History By 9sharen

歴代九写連委員長

歴代委員長.xlsx

歴代文化部長

歴代文化部長.xlsx

九州写真師会連盟の沿革及び目的

  営業写真の始祖と言われる上野彦馬翁(長崎)が文久二年(一八六二年)に写真撮影局を開設し、写真撮影を営業とされて以来除々に繁栄を見て、日滑戦争も終る頃には確固たる地盤を築き、栄誉ある仕事だと言われるようになった。撮影から仕上に至るまで、誰にでも出来る仕事ではなく、化学の知識と撮影技術を身につけた者だけに許された営業であって当時の写真師は実力もさることながら、風釆も実に堂々たるものであったと聞いている。撮影に当る特は礼服を着用し、普通の人に接する時でも、羽繊袴で威儀を正し、口髭などをはやして、先生と呼ばれ、弁護士や医者と同様にインテリジェントとしての地位と尊敬をうけていたそうであります。


 写真が営業として成り立ち繁盛を極めたので入門者も多く、それに伴って開業者も段々と増えて来たために、福岡の古川震次郎氏は、明治三十年に同業者の組織づくりを痛感して準備をすすめ、長崎の上野彦馬翁に依頼するために、博多、小倉、門司、若松、久留米、熊本、佐賀、その他各方面に交渉を重ねつつ同意を得て、その年の十二月二十五日に博多の馬賊芸者で有名な水茶屋、常盤屋に於いて創立発起人会が開催されたのでした。そして、翌三十一年上野彦馬翁と相談して、毎年一回、各県輪番で九州写真師大会を開催することに決定がなされ、その年の末に久留米市に於いて第一回九州写真師大会が開催されたのであります。時に古川震次郎氏三十一歳であったと聞いております。その後は毎年開催されて今日に至っております。


 昭和四年には、オリエンタル写真工業を見学にみんなで上京されているようであります。昭和十九年から二十一年にかけての三ケ年は、戦時統制下で交通がままならず休会の止むなきに至ったそうであります。一時は二千名の会員を擁した九州七県の組合でありましたが、決して平担な途ばかりを辿って来たのではなく、発会当時は会員も少なく、運営資金もない、大会を開くためには、肉体的にも、経済的にも大変な犠牲を党悟しなければならなかったようであります。古川震次郎氏は、幾度かの危機に遭遇されたけれども、第七回から第十三回迄の大会を連続して開催されたそうであります。


 長崎の天ケ瀬貞義氏は、大正十三年から昭和十六年迄の十八年に亘って九州写真月報を発刊されて、九州大会開催に尽力された由。昭和十二年蘆構橋衝突事件以来、戦時体勢となって、物資統制から配給となって、各県毎に商業組合を作るように要請されるようになり、特殊な存在であった北九州、下関要塞地帯写真商業組合、川口久理事長と写真技術家連盟九州地区指導者である安本江陽氏の大乗的協力によって、福岡県の組織も一本化を見ることが出来た。


 昭和十六年九州写真師商業組合が結成された。大会主催の名称は、”九州写真師会連盟”と改め、大会名称だけは”第※※回九州写真師大会”と呼ぶことになったのである。


 昭和二十六年、第五十回大会が写真発祥の地長崎で開催されるに当り、飯塚の神山紫陽氏は第一回から四十九回に及ぶ大会記念集合写真を全紙で製作し、その後七十回迄を引続き製作されたと開いております。恐らくこの写真は他に例を見ない貴重な遺産となることだろう。


 昭和三十三年“九州写壇の回顧”、昭和三十六年“栄光六十年の歩み”、昭和四十三年には九州写真師連盟創立七十周年に当り“栄光七十年の歩み”を発刊された神山先生に深甚なる敬意を表したいと思います。以上は、神山先生の記述を基に杏いたものであります。


さて、私は九写連委員長の任命を受けて五年目になります。何もわからぬまま、只大変なことだと思いながら百年の節目がくるなど思ってもいない事でした。二年毎の役員改選も百年記念大会を終えてから、との一言で二回を通り過ぎてしまいました。覚悟を決めて百回大会に臨みましたが、一番苦労したのはこの記念誌です。編集責任者となられた各県会長も皆同じだろうと、改めてご苦労さまでした、と労う次第であります。九写連の沿革については七十年のあゆみ迄を神山先生の記述で知ることが出来ましたので、私は後年の部分について、自分史のようなつもりで、過去を辿って参りたいと思います。


 私は昭和二十三年北九州小倉の木下写真場に入門致しました。私の父も写真帥でありました。大牟田市内で私が十二歳の時迄写真館を営んでおりましたが、アメリカ軍の空襲が予想されるので、強制疎開を命じられて閉館取壊しとなりました。その当時から父の仕事は見ておりましたので、十六歳の折にハイキー調のポートレートを見せられて、こんな写真を作られる先生がいらっしゃる、写真をやる気があれば弟子入り出来るかも知れぬ、と聞かされまして、それまで絵画きになると頑張っておりましたが、是非にと願って入門を許されたわけであります。いま思いますと木下徳弘先生は最も男盛りの年代であられたわけですが、私は大変スケールの大きな先生だと感じておりました。


 坂本栄先生がその当時は、木下写真場の主仕でおられまして、木下博文先生を先輩として勉強させて頂きました。坂本栄先生が開業される折にはついて行き、又、木下写場に戻ったり、と勝手な弟子時代を過ごし、今も申し訳なく思っております。

 昭和三十二年、大牟田にスタジオを開設、二年後に大牟田市写真師会に入会して、写真師の仲間入りをしたわけですが、当時は日本写真文化協会々員となった自覚はなく、昭和五十年頃に、福岡県写真師協会の青年部長に仕命されて九写連委員となり、始めて組織がいかなるものか?わかりかけたようです。当時はすでに内山和男先生が九写連委員長でありまして、川口久、神山紫陽両先生が顧問格に座られて、誠に以ってこの写真業界には、国会議員のようなえらい人物が居られるものだ、と感心したものであります。

私がこの業界に入った頃の九写連委員は、次の方々であります。


 −昭和三十二年~三十五年当時の九写連委員メンバー

  神山久雄 / 川口 久 / 平野富也 / 木下徳弘 / 内山和男

  入倉佐一 / 鮫鳥福哉 / 森山 繁 / 野中義雄 / 正木三郎

  疋田晴久 / 榎本一四郎 / 中山正一 / 白石泰寛 / 片山摂三

  蒲原鹿夫 / 杉田芳陽 / 吉田 微 / 小寺 實 /安部道夫

  久保田 要 / 上野吉男 / 三井万澄 / 井手野昇吉郎 以上二十四名

 昭和三十三年各県青年部長

  福岡県 永田哲章 / 熊本県 原田邦之 / 佐賀県 牟田米次郎 / 長崎県 町田義彦


前任の原田委員長が熊本県の青年部長であられたことでも、歴史の重みを感じるのであります。

疋田晴久先生、片山摂三先生、正木三郎先生、井上三郎先生等が私の青年時代には、写真技術両に於ける指導者であられ、この中で唯一ご存命の片山先生は、私の中では神様のような存在であります。この百年のあゆみにも想い出の一文を寄せて戴き、誌上に花を添えて戴けるだろうと念じております。


 疋田晴久先生は百年の歴史の後半、即ち戦後の九州写真界の指導者として忘れることのできない方であります。東京で活躍され頭角を現わしておられた先生は戦争が激しくなって、その治まるのを待つために九州に疎開され、そのまま多くの人々に写真技術指導を懇望されて、生涯、九州写壇の為に尽力されたのであります。


 私の師であります木下徳弘先生が、第八代九写連委員長に就任された翌年に、私は独立し何年か後に気付いた時には、第十代委員長の内山和男先生の代になっておりました。内山先生の時代は永く二十数年に及びまして、その手腕を遺憾なく発揮されたわけであります。若年の私には、何もかも立派で、九写連の誇りと感じておりました。後にわかったことですが、四十年に亘って文協に通われ、私財を投じてボランティアを統けてこられたわけで、到底まねの出来ることではありません。その間、若きリーダーの出現を待ち望んでおった、と聞かされた時、本当に頭が下がる思いでありました。

 そのような先輩の想いも知らず、知らぬと言うことは恐ろしい、まして、私がこのような立場になろうとは、思ってもみなかったこと故、仕方ないのですが、とかく昔を思えば恥かしいことばかりです。


 昭和五十六年より第十一代委員長に原田邦之先生が就任されまして、内山先生は文協副会長の立場で九写連顧問となられ、平成七年の改選の年齢八十二歳になられるまで現役としてご活躍になったことは、誠に素晴しい快挙だと思います。この年、文協では役員の定年を七十五歳と決めて実行したわけであります。

 尚、この時、内山先生と共に原田邦之先生、坂本栄先生、松島保夫先生の四人の方々がいずれも永年の文協理事を退任されまして、新しく、大倉啓義が常任理事、永井宗男、大城勝一、浅川愛樹、堤隆志の四名が理事として出向することになりました。その翌年九月二十一日に浅川先生がご逝去になり、翌年より森信正氏に理事就任をお願いして今日に至っております。平成九年六月二十四日、東京、東条インペリアルパレスで開催された、第五十一回の日本写真文化協会総会に於いて、東条会長と内田、瀬古、堀の三副会長が退任されました。その先輩方々のお話を伺って思ったことは、皆さんそれぞれに大変だったんだと言うことであります。人様のお世話をする、形の上では人の上に立つ人物として尊敬されて、うらやましいと言う人もあるかも知れないが、永年に亘るボランティアのお世話には並々ならぬご苦労があったことを知らされ、九州の諸先輩の方々にも改めて御礼と感謝を申し上げなければなりません。


わが九州はすぐれた先達にめぐまれ、会員諸兄のお人柄も温厚で、平和な土地柄も幸いして、ただただ有り難く感謝の他ありません。


九州写壇の永遠の栄えを希ものであります。