体を倒れないようにする、使命があります。この姿勢が強い姿勢です。そして、礼はお腹の力をふーと抜くと、そのまま、前に倒れます。力を抜くことによって動くのです。

礼の後、稽古に入りますが、姿勢は力まずまっすぐ、そして受身はお腹の力を抜いて転がる。技もお腹の力を緩めてかける。ここで言う、お腹はおへその下あたり、臍下丹田などとも申します。

「正座も技の一つです!」とは、稽古のときに良く言わせていただいております。自宅では正座をする機会も少なくなってきております。道場で、しっかりと正座という技を身につけましょう。

06.「黙想」について

開祖が目指していたものに近づくのが合気道の稽古かと思います。

むづかしいのは祈りの部分。自分自身、宗教や瞑想に取り組んだことはなく、どうすればよいか分かりません。ただし、開祖にまつわる文章や写真には必ず祈りが。合気道を稽古するものとしては取り組まなくてはならないものかと思うのですが・・・。

今は、稽古の始まりと終わりに黙想をしています。黙想も技の一つです、肩とお腹とお尻の力を抜いて、そして頭の中の力も抜いて、ふっーとして下さい、と。低学年のうちは目を閉じてじっとしていることもままなりませんが、そんな子たちも数ヶ月すると、こちらが、えっ、と思うような表情で黙想をするようになります。どんなことを考えているのか、もしくは本当に無我夢想の域に達しているのか?

自分自身は、今日も誰も怪我をしないこと、嫌な思いをしないこと、そして伝えたことが、間違ったことでないことを、それこそ祈るようにして黙想しています。不安なことが多いこの時代ですが、生活の為でもなく、成績のためでもなく、褒められる為でもないことを一緒にやってくれるみんなに感謝しつつ。こんな日が、少しでも長く続けていくことができるよう、祈っております。

05.「目付け」について

どこを見るか、それだけで全く変わります。

徒競走のとき、ゴールを見て走るか、空を見上げて走るか、地面を見て走るか、はたまた応援してくれている人を見て走るか、でタイムは全く変わってきます。同じ人、なのに、です。走り方の工夫や、持久力などをつけなくとも、ゴールを真っ直ぐに見るだけで良いのです。速く走れます。いにしえの人は遠山の目付け、と言ったそうです。

仕手のときは視線を平行に保ち、壁を見る気持ちになります。壁と自分との間に相手がいます。技の途中でも手元を、相手を見ません。合気道は常に、多人数を相手にする気持ちです。演武会のときは周りの観客の方々が敵だと思って、ずいーっと見渡します。コンサートのとき、ギターやキーボードしか見ないプレーヤーはなく、目は観客に向けられています。姿勢も自然にのびのびします。受けのときは逆です。やや前のめりに、仕手から目を離しません。回るときに、一瞬目が離れますが、その時間すらもできるだけ短く、すると素早く回れますし、速く立ち上がれます。

視線だけで、変わるのであれば、こんなに簡単なことはありません。すぐ、実行、です。

04.「心構え」について

お稽古は、避難訓練と同じです。

どうせ訓練だ・・・、とだらだらしていたら、何十回やっても時間の無駄です。競技のように時間を競うのも論外で、避難しながら、避難経路は適切か、途中に危ないものはないか、倒れたら経路を塞いでしまうような棚などはないか、ものは置いていないか、そして、大切なものはひとまとめにしてあるか、等々、確認して訓練する。地震のときと火災のときでは当然、対処方法は異なるし、夜間、体力によっても気を配る点は異なります。

お稽古の際にも受けの方の動きに対して真剣に、対処する。速さや力比べの必要は全くありません。気づき、気配りがたくさんできた人がたくさん得るものがあります。

避難訓練も、一生、避難の必要がなれけば幸せですし、訓練を重ねることで日常が研ぎ澄まされれば、訓練が生活を豊かにします。そんなことを、昨日のお稽古では、改めてお話しました。(2017年3月12日記)

03.「呼吸法」について

呼吸法では、手の力を使いません。

呼吸法というと、手の力の出しにくい体勢ばかりです。使うのは体。腰であったり、肋骨であったり、大きな部分。

自転車のギアで言うと1、またはローギア。少ししか進みませんが、大きな力が出ます。だから入身でくっついて、少しの、でも大きな力を伝えます。遠くから、手足を使って力を伝えるのは5、またはハイギア。手足の力のある人にはちょっと、敵いません。

平らなコースで競争する自転車レースではハイギアで競争しますので、まさに体力筋力、持久力が勝負。凸凹のある、狭い山道、上り道を走るのはローギアで、バランスが勝負。この競争に必要なのはボディコントロール。これが、合気道かな、と思います。そして、その代表技が呼吸法なのだ、と。

02.「護身術」について

合気道を始めるきっかけとして、護身術としての戦闘技術習得を目指す方もいます。

もちろん、戦いをなくすことが合気道の最大の目的です、とまずは前置きをして、そのうえで、戦う場所によって最適な技術があることを一緒に想像して頂きます。障害物のない広いところでは手足を大きく使う、空手やボクシングが強そうです。狭いところでは柔術系です。狭くて滑りやすいところでは、踏ん張らないで体重の移動を技にする合気系は強そうです。

なので、表に出ろ!!なんて言われて表に出たい人は空手やボクシング。便所で話をつけようか、という人は柔道がお勧めです。

合気道は、正座して向かい合って、相手をよく見るのです。この技術で良かったら合気道を習得して下さい、と。

01.「途中が大事」について

投げること、崩すこと、押さえることが大事なのではなく、その途中が大切です。

仕事(ビジネス)では結果が全てです。どんなことをしてきたかは、あまり、いえ、ほぼ、評価されません。試合系武道でも、その傾向は強いと思われます。1本を取るためなら、自分の姿勢が崩れていても、反則ギリギリの方法でも良いのです。勝てれば・・・

でも、合気道の技はその途中、手の捕り方、捕られ方。腕の揚げ方、腰の位置、視線、足捌き、そして呼吸、「途中」に意味があります。結果は、自分のものではありません。むしろ初学の頃は、受けをとってくれる方が自分から結果を伝えてくれます(倒れてくれます)。

合気道は「道」ですので、その道中が大切。お稽古をすることも結果として大切ですが、その時間をひねり出すこと、体調を整えることも「途中」で大切。人生も、夢が叶ったその瞬間も大切ですが、今、この時間、今日、この瞬間が大切なのかもしれません。